
それにより、翌年幕命により出府し、徳丸ヶ原洋式軍事演習(洋式砲術と洋式銃陣の公開演習)を実施することになります。当日は、老中以下の諸役人が見守る中で、長崎から連れてきた門人のほか江戸で入門した者も加えて総勢129名で、二つの歩兵部隊を編成したうえに騎兵3騎、野戦砲3門の操演をも加えた本格的な調練を行いました。
その内容は、①モルチール砲の操練(ボンベン-榴弾、8町目先へ3発)、②モルチール砲の操練(ブランドコーゲル-焼夷弾、8町目先へ2発)、③ホーウイッスル砲の操練(ガラナート-柘榴弾、8町目先へ2発)、④ホーウイッスル砲の操練(ドロイフコーゲル-葡萄弾、4町目先へ1発)、⑤馬上筒の操練(1往復3挺使用)、⑥ゲベール銃備打(97名が一斉射撃)、⑦野戦筒の操練(3門の砲を使用)、⑧剣付ゲベール銃による銃隊調練(99名)というものでした。その結果、幕府は、高島流砲術を採用することとし、輸入砲をすべて買い上げ、併せて、代官江川英竜(太郎左衛門)に砲術の伝授を命じています。
尚、1922年(大正11)に、陸軍を中心に高島秋帆を顕彰する動きがあり、当時の徳丸原の弁天塚に徳丸原遺跡碑(その後、徳丸ヶ原公園へ異説)、松月院に紀功碑がそれぞれ建立されました。
通詞にオランダ語兵書の翻訳を依頼したり、出島に来たオランダ人から直接に兵学・西洋砲術を学び、大砲の購入・鋳造に努め、1834年(天保5年)には高島流砲術を完成させ、教授するようになりました。翌年には、入門して学んでいた肥前佐賀藩武雄領主・鍋島茂義に免許皆伝を与えるとともに、自作第一号の大砲(青銅製モルチール砲)を献上しています。
1840年(天保11年)のアヘン戦争に触発され、『泰西火攻全書』を著わし、洋式砲術の振興を幕府に進言しました。翌年幕命で出府し、武蔵国徳丸ヶ原(現在の東京都板橋区高島平)で日本初となる洋式砲術と洋式銃陣の公開演習を行ない、幕府に高島流砲術が採用され、幕臣江川太郎左衛門、下曾根金三郎の二人に高島流を皆伝して長崎に帰ります。
しかし、幕府町奉行鳥居耀蔵の讒言にあい、1842年(天保13)に謀反の罪を着せられ、お家断絶となって投獄されました。その後、幽囚10年の1853年(嘉永6)にペリー来航など世情も大きく変化したこともあって、赦免されて出獄、江川太郎左衛門の許に身を寄せます。
1855年(安政2)に、幕府の普請役に取り立てられ、翌年には具足奉行格となり、さらに講武所砲術師範役も勤めるようになりました。1864年(元治元)に『歩操新式』等の教練書を編纂、「火技中興洋兵開基」と称えられ、日本の軍事近代化に大きな足跡を残したものの、1866年(慶応2年1月14日)に、江戸において、数え年69歳で亡くなっています。
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
| 1691年(元禄4) | 江戸幕府が豪商・住友家に別子銅山の採掘を許可する(新暦6月5日) | 詳細 |
| 1862年(文久2) | 江戸幕府が派遣した文久遣欧使節により、ロンドン覚書が締結される(新暦6月6日) | 詳細 |
| 1876年(明治9) | 明治天皇行幸で東京の上野公園の開園式が行われる | 詳細 |
| 1904年(明治37) | 小説家武田麟太郎の誕生日 | 詳細 |
| 1906年(明治39) | 書家金子鷗亭の誕生日 | 詳細 |
| 1915年(大正4) | 中国・袁世凱政府が日本の「対華21ヶ条要求」を受諾 | 詳細 |
| 1942年(昭和17) | 「金属類回収令」に基づく閣令「回収物件の譲渡申込期間指定に関する件」が公布される | 詳細 |
