
複数のカメラを駆使(マルチカメラシステム)し、望遠レンズを多用して、ダイナミックな編集によって迫力を盛り上げた戦闘場面が秀逸で、海外での評価も高く、ヴェネツィア国際映画祭銀獅子賞、ユッシ賞外国監督賞(黒澤明)・外国男優賞(志村喬)、第9回毎日映画コンクール男優助演賞(宮口精二)などを受賞しました。その後、ジョン・スタージェス監督の西部劇『荒野の七人』(1960年)、ジミー・T・ムラカミ監督の『宇宙の七人』(1980年)など、この映画を手本とした作品が多く作られています。また、2018年にBBCが発表した「史上最高の外国語映画ベスト100」では1位に選ばれました。
1927年(昭和2)に京華中学校卒業後、画家になることを志し、川端画学校に通って洋画を勉強、1928年(昭和3)には二科展に「静物」が入選します。同年、造形美術研究所(のちのプロレタリア美術研究所)に入り、1929年(昭和4)には、日本プロレタリア美術家同盟に参加し、同年の第2回プロレタリア美術大展覧会に5つの作品を出品しました。
1936年(昭和11)、画業に見切りをつけ、P.C.L.映画製作所(後に東宝と合併)に入社、山本嘉次郎に師事し、1938年(昭和13)に助監督となります。1943年(昭和18)に『姿三四郎』で監督デビューし、太平洋戦争中には他に『一番美しく』(1944)など3本を監督しました。
戦後は、戦中・戦後の青年像を鮮烈に描いた『わが青春に悔なし』(1946年)、『素晴らしき日曜日』(1947年)、『酔いどれ天使』(1948年)、『野良犬』(1949年)などを監督して、日本映画の旗手となります。1950年(昭和25)の『羅生門』では、ベネチア国際映画祭グランプリを獲得、続いて『生きる』(1952年)、『七人の侍』(1954年)、『用心棒』(1961年)などを発表し、ダイナミックな映像表現と一貫したヒューマニズムの追求により、世界から高い評価を得ました。
1980年(昭和55)の『影武者』でカンヌ国際映画祭のグランプリ、1984年(昭和59)にフランスよりレジオン・ドヌール勲章、翌年映画人として初の文化勲章など数々の栄誉に輝きます。1990年(平成)には、アカデミー賞名誉賞も受賞しましたが、1998年(平成10)9月6日に、東京において、88歳で亡くなりました。没後、映画監督としては初の国民栄誉賞も受賞しています。
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
1797年(寛政9) | 浮世絵師歌川広重の命日(新暦10月12日) | 詳細 |
1919年(大正8) | 「帝国美術院規程」(大正8年勅令第417号)によって、帝国美術院が創設される | 詳細 |
1938年(昭和13) | 氷見町大火が起こり、死者5名、負傷者510名、焼失家屋1,543棟を出す | 詳細 |
1941年(昭和16) | 御前会議で「帝国国策遂行要領」を決定する | 詳細 |
1945年(昭和20) | トルーマン米大統領が「降伏後における米国の初期対日方針」を承認し、マッカーサーに指令する | 詳細 |
1998年(平成10) | 映画監督・脚本家黒澤明の命日 | 詳細 |
2018年(平成30) | 北海道胆振東部地震(M6.7)が起こり、死者41人、負傷者675人が出る | 詳細 |