ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:高杉晋作

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 今日は、幕末明治維新期の1866年(慶応2)に、徳川家茂が亡くなったことに伴い、孝明天皇が第二次長州征討の中止を勅命した日ですが、新暦では9月29日となります。
 第二次長州征討(だいにじちょうしゅうせいとう)は、幕末明治維新期の1866年(慶応2)に、江戸幕府と長州藩との間で起きた戦いで、幕長戦争、長州戦争とも呼ばれ、長州藩では4ヶ所の国境で戦いが行なわれたことから、四境戦争(しきょうせんそう)とも呼ばれています。
 1864年(元治元)の第一次長州征討は戦わずして休戦となりましたが、その後、長州藩論が高杉晋作らの倒幕派によって再び掌握されることとなりました。そこで、1866年(慶応2)閏5月16日に、江戸幕府第14代将軍徳川家茂みずから征討の指揮をとって江戸城を出立し西へ向かいますが、薩長連合のため薩摩藩は出兵を拒否します。
 10万石削封ほかを内容とする長州藩の処分を打ち出したものの、長州藩は応ぜず、諸隊は戦闘態勢を整えました。6月7日に幕府艦隊真木清人の屋代島(周防大島)への砲撃によって開戦されましたが、洋式の兵器を備えた長州軍を相手に苦戦、幕府軍は各地で敗れます。
 折悪しく、7月20日に征討途上の将軍徳川家茂が大坂城で病没し、8月21日に孝明天皇から休戦の勅令が出されたので、それを名目として兵を引くこととなり、長州藩の勝利となりました。この戦いで幕府の権威の失墜を国内外に示すこととなり、討幕運動を加速させ、1867年(慶応3)の大政奉還へと至ることとなります。

〇第二次長州征討関係略年表(日付は旧暦です)

<1866年(慶応2)>
・1月22日 江戸幕府は長州処分の最終案を奏上、勅許が下される
・1月26日 小笠原長行が長州へ幕命を伝えるため広島に下ることが決まる
・2月7日 小笠原長行を含む幕府の高官たちが広島へ到着する
・2月22日 小笠原長行は広島藩を通じて三支藩藩主、吉川経幹と宍戸備前助、毛利筑前に召喚命令を出したが病として拒絶される
・2月24日 芸州先鋒の彦根藩から安芸国と国境を分かつ岩国藩へ使者が送られる
・3月26日 小笠原長行は広島藩を通じて4月15日までに藩主父子と孫の興丸、三支藩藩主、吉川経幹、二家老が出頭するように命令を出す
・4月4日(または5日) 長州藩の諸隊の1つ第二奇兵隊で暴発事件が起きる
・4月14日 大久保利通は板倉勝静へ薩摩藩は出兵を拒否するとした建白書を提出する
・5月1日 国泰寺において小笠原長行は四家名の名代に対して幕命を伝える
・5月3日 幕府は四家名の名代に対しては速やかに帰国して主人へ伝え、20日までに請書を出すように命令が下される
・5月8日 宍戸と小田村素太郎はに拘束され広島藩に預けられる
・閏5月16日 江戸幕府第14代将軍徳川家茂みずから征討の指揮をとって江戸城を出立し西へ向かう
・6月2日 広島の小笠原長行は小倉へ向かう
・6月3日 徳川茂承が広島へ向かう
・6月7日 幕府艦隊真木清人の屋代島(周防大島)への砲撃が始まる
・6月13日 芸州口・小瀬川口で戦闘が開始される
・6月16日 石州口で戦闘が開始される
・6月17日 小倉口で戦闘が開始される
・6月18日 長州勢により、浜田城が陥落する
・7月2日 長州勢による大里上陸が行われる
・7月20日 第14代将軍・家茂が大坂城で病没する
・7月27日 赤坂・鳥越の戦いでは肥後藩細川氏(元・小倉城主)の軍が参戦し、長州勢を圧倒する
・8月1日 小倉藩は小倉城に火を放って香春に退却する
・8月21日 孝明天皇から休戦の勅令が出される
・9月2日 宮島会談で、東部方面の停戦合意が成立し、大島口、芸州口、石州口では戦闘が終息する
・10月 長州藩は停戦の成立した他戦線の兵力を小倉方面に集中して攻勢を強め、小倉藩の防衛拠点の多くが陥落する

<1867年(慶応3)>
・1月 長州・小倉両藩の和約が成立、小倉藩領のうち企救郡は長州藩の預りとされる

☆徳川家茂(とくがわ いえもち)とは?

