
在学中に無線に興味を持ち、1909年(明治42)に卒業、仙台高等工業学校電気科講師となったものの、一年志願兵として中野電信隊に入営しました。1910年(明治43)に陸軍工兵軍曹を経て、仙台高等工業学校電気科教授となります。
1913年(大正2)に欧米留学し、ドレスデン工科専門大学(現・ドレスデン工科大学)のバルクハウゼン教授に師事、翌年にスイス滞在中、第一次世界大戦が勃発したため、留学地をイギリスに移し、ユニバーシティカレッジのフレミング教授の下で実験研究に従事、1915年(大正4)には、渡米し、ハーバード大学のピアス(英語版)教授に師事しました。1916年(大正5)に欧米留学より帰国、1919年(大正8)には、東北帝国大学工学部教授となり、工学博士の学位を取得します。
1924年(大正13)に東北帝国大学工学部長となり、1925年(大正14)には、八木・宇田アンテナの基礎理論を提案、翌年には特許(特許第69115号)を取得しました。1929年(昭和4)に東北帝国大学工学部長となり、1931年(昭和6)には、大阪帝国大学理学部創立委員を受諾、翌年に設立された大阪帝国大学理学部の教授を兼任します。
1936年(昭和11に東北帝国大学教授を退官して、大阪帝国大学の専任となり、翌年には電気通信学会会長となりました。1939年(昭和14)に大阪帝国大学理学部長となり、1940年(昭和15)に電気学会会長、1942年(昭和17)には、東京工業大学学長に就任します。
1943年(昭和18)に日本音響学会会長、1944年(昭和19)には、内閣技術院総裁に就任しました。太平洋戦争後の1945年(昭和20)に戦争調査会の第五部会(科学技術)の部会長に任命され、勲一等瑞宝章を受章します。
1946年(昭和21)に大阪帝国大学総長に就任したものの、GHQの公職追放者指定を受けて辞職、日本アマチュア無線連盟会長に就任しました。1951年(昭和26)に日本学士院会員に選任され、大阪大学名誉教授、民主社会主義連盟会長に就任、藍綬褒章を受章します。
1952年(昭和27)に八木アンテナ株式会社社長に就任、翌年の第3回参議院議員選挙に全国区から右派社会党公認で出馬して補欠当選(3年任期)しました。1955年(昭和30)に五島慶太に請われて武蔵工業大学学長に就任、1956年(昭和31)の第4回参議院議員選挙で落選、文化勲章を受章します。
1957年(昭和32)に日本経営管理士会(現・日本経営管理協会)第2代会長に就任、1958年(昭和33)には、デンマーク工学アカデミー「プールゼン金牌(英語版)」、1962年(昭和37)には、第2回モントルー国際テレビジョンシンポジウム(スイス開催)表彰を受けました。1974年(昭和49)に東北大学名誉教授となりましたが、1976年(昭和51)1月19日に、東京において、89歳で亡くなり、従二位と旭日大綬章を追贈されています。
八木‐宇田アンテナの発明、指向性超短波空中線方式、高周波光力変調方式など通信工学の業績が大きかったので、1985年(昭和60)には、特許制度制定百周年を記念して人選された「日本の十大発明家」の一人に選ばれました。
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
823年(弘仁14) | 嵯峨天皇から空海が教王護国寺(東寺)を下賜される(新暦3月5日) | 詳細 | |||||
1926年(大正15) | 共同印刷の労働組合がにストライキを決議し、争議に突入する(共同印刷争議) | 詳細 | |||||
1945年(昭和20) | 小磯国昭内閣により、「空襲対策緊急強化要綱」が閣議決定される | 詳細 | |||||
1946年(昭和21) | GHQが極東国際軍事裁判所の設置を命令、「極東国際軍事裁判所条例」が制定される | 詳細 | |||||
1960年(昭和35) | 「新日米安全保障条約」に調印する | 詳細 | |||||