ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:随筆家

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 今日は、明治時代中頃の1890年(明治23)に、新聞記者・紀行文作家・随筆家・小説家・日本研究家ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)が来日(横浜港着)した日です。
 小泉 八雲(こいずみ やくも)は、本名は、パトリック・ラフカディオ・ハーンといい、1850年6月27日に当時のイギリス領であったレフカダ島で生まれます。1852年、両親と共に父の家があるダブリンに移住し、幼少時代を過ごしました。
 フランス・イギリスで教育を受けた後、1859年にアメリカに渡り、20代前半からジャーナリストとして活躍し始め、文芸評論から事件報道まで行います。1890年(明治23)、アメリカの出版社通信員として来日したものの、その契約を破棄して、島根県松江尋常中学校と島根県尋常師範学校の英語教師に任じられて、松江にやってきました。
 そして、翌年に元松江藩士の娘セツと結婚し、約5ヶ月間新婚生活を松江で過ごします。その後八雲は、熊本の第五高等学校へ転任、そして1894年(明治27)には、外国人居留地の神戸に移り、英字新聞の記者となりました。
 1896年(明治29)には帰化して、東京帝国大学や東京専門学校(現早稲田大学)で英文学を講じます。しかし、1904年(明治37)9月26日に、狭心症のため東京の自宅において、54歳でで亡くなりました。
 この間、14年を日本で過ごしましたが、怪談「耳なし芳一」や「雪女」の作者として有名で、翻訳、紀行、随筆、文芸批評、民俗学などの分野でも多くの作品を残しています。

