同年11月には、東京の日本橋茅場町から電気の送電を開始しましたが、まだ電灯数は、1888年(明治21)で138灯に過ぎませんでした。1893年(明治26)に、200kWの国産大出力交流発電機を備えた浅草火力発電所の建設を開始、1897年(明治30)には、浅草火力発電所第二工事が落成します。
1901年(明治34)に電灯数が5万灯となり、1902年(明治35)に品川電灯会社を買収、1904年(明治37)には、電灯数が9万5000灯となりました。1905年(明治38)に深川電灯会社合併、1906年(明治39)に八王子電灯会社の譲受、1907年(明治40)に東京電力会社合併、1917年(大正6)には、江戸川電気会社を買収して、企業規模を拡大していきます。
一方で、競争激化により、ダンピングが行われるまでに至りましが、同年7月12日に東京市電、日本電灯会社との間で、三電協定が結ばれたことで終結しました。その後も、1920年(大正9)に日本電灯会社合併、1921年(大正10)に利根発電会社合併、1921年(大正10)に横浜電気会社合併、1922年(大正11)に桂川電力会社合併、1922年(大正11)に日本水力電気会社合併、1922年(大正11)に烏川電力会社買収、1923年(大正12)に水上発電会社買収、1923年(大正12)には、猪苗代水力電気会社と忍野水力電気会社を合併して規模拡大が続きます。
しかし、同年9月1日の関東大震災によって甚大な被害を受けました。それからも、1925年(大正14)に東洋モスリン会社電気事業部買収、1925年(大正14)に京浜電力会社と富士水電会社合併と規模拡大が続き、大正時代末期には地方でも電力会社の統合が進み、東邦電力、大同電力、宇治川電気、日本電力と共に五大電力会社と呼ばれるようになります。関東大震災以後、千住火力発電所(日本初の蒸気タービン発電所)が建設され、1929年(昭和4)には、50,000 kWの供給力を持つ大型発電所が稼働するようになりました。
以後も企業規模や設備の拡大がはかられていったものの、1938年(昭和13)に、「国家総動員法」に併せて「電力管理法」、「日本発送電株式会社法」、「電力管理に伴う社債処理に関する法律案」、「電気事業法」が制定され、翌年には、国策会社日本発送電株式会社が設立されるに至ります。同年8月に、「配電統制令」が発布され、電力会社は日本発送電と関連する9配電会社に統合されることとなり、1942年(昭和17)4月1日には、9配電会社設立に伴い、関東配電へ吸収されました。
ネオ・バロック様式を基調とした煉瓦造り二階建ての本館(1階に大食堂、談話室、書籍室など、2階が舞踏室)と付属施設とからなり、総建坪1,450平方m、総工費は18万円かかっています。条約改正の実現には内外人の交誼友好が必要であると考えられ、外務官を招いて舞踏会や園遊会などがしばしば開かれ、欧化主義の象徴とされた建物で、鹿鳴館時代とも呼ばれました。
その後、1890年(明治23)に華族会館に貸与、1894年(明治27)に払い下げられ、1898年(明治31)には名称も華族会館と変わります。さらに、1933年(昭和8)以降、日本徴兵保険会社、内国貯金銀行などが使用し、1941年(昭和16)に取り壊されました。