 江戸幕府の第14代将軍です。江戸時代後期の1846年(弘化3年閏5月24日)に、江戸の紀州(和歌山)藩邸(現在の東京都港区)において、紀州藩第11代藩主徳川斉順の嫡男(母は松平氏みさ)として生まれましたが、幼名は菊千代と言いました。
 父は生まれる前に亡くなり、1847年(弘化4)に第12代藩主斉彊(斉順の弟)の養子となり、1849年(嘉永2)には、斉彊の死去により、4歳で家督を継いで第13代紀州藩主となります。1851年(嘉永4)に元服とて慶福(よしとみ)と名乗り、従三位に叙位しました。
 1853年(嘉永6年10月23日)に、徳川家定が第13代将軍に就任しましたが、病弱で子がなかったため将軍継嗣問題が起きます。井伊直弼らの擁立で、一橋慶喜(のちの徳川慶喜)を抑え、1858年(安政5年6月20日)に家定の世子となりました。
 その後、家定の死去に伴い、同年10月25日に第14代将軍に就任し、名を家茂と改めます。1860年(万延元)に桜田門外の変が起こり、大老井伊直弼が暗殺されると、老中久世広周、安藤信正らの画策により、公武合体を推進すべく、1862年(文久2)に孝明天皇の皇妹・和宮と結婚(和宮降嫁)しました。
 1863年(文久3)に朝廷の攘夷実施の求めに応じて、初めて上洛し、翌年の2回目の上洛時には、従一位に昇叙し、右大臣となります。この年、第1次長州征伐が始まり、翌年の第2次長州征伐の折りには、みずからも大軍を率いて、3度目の上洛の後、大坂城の征長軍本営に入りました。
 しかし、幕府軍敗戦の報が相次ぐうちに、1866年(慶応2年7月20日)、大坂城内において数え年21歳の若さで病死します。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

770年(宝亀元)皇太子の白壁王により、道鏡が造下野国薬師寺別当に左遷される(新暦9月14日)詳細
1264年(文永元)鎌倉幕府第6代執権北条長時の命日(新暦9月12日)詳細
1611年(慶長16)慶長会津地震が起き、若松城下などで寺社・家屋が倒壊し死者3,700余人を出す(新暦9月27日)詳細
1862年(文久2)生麦事件が起きる(新暦9月14日)詳細
1877年(明治10)東京の上野公園で第1回内国勧業博覧会が開会される詳細
1893年(明治26)洋画家・随筆家・版画家木村荘八の誕生日詳細
1909年(明治42)数学者・教育家遠山啓の誕生日詳細
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 今日は、江戸時代末期の1866年(慶応2)に、江戸幕府艦隊真木清人の屋代島(周防大島)への砲撃により、第二次長州征討が開戦された日ですが、新暦では7月18日となります。
 第二次長州征討(だいにじちょうしゅうせいとう)は、江戸幕府と長州藩との間で起きた戦いで、幕長戦争、長州戦争とも呼ばれ、長州藩では4ヶ所の国境で戦いが行なわれたことから、四境戦争(しきょうせんそう)とも呼ばれてきました。
 1864年(元治元)の第一次長州征討は戦わずして休戦となりましたが、その後、長州藩論が高杉晋作らの倒幕派によって再び掌握されることとなります。そこで、1866年(慶応2)閏5月16日に、江戸幕府第14代将軍徳川家茂みずから征討の指揮をとって江戸城を出立し西へ向かいますが、薩長連合のため薩摩藩は出兵を拒否しました。
 10万石削封ほかを内容とする長州藩の処分を打ち出したものの、長州藩は応ぜず、諸隊は戦闘態勢を整えます。6月7日に幕府艦隊真木清人の屋代島(周防大島)への砲撃によって開戦されましたが、洋式の兵器を備えた長州軍を相手に苦戦、幕府軍は各地で敗れました。
 折悪しく、7月20日に征討途上の第14代将軍徳川家茂が大坂城で病没したので、それを名目として兵を引くこととなり、長州藩の勝利となります。この戦いで幕府の権威の失墜を国内外に示すこととなり、討幕運動を加速させ、1867年(慶応3)の大政奉還へと至りました。

〇第二次長州征討関係略年表(日付は旧暦です)