〇ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)関係略年表

・1850年 - イギリス領レフカダ島において生まれる
・1852年 - 両親と共に父の家があるダブリンに移住する
・1854年 - 精神を病んだ母がギリシャのキシラ島へ帰国する
・1856年 - 父母が離婚し、父は再婚する
・1863年 - フランスの神学校に移るも帰国し、ダラム大学セント・カスバーツ・カレッジ(後のアショウ・カレッジ)へ入学する
・1865年 - カレッジの回転ブランコで遊んでいる最中にロープの結び目が左眼に当たって失明する
・1866年 - 父が西インドから帰国途中に病死、大叔母は破産する
・1867年 - 大叔母の破産を受けてダラム大学セント・カスバーツ・カレッジを退学してロンドンに行く
・1869年 - リヴァプールからアメリカ合衆国のニューヨークへ移民船で渡り、シンシナティに行く
・1872年 - トレード・リスト紙の副主筆となる
・1874年 - インクワイアラー社に入社、マティ・フォリーと結婚する
・1875年 - マティとの結婚も一因となり、インクワイアラー社を退社する
・1876年 - インクワイアラー社のライバル会社だった、シンシナティ・コマーシャル社に入社する
・1877年 - 離婚して、シンシナティの公害による目への悪影響を避け、ニューオーリンズへ行く
・1879年 - アイテム社の編集助手。食堂「不景気屋」を経営するも失敗する
・1882年 - アイテム社を退社、タイムズ・デモクラット社の文芸部長になる
・1884年 - 8月末から1か月余り、メキシコ湾内のグランド島に滞在する
・1887年 - フランス領西インド諸島マルティニーク島に旅行へ出かける
・1889年 - フランス領西インド諸島マルティニーク島の旅行から帰る
・1890年(明治23)4月4日 - ハーバー・マガジンの通信員としてニューヨークからカナダのバンクーバーに立ち寄り、横浜港に着いたものの、トラブルにより契約を破棄する
・1890年(明治23)7月 アメリカ合衆国で知り合った服部一三の斡旋で、島根県尋常中学校(現在の島根県立松江北高等学校)と島根県尋常師範学校(現在の島根大学)の英語教師に任じられる
・1890年(明治23)8月30日 - 松江に到着する
・1891年(明治24)1月 - 一人住まいのハーンの家に、松江の士族小泉湊の娘・小泉節子(1868年2月4日 - 1932年2月18日)が住み込み女中として雇われ、二人はすぐに惹かれあい結婚、松江の根岸家を借用する
・1891年(明治24)11月 - チェンバレンの紹介で、熊本市の第五高等中学校(熊本大学の前身校。校長は嘉納治五郎)の英語教師となる
・1894年(明治27) - 神戸市のジャパンクロニクル社に就職、神戸に転居する。
・1896年(明治29) - 東京帝国大学文科大学の英文学講師に就職、日本に帰化し「小泉八雲」と名乗り、秋に牛込区市谷富久町(現在の新宿区)に転居する
・1897年(明治30) - 次男・巌が誕生する
・1899年(明治32) - 三男・清が誕生する
・1902年(明治35)3月19日 - 東京・西大久保の家に転居する
・1903年(明治36) - 東京帝国大学を退職(後任は夏目漱石)、長女・寿々子が誕生する
・1904年(明治37)3月 - 早稲田大学の講師を務める
・1904年(明治37)9月26日 東京の自宅において、狭心症のため、54歳で亡くなる
・1915年(大正4) - 従四位が追贈される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1284年(弘安7)鎌倉幕府第8代執権北条時宗の命日(新暦4月20日)詳細
1609年(慶長14)江戸時代の大名・備前岡山藩初代藩主池田光政の誕生日(新暦5月10日)詳細
1879年(明治12)琉球処分により、琉球藩を廃して沖縄県を設置することが全国に布告される詳細
1885年(明治18)小説家中里介山の誕生日詳細
1949年(昭和24)「団体等規制令」が公布・施行される詳細
1973年(昭和48)劇作家・演出家・作詞家菊田一夫の命日詳細
1996年(平成8)有機化学者野副鉄男の命日詳細
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 今日は、平成時代の2019年(平成31)に、小説家・評論家・随筆家橋本治の亡くなった日です。
 橋本治(はしもと おさむ)は、昭和時代中期の1948年(昭和23)3月25日に、東京都杉並区和泉の菓子店に生まれましたが、1951年(昭和26)の3歳の時に世田谷区に転居しました。杉並区立和泉中学校、都立豊多摩高校を経て、1967年(昭和42)に、東京大学文科Ⅲ類へ入学します。
 在学中の1968年(昭和43)に、東京大学駒場祭のポスターで「とめてくれるなおっかさん 背中のいちょうが泣いている 男東大どこへ行く」というコピーを打って注目され、イラストレーターとしての活動をスタートました。1970年(昭和45)に「週刊新潮」で「ぽるの日本史」の挿絵を1年間担当、1973年(昭和48)には、卒論『四世鶴屋南北の劇世界』を書いて、東京大学文学部国文学科を卒業し、イラストレーターとなります。
 1977年(昭和52)に、女子高生の風俗を超口語体で描いた『桃尻娘』で第29回小説現代新人賞佳作となり、文筆業に転じ、1987年(昭和62)には、『桃尻語訳 枕草子』がベストセラーとなりました。1990年(平成2)に『江戸にフランス革命を!』で第17回大佛次郎賞候補に選出されるも落選、1991年(平成3)には、米国で出版された現代日本文学のアンソロジー『Monkey brain sushi』に「愛の牡丹雪」の英訳が収録されています。
 1992年(平成4)に小学館ヤングサンデーの主催するサマーセミナーで講師を務め、1993年(平成5)には、雑誌「芸術新潮」で連載「ひらがな日本美術史」を開始(~2005年)しました。1996年(平成8)にオウム真理教事件を題材にした『宗教なんかこわくない!』で第9回新潮学芸賞、2002年(平成14)には、『「三島由紀夫」とはなにものだったのか』で第1回小林秀雄賞を受賞しています。
 2004年(平成16)に文化論『上司は思いつきでものを言う』がベストセラーになり、2005年(平成17)に短編集『蝶のゆくえ』で第18回柴田錬三郎賞、2008年(平成20)には、『双調 平家物語』で第62回毎日出版文化賞を受賞しました。2018年(平成30)に『草薙の剣』で第71回野間文芸賞を受賞しましたが、2019年(平成31)1月29日に、東京都新宿区の病院において、肺炎のために70歳で亡くなっています。

