ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:音楽評論家

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 今日は、大正時代の1913年(大正2)に、音楽評論家・随筆家吉田秀和が生まれた日です。
 吉田秀和(よしだ ひでかず)は、東京市日本橋区新和泉町(現在の東京都中央区日本橋人形町)において、外科の開業医だった父・吉田秀、母・雪の子として生まれました。1922年(大正11)の暮に大森へ移住、1925年(大正14)には、父親が北海道小樽の病院の院長に就任したために、一家で小樽に転居します。
 1926年(大正15)に小樽市中学校へ入学し、伊藤整に英語を習い、1930年(昭和5)には、4年で修了して、旧制成城高等学校文科甲類(現在の成城大学)に入学して寮生活を送りました。在学中にドイツ語教師阿部六郎のもとで中原中也と知り合い、小林秀雄や大岡昇平とも交遊し、1933年(昭和8)には、東京帝国大学文学部フランス文学科へ入学します。
 1936年(昭和11)に卒業し、翌年には、中島健蔵の紹介で帝国美術学校(現在の武蔵野美術大学)に勤務しましたが、半年足らずで辞めて、自由が丘の姉の家に居候しました。その後、内務省地方局庶務係に勤務し、英独仏語の翻訳に従事、戦時中は井口基成の勧めで内閣情報局所管の日本音楽文化協会に出向しています。
 太平洋戦争後の1946年(昭和21)に、「音楽芸術」に『モーツアルト』を連載、1948年(昭和23)には、斎藤秀雄らと桐朋学園大音楽学部の母体となる「子供のための音楽教室」を開設、初代室長となりました。1953年(昭和28)に初の評論集『主題と変奏』を刊行、欧米を回り、多くの作曲家や演奏家の生の姿にふれて交流を広げます。
 1957年(昭和32)に日本の前衛作曲家たちが大同団結した「二十世紀音楽研究所」を設立し、所長となりました。1967年(昭和42)に西ベルリンの芸術家や文化人の招聘プロジェクトに選ばれ、同市に滞在し、1971年(昭和46)からNHK-FM放送で『名曲のたのしみ』の番組構成・司会を担当するようになります。
 日本の音楽評論家として初の個人全集を刊行し、1975年(昭和50)に『吉田秀和全集』(第一期10巻)で、第2回大佛次郎賞を受賞しました。1982年(昭和57)に紫綬褒章を受章、1988年(昭和63)には、水戸芸術館初代館長となり、専属楽団として水戸室内管弦楽団を創設、勲三等瑞宝章を受章、第39回NHK放送文化賞を受賞します。
 1990年(平成2)に、すぐれた芸術評論に贈られる「吉田秀和賞」(吉田秀和芸術振興基金主催)を創設、「わが国における音楽批評の確立」で、朝日賞を受賞、第39回神奈川文化賞を受賞、1993年(平成5)には、『マネの肖像』で、第44回読売文学賞を受賞しました。さらに、1996年(平成8)に文化功労者となり、2004年(平成16)に『吉田秀和全集』全24巻が完結、水戸市文化栄誉賞を受賞、2006年(平成18)には、文化勲章も受章します。
 2007年(平成19)に鎌倉市名誉市民、水戸市名誉市民となったものの、2012年(平成24)5月22日に、東京において、急性心不全のため98歳で亡くなり、従三位を追贈されました。

〇吉田秀和の主要な著作

・『主題と変奏』(1953年)
・『二十世紀の音楽』(1957年)
・『音楽紀行』(1957年)
・『モーツアルト』(1970年)
・『マネの肖像』(1993年)第44回読売文学賞受賞

