ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:電子工学者

inosehiroshi01
 今日は、平成時代の2000年(平成12)に、電子工学者猪瀬博が亡くなった日です。
 猪瀬博(いのせ ひろし)は、昭和時代前期の1927年(昭和2)1月5日に、東京市本郷区根津(現在の東京都文京区)において、生まれました。東京大学第二工学部電気工学科へ進み、1948年(昭和23)に卒業後、大学院特別研究員として電話交換機の研究を行います。
 1954年(昭和29)に東芝へ入社、電気通信学会秋山・志田記念賞を受賞、翌5年には、論文「電子管式擬似トラフィック装置に関する研究 」で、東京大学から工学博士を得、電気学会電気学術振興賞・論文賞を受賞しました。1956年(昭和31)に東京大学工学部助教授となり、1957年(昭和32)にペンシルベニア大学、AT&Tベル電話研究所に留学、翌年に帰国後、ディジタル交換機の研究を継続する一方で、東京都の交通渋滞の緩和を目的とした信号機制御システム開発に着手します。
 1961年(昭和36)には、東京大学工学部教授に昇任し、1962年(昭和37)と1967年(昭和42)に電気通信学会論文賞、1967年(昭和42)に電気通信学会論文賞、1968年(昭和43)に第5回松永賞(自然科学部門)、電気学会電気学術振興賞・論文賞を受賞しました。1969年(昭和44)にミシガン大学客員教授となり、1970年(昭和45)に電気学会電気学術振興賞・論文賞、1972年(昭和47)には、電子通信学会業績賞を受賞します。
 1974年(昭和49)に東京大学教育用計算機センター長(~1953年)となり、1975年(昭和50)に電子通信学会業績賞、1976年(昭和51)には、新技術開発財団市村賞・学術の部貢献賞、マルコーニ国際学術賞を受賞しました。1977年(昭和52)に東京大学大型計算機センター長(~1956年)となり、1979年(昭和54)には、論文「タイムスロット入替方式の研究」で、学士院賞を受賞します。
 1981年(昭和56)に情報処理学会会長、1983年(昭和58)に東京大学文献情報センター長、1984年(昭和59)には、経済協力開発機構(OECD)科学技術政策委員会議長と重責を担いました。1985年(昭和60)に電子通信学会会長、文化功労者、1986年(昭和61)には、東京大学工学部長となり、文部省学術情報センター初代センター長ともなります。
 1987年(昭和62)に東京大を学定年退官し、名誉教授となり、C&C賞、1988年(昭和63)に第39回NHK放送文化賞、1990年(平成2)には、アムステルダム市Blaeu賞を受賞しました。1991年(平成3)に文化勲章、1993年(平成5)にデータベース振興センター理事長、1994年(平成6)にIEEEアレクサンダー・グラハム・ベル・メダル、1996年(平成8)には、学術審議会会長、郵政省電波監理審議会会長、日本学士院会員となるなど数々の栄誉に輝きます。
 1997年(平成9)には、第1回エリクソン・テレコミュニケーション・アワードを得ましたが、2000年(平成12)10月11日に、東京において、心臓疾患により、73歳で亡くなりました。

〇猪瀬博の主要な著作

・『システムを創るエレクトロニクス』(1979年)
・『情報の世紀を生きて』(1987年)
・『文化としての科学技術を考える 』(1991年)
・軽部征夫との共著『バイオコミュニケーションの創造-万物を結びつける第三の情報技術-』(1991年)

