ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:鹿児島県

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 今日は、明治時代前期の1877年(明治10)に、西郷隆盛が鹿児島県で主宰していた私学校の生徒が新政府に反発し、政府の武器を奪取して、西南戦争の発端となった日です。
 西南戦争(せいなんせんそう)は、明治時代前期の1877年(明治10)に、鹿児島士族が西郷隆盛を擁立して蜂起した反政府暴動で、明治新政府に対する不平士族の反乱では、最大で最後のもので、西南の役とも呼ばれてきました。1873年(明治6)の征韓論で敗れ、下野した西郷らは鹿児島へ戻り、士族組織として私学校を結成します。
 明治新政府との対立が深まり、鹿児島にあった兵器、弾薬を大阪に移転しようと考えたのを契機に、1877年(明治10)1月30日に、私学校生が集団決起、陸軍火薬庫などを奪い、西郷を盟主として決起し、2月15日に薩摩軍の1万5千人が熊本城・九州鎮台攻撃に向かって進撃を開始しました。これに対し、2月19日に薩摩征討の詔が発せられ、有栖川宮を総督とする3個旅団の陸軍と13隻の艦船からなる海軍を指揮して、官軍として征討に当らせます。
 戦場は熊本や宮崎にまで広がり、2月22日に薩摩軍は熊本鎮台(熊本城)を包囲しましたが、鎮台兵は司令長官谷干城を中心に50日間籠城、徐々に官軍に押されていき、4月15日に官軍は熊本城を包囲していた薩摩軍を破って熊本に入城しました。守勢に回った薩摩軍は、日向地方に転じて再起を図りましたが、6月1日人吉、7月24日都城、同31日宮崎、佐土原を失い、鹿児島に戻った西郷は同年9月、城山に立てこもり、政府軍の総攻撃を受ける中、同月24日に西郷以下桐野利秋、村田新八らは戦死または自刃して、終結します。
 戦いでの戦死者は、官軍側は6,403人、薩摩軍側は6,765人に及び、戦後に斬罪22人を含んで2,760余人が処罰されました。

〇西郷 隆盛】(さいごう たかもり)とは?

 幕末明治維新期に活躍した薩摩藩士・軍人・政治家です。江戸時代後期の1828年(文政10年12月7日)に、薩摩国鹿児島城下加治屋町(現在の鹿児島県鹿児島市)で、御勘定方小頭の西郷九郎隆盛の第1子として生まれましたが、幼名は小吉、通称は吉之介と言いました。
 1844年(弘化元)に18歳で郡奉行・迫田利済配下となり、郡方書役助をつとめ、1854年(安政元)に農政改革を求める意見書で藩主島津斉彬に見出され、庭方役に抜擢され藩政に参画します。しかし、1858年(安政5年)に斉彬が急死すると、同志僧月照と投身自殺を試みたものの、一命を取り留め、翌年には奄美大島に流されました。
 1862年(文久2)に島津久光が公武合体運動の着手にあたり召還されたものの、久光の怒りに触れ、今度は罪人として徳之島・沖永良部島へ遠島となります。1864年(元治元)に赦免され鹿児島に帰ると、軍賦役、小納戸頭取となり上京し、蛤御門の変(禁門の変)で薩摩軍を指揮して快勝しました。
 第一次長州征伐では、征長軍の参謀に任じられ、長州藩の無血降伏を実現します。1866年(慶応2)に土佐藩浪士坂本竜馬らの仲介で、木戸孝允との間で薩長同盟を密約し、翌年の王政復古のクーデターに重要な役割を演じ、新政府参与となりました。戊辰戦争では大総督参謀となり、勝海舟との会談で江戸城無血開城に成功します。
 その後、薩摩へ帰郷していましたが、1871年(明治4)には、呼び戻されて参議筆頭となり、廃藩置県に尽力したものの、1873年(明治6)の征韓論に関わる政変で辞職しました。鹿児島へ帰郷して私学校を経営し、士族授産に尽力しましたが、中央政府との疎隔が甚だしくなり、佐賀の乱(1874年)、神風連の乱、秋月の乱、萩の乱(いずれも1876年)など士族の反乱が続発します。
 その中で、1877年(明治10)に部下に擁立されて 、西南戦争を起しましたが、同年9月24日に戦いに敗れ、数え年51歳で、鹿児島城山において自刃しました。