☆吉田秀和関係略年表

・1913年(大正2)9月23日 東京市日本橋区新和泉町(現在の東京都中央区日本橋人形町)において、外科の開業医だった父・吉田秀、母・雪の子として生まれる
・1922年(大正11) 暮に大森へ移住する
・1925年(大正14) 小学校6年の秋 父親が北海道小樽の病院の院長に就任したために、一家で小樽に転居する
・1926年(大正15) 小樽市中学校へ入学する
・1930年(昭和5) 小樽市中学校を4年で修了し、旧制成城高等学校文科甲類(現在の成城大学)に入学して寮生活を送る
・1933年(昭和8) 東京帝国大学文学部フランス文学科へ入学する
・1936年(昭和11) 東京帝国大学文学部フランス文学科を卒業する
・1937年(昭和12) 中島健蔵の紹介で帝国美術学校(現在の武蔵野美術大学)に勤務する
・1938年(昭和13) 帝国美術学校を辞め、自由が丘の姉の家に居候する
・1942年(昭和17) ローベルト・A.シューマンの『音楽と音楽家』を翻訳する
・1946年(昭和21) 「音楽芸術」に『モーツアルト』を連載する
・1948年(昭和23) 斎藤秀雄らと桐朋学園大音楽学部の母体となる「子供のための音楽教室」を開設、初代室長となる
・1953年(昭和28) 初の評論集『主題と変奏』を刊行、欧米を回り、多くの作曲家や演奏家の生の姿にふれて交流を広げる
・1957年(昭和32) 日本の前衛作曲家たちが大同団結した「二十世紀音楽研究所」を設立し、所長となる
・1964年(昭和39) 京都で、バルバラ=クラフト(Barbara Krafft)と再婚する
・1967年(昭和42) 西ベルリンの芸術家や文化人の招聘プロジェクトに選ばれ、同市に滞在する
・1971年(昭和46) NHK-FM放送で『名曲のたのしみ』の番組構成・司会を担当する
・1975年(昭和50) 『吉田秀和全集』(第一期10巻)で、第2回大佛次郎賞を受賞する
・1982年(昭和57) 紫綬褒章を受章する
・1988年(昭和63) 水戸芸術館初代館長となり、専属楽団として水戸室内管弦楽団を創設、勲三等瑞宝章を受章、第39回NHK放送文化賞を受賞する
・1990年(平成2) すぐれた芸術評論に贈られる「吉田秀和賞」(吉田秀和芸術振興基金主催)を創設、「わが国における音楽批評の確立」で、朝日賞を受賞、第39回神奈川文化賞を受賞する
・1993年(平成5) 『マネの肖像』で、第44回読売文学賞を受賞する
・1996年(平成8) 文化功労者となる
・2004年(平成16) 『吉田秀和全集』全24巻が完結、水戸市文化栄誉賞を受賞する
・2006年(平成18) 文化勲章を受章する
・2007年(平成19) 鎌倉市名誉市民、水戸市名誉市民となる
・2012年(平成24)5月22日 東京において、急性心不全のため98歳で亡くなり、従三位を追贈される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

785年(延暦4)長岡京造営中に、藤原種継暗殺事件が起きる(新暦10月30日)詳細
1557年(天正5)手取川の戦いで、上杉謙信軍が織田信長軍に大勝する(新暦11月3日)詳細
1790年(寛政2)前句付点者柄井川柳の命日(新暦10月30日)詳細
1832年(天保3)儒学者・詩人頼山陽の命日詳細
1871年(明治4)思想家・社会運動家幸徳秋水の誕生日(新暦11月5日)詳細
1884年(明治17)自由民権運動激化事件の一つ、加波山事件が起きる詳細
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kawakamitetsutarou01

 今日は、昭和時代後期の1980年(昭和55)に、文芸評論家・音楽評論家河上徹太郎の亡くなった日です。
 河上徹太郎(かわかみ てつたろう)は、1902年(明治35)1月8日に、父の赴任先の長崎県長崎市で、日本郵船の造船工学技師だった父・河上邦彦の子として生まれました。旧制第一高等学校を経て、1923年(大正12)に東京帝国大学経済学部に入学、翌年に「月刊楽譜」誌に音楽評論「音楽に於ける作品美と演奏美」を発表します。
 在学中に小林秀雄を知り、雑誌「山繭」に『音楽と自然』(1925年)を発表しました。大学卒業後、1929年(昭和4)に中原中也、大岡昇平らと同人雑誌「白痴群」を創刊、編輯人となり、翌年「レオナルド・ダ・ヴィンチ方法論序説」を訳出、1930年(昭和5)には同人雑誌「作品」を創刊して同人となり、「自然人と純粋人」を発表するなどし、1932年(昭和7)の第一評論集『自然と純粋』によって文壇に認められます。
 フランス象徴主義の影響下に純粋自我という批評原理を確立、小林秀雄とならんで近代批評の先駆者とされました。音楽評論では、『楽壇解消論』(1933年)で物議をかもし、 L.シェストフの『悲劇の哲学』を阿部六郎と共訳(1934年) して、シェストフ的不安の流行のきっかけとなります。
 1937年(昭和12)に「文學界」編集の主担当となり、1942年(昭和17)には、日本文学報国会評論部門幹事長に就任し、やがて審査部長となりました。太平洋戦争後は、敗戦直後の解放状況を批判した『配給された自由』(1945年)でも物議を醸しながらも、文芸評論を書き続け、自伝的エッセイ『私の詩と真実』(1953年)で第5回読売文学賞・文芸評論賞、『日本のアウトサイダー』(1958~59年)で第6回新潮社文学賞、『吉田松陰 武と儒による人間像』(1966~68年)で第21回野間文芸賞を受賞するなどしています。
 また、1961年(昭和36)に日本芸術院賞、1963年(昭和38)に日本芸術院会員、1972年(昭和47)に文化功労者となるなど数々の栄誉にも輝きました。しかし、1980年(昭和55)9月22日に、東京築地の国立がんセンターにおいて、肺癌のため78歳で亡くなっています。

