
これに対して、幕府は目付鳥居耀蔵らに命じて洋学者を弾圧し、無人島(小笠原島)密航を企てているとの理由で、渡辺崋山、高野長英らを逮捕したのですが、小関三英は逮捕の際に自殺しました。そして、幕政批判の罪により、同年12月18日に、渡辺崋山には国許蟄居 (のち自殺) 、高野長英は永牢 (のち脱牢、自殺) などの判決が下されます。
これによって、その後の洋学のあり方に大きな影響を与えることになりました。尚、「蛮社」は洋学仲間の意味である「蛮学社中」の略として使われていたものです。
16歳で正式に藩の江戸屋敷に出仕し、1823年(文政6)田原藩の和田氏の娘・たかと結婚しました。そして、1825年(文政8)父の病死に伴い32歳で家督を相続しています。
その後頭角を現し、1832年(天保3)に田原藩の年寄役末席(家老職)となり、藩務に勤めながら、蘭学を学び、画は谷文晁に師事し、画才を認められました。天保の飢饉の時には、食料対策に「報民倉」を設け餓死者を一人も出さなかったなど、施政者としても評価されています。
しかし、モリソン号事件に関わって、「慎機論」を著し、幕府の鎖国政策を批判したため、蛮社の獄で高野長英らと共に捕らえられました。その後、田原に蟄居していましたが、1841年(天保12)に、49歳で自刃しています。画作としては、「鷹見泉石像」(国宝)、「佐藤一斎像」(国重要文化財)、「市河米庵像」(国重要文化財)などが知られています。
その内容は、頑迷な鎖国封建体制に対して、遠州大洋中に突き出した海浜小藩たる田原藩の藩政改革に関与する現実的政治家としての批判を中心にし、一方で海防の不備を憂えるなどしていたものです。
[1]渺然:びょうぜん=果てしなく広々としているさま。
1820年(文政3)に、江戸に赴き、蘭方医術を杉田伯元や吉田長淑に学び、1825年(文政8)に長崎に行き、シーボルトの鳴滝塾で西洋医学と関連諸科学を学びました。1828年(文政11)にシーボルト事件が起こると、いちはやく姿をかくし、各地を転々としてから、1830年(天保元)に江戸に戻り、麹町貝坂で町医者となります。
1832年(天保3)に翻訳『西説医原枢要』内編5巻を脱稿し、渡辺崋山や江川英龍らと情報交換のため尚歯会に参加して交際を深めました。1836年(天保7)の天保の大飢饉の際、『救荒二物考』で早ソバとジャガイモの栽培を説き、『避疫要法』で伝染病対策を訴えます。
1837年(天保8)に起きた「モリソン号事件」を聞き、翌年『戊戌夢物語』を書いて幕府の対外強硬策を批判しました。それによって、1839年(天保10)の蛮社の獄で、崋山と共に逮捕され、永牢終身刑の判決を受け、投獄されます。
しかし、1844年(弘化元)の牢屋敷の火災の際、放たれて戻らず、人相を変えながら逃亡生活を続けました。1848年(嘉永元)には、伊予宇和島藩主伊達宗城の保護を受け、蘭学を講述しながら、兵書『三兵答古知幾(タクチーキ)』などを翻訳します。
翌年江戸に再潜入し、高橋柳助、沢三伯の名で町医者を営んでいたものの、1850年(嘉永5年10月30日)に、何者かに密告されて町奉行所に踏み込まれ、数え年47歳で自殺しました。
内容は、イギリスの国勢の情報で、とくにアジア、中国への交易進出問題を取り上げ、鎖国下にある日本に対して漂流民送還を口実に開国を迫っている現状を述べて、これを撃退しようととする「異国船打払令」がいかに無謀なものであるかを警告したものです。しかし、幕政批判の書として蘭学者弾圧の口実とされ、蛮社の獄の起因となりました。
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
1869年(明治2) | 日本2番目の洋式灯台である野島埼灯台が初点灯する(新暦1870年1月19日) | 詳細 |
1914年(大正3) | 東京駅の開業式が行われる(東京駅完成記念日) | 詳細 |
1917年(大正6) | 相模鉄道株式会社が創立総会を開催する | 詳細 |
1947年(昭和22) | 「過度経済力集中排除法」が公布施行される | 詳細 |
1948年(昭和23) | 連合国最高司令官総司令部(GHQ)が日本経済自立復興の為の「経済安定9原則」を指令する | 詳細 |
1997年(平成9) | 東京湾横断道路(愛称:東京湾アクアライン)が開通する | 詳細 |
2002年(平成14) | 「東京地下鉄株式会社法」が公布・施行される | 詳細 |