☆西南戦争関係略年表

<1873年(明治6)>

・10月23日 西郷隆盛が征韓論に敗れ、辞表を提出(桐野、篠原ら西郷派士官辞職)
・11月10日 西郷、桐野と共に鹿児島へ帰る

<1874年(明治7)>

・2月1日 江藤新平が故郷の佐賀県で擁立されて佐賀の乱が起こる

<1876年(明治9)>

・10月24日 熊本県で神風連の乱が起こる
・10月27日 福岡県で秋月藩士宮崎車之助を中心とする秋月の乱が起こる
・10月28日 山口県で前原一誠らによる萩の乱が起こる

<1877年(明治10)>

・1月 明治新政府は鹿児島にあった兵器、弾薬を大阪に移転しようと考える
・1月30日 鹿児島で私学校生が集団決起、陸軍火薬庫など襲う
・2月3日 私学校党は中原一味60余人を一網打尽に捕らえてしまう
・2月4日 鹿児島暴発の報が明治天皇の行在所に達する
・2月14日 黒田清隆が旧庄内士族のリーダーに手紙で、西郷らに同調しないよう要請する
・2月15日 薩摩軍の1万5千人が熊本城・九州鎮台攻撃に向かって進撃を開始する
・2月18日 官軍は乃木希典(陸軍少佐)連隊の一部を率いて熊本に向かう
・2月19日 薩摩征討の詔が発せられ、有栖川宮を総督とする3個旅団の陸軍と13隻の艦船からなる海軍を指揮して征討に当らせる
・2月20日 薩摩軍の先鋒、別府晋介の二大隊川尻に入る
・2月21日 軍議で薩摩軍の全軍が熊本城を強襲すること決まる
・2月22日 植木で乃木少佐、連隊旗を奪われる、薩摩軍は熊本城の包囲を完了する
・2月23日 官軍の第十四連隊が木葉にて敗れる
・2月24日 官軍の山県参軍博多に到着、薩摩軍は熊本城強攻を中止し、主力は山鹿、田原、木留に進出する
・2月25日 明治新政府は西郷の官位を取り消す、官軍の第一、二旅団南関に入る
・2月27日 薩摩軍は三方より高瀬を強襲、西郷小兵衛戦死、乃木少佐が負傷する
・3月3日 官軍は木葉・吉次に攻撃を開始する 
・3月4日 熊本の田原坂での戦闘が始まる
・3月13日 黒田清隆が京都の行在所宛て電報で、衝背軍による背面攻撃を建言する
・3月19日 官軍は高島鞆之助の別働第二旅団が日奈久に上陸し、八代まで進撃する
・3月20日 官軍は田原坂の戦いで薩摩軍を破る
・3月21日 黒田清隆が歩兵・警視隊500人を率いて日奈久に上陸する
・3月24~25日 山田顕義以下の別働第二旅団、川路利良以下の別働第三旅団が、八代に上陸する
・3月26日 薩摩軍は、石塘口をせきとめ、熊本城を水攻めにする
・3月30~31日 官軍により松橋が陥落する
・4月1日 官軍は吉次・木留を占領する
・4月4日 薩摩軍別働隊(辺見十郎太・別府晋介指揮)が人吉から八代に来襲、善戦するが、政府増援部隊に阻まれて撤退する
・4月12日 官軍は御船を占領、永山弥一郎(薩軍三番大隊大隊長)が戦死する
・4月15日 官軍は熊本城を包囲していた薩摩軍を破って熊本に入城、薩摩軍は植木・荻迫・鐙田・三の岳より退去する
・4月20日 官軍は御船で大勝、薩摩軍は矢部に退去、西郷らは人吉へ退去する
・4月27日 薩摩軍は人吉盆地での攻防戦を始める(~6月21日)
・5月28日 西郷は宮崎へ入る
・6月1日 官軍は人吉を占領する
・7月24日 官軍は都城を占領する
・7月31日 薩摩軍は宮崎、佐土原を失い、長井村に追い詰められて解散する
・8月2日 官軍は高鍋を占領する
・8月5日 開戦半年を経て西郷は全軍に告諭を出して奮起を促す
・8月中旬 延岡の北方約6KMの長井村に追い詰められる
・8月14日 薩摩軍は延岡を失い、可愛岳のふもと熊田周辺に後退する
・8月15日 薩摩軍は延岡への攻勢を開始、官軍もまたこれに応戦して延北の山野は両軍の士で溢れる
・8月16日 西郷は解隊布告する
・9月1日 官軍は同地警備の新撰旅団を破って鹿児島市内に進出する
・9月6日頃 官軍主力は鹿児島に集結、薩軍を城山に包囲する
・9月22日 城山で西郷の名による決死の檄を飛ばす
・9月23日 西郷は諸将を集め決別の宴を開く
・9月24日 払暁とともに城山総攻撃の火蓋がきって落とされ、桐野、村田ら戦死、西郷が自刃、薩摩軍は城山において全滅し、西南戦争が終結する