〇河上徹太郎の主要な著作

・『音楽と自然』(1925年)
・『ヴェルレーヌの愛国詩』(1929年)
・第一評論集『自然と純粋』(1932年)
・『楽壇解消論』(1933年)
・翻訳『悲劇の哲学』L.シェストフ作 を阿部六郎と共訳(1934年)
・『音楽と文化』(1938年)
・『配給された自由』(1945年)
・『ドン・ジョヴァンニ』(1951年)
・自伝的エッセイ『私の詩と真実』(1953年)第5回読売文学賞・文芸評論賞受賞
・『日本のアウトサイダー』(1958~59年)第6回新潮社文学賞受賞
・『吉田松陰 武と儒による人間像』(1966~68年)第21回野間文芸賞受賞
・『有愁日記』(1971年)第3回日本文学大賞受賞

☆河上徹太郎関係略年表

・1902年(明治35)1月8日 長崎県長崎市で、日本郵船の造船工学技師だった父・河上邦彦の子として生まれる
・1908年(明治41) 神戸市立諏訪山小学校に入学する
・1914年(大正3) 旧制兵庫県立第一神戸中学校に入学する
・1916年(大正5) 旧制東京府立第一中学校に編入学する
・1919年(大正8) 旧制第一高等学校文科甲類に入学する
・1920年(大正9) 休学してピアノを習う
・1923年(大正12) 東京帝国大学経済学部に入学する
・1924年(大正13) 「月刊楽譜」誌に音楽評論「音楽に於ける作品美と演奏美」を発表する
・1925年(大正14) 雑誌「山繭」に『音楽と自然』を発表する
・1926年(大正15) 東京帝国大学経済学部卒業後、3ヶ月のみ東京帝国大学文学部美学科に在籍する
・1927年(昭和2)10月 諸井三郎らと7名で「樂團スルヤ」を結成する
・1929年(昭和4)4月 同人雑誌「白痴群」を創刊、編輯人となる
・1929年(昭和4)6月 「白痴群」2号にヴァレリー「レオナルド・ダ・ヴィンチ方法論序説」を訳出する
・1930年(昭和5)5月 同人雑誌「作品」を創刊、同人となる
・1930年(昭和5)6月、「作品」2号に「自然人と純粋人」を発表する
・1930年(昭和5)8月、「作品」に「羽左衞門の死と變貌についての對話」を発表する
・1931年(昭和6) 英国から帰った吉田健一が親戚の病気見舞に行き、河上と識る
・1933年(昭和8) 「改造」3月号に「樂壇解消論」を発表。物議をかもす
・1934年(昭和9) シェストフ『悲劇の哲學』のドストエフスキイを分担翻訳し公刊する
・1935年(昭和10)6月 ヴェルレーヌ『叡智』を訳出する
・1936年(昭和11) 「文學界」1月号より同人に参加する
・1937年(昭和12)12月 「文學界」編集の主担当となる
・1938年(昭和13) 「文學界」1月号が発禁処分に会う
・1938年(昭和13)12月 『音樂と文化』を刊行する
・1940年(昭和15)1月 「婦人公論」に「新聖書講義」の連載を開始する
・1940年(昭和15)7月 『道徳と教養』を刊行する
・1942年(昭和17)5月 日本文学報国会評論部門幹事長に就任し、やがて審査部長となる
・1942年(昭和17)10月 反西洋的なシンポジウム「近代の超克」に司会の立場で参加する
・1943年(昭和18)8月 雑誌「批評」同人に参加する
・1945年(昭和20)10月 東京新聞へ「配給された自由」を執筆する
・1947年(昭和22)11月 神奈川県川崎市片平に居を定める
・1950年(昭和25)9月 郷里岩国の錦帯橋の流出を折から帰省中で見る
・1952年(昭和27)2月 初めて放送(JOKR)で、ピアノの演奏を披露する
・1953年(昭和28)8月~9月 英国外務省の招きで福原麟太郎、池島信平、吉田健一と共に本人初の渡英する
・1954年(昭和29) 自伝的エッセイ『私の詩と真実』で、第5回読売文学賞・文芸評論賞を受賞する
・1960年(昭和35) 『日本のアウトサイダーで、第6回新潮社文学賞を受賞する
・1961年(昭和36) 日本芸術院賞を受賞する
・1962年(昭和37)7月 「吉田松陰 明治維新の再評價」を発表する
・1963年(昭和38) 日本芸術院会員となる
・1968年(昭和43) 『吉田松陰 武と儒による人間像』により第21回野間文芸賞を受賞する
・1971年(昭和46) 『有愁日記』で第3回日本文学大賞を受賞する
・1972年(昭和47)10月 文化功労者となる
・1972年(昭和47)12月 岩国市名誉市民に選出される
・1977年(昭和52)2月 『歴史の跫音』を刊行する
・1977年(昭和52)3月 『わがドストイエフスキー』を刊行する
・1980年(昭和55)9月22日 東京築地の国立がんセンターにおいて、肺癌のため78歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1311年(応長元)鎌倉幕府第10代執権北條師時の命日(新暦11月3日)詳細
1868年(明治元)戊辰戦争で鶴ヶ城が開城され、会津藩が新政府軍に降伏する(新暦11月6日)詳細
1968年(昭和43)第3宮古島台風により宮古島で最大瞬間風速79.8mを記録する詳細
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