ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:飛鳥時代

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 今日は、飛鳥時代の641年(舒明天皇13)に、第34代の天皇とされる舒明天皇が亡くなった日ですが、新暦では11月17日となります。
 舒明天皇(じょめいてんのう)は、593年?(推古天皇元年)に、大和において、敏達天皇の子である父・押坂彦人大兄(おさかのひことのおおえ)皇子の子(母は糠手姫皇女)として生まれましたが、名は田村皇子と言いました。628年(推古天皇36年3月7日)に先代の推古天皇が亡くなると山背大兄王と皇位を争い、蘇我蝦夷に推されて、翌年1月4日に第34代とされる天皇として即位します。
 630年(舒明天皇2)に宝女王(のちの皇極・斉明天皇)を皇后に立て、飛鳥岡本宮(現在の奈良県明日香村)に遷りました。また同年に、第1回遣唐使として、大使犬上御田鍬・薬師恵日らを派遣し、632年(舒明天皇4)には、唐が返訪として高表仁を派遣し、犬上御田鍬らを送っています。
 636年(舒明天皇8)に飛鳥岡本宮が火災に遭い、一時田中宮(橿原市田中町)に遷りましたが、この年旱魃・飢饉が起こりました。翌年には蝦夷が反乱したため、上毛野形名を将軍として討たせています。
 639年(舒明天皇11)に詔して、百済川畔に百済大宮、百済大寺の造営を命じ、翌年には百済宮に遷りましたが、九重塔をもつ百済大寺は完成後ほどなく焼失しました。蘇我氏の勢力が飛躍的に伸長していく中で、641年(舒明天皇13年10月9日)に、百済宮において、49歳?で亡くなり、陵墓は押坂内陵(奈良県桜井市の段ノ塚古墳)とされます。

<舒明天皇の代表的な歌>

・「大和には 群山(むらやま)あれど とりよろふ 天の香具山 登り立ち 国見をすれば 国原は 煙立ち立つ 海原は 鴎立ち立つ うまし国ぞ 蜻蛉島(あきづしま) 大和の国は」(万葉集)
・「夕されば 小倉の山に 鳴く鹿は 今夜(こよひ)は鳴かず い寝にけらしも」(万葉集) 

〇舒明天皇関係略年表(日付は旧暦です)

・593年?(推古天皇元年) 敏達天皇の子である父・押坂彦人大兄皇子の子(母は糠手姫皇女)として生まれる
・628年(推古天皇36年3月7日) 先代の推古天皇が亡くなる
・629年(舒明天皇元年1月4日) 第34代とされる天皇として即位する
・630年(舒明天皇2年1月12日) 宝女王(のちの皇極・斉明天皇)を皇后に立てる
・630年(舒明天皇2年3月1日) 高句麗(大使宴子抜・小使若徳)と百済(大使恩率素子・小使徳率武徳)が各々使者を遣わして朝貢する
・630年(舒明天皇2年8月5日) 遣唐使(大使犬上御田鍬・薬師恵日ら)を派遣する
・630年(舒明天皇2年10月12日) 飛鳥岡本宮(現在の奈良県明日香村)に遷る
・631年(舒明天皇3年3月1日) 百済の義慈王が王子の豊章を質として送る
・631年(舒明天皇3年9月) 有間温泉に行幸する
・631年(舒明天皇3年12月) 有間温泉から帰る
・632年(舒明天皇4年8月) 唐が高表仁を派遣し、犬上御田鍬らを送る
・632年(舒明天皇4年10月4日) 唐の高表仁が難波津に到着する
・633年(舒明天皇5年1月26日) 高表仁が唐へ戻る(「與王子爭禮 不宣朝命而還」『旧唐書』)
・633年(舒明天皇5年) 物部兄麻呂を武蔵国造に任じたという(『聖徳太子伝暦』)。
・634年(舒明天皇6年1月15日) 豊浦寺(明日香村)に塔の心柱を建てる(『聖徳太子伝暦』)
・636年(舒明天皇8年6月) 岡本宮が火災に遭い、田中宮(現在の橿原市田中町)に遷る
・636年(舒明天皇8年) 旱魃・飢饉が起こる
・637年(舒明天皇9年) 蝦夷が反乱したため、上毛野形名を将軍として討たせる
・638年(舒明天皇10年) 福亮僧正が法起寺金堂(斑鳩町)を建立するという(『法起寺塔露盤銘』)
・639年(舒明天皇11年7月) 詔して、百済川の辺に大宮と大寺(現在の桜井市吉備?)を造らせる
・639年(舒明天皇11年12月) 伊予温泉に行幸する
・639年(舒明天皇11年12月) 百済大寺の九重塔が建つ
・640年(舒明天皇12年4月) 伊予から帰り、厩坂宮(現在の橿原市大軽町付近)に滞在する
・640年(舒明天皇12年10月) 百済宮に遷る
・641年(舒明天皇13年10月9日) 百済宮において、49歳?で亡くなる
・641年(舒明天皇13年10月18日) 宮の北に殯をする

