ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:高橋景保

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 今日は、江戸時代後期の1821年(文政4)に、伊能忠敬が測量し、忠敬の死後も門弟らが編纂していた「大日本沿海輿地全図」が完成し、幕府に献上された日ですが、新暦では8月7日となります。
 「大日本沿海輿地全図(だいにほんえんかいよちぜんず)」は、江戸時代後期に、伊能忠敬の作成した日本最初の科学的実測に基づく日本地図で、「伊能図」、「日本輿地全図」とも呼ばれてきました。
 江戸幕府の命を受けて、1800年 (寛政 12) の蝦夷地測量に始り、九州、種子島、屋久島、伊豆七島まで前後17年かけて、1816年(文化13)の第10次調査にまで及んで、全国を実測します。測量が一段落進むごとに、3万6000分の1の縮尺で製図し、これをまとめて長さ6尺、幅3尺ほどの大図(214枚)としました。
 次に、大図を6分の1に縮小して縮尺21万6000分の1の中図(8枚)をつくり、さらに、これを2分の1にして縮尺43万2000分の1の小図(3枚)としました。しかし、1818年(文化15)に伊能忠敬が亡くなるまでには完成せず、門弟高橋景保らに引き継がれ、3年後の1821年(文政4年7月10日)にようやく完成し、幕府に献上されています。
 これらの地図は、距離の測定誤差最大300分の1、方位最大誤差約0.3度、緯度測定誤差1分、子午線1度の長さの誤差0.2kmであり、当時としては驚異的な高精度のもので、初めて日本の海岸線が正確に知られるようになりました。日本の地理学上への貢献は大きく、明治時代以降の地図の基本資料となっています。

〇伊能忠敬とは?

 江戸時代後期の商人・測量家・地理学者で、1745年(延享2年1月11日)に、上総国山辺郡小関村(現在の千葉県山武郡九十九里町小関)の名主小関五郎左衛門家で生まれました。1762年(宝暦12)18歳のときに佐原の伊能家の養子となり、養子となり、名を忠敬と改めます。
 酒造、米穀取引などの家業に尽力し、名主や村方後見として郷土のためにも尽くしました。1794年(寛政6)に50歳で隠居し、翌年江戸へ出て、幕府天文方高橋至時に師事し、暦学天文を学びます。
 その後、1800年(寛政12)、至時の推挙で幕府から奥州道中と蝦夷地東南沿岸測量を任されました。それから全国の測量へと発展し、1816年(文化13)に終了するまでに、10次に渡って日本全国の測量を行いました。
 これによって、「大日本沿海與地全図」を作成しましたが、その精密さで高い評価を受けたものの、1818年(文政元年4月13日)に、江戸において、71歳で没しています。千葉県香取市の小野川沿いには、旧居(国指定史跡)が残され、1998年(平成10)には、近くに「伊能忠敬記念館」も建てられました。

☆伊能忠敬関係略年表(日付は旧暦です)