☆明治新政府に対する不平士族の反乱一覧

・1874年(明治7)2月 江藤新平が故郷の佐賀県で擁立されて佐賀の乱が起こる
・1876年(明治9)10月 熊本県で神風連の乱が起こる
・1876年(明治9)10月 福岡県で秋月藩士宮崎車之助を中心とする秋月の乱が起こる
・1876年(明治9)10月 山口県で前原一誠らによる萩の乱が起こる
・1877年(明治10) 旧薩摩藩の士族が中心になり西郷隆盛を大将に擁立して西南戦争がおこる
・1877年(明治10)3月 西郷隆盛に呼応する形で、福岡県で武部小四郎ら旧福岡藩士族により福岡の変が起こる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1788年(天明8)京都最大の3万軒以上を焼失した「天明の大火」が起きる(新暦3月7日)詳細
1823年(文政6)幕臣・政治家勝海舟の誕生日(新暦3月12日)詳細
1902年(明治35) 「第一回日英同盟協約」が調印される詳細
1945年(昭和20)藷類増産対策要綱」が閣議決定される詳細
1949年(昭和24)永井隆著の随筆『長崎の鐘』(日比谷出版社)が刊行される詳細
2010年(平成22)児童文学作家川村たかしの命日詳細
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 今日は、昭和時代中期の1955年(昭和30)に、鹿児島県名瀬市(現在の奄美市)で名瀬大火があり、市全体の約1/3にあたる1,365棟が焼失した日です。
 名瀬大火(なぜたいか)は、昭和時代中期の1955年(昭和30)12月3日午前4時50分頃に、鹿児島県名瀬市において起きた大火でした。名瀬市中心街にある歓楽街・屋仁川通の飲食店青柳から、タバコの火の不始末で出火し、季節風の強い北東風が吹くという悪条件の下で、火は瞬く間に燃え広がります。
 当時の名瀬市は1945年(昭和20)4月の大空襲によって市街地の90%を失った後、アメリカ軍に占領されて8年間も施政権を奪われ、2年前に返還されたばかりでした。その中で、何ら建築制限も決められない中で、中心街は狭い3mの道路を挟んで、焦土の跡に雨露をしのぐ程度に建てられた急造の木造バラック(粗末な建築物)が密集する状況となります。
 水利も悪く、市営水道には配水池がないので消火栓はあっても名ばかりで、その上晴天が続いたので川が渇れており、埋め立て工事中だったため海からの取水も満足にできる状態ではありませんでした。さらに、消防車不足で、大型消防車2台は故障、1台ある三輪ポンプ車は使用20分で故障、名瀬海上保安部など行政機関、療養所からの応援隊も含めたわずか8台の小型手挽きポンプ車で対抗せざるを得ない状況となります。
 このため消火に手間取って、火が燃え広がり、市全体の約1/3にあたる1,365棟の建物が焼失しました。これによって、死傷者は出なかったものの、罹災世帯1,462世帯、罹災人員5,851名にも及び、被害総額約16億円という大きな災害となります。
 尚、1ヶ月半前の10月18日にも名瀬市中央通で火災があり、118棟を焼失したばかりでした。