☆猪瀬博関係略年表

・1927年(昭和2)1月5日 東京市本郷区根津(現在の東京都文京区)において、生まれる
・1948年(昭和23) 東京大学第二工学部電気工学科を卒業後、大学院特別研究員として電話交換機の研究を行う
・1954年(昭和29) 東芝へ入社、電気通信学会秋山・志田記念賞を受賞する
・1955年(昭和30) 論文「電子管式擬似トラフィック装置に関する研究 」で、東京大学から工学博士を得、電気学会電気学術振興賞・論文賞を受賞する 
・1956年(昭和31) 東京大学工学部助教授となる
・1957年(昭和32) ペンシルベニア大学、AT&Tベル電話研究所に留学(~1958年)する
・1958年(昭和33) 留学先から帰国、ディジタル交換機の研究を継続する一方で、東京都の交通渋滞の緩和を目的とした信号機制御システム開発に着手する
・1961年(昭和36) 東京大学工学部教授となる
・1962年(昭和37) 電気通信学会論文賞を受賞する
・1964年(昭和39) テレビジョン学会論文賞を受賞する
・1967年(昭和42) 電気通信学会論文賞を受賞する
・1968年(昭和43) 第5回松永賞(自然科学部門)、電気学会電気学術振興賞・論文賞を受賞する
・1969年(昭和44) ミシガン大学客員教授となる
・1970年(昭和45) 電気学会電気学術振興賞・論文賞を受賞する
・1972年(昭和47) 電子通信学会業績賞を受賞する
・1974年(昭和49) 東京大学教育用計算機センター長(~1953年)となる
・1975年(昭和50) 電子通信学会業績賞を受賞する
・1976年(昭和51) 新技術開発財団市村賞・学術の部貢献賞、マルコーニ国際学術賞を受賞する
・1977年(昭和52) 東京大学大型計算機センター長(~1956年)となる
・1979年(昭和54) 論文「タイムスロット入替方式の研究」で、学士院賞を受賞する
・1981年(昭和56) 情報処理学会会長となる
・1983年(昭和58) 東京大学文献情報センター長となる
・1984年(昭和59) 経済協力開発機構(OECD)科学技術政策委員会議長となる
・1985年(昭和60) 電子通信学会会長となり、文化功労者ともなる
・1986年(昭和61) 東京大学工学部長となり、文部省学術情報センター初代センター長ともなる
・1987年(昭和62) 東京大を学定年退官し、名誉教授となり、C&C賞を受賞する
・1988年(昭和63) 第39回NHK放送文化賞を受賞する
・1990年(平成2) アムステルダム市Blaeu賞を受賞する
・1991年(平成3) 文化勲章を受章する
・1993年(平成5) データベース振興センター理事長となる
・1994年(平成6) IEEEアレクサンダー・グラハム・ベル・メダルを得る
・1996年(平成8) 学術審議会会長に就任、郵政省電波監理審議会会長、日本学士院会員となる
・1997年(平成9) 第1回エリクソン・テレコミュニケーション・アワードを得る
・2000年(平成12)10月11日 東京において、心臓疾患により、73歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1231年(寛喜3)第83代の天皇とされる土御門天皇が、配流先の阿波国で亡くなる(新暦11月6日)詳細
1940年(昭和15)俳人種田山頭火の命日(一草忌)詳細
1945年(昭和20)幣原首相・マッカーサー会談で、GHQから「五大改革指令」が通達される詳細
1950年(昭和25)「新日本観光地百選」が毎日新聞紙上で発表される詳細
医学者三浦謹之助の命日詳細
2001年(平成13)日本画家秋野不矩の命日詳細
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