<1866年(慶応2)>
・1月22日 江戸幕府は長州処分の最終案を奏上、勅許が下される
・1月26日 小笠原長行が長州へ幕命を伝えるため広島に下ることが決まる
・2月7日 小笠原長行を含む幕府の高官たちが広島へ到着する
・2月22日 小笠原長行は広島藩を通じて三支藩藩主、吉川経幹と宍戸備前助、毛利筑前に召喚命令を出したが病として拒絶される
・2月24日 芸州先鋒の彦根藩から安芸国と国境を分かつ岩国藩へ使者が送られる
・3月26日 小笠原長行は広島藩を通じて4月15日までに藩主父子と孫の興丸、三支藩藩主、吉川経幹、二家老が出頭するように命令を出す
・4月4日(または5日) 長州藩の諸隊の1つ第二奇兵隊で暴発事件が起きる
・4月14日 大久保利通は板倉勝静へ薩摩藩は出兵を拒否するとした建白書を提出する
・5月1日 国泰寺において小笠原長行は四家名の名代に対して幕命を伝える
・5月3日 幕府は四家名の名代に対しては速やかに帰国して主人へ伝え、20日までに請書を出すように命令が下される
・5月8日 宍戸と小田村素太郎はに拘束され広島藩に預けられる
・閏5月16日 江戸幕府第14代将軍徳川家茂みずから征討の指揮をとって江戸城を出立し西へ向かう
・6月2日 広島の小笠原長行は小倉へ向かう
・6月3日 徳川茂承が広島へ向かう
・6月7日 幕府艦隊真木清人の屋代島(周防大島)への砲撃が始まる
・6月13日 芸州口・小瀬川口で戦闘が開始される
・6月16日 石州口で戦闘が開始される
・6月17日 小倉口で戦闘が開始される
・6月18日 長州勢により、浜田城が陥落する
・7月2日 長州勢による大里上陸が行われる
・7月27日 赤坂・鳥越の戦いでは肥後藩細川氏(元・小倉城主)の軍が参戦し、長州勢を圧倒する
・8月1日 小倉藩は小倉城に火を放って香春に退却する
・7月20日 第14代将軍・家茂が大坂城で病没する
・9月2日 宮島会談で、東部方面の停戦合意が成立し、大島口、芸州口、石州口では戦闘が終息する
・10月 長州藩は停戦の成立した他戦線の兵力を小倉方面に集中して攻勢を強め、小倉藩の防衛拠点の多くが陥落する

<1867年(慶応3)>
・1月 長州・小倉両藩の和約が成立、小倉藩領のうち企救郡は長州藩の預りとされる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

760年(天平宝字4)聖武天皇の皇后・藤原不比等の娘光明皇后の命日(新暦7月27日)詳細
1912年(明治45)日本画家奥田元宋の誕生日詳細
1939年(昭和14)満蒙開拓青少年義勇軍の壮行会・大行進を明治神宮外苑競技場で開催される詳細
1955年(昭和30)第1回日本母親大会が開催される(母親大会記念日)詳細
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 今日は、幕末の1867年(慶応3)に、倒幕派の志士・長州藩士高杉晋作が亡くなった日ですが、新暦では5月17日となります。
 高杉晋作(たかすぎ しんさく)は、江戸時代後期の1839年(天保10年8月20日)に、長門国萩城下菊屋横丁(現在の山口県萩市)で長州藩士の父・高杉小忠太、母・みちの長男として生まれましたが、名は春風(はるかぜ)と言いました。1846年(弘化3)の8歳の時、寺子屋・吉松塾に入り、久坂玄瑞と出会い、1852年(嘉永5)に藩校の明倫館に入学、1857年(安政4)には久坂玄瑞の誘いで吉田松陰が主宰していた「松下村塾」に入り、頭角を現します。
 1858年(安政5)に藩命で江戸へ遊学、昌平坂学問所や大橋訥庵の大橋塾などで学びますが、翌年に安政の大獄により、師の松陰が江戸に捕らわれると獄中支援を行いました。同年10月27日に松陰が処刑されると、藩命により萩に帰郷を命じられ、翌年帰郷後は明倫館に勤務し、山口町奉行井上平右衛門の次女・まさと結婚します。
 1861年(文久元)に海軍修練のため、藩の所蔵する軍艦「丙辰丸」に乗船し江戸へ渡り、東北遊学も行い、加藤桜老や佐久間象山、横井小楠とも交友しました。1862年(文久2)に藩命で、幕府使節随行員として長崎から中国の上海へ渡航、太平天国の乱などを見聞してに2ヶ月後に帰国します。
 同年12月に同志とともに品川御殿山に建設中のイギリス公使館焼き討ちを実行、翌年5月には関門海峡において外国船を砲撃しました。同年6月に廻船問屋の白石正一郎邸において身分に因らない画期的な軍隊・奇兵隊を結成し、奇兵隊開闢(初代)総督となりましたが、9月には教法寺事件の責任を問われ総監を罷免され、翌年1月には脱藩して京都へ潜伏します。
 同年2月に桂小五郎の説得で、剃髪し東行と号して帰郷しましたが、脱藩の罪で野山獄に投獄され、6月には出所して謹慎処分となりました。1864年(文久4年7月)に長州藩は禁門の変で敗北して朝敵となり、来島又兵衛は戦死、久坂玄瑞は自害、同年8月には、イギリス、フランス、アメリカ、オランダの4カ国連合艦隊が下関を砲撃、砲台占拠を行い、晋作が和議交渉全権を担うことになります。
 10月に福岡へ逃れましたが、同年12月に幕府による第一次長州征伐が迫る中、力士隊、遊撃隊ら長州藩諸隊を率いて挙兵(功山寺挙兵)、翌年3月には俗論派の首魁・椋梨藤太らを排斥して藩の実権を握りました。1865年(元治2年9月)に藩命により谷潜蔵と改名、翌年1月に桂小五郎(後の木戸孝允)らと共に、土佐藩の坂本龍馬を仲介とした薩摩藩との軍事同盟である薩長盟約を締結します。
 同年5月に伊藤俊輔とともに薩摩行きを命じられ、その途次長崎で蒸気船「丙寅丸」を購入、同年6月の第二次長州征伐(四境戦争)では海軍総督として、幕府艦隊を退け周防大島を奪還に成功しました。1867年(慶応3年3月)には、新知100石が与えられ、谷家を創設して初代当主となったものの、同年4月14日に下関において、肺結核のため数え年29歳で亡くなっています。