〇橋本治の主要な著作

・戯曲『義経伝説』(1991年)
・『桃尻娘』(1977年)第29回小説現代新人賞佳作
・『蓮(はす)と刀』(1982年)
・『その後の仁義なき桃尻娘』(1983年)
・『帰って来た桃尻娘』(1984年)
・『革命的半ズボン主義宣言』(1984年)
・『無花果少年(いちぢくボーイ)と瓜売小僧(うりうりぼうや)』(1985年)
・『完本チャンバラ時代劇講座』(1986年)
・『無花果少年と桃尻娘』(1988年)
・『雨の温州蜜柑姫(おみかんひめ)』(1990年)
・『'89』(1990年)
・『古事記』(1993年)
・シリーズ『貧乏は正しい!』(1994~1996年)
・『桃尻語訳枕草子』上中下(1987、1988、1995年)
・『宗教なんかこわくない!』(1996年)第9回新潮学芸賞受賞
・『絵本徒然草(つれづれぐさ)』上下(1990、1993年)
・『窯変(ようへん)源氏物語』全14巻(1991~1993年)
・『双調平家物語』全15巻(1998~2007年)
・『「三島由紀夫」とはなにものだったのか』(2002年)第1回小林秀雄賞受賞
・短編集『蝶のゆくえ』(2005年)第18回柴田錬三郎賞受賞
・『双調 平家物語』(2008年)第62回毎日出版文化賞受賞
・『草薙の剣』(2018年)第71回野間文芸賞受賞

☆橋本治関係略年表

・1948年(昭和23)3月25日 東京都杉並区の菓子店に生まれる
・1951年(昭和26) 3歳の時に世田谷区に転居する
・1954年(昭和29) 杉並区立新泉小学校へ入学する
・1960年(昭和35) 杉並区立新泉小学校を卒業し、杉並区立和泉中学校へ入学する
・1963年(昭和38) 杉並区立和泉中学校を卒業し、都立豊多摩高校に入学する
・1966年(昭和41) 都立豊多摩高校卒業後、予備校に通う
・1967年(昭和42) 東京大学文科Ⅲ類へ入学する
・1968年(昭和43) 大学2年次に、「とめてくれるなおっかさん 背中のいちょうが泣いている 男東大どこへ行く」というコピーを打った東京大学駒場祭のポスターで注目される
・1970年(昭和45) 「週刊新潮」で「ぽるの日本史」の挿絵を1年間担当する
・1973年(昭和48) 卒論『四世鶴屋南北の劇世界』を書いて、東京大学文学部国文学科を卒業し、イラストレーターとして活動する
・1977年(昭和52) 女子高生の風俗を超口語体で描いた『桃尻娘』で第29回小説現代新人賞佳作となり、文筆業に転じる
・1987年(昭和62) 『桃尻語訳 枕草子』がベストセラーとなる
・1990年(平成2) 『江戸にフランス革命を!』で第17回大佛次郎賞候補に選出されるも落選する
・1991年(平成3) 米国で出版された現代日本文学のアンソロジー『Monkey brain sushi』に「愛の牡丹雪」の英訳が収録される
・1992年(平成4) 小学館ヤングサンデーの主催するサマーセミナーで講師を務める
・1993年(平成5) 雑誌「芸術新潮」で連載「ひらがな日本美術史」を開始(~2005年)する
・1995年(平成7) 雑誌「WIRED」の創刊2号(1995年3月号)で大友良英とトークセッションする
・1996年(平成8) オウム真理教事件を題材にした『宗教なんかこわくない!』で第9回新潮学芸賞を受賞する
・1999年(平成11) 東京・三軒茶屋シアタートラムで篠井英介の一人芝居『女賊』の作・演出を務める
・2002年(平成14) 『「三島由紀夫」とはなにものだったのか』で第1回小林秀雄賞を受賞する
・2004年(平成16) 文化論『上司は思いつきでものを言う』がベストセラーになる
・2005年(平成17) 短編集『蝶のゆくえ』で第18回柴田錬三郎賞を受賞する