〇太平洋戦争後の日本の大火一覧(500棟以上の焼失で、地震によるものを除く)

・1947年(昭和22)4月20日 - 飯田大火(長野県飯田市)
  死者・行方不明者3名、焼失棟数3,742棟、焼損面積約48ha、罹災戸数4,010戸、罹災人員17,778名
・1949年(昭和24)2月20日 - 第一次能代大火(秋田県能代市)
  死者3名、負傷者132名、焼失家屋2,237棟、焼失面積83.6ha、罹災世帯1,755世帯、罹災人員8,790名
・1952年(昭和27)4月17日 - 鳥取大火(鳥取県鳥取市)
  死者3名、罹災家屋5,228戸、罹災面積約160ha、罹災者2万451人
・1954年(昭和29)9月26日 - 岩内大火(北海道岩内郡岩内町)
  死者35名、負傷者551名、行方不明3名、焼失戸数3,298戸、焼失面積約106ha、罹災者16,622名
・1955年(昭和30)10月1日 - 新潟大火(新潟県新潟市)
  行方不明者1名、負傷者175名、焼失棟数892棟、焼失面積約26ha、罹災世帯1,193世帯、罹災人員5,901名
・1955年(昭和30)12月3日 - 名瀬大火(鹿児島県名瀬市)
  死傷者なし、焼失家屋1,317棟、罹災世帯1,462世帯、罹災人員5,851名、被害総額約16億円 
・1956年(昭和31)3月20日 - 第二次能代大火(秋田県能代市)
  死者なし、負傷者194名、焼失家屋1,475棟、焼失面積約31.5ha、罹災世帯1,248世帯、罹災人員6,087名
・1956年(昭和31)9月10日 - 魚津大火(富山県魚津市)
  死者5名、負傷者170名(うち重傷者5名)、焼失戸数1,583戸、罹災者7,219名
・1965年(昭和40)1月11日 - 伊豆大島大火(東京都大島町)
  死者なし、全焼戸数584棟418戸、焼失面積約16.5ha、罹災世帯408世帯1,273名、被害総額20億7千万円
・1976年(昭和51)10月29日 - 酒田大火(山形県酒田市)
  死者1名、焼失棟数1,774棟、焼失面積約22.5ha、被災者約3,300名、被害総額約405億円

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

671年(天智天皇10)第38代の天皇とされる天智天皇の命日(新暦672年1月7日)詳細
1859年(安政6)労働運動家・社会主義者・思想家・社会事業家片山潜の誕生日(新暦12月26日)詳細
1879年(明治12)小説家・随筆家永井荷風の誕生日詳細
1926年(大正15)最初の「円本」となる『現代日本文学全集』が、改造社から1冊1円で刊行開始詳細
1942年(昭和17)東京府立美術館で「第一回大東亜戦争美術展」が始まる(~12月25日まで)詳細
1997年(平成9)カナダの首都オタワにおいて、121ヶ国により、「対人地雷禁止条約」が調印される詳細
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makurazakitaifuu01