okabekinjirou01
 今日は、昭和時代後期の1984年(昭和59)に、電子工学者岡部金治郎の亡くなった日です。
 岡部金治郎(おかべ きんじろう)は、明治時代後期の1896年(明治29)3月27日に、愛知県名古屋市に生まれました。旧制愛知第5中学(現在の県立瑞陵高校)を経て、1916年(大正5)には、名古屋高等工業学校(現在の名古屋工業大学)紡織科を卒業します。
 1917年(大正6)に、高田商会大阪支店に入社しましたが、東北帝国大学理科大学助手となり、1918年(大正7)に、東北帝国大学理科大学物理科へ入学しました。翌年に、工学部電気工学科に転じ、1922年(大正11)には、卒業して、同大学講師となり、1925年(大正14)には、助教授に昇任します。
 1927年(昭和2) に“分割陽極マグネトロン”を開発し、実用に耐える極超短波の発生が初めて可能となり、無線通信界に一大センセーションをまき起こしました。1929年(昭和4)に、論文『「マグネトロン」ニ依ル不減衰超短波長電気振動ノ発生ニ関スル研究』 で、東北帝国大学より工学博士の学位を授与され、名古屋高等工業学校教授となります。
 1934年(昭和9)に名古屋高等工業学校教授を辞め、翌年には、大阪管を発明し、マイクロ波発生装置の開発とその機構解明に卓越した業績を残し、大阪帝国大学理学部助教授に就任しました。1936年(昭和11)に極超短波の研究で朝日文化賞を受賞、1939年(昭和14)には、教授に昇任し、日本の十大発明家選ばれ、昭和天皇より宮中賜餐の栄を受けます。
 1941年(昭和16)に日本学士院賞恩賜賞を受賞、大阪大学産業科学研究所教授となり、1944年(昭和19)には、文化勲章も受章しました。太平洋戦争後、1951年(昭和26)に同研究所所長となったものの、1955年(昭和30)に定年退官し、翌年には、大阪大学名誉教授となり、近畿大学教授に就任します。
 1966年(昭和41)に近畿大学九州工学部長となり、1969年(昭和44)には、勲一等瑞宝章を受章しました。1972年(昭和47)に近畿大学を辞めましたが、1984年(昭和59)4月8日には、愛知県において、老衰のため、88歳で亡くなっています。

〇岡部金治郎の主要な著作

・『特殊熱電子管』(1946年)
・『電子工学』(1948年)
・『超高周波』(1954年)
・『人間は死んだらどうなるか』(1971年)

☆岡部金治郎関係略年表

・1896年(明治29)3月27日 愛知県名古屋市に生まれる
・1916年(大正5) 名古屋高等工業学校(現在の名古屋工業大学)紡織科を卒業する
・1917年(大正6) 高田商会大阪支店に入社、東北帝国大学理科大学助手となる
・1918年(大正7) 東北帝国大学理科大学物理科入学する
・1919年(大正8) 東北帝国大学工学部電気工学科に入学する
・1922年(大正11) 東北帝国大学(現在の東北大学)工学部電気工学科を卒業し、講師となる
・1925年(大正14) 東北帝国大学助教授となる
・1927年(昭和2)  “分割陽極マグネトロン”を開発し、実用に耐える極超短波の発生が初めて可能となり、無線通信界に一大センセーションをまき起こす
・1929年(昭和4) 論文『「マグネトロン」ニ依ル不減衰超短波長電気振動ノ発生ニ関スル研究』 で、東北帝国大学より工学博士の学位を授与され、名古屋高等工業学校教授となる
・1934年(昭和9) 名古屋高等工業学校教授を辞める
・1935年(昭和10) 大阪管を発明し、マイクロ波発生装置の開発とその機構解明に卓越した業績を残し、大阪帝国大学理学部助教授に就任する
・1936年(昭和11) 極超短波の研究で朝日文化賞を受賞する
・1939年(昭和14) 大阪帝国大学教授に昇任、日本の十大発明家選ばれ、昭和天皇より宮中賜餐の栄を受ける
・1941年(昭和16) 日本学士院賞恩賜賞を受賞、大阪大学産業科学研究所教授となる
・1944年(昭和19) 文化勲章を受章する
・1951年(昭和26) 大阪大学産業科学研究所所長となる
・1955年(昭和30) 大阪大学産業科学研究所所長を定年退官する
・1956年(昭和31) 大阪大学名誉教授となり、近畿大学教授に就任する
・1966年(昭和41) 近畿大学九州工学部長を務める
・1969年(昭和44) 勲一等瑞宝章を受章する
・1972年(昭和47) 近畿大学教授を辞める
・1984年(昭和59)4月8日 愛知県において、老衰のため、88歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1896年(明治29)「移民保護規則」にかわり、「移民保護法」が公布(施行は6月1日)される詳細
1940年(昭和15)「国民体力法」が公布(施行は同年9月25日)される詳細
1942年(昭和17)政府の外郭団体としての財団法人大日本体育会が発足する詳細
1948年(昭和23)東宝争議(第3次)が勃発する詳細
1959年(昭和34)俳人・小説家高浜虚子の命日(椿寿忌)詳細
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

↑このページのトップヘ