ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:電気通信工学者

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 今日は、昭和時代後期の1976年(昭和51)に、電気通信工学者・大阪大学総長・八木アンテナ社長・参議院議員八木秀次が亡くなった日です。
 八木秀次(やぎ ひでつぐ)は、明治時代前期の1886年(明治19)1月28日に、大阪府大阪市東区北浜4丁目において、両替商を営む父・八木忠兵衛、母・みちの三男として生まれました。1903年(明治36)に、北野中学を首席で卒業し、第三高等学校理科に入学します。
 在学中に無線に興味を持ち、1909年(明治42)に卒業、仙台高等工業学校電気科講師となったものの、一年志願兵として中野電信隊に入営しました。1910年(明治43)に陸軍工兵軍曹を経て、仙台高等工業学校電気科教授となります。
 1913年(大正2)に欧米留学し、ドレスデン工科専門大学(現・ドレスデン工科大学)のバルクハウゼン教授に師事、翌年にスイス滞在中、第一次世界大戦が勃発したため、留学地をイギリスに移し、ユニバーシティカレッジのフレミング教授の下で実験研究に従事、1915年(大正4)には、渡米し、ハーバード大学のピアス(英語版)教授に師事しました。1916年(大正5)に欧米留学より帰国、1919年(大正8)には、東北帝国大学工学部教授となり、工学博士の学位を取得します。
 1924年(大正13)に東北帝国大学工学部長となり、1925年(大正14)には、八木・宇田アンテナの基礎理論を提案、翌年には特許(特許第69115号)を取得しました。1929年(昭和4)に東北帝国大学工学部長となり、1931年(昭和6)には、大阪帝国大学理学部創立委員を受諾、翌年に設立された大阪帝国大学理学部の教授を兼任します。
 1936年(昭和11に東北帝国大学教授を退官して、大阪帝国大学の専任となり、翌年には電気通信学会会長となりました。1939年(昭和14)に大阪帝国大学理学部長となり、1940年(昭和15)に電気学会会長、1942年(昭和17)には、東京工業大学学長に就任します。
 1943年(昭和18)に日本音響学会会長、1944年(昭和19)には、内閣技術院総裁に就任しました。太平洋戦争後の1945年(昭和20)に戦争調査会の第五部会(科学技術)の部会長に任命され、勲一等瑞宝章を受章します。
 1946年(昭和21)に大阪帝国大学総長に就任したものの、GHQの公職追放者指定を受けて辞職、日本アマチュア無線連盟会長に就任しました。1951年(昭和26)に日本学士院会員に選任され、大阪大学名誉教授、民主社会主義連盟会長に就任、藍綬褒章を受章します。
 1952年(昭和27)に八木アンテナ株式会社社長に就任、翌年の第3回参議院議員選挙に全国区から右派社会党公認で出馬して補欠当選(3年任期)しました。1955年(昭和30)に五島慶太に請われて武蔵工業大学学長に就任、1956年(昭和31)の第4回参議院議員選挙で落選、文化勲章を受章します。
 1957年(昭和32)に日本経営管理士会(現・日本経営管理協会)第2代会長に就任、1958年(昭和33)には、デンマーク工学アカデミー「プールゼン金牌(英語版)」、1962年(昭和37)には、第2回モントルー国際テレビジョンシンポジウム(スイス開催)表彰を受けました。1974年(昭和49)に東北大学名誉教授となりましたが、1976年(昭和51)1月19日に、東京において、89歳で亡くなり、従二位と旭日大綬章を追贈されています。
 八木‐宇田アンテナの発明、指向性超短波空中線方式、高周波光力変調方式など通信工学の業績が大きかったので、1985年(昭和60)には、特許制度制定百周年を記念して人選された「日本の十大発明家」の一人に選ばれました。