〇高杉晋作関係略年表(日付は旧暦です)

・1839年(天保10年8月20日) 長門国萩城下菊屋横丁(現・山口県萩市)で長州藩士の父・高杉小忠太、母・みちの長男として生まれる
・1846年(弘化3年) 8歳の時、寺子屋・吉松塾に入り、久坂玄瑞と出会う
・1852年(嘉永5年) 藩校の明倫館に入学する
・1857年(安政4年) 久坂玄瑞の誘いで吉田松陰が主宰していた「松下村塾」に入り、生涯の師・松陰と出会う
・1858年(安政5年7月) 藩命で江戸へ遊学、昌平坂学問所や大橋訥庵の大橋塾などで学ぶ
・1859年(安政6年10月) 安政の大獄により、吉田松陰が処刑される
・1859年(安政6年) 藩命により、萩に帰郷を命じられる
・1860年(万延元年11月) 帰郷後、明倫館に勤務するが、山口町奉行井上平右衛門の次女・まさと結婚する
・1861年(文久元年3月) 海軍修練のため、藩の所蔵する軍艦「丙辰丸」に乗船し江戸へ渡る
・1861年(文久元年8月) 東北遊学を行い、加藤桜老や佐久間象山、横井小楠とも交友する
・1862年(文久2年5月) 藩命で、幕府使節随行員として長崎から中国の上海へ渡航する
・1862年(文久2年7月) 太平天国の乱を見聞してに帰国する
・1862年(文久2年12月12日) 同志とともに品川御殿山に建設中のイギリス公使館焼き討ちを実行する
・1863年(文久3年5月10日) 関門海峡において外国船を砲撃する
・1863年(文久3年6月) 廻船問屋の白石正一郎邸において身分に因らない画期的な軍隊・奇兵隊を結成し、奇兵隊開闢(初代)総督となる
・1863年(文久3年9月) 教法寺事件の責任を問われ総監を罷免される
・1864年(文久4年1月) 脱藩して京都へ潜伏する
・1864年(文久4年2月) 桂小五郎の説得で、剃髪し東行と号して帰郷するが、脱藩の罪で野山獄に投獄される
・1864年(文久4年6月) 出所して謹慎処分となる
・1864年(文久4年7月) 長州藩は禁門の変で敗北して朝敵となり、来島又兵衛は戦死、久坂玄瑞は自害する
・1864年(文久4年8月) イギリス、フランス、アメリカ、オランダの4カ国連合艦隊が下関を砲撃、砲台占拠を行い、晋作が和議交渉全権を担う
・1864年(文久4年10月) 福岡へ逃れる
・1864年(文久4年12月) 幕府による第一次長州征伐が迫る中、力士隊、遊撃隊ら長州藩諸隊を率いて挙兵(功山寺挙兵)する
・1865年(元治2年3月) 俗論派の首魁・椋梨藤太らを排斥して藩の実権を握る
・1865年(元治2年9月29日) 藩命により谷潜蔵と改名する
・1866年(慶応2年1月) 桂小五郎(後の木戸孝允)らと共に、土佐藩の坂本龍馬を仲介とした薩摩藩との軍事同盟である薩長盟約を締結する
・1866年(慶応2年5月) 伊藤俊輔とともに薩摩行きを命じられ、その途次長崎で蒸気船「丙寅丸」を購入する
・1866年(慶応2年6月) 第二次長州征伐(四境戦争)では海軍総督として、幕府艦隊を退け周防大島を奪還に成功する
・1867年(慶応3年3月29日) 新知100石が与えられ、谷家を創設して初代当主となる
・1867年(慶応3年4月14日) 下関において、肺結核のため数え年29歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1526年(大永6)駿河国守護今川氏親が「今川仮名目録」を制定する(新暦5月25日)詳細
1602年(慶長7)連歌師里村紹巴の命日(新暦6月2日)詳細
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