・2007年(平成19) 小林秀雄賞の選考委員となる(~2018年)
・2008年(平成20) 『双調 平家物語』で第62回毎日出版文化賞を受賞する
・2009年(平成21) 「週刊新潮」2009年2月号に「巡礼」が一挙掲載される
・2013年(平成25) 東京都立西高等学校で「役に立たないことの大切さ」と題して講演会を行なう
・2018年(平成30) 『草薙の剣』で第71回野間文芸賞を受賞する
・2019年(平成31)1月29日 東京都新宿区の病院において、肺炎のために70歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1293年(正応6)南北朝時代の公卿・武将・学者北畠親房の誕生日(新暦3月8日)詳細
1634年(寛永11)江戸幕府が、各藩邸から出動して江戸市内の消火にあたる大名火消を設置する(新暦2月26日)詳細
1879年(明治12)日本が国際電信連合(現在の国際電気通信連合)に加盟する詳細
1905年(明治38)週刊「平民新聞」第64号が赤字で発行され、「終刊の辞」が掲載されて廃刊となる詳細
1944年(昭和19)「中央公論」、「改造」の編集者が検挙され、横浜事件の一つ「中央公論・改造事件」の発端となる詳細
1946年(昭和21)GHQが「日本の行政権の行使に関する範囲の指令」(SCAPIN-677)を出す詳細
1991年(平成3)小説家井上靖の命日詳細
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 今日は、昭和時代後期の1982年(昭和57)に、地球物理学者・随筆家坪井忠二の亡くなった日です。
 坪井忠二(つぼい ちゅうじ)は、明治時代後期の1902年(明治35)9月9日に、東京府において、人類学者だった父・坪井正五郎、母・直子の次男として生まれました。東京高等師範学校附属小学校・中学校、旧制第一高等学校を経て、1923年(大正12)に、東京帝国大学理学部物理学科に入学します。寺田寅彦に師事し、1926年(大正15)に卒業後、同大学地震研究所の助手となりました。1929年(昭和4)に東京帝国大学理学部助教授に昇任し、「地震は重力異常の場所で起こる」との新説を発表します。1933年(昭和18)に理学部地球物理学教室へ移り、翌年には、「精密測量に依りて見出サレタル地殻変動の研究」で、東京帝国大学より理学博士号を取得しました。1935年(昭和10)から翌年にかけて、欧米各国へ出張し、1941年(昭和16)には、東京帝国大学理学部教授に昇任します。1943年(昭和18)に理学部地球物理学第二講座を担当、1947年(昭和22)に測地審議会会長となり、1951年(昭和26)から日本全国約4500地点の重力測定を開始(~1954年)しました。1952年(昭和27)に「地殻の物理的性状に関する研究」で、日本学士院賞、1954年(昭和30)には、「重力測定に基く地下構造の研究」で、朝日文化賞を受賞しています。1960年(昭和35)に地震予知計画研究グループを結成、日本学士院会員となり、1961年(昭和36)には、東京大学理学部長(~1963年)となりました。1962年(昭和37)に和達清夫、萩原尊禮らと「地震予知研究計画」を取りまとめましたが、1963年(昭和38)には、東京大学を退官しています。その後、岩波新書『新・地震の話』(1967年)、岩波書店『数理のめがね』(1968年)、岩波書店『力学物語』(1970年)などの啓蒙書を刊行しました。1972年(昭和47)に勲二等授旭日重光章を受章したものの、1982年(昭和57)11月19日に、東京都において、80歳で亡くなり、従三位を追贈されています。