・1745年(延享2)1月11日 上総国山辺郡小関村の名主五郎左衛門家で生まれる
・1751年(宝暦元) 母(みね)が亡くなり、婿養子だった父は実家の武射郡小堤村の神保家に戻る
・1755年(宝暦5) 実家の神保家に戻っていた父の元に引き取られる
・1762年(宝暦12) 下総国香取郡佐原村の酒造業を営む伊能家に婿養子に入り、名を忠敬と改める
・1781年(天明元) 佐原村本宿組名主となる
・1783年(天明3) 天明の大飢饉では、私財をなげうって地域の窮民を救済する
・1794年(寛政6)12月 隠居して家督を長男景敬に譲る
・1795年(寛政7) 江戸に出て幕府天文方高橋至時に師事して暦学天文を学ぶ
・1800年(寛政12)閏4月19日 第1次測量(奥州街道‐蝦夷地太平洋岸‐奥州街道)180日間
・1801年(享和元) 第2次測量(三浦半島‐伊豆半島‐房総半島‐東北太平洋沿岸‐津軽半島‐奥州街道)230日間
・1802年(享和2) 第3次測量(奥州街道‐津軽半島‐東北日本海沿岸‐直江津‐長野‐中山道)132日間 
・1803年(享和3) 第4次測量(東海道‐太平洋沿岸‐名古屋‐北陸沿岸‐佐渡‐長岡‐中山道)219日間
・1805年(文化2) 第5次測量(東海道‐紀伊半島‐琵琶湖‐瀬戸内海沿岸‐山陰沿岸‐隠岐‐敦賀‐東海道)幕府直轄事業となる 
・1808年(文化5) 第6次測量(東海道‐大阪‐四国‐淡路島‐大阪‐吉野‐伊勢‐東海道) 
・1809年(文化6) 第7次測量(中山道‐山陽道‐九州東海岸‐天草‐熊本‐大分‐萩‐中国内陸部‐甲州街道) 
・1811年(文化8) 第8次測量(甲府‐九州‐屋久島‐種子島‐九州内陸部‐長崎‐壱岐・対馬‐五島‐中国内陸部‐京都‐高山‐飯山‐川越)913日間
・1815年(文化12) 第9次測量(東海道‐下田‐伊豆諸島‐伊豆半島東岸‐八王子‐熊谷‐江戸)忠敬は不参加
・1816年(文化13) 第10次測量(江戸府内)  
・1818年(文化15)4月13日 江戸において死去するが、喪を秘して地図製作は続行される
・1821年(文政4) 『大日本沿海輿地全図』が完成し、3ヶ月後に喪が公表される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1927年(昭和2)岩波文庫が創刊される詳細
1947年(昭和22)静岡県静岡市の登呂遺跡で総合的な発掘調査が始まる詳細
1948年(昭和23)温泉法」が制定・公布される詳細
1993年(平成5)小説家井伏鱒二の命日詳細
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 今日は、江戸時代後期の1829年(文政12)に、P.F.vonシーボルトがシーボルト事件によって、国外追放処分を受けた日ですが、新暦では10月22日となります。
 シーボルト事件(しーぼるとじけん)は、1828年(文政11)に、オランダ商館付のドイツ人医師P.F.vonシーボルトが帰国の際に、国禁の日本地図や葵紋付き衣服などを持ち出そうとして発覚した事件でした。1826年(文政9)にオランダ商館長の江戸参府に随行し、幕府天文方高橋景保からは,クルーゼンシュテルンの『世界一周記』等と交換に、伊能忠敬の日本沿海実測図をもとにした地名入りの日本略図、蝦夷地図、間宮林蔵『東韃紀行』を贈られ、幕府眼科奥医師土生玄碩(はぶげんせき)からは、開瞳術伝授と交換に将軍拝領の葵の紋服を贈られます。
 それらが、1828年(文政11)に帰国する際に、8月9日の暴風で稲佐のなぎさに座礁した、コルネリス・ハルトマン号の修理のために降ろした積荷から発覚し、11月10日商館長メイランを通じて地図そのほか26点の品が押収されました。取調べは江戸と長崎で行われて長引き、P.F.vonシーボルトは約1年間長崎の出島に拘禁され、1829年(文政12年9月25日)に「日本御構(おかまえ)」の判決(国外追放処分)を受け、同年12月に日本より追放され、再渡航禁止を宣告されます。
 また江戸では、高橋景保が1828年(文政11年10月10日)に検挙され,翌年2月16日に獄死しましたが、死骸を塩漬にされ、1829年(文政13年3月26日)死刑の判決を受け、奥医師土生玄碩(家禄・屋敷没収)、長崎屋源右衛門などが、長崎では、門人の二宮敬作、高良斎、出島絵師川原登与助はじめ、通詞の馬場為八郎、吉雄忠次郎、稲部市五郎、堀儀左衛門、末永甚左衛門、岩瀬弥右衛門、同弥七郎から召使いに至るまで50数人の多数が処分を受けました。幕府は、これを機会として、より一層洋学者の行動をきびしく監視するようになります。
 尚、1858年(安政5)の「日蘭修好通商条約」の締結により、P.F.vonシーボルトの追放が解除となり、翌年に長男アレクサンダーを伴って再来日し、幕府の外交顧問となりました。

〇P.F.vonシーボルトとは?

 ドイツの医師・博物学者で、オランダ商館の医師として来日し、長崎に鳴滝塾を開設していますが、正式には、フィリップ・フランツ・バルタザール・フォン・シーボルト(ドイツ語: Philipp Franz Balthasar von Siebold)と言います。
 1796年2月17日に、南ドイツのバイエルンのビュルツブルクにおいて、医師の家系で、父はヴュルツブルク大学医学部産婦人科教授ヨハン・ゲオルク・クリストフ・フォン・シーボルトの次男として生まれました。1歳余で父を亡くし、ハイディングスフェルに住む母方の叔父に育てられます。
 1810年にヴュルツブルクの高校に入学し、その後、ビュルツブルク大学で医学、植物学、動物学、地理学などを学び、1820年に学位を得ました。1822年にオランダ領東インド会社付の医官となり、翌年にジャワに赴任します。
 まもなく、日本に任官することになり、1823年(文政6)にオランダ商館の医師として来日、長崎出島に入りました。翌年に長崎郊外に学塾兼診療所「鳴滝(なるたき)塾」を開設、西洋医学および一般科学を教授して、高野長英、高良斎、伊東玄朴、戸塚静海、美馬順三、二宮敬作ら多くの門人を育てます。
 1826年(文政9)にオランダ商館長の江戸参府に随行して、1ヶ月余り江戸に滞在、その間に高橋景保、大槻玄沢、宇田川榕庵ら江戸の蘭学者と交流を持ちました。また、日本の動植物を研究し、日本に関する研究資料も集めます。
 帰国に際し、国禁の日本地図や葵紋付き衣服などを持ち出そうとして発覚(シーボルト事件)し、処罰され、1829年(文政12)に国外追放処分を受けました。
 その後、1858年(安政5)の「日蘭修好通商条約」の締結により、P.F.vonシーボルトの追放が解除となり、翌年にオランダ商事会社員として長男アレクサンダーを伴って再来日します。幕府の外交にも参与しましたが、1862年(文久2)に日本を去り、1866年10月18日に、ドイツのミュンヘンにおいて、70歳で病死しました。
 尚、『日本』 Nippon(1832~54年)、『日本植物誌』 Flora Japonica(1835~70年)、『日本動物誌』 Fauna Japonica(1833~50年)など日本関係の論著を多く残しています。

☆P.F.vonシーボルトの主要な日本関係の著作

・『日本』 Nippon(1832~54年)
・『日本植物誌』 Flora Japonica(1835~70年)
・『日本動物誌』 Fauna Japonica(1833~50年)
・『江戸参府紀行』

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