〇八木秀次の主要な著作

・『八木秀次随筆集』
・『技術人夜話』

☆八木秀次関係略年表

・1886年(明治19)1月28日 大阪府大阪市東区北浜4丁目において、両替商を営む父・八木忠兵衛、母・みちの三男として生まれる
・1903年(明治36) 北野中学を首席で卒業し、第三高等学校理科に入学する
・1906年(明治39) 東京帝国大学工科大学電気工学科に入学する
・1909年(明治42) 東京帝国大学工科大学電気工学科を卒業、仙台高等工業学校電気科講師、一年志願兵として中野電信隊に入営する
・1910年(明治43) 陸軍工兵軍曹、仙台高等工業学校電気科教授となる
・1913年(大正2) ドイツ留学し、ドレスデン工科専門大学(現・ドレスデン工科大学)のバルクハウゼン教授に師事する
・1914年(大正3) スイス滞在中に第一次世界大戦が勃発したため、留学地をイギリスに移し、ユニバーシティカレッジのフレミング教授の下で実験研究に従事する
・1915年(大正4) 渡米し、ハーバード大学のピアス(英語版)教授に師事する
・1916年(大正5) 欧米留学より帰国する
・1919年(大正8) 東北帝国大学工学部教授となり、工学博士の学位を取得、安部恒子と結婚する
・1923年(大正12) 正五位となる
・1924年(大正13) 東北帝国大学工学部長となり、勲四等瑞宝章を受章する
・1925年(大正14) 八木・宇田アンテナの基礎理論を提案、指向性短波アンテナの特許を単独名で出願する
・1926年(大正15) 八木・宇田アンテナを特許化(特許第69115号)する
・1928年(昭和3) 従四位となり、勲三等瑞宝章を受章する
・1929年(昭和4) 東北帝国大学工学部長となる
・1931年(昭和6) 大阪帝国大学理学部物理学科の初代主任教授就任を打診されて、一度は断るものの、再度の依嘱により諾意、理学部創立委員を受諾する
・1932年(昭和7) 大阪帝国大学理学部創立委員が正式に決まり、創立委員会が開かれる。10月に大阪帝国大学教授を兼任する
・1933年(昭和8) 正四位となる
・1934年(昭和9) 大阪帝国大学教授兼東北帝国大学教授として更任する
・1935年(昭和10) 勲二等瑞宝章を受章する
・1936年(昭和11) 依願免兼官により、東北帝国大学教授を退官して、大阪帝国大学の専任となる
・1937年(昭和12) 電気通信学会会長となる
・1938年(昭和13) 従三位となる
・1939年(昭和14) 大阪帝国大学理学部長となる
・1940年(昭和15) 電気学会会長となる
・1942年(昭和17) 東京工業大学学長に就任する
・1943年(昭和18) 日本音響学会会長。10月に興亜工業大学(現・千葉工業大学)の顧問(顧問教授)の本多光太郎の後任として、同大学の相談役に就任する
・1944年(昭和19) 内閣技術院総裁に就任、正三位となる
・1945年(昭和20) 宮中講書始洋書進講、戦争調査会の第五部会(科学技術)の部会長に任命され、勲一等瑞宝章を受章する
・1946年(昭和21) 大阪帝国大学総長に就任するも、GHQの公職追放者指定を受けて辞職、日本アマチュア無線連盟会長に就任する
・1951年(昭和26) 日本学士院会員に選任され、大阪大学名誉教授、民主社会主義連盟会長に就任、藍綬褒章を受章する
・1952年(昭和27) 八木アンテナ株式会社社長に就任する
・1953年(昭和28) 第3回参議院議員選挙に全国区から右派社会党公認で出馬して51位で補欠当選(3年任期)する
・1955年(昭和30) 五島慶太に請われて武蔵工業大学(現・東京都市大学)学長に就任する
・1956年(昭和31) 第4回参議院議員選挙で落選、文化勲章を受章する
・1957年(昭和32) 日本経営管理士会(現・日本経営管理協会)第2代会長に就任する
・1958年(昭和33) デンマーク工学アカデミー「プールゼン金牌(英語版)」を受賞する
・1960年(昭和35) 八木アンテナ株式会社社長を辞める
・1962年(昭和37) 第2回モントルー国際テレビジョンシンポジウム(スイス開催)表彰を受ける
・1974年(昭和49) 東北大学名誉教授となる
・1976年(昭和51)1月19日 東京において、89歳で亡くなり、従二位と旭日大綬章を追贈される
・1985年(昭和60) 特許制度制定百周年を記念して人選された「日本の十大発明家」の一人に選ばれる
・1995年(平成7) IEEE(米国電気電子学会)によって八木・宇田アンテナ発明を顕彰するIEEEマイルストーンが、東北大学に設置される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