 今日は、昭和時代前期の1945年(昭和20)に、枕崎台風が鹿児島県枕崎付近に上陸し、大きな被害を出した日です。
 枕崎台風(まくらざきたいふう)は、1945年(昭和20)9月17日14時頃に、鹿児島県川辺郡枕崎町(現在の鹿児島県枕崎市)付近に上陸して、九州を縦断、広島から松江へと進んで日本海へ抜け、能登半島、山形県酒田市から東北地方を横断し、岩手県宮古市を通って三陸沖に抜けた大型台風でした。上陸地点の枕崎測候所では最低気圧916.1hPa、最大風速40.0m/s、最大瞬間風速62.7m/sを観測し、洋上ではアメリカの病院船リポーズが沖縄本島の南東海上で台風の眼に入り、最低気圧856hPaを観測したとされています。
 これによって、九州・四国・中国地方は暴風雨となり、瀬戸内海では高潮が発生、また広島・山口両県内では山津波も起きて大きな被害が出ました。戦後間もない時期で気象情報が少なく、防災体制も不十分だったため全国で、死者2,473人、行方不明者1,283人、負傷者2,452人、家屋全壊58,432戸にも及びましたが、特に原爆投下直後で無防備だった広島県だけで、死者・行方不明2,012人が出ています。
 その後、「枕崎台風」と呼ばれることとなりましたが、室戸台風(1934年)、伊勢湾台風(1959年)と並んで昭和の三大台風の一つに数えられるようになります。

〇陸上(気象官署)における観測で中心気圧が低い台風ベスト10

1.沖永良部台風(昭和52年台風第9号)907.3hPa 1977年(昭和52)9月9日観測[鹿児島県沖永良部]
2.宮古島台風(昭和34年台風第14号)908.1hPa 1959年(昭和34)9月15日観測[沖縄県宮古島]
3.室戸台風 911.6hPa 1934年(昭和9)9月21日観測[高知県室戸岬]
4.平成15年台風第14号 912.0hPa 2003年(平成15)9月11日観測[沖縄県宮古島]
5.枕崎台風(昭和20年台風第16号)916.3hPa 1945年(昭和20)9月17日観測[鹿児島県枕崎]
6.第2室戸台風(昭和36年台風第18号)918.0hPa 1961年(昭和36)9月15日観測[鹿児島県名瀬]
7.昭和5年台風 922.0hPa 1930年(昭和5)8月9日観測[沖縄県南大東島]
8.昭和38年台風第14号 923.5hPa 1963年(昭和38)9月10日観測[沖縄県石垣島]
9.平成18年台風第13号 923.8hPa 2006年(平成18)9月16日観測[沖縄県西表島]
10.平成16年台風第18号 924.4hPa 2004年(平成16)9月5日観測[沖縄県名護]

〇陸上における観測で最大瞬間風速が速い台風ベスト10

1.第2宮古島台風(昭和41年台風第18号)北東風85.3m/s 1966年(昭和41)9月5日観測[沖縄県宮古島]
2.第2室戸台風(昭和36年台風第18号)西南西風84.5m/s 1961年(昭和36)9月16日観測[高知県室戸岬]
3.平成27年台風21号 南東風81.1m/s 2015年(平成27)9月28日観測[沖縄県与那国島]
4.第3宮古島台風(昭和43年台風第16号)北東風79.8m/s 1968年(昭和43年)9月22日観測[沖縄県宮古島]
5.昭和45年台風第9号 東南東風78.9m/s 1970年(昭和45年)8月13日観測[沖縄県名護]
6.昭和40年台風第23号 西南西風77.1m/s 1965年(昭和40年)9月10日観測[高知県室戸岬]
7.枕崎台風(昭和20年台風第16号)南南東風75.5m/s 1945年(昭和20年)9月17日観測[宮崎県細島]
8.平成15年台風第14号 北風74.15m/s 2003年(平成15年)9月11日観測[沖縄県宮古島]
9.昭和31年台風第12号 南風73.65m/s 1956年(昭和31年)9月8日観測[沖縄県那覇]
10.昭和39年台風第20号 西72.3m/s 1964年(昭和39年)9月25日観測[愛媛県宇和島]

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