
メーデー(May Day)は、世界各地で毎年5月1日に行われてきた労働者の祭典で、労働者が団結して権利を要求する日とされてきました。その起源は、1884年(明治17)に、アメリカ全土の労働組合、各種団体が8時間労働制の要求を掲げ、毎年5月1日にゼネストを決行することを決定、その第1回行動を起したことに始るとされます。
1889年(明治22)の第二インターナショナル創立大会で、これを記念して5月1日を労働運動の日に設定、翌年には第1回国際メーデーがヨーロッパ、アメリカの各工業都市で開催されました。日本では、1905年(明治38)に平民社主催で開催された茶話会がメーデーの先駆けとされますが、1920年(大正9)5月2日に、大日本労働総同盟友愛会主催で、東京の上野公園(現在の東京都台東区)で約1万人の労働者が集まって「八時間労働制の実施」「失業の防止」「最低賃金法の制定」などを訴えたのが、第1回メーデーとされています。
翌年からは5月1日開催となり、開催地や参加人数も増えていったものの、1935年(昭和10)の第16回メーデーが、戦前最後のメーデーとなりました。その後、1936年(昭和11)の2.26事件の影響で、3月19日付「集会及多種運動の取締方に関する件」により、メーデー開催が禁止され、第17回メーデー以降は中止されます。
太平洋戦争後の1946年(昭和21)5月1日に、11年ぶりのメーデーが通算で17回大会として盛大に開かれ全国で100万人、東京の宮城前広場に50万人が集りました。しかし、1951年(昭和26)の第22回大会では、政府とGHQは中央メーデーの皇居前広場の使用を禁止、総評は中央メーデーを中止し、一方で統一メーデー促進会が芝公園で実質的な中央メーデーを開催、翌年の第23回大会では、皇居前広場へ向かおうとしたデモ隊の一部が警官隊と衝突し、流血の惨事となる「血のメーデー事件」も起きています。
1989年(平成元)の第59回では、労働組合の全国中央組織の再編の影響もあって、統一メーデーの開催ができなくなり、日本労働組合総連合会(連合)と非連合系の全国労働組合総連合(全労連)や全国労働組合連絡協議会(全労協)による分裂開催となりました。
1889年(明治22)の第二インターナショナル創立大会で、これを記念して5月1日を労働運動の日に設定、翌年には第1回国際メーデーがヨーロッパ、アメリカの各工業都市で開催されました。日本では、1905年(明治38)に平民社主催で開催された茶話会がメーデーの先駆けとされますが、1920年(大正9)5月2日に、大日本労働総同盟友愛会主催で、東京の上野公園(現在の東京都台東区)で約1万人の労働者が集まって「八時間労働制の実施」「失業の防止」「最低賃金法の制定」などを訴えたのが、第1回メーデーとされています。
翌年からは5月1日開催となり、開催地や参加人数も増えていったものの、1935年(昭和10)の第16回メーデーが、戦前最後のメーデーとなりました。その後、1936年(昭和11)の2.26事件の影響で、3月19日付「集会及多種運動の取締方に関する件」により、メーデー開催が禁止され、第17回メーデー以降は中止されます。
太平洋戦争後の1946年(昭和21)5月1日に、11年ぶりのメーデーが通算で17回大会として盛大に開かれ全国で100万人、東京の宮城前広場に50万人が集りました。しかし、1951年(昭和26)の第22回大会では、政府とGHQは中央メーデーの皇居前広場の使用を禁止、総評は中央メーデーを中止し、一方で統一メーデー促進会が芝公園で実質的な中央メーデーを開催、翌年の第23回大会では、皇居前広場へ向かおうとしたデモ隊の一部が警官隊と衝突し、流血の惨事となる「血のメーデー事件」も起きています。
1989年(平成元)の第59回では、労働組合の全国中央組織の再編の影響もあって、統一メーデーの開催ができなくなり、日本労働組合総連合会(連合)と非連合系の全国労働組合総連合(全労連)や全国労働組合連絡協議会(全労協)による分裂開催となりました。
〇日本のメーデー関係略年表
・1905年(明治38) 平民社の主催で開かれた茶話会がメーデーの先駆けと言われている
・1906年(明治39) 横浜曙会の吉田只次・村木源次郎・金子新太郎らがメーデーを記念し街頭演説する
・1917年(大正6)5月7日 在京社会主義者約30人がメーデー記念の集いを開催する
・1920年(大正9)5月2日 第1回のメーデー(主催:大日本労働総同盟友愛会 司会者:鈴木文治)が上野公園(現在の東京都台東区)で行われ、およそ1万人の労働者が「八時間労働制の実施」「失業の防止」「最低賃金法の制定」などを訴える
・1921年(大正10) 第2回のメーデーからは5月1日となり、開催地や参加人数も増えていく
・1935年(昭和10) 第16回メーデーが開催され、戦前最後のメーデーとなる
・1936年(昭和11) 3月19日付「集会及多種運動の取締方に関する件」により、メーデー開催が禁止され、第17回メーデーは中止される
・1946年(昭和21)5月1日 11年ぶりのメーデーが通算で17回大会として盛大に開かれ全国で100万人、東京の宮城前広場に50万人が集まる
・1946年(昭和21)5月19日 「食糧メーデー」が25万人を集めて行われ、民主人民政府の樹立が決議される
・1951年(昭和26) 第22回大会では、政府とGHQは中央メーデーの皇居前広場の使用を禁止、総評は中央メーデーを中止し、一方で統一メーデー促進会が芝公園で実質的な中央メーデーを開催する
・1952年(昭和27) 第23回大会では、皇居前広場へ向かおうとしたデモ隊の一部が警官隊と衝突し、流血の惨事となる(血のメーデー事件)
・1984年(昭和59) 第54回大会では特別決議としてメーデーの祝日化要求が採択され
・1985年(昭和60) 第55回大会ではサブスローガンで「週40時間制」、前年の祝日化要求決議を引き継ぐ「太陽と緑の週」の法制化など、労働時間短縮(時短)の実現が掲げられる
・1989年(平成元) 第59回では統一メーデーの開催ができなくなり、日本労働組合総連合会(連合)と非連合系の全国労働組合総連合(全労連)や全国労働組合連絡協議会(全労協)による分裂開催となる
・2001年(平成13) 連合系は4月の最終土曜日や昭和の日などに「4月(April)にメーデー(May Day)」を行うようになり、一方で全労連や全労協のメーデーは5月1日開催を続ける
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
1275年(建治元) | 歌人・公卿藤原為家の命日(新暦5月27日) | 詳細 |
1911年(明治44) | 宮ノ越駅~木曽福島駅間が開業し、中央本線(昌平橋駅~塩尻駅~名古屋駅)が全通する | 詳細 |
1938年(昭和13) | ガソリン切符制が実施される(「ガソリン1滴は血の1滴」の戦時標語が登場する) | 詳細 |
1940年(昭和15) | 「国民優生法」(昭和15年法律第107号)が公布(施行は翌年7月1日)される | 詳細 |
1941年(昭和16) | 「帝都高速度交通営団法」が施行され、帝都高速度交通営団の発足が進められることとなる | 詳細 |
1988年(昭和63) | 彫刻家澤田政廣の命日 | 詳細 |
1999年(平成11) | 本四連絡橋・尾道今治ルートの新尾道大橋、多々羅大橋、来島海峡大橋が開通する | 詳細 |