823年(弘仁14)嵯峨天皇から空海が教王護国寺(東寺)を下賜される(新暦3月5日)詳細
1926年(大正15)共同印刷の労働組合がにストライキを決議し、争議に突入する(共同印刷争議)詳細
1945年(昭和20)小磯国昭内閣により、「空襲対策緊急強化要綱」が閣議決定される詳細
1946年(昭和21)GHQが極東国際軍事裁判所の設置を命令、「極東国際軍事裁判所条例」が制定される詳細
1960年(昭和35)「新日米安全保障条約」に調印する詳細
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 今日は、明治時代後期の1899年(明治32)に、電気通信工学者・工学博士古賀逸策の生まれた日です。
 古賀逸策(こが いっさく)は、佐賀県三養基郡田代村(現在の鳥栖市)で生まれ、熊本中学校、第五高等学校を経て、東京帝国大学工学部へ入学しました。1923年(大正12)に同大学工学部電気工学科を卒業後、大学院に進み、東京市電気研究所の嘱託となります。
 1925年(大正14)に東京市の技師に任命されると共に大学院を退学、1929年(昭和4)には、東京工業大学設立と同時に助教授となりました。1930年(昭和5)に、東京帝国大学より工学博士が授与され、1932年(昭和7)に従来型より温度係数がはるかに小さいR1カット式水晶振動子を発明、翌年には特許を取得します。
 1937年(昭和12)に周波数逓降器を水晶発振器と組み合わせ、東京天文台の水晶時計を製作、1939年(昭和14)には、東京工業大学の教授となりました。1944年(昭和19)に東京大学教授(併任)となり、毎日通信賞および技術院賞、翌年には、服部報公会賞を受賞します。
 1947年(昭和22)に電気通信学会会長となり、1948年(昭和23)には、水晶発振器の基礎理論と応用についての業績で、日本学士院賞を受賞しました。1954年(昭和29)にNHK放送文化賞受賞、1956年(昭和31)に紫綬褒章受章、1957年(昭和32)には、電波技術審議会の委員となります。
 1958年(昭和33)に東京工業大学を退任、東京大学工学部長となり、1960年(昭和35)には、東京大学を退任し、同大学名誉教授と東京工業大学名誉教授となりました。1961年(昭和36)に国語審議会委員、1962年(昭和37)に郵政大臣賞(電波功労者)受賞、1963年(昭和38)には、文化勲章も受章します。
 1967年(昭和42)に中央教育審議会委員、1970年(昭和45)には、勲一等瑞宝章受章、電波監理審議会の会長となりました。1976年(昭和51)に学士院会員ともなりましたが、1982年(昭和57)9月2日に、東京において、82歳で亡くなっています。

〇古賀逸策の主要な著作

・『圧電気と高周波:新興基礎電気工学講座』第10巻(1937年)
・『圧電気と高周波』(1938年)
・『誰にも出来る : ラジオの故障修理』(1947年)
・『1万分の1直角きざみ10ケタ三角函数表』(1960年)

☆古賀逸策関係略年表

・1899年(明治32)12月5日 佐賀県三養基郡田代村(現在の鳥栖市)で生まれる
・1923年(大正12) 東京帝国大学工学部電気工学科を卒業、大学院に進み、東京市電気研究所の嘱託となる
・1925年(大正14) 東京市の技師に任命されると共に大学院を退学する
・1929年(昭和4) 東京工業大学設立と同時に助教授となる
・1930年(昭和5) 学術論文(古賀 1930)を修め、東京帝国大学より工学博士が授与される
・1932年(昭和7) 従来型より温度係数がはるかに小さいR1カット式水晶振動子を発明する
・1933年(昭和8)2月21日 R1カット式水晶振動子で特許(99670号)を取得する
・1934年(昭和9) 電気学会より浅野博士記念祝金を受ける
・1937年(昭和12) 周波数逓降(ていこう)器を水晶発振器と組み合わせ、東京天文台の水晶時計を製作する
・1939年(昭和14) 東京工業大学の教授となる
・1944年(昭和19) 東京大学教授(併任)となり、毎日通信賞および技術院賞を受賞する
・1945年(昭和20) 服部報公会賞を受賞する
・1947年(昭和22) 電気通信学会会長となる 
・1948年(昭和23) 水晶発振器の基礎理論と応用についての業績で、日本学士院賞を受賞する
・1950年(昭和25) 電気通信学会通信功績賞を受賞する
・1951年(昭和26) 放送技術審議会委員となり、電気通信大臣表彰を受ける
・1954年(昭和29) NHK放送文化賞を受賞する
・1956年(昭和31) 紫綬褒章を受章、東京大学評議員となる
・1957年(昭和32) 電波技術審議会の委員となる
・1958年(昭和33) 東京工業大学を退任、東京大学工学部長となる
・1960年(昭和35) 東京大学を退任し、同大学名誉教授と東京工業大学名誉教授となる
・1961年(昭和36) 国語審議会委員となる
・1962年(昭和37) 郵政大臣賞(電波功労者)を受賞する
・1963年(昭和38) 文化勲章を受章、電波監理審議会の委員となる
・1964年(昭和39) 電気通信学会名誉員となる
・1965年(昭和40) 電気学会名誉員となる
・1967年(昭和42) 中央教育審議会委員となる
・1970年(昭和45) 勲一等瑞宝章を受章、電波監理審議会の会長となる
・1976年(昭和51) 学士院会員となる
・1982年(昭和57)9月2日 東京において、82歳で亡くなる
・2011年(平成23) 電気学会より「第4回でんきの礎」の顕彰をうける

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

603年(推古天皇11)日本最初の位階制度である冠位十二階が制定される(新暦604年1月11日)詳細
1903年(明治36)物理学者長岡半太郎が原子模型の理論を発表する詳細
1912年(大正元)映画監督・脚本家木下惠介の誕生日詳細
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