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 今日は、飛鳥時代の684年(天武天皇13)に、「八色の姓(やくさのかばね)」を制定した日ですが、新暦では11月13日となります。
 八色の姓(やくさのかばね)は、天武天皇が制定した姓制度で、「はっしきのせい」、「はっしきのかばね」とも呼ばれてきました。従来の姓制度を改めて、新たに①真人(まひと)、②朝臣(あそみ)、③宿禰(すくね)、④忌寸(いみき)、⑤道師(みちのし)、⑥臣(おみ)、⑦連(むらじ)、⑧稲置(いなき)の順に、八姓(はっせい)を定め、家格の尊卑を明らかにすると同時に氏族を朝廷の統制のもとにおこうとしものです。
 皇室との親疎や政界での地位を規準に、継体朝以後の天皇を祖とする公姓の豪族に真人、皇別の諸氏に朝臣、臣・連姓の有力氏族に宿禰、帰化系氏族に忌寸、技芸を世襲する氏族に道師、宿禰にもれた旧来の臣・連姓の氏族に臣と連、もとの稲置姓の氏族に稲置をそれぞれ与えられたとされますが、道師は実例がなくはっきりしていません。
 以下に、『日本書紀』巻第29の天武天皇13年の条に載っている、「八色の姓」制定の部分を掲載(現代語訳付)しておきますので、ご参照下さい。

〇『日本書紀』巻第29で姓を与えたことが確認できる記事

・683年(天武12年9月23日) 倭直など38氏に連の姓を授ける。
・684年(天武13年10月1日) 守山公・路公・高橋公・三国公・当麻公・茨城公・丹比公・猪名公・坂田公・息長公・羽田公・酒人公・山道公の13氏に真人の姓を授ける。
・684年(天武13年11月1日) 大三輪君など52氏に朝臣の姓を授ける。
・684年(天武13年12月2日) 大伴連など50氏に宿禰の姓を授ける。
・685年(天武14年6月20日) 大和連など11氏に忌寸の姓を授ける。

〇『日本書紀』巻第29 天武天皇13年の条

<原文>

 冬十月己卯朔、詔曰、更改諸氏之族姓、作八色之姓、以混天下萬姓。一曰眞人、二曰朝臣、三曰宿禰、四曰忌寸、五曰道師、六曰臣、七曰連、八曰稻置。是日、守山公・路公・高橋公・三国公・當麻公・茨城公・丹比公・猪名公・坂田公・羽田公・息長公・酒人公・山道公、十三氏賜姓曰眞人。

<読み下し文>

 冬十月己卯朔、詔して日く、「また諸の氏の族姓を改めて、八色の姓を作りて、天下の万姓を混す。一に日く、真人、二に日く、朝臣、三に日く、宿禰、四に日く、忌寸、五に日く、道師、六に日く、臣、七に日く、連、八に日く、稲置」。是の日に、守山公・路公・高橋公・三国公・當麻公・茨城公・丹比公・猪名公・坂田公・羽田公・息長公・酒人公・山道公、十三氏に姓を賜ひて真人と日う。

<現代語訳>

 冬10月1日。(天武天皇は)詔の中で次のように言いました。「さらに諸々の氏族の族姓(かばね)を改めて、八色の姓を作って、天下のすべての姓を統一する。一番目は真人(まひと)、二番目は朝臣(あそみ)、三番目は宿禰(すくね)、四番目は忌寸(いみき)、五番目は道師(みちのし)、六番目は臣(おみ)、七番目は連(むらじ)、八番目は稲置(いなぎ)」。この日に、守山公(もりやまのきみ)・路公(みちのきみ)・高橋公(たかはしのきみ)・三国公(みくにのきみ)・当麻公(たきまのきみ)・茨城公(うまらきのきみ)・丹比公(たじひのきみ)・猪名公(いなのきみ)・坂田公(さかたのきみ)・羽田公(はたのきみ)・息長公(いきながのきみ)・酒人公(さかひとのきみ)・山道公(やまじのきみ)の13氏に姓を与えて真人と言うようになりました。

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