〇坪井忠二の主要な著作

・『地球』(鉄塔書院 鉄塔科学叢書 1933年)
・『重力』(岩波書店 岩波全書 1935年)
・『地球の形』(日本数学物理学会 最新科学叢書1 1936年)
・『岩波講座 物理学及ビ化学・重力の測定』(岩波書店 1939年)
・『物理学実験12・地球物理及び天文学』(河出書房 1940年)
・『地震の話』(岩波新書 1941年)
・『新 地震の話』(岩波新書 1967年)
・『数理のめがね』(岩波書店 1968年/ちくま学芸文庫 2020年)
・『自然地理学・重力の測定』(地人書館 1970年)
・『力学物語』(岩波書店 1970年)
・『右と左』(サイエンス社 サイエンス叢書 1980年)

☆坪井忠二関係略年表

・1902年(明治35)9月9日 東京府において、人類学者だった父・坪井正五郎、母・直子の次男として生まれる
・1915年(大正4) 東京高等師範学校附属小学校(現在の筑波大学附属小学校)を卒業する
・1920年(大正9) 東京高等師範学校附属中学校(現在の筑波大学附属中学校・高等学校)を卒業し、旧制第一高等学校に入学する
・1923年(大正12) 旧制第一高等学校を卒業し、東京帝国大学理学部物理学科に入学する
・1926年(大正15) 東京帝国大学理学部物理学科を卒業し、同大学地震研究所の助手となる
・1929年(昭和4) 東京帝国大学理学部助教授となり、「地震は重力異常の場所で起こる」との新説を発表する
・1933年(昭和18) 理学部地球物理学教室へ移る
・1934年(昭和19) 「精密測量に依りて見出サレタル地殻変動の研究」で、東京帝国大学より理学博士を得る
・1935年(昭和10) 欧米各国の出張に出発する
・1936年(昭和11) 欧米各国より帰国する
・1941年(昭和16) 東京帝国大学理学部教授となる
・1943年(昭和18) 理学部地球物理学第二講座を担当する
・1947年(昭和22) 測地審議会会長となる
・1951年(昭和26) 日本全国約4500地点の重力測定を開始する(~1954年)
・1952年(昭和27) 「地殻の物理的性状に関する研究」で、日本学士院賞を受賞する
・1954年(昭和30) 「重力測定に基く地下構造の研究」で、朝日文化賞を受賞する
・1960年(昭和35) 地震予知計画研究グループを結成、日本学士院会員となる
・1961年(昭和36) 東京大学理学部長(~1963年)となる
・1962年(昭和37) 和達清夫・萩原尊禮らと「地震予知研究計画」を取りまとめる
・1963年(昭和38) 東京大学を退官する
・1967年(昭和42) 岩波新書『新・地震の話』を刊行する
・1968年(昭和43) 岩波書店『数理のめがね』を刊行する
・1970年(昭和45) 岩波書店『力学物語』を刊行する
・1972年(昭和47) 勲二等授旭日重光章を受章する
・1982年(昭和57)11月19日 東京都において、80歳で亡くなり、従三位を追贈される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1906年(明治39)京阪電気鉄道株式会社が設立される詳細
1947年(昭和22)「農業協同組合法」が公布される詳細
1956年(昭和31)米原~京都の電化により東海道本線の全線電化が完成する詳細
東京駅~博多駅間の夜行特急あさかぜが運行開始される詳細
1975年(昭和50)MK鋼を発明した冶金学者三島徳七の命日詳細
1993年(平成5)「環境基本法」が公布・施行される詳細
1998年(平成10)気象学者藤田哲也の命日詳細
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 今日は、明治時代後期の1903年(明治36)に、小説家・随筆家・登山家深田久弥の生まれた日です。
 深田久弥(ふかだ きゅうや)は、石川県江沼郡大聖寺町字中町(現在の加賀市)において、深田屋紙店を営む深田家の長男として生まれました。12歳の時に、福井県境に近い富士写ヶ岳(942m)に登ったのがきっかけで登山に興味を持ち、1918年(大正7)に旧制福井中学校(現在の福井県立藤島高等学校)へ入学し、友人と二人で白山に登頂して山岳開眼します。
 1923年(大正12)へ旧制第一高校へ進学、登山部に入部して本格的に登山に取り組み、一方で、文芸部で堀辰雄や高見順と知り合いました。1926年(大正15)に卒業後、東京帝国大学文学部哲学科入学、第9~10次「新思潮」に参加、第10次「新思潮」に発表した『武人鑑賞録』が川端康成らに認められ、「文学」同人となります。
 1927年(昭和2)に大学に在籍しつつ、改造社に入社、1929年(昭和4)に『イエスの弟子』を発表、1930年(昭和5)に「文芸春秋」に発表した『オロッコの娘』で小説家としての地位を確立、東京帝国大学を中退して、作家生活に入りました。1932年(昭和7)に『あすならう』を発表して文壇的評価を確立し、1933年(昭和8)には、小林秀雄らと「文学界」を創刊します。
 1935年(昭和10)に『津軽の野づら』連作により文壇の評価を高め、日本山岳会に入会、1937年(昭和12)には、『鎌倉夫人』、『山岳展望』を刊行しました。1941年(昭和16)に中島敦がパラオに出立する前に、自身の原稿をまとめたものを託され、翌年には、その原稿の内、『李陵』、『山月記』を「文学界」に紹介します。
 1944年(昭和19)に応召されて、中国各地を転戦、1946年(昭和21)には、中国から復員したものの、越後湯沢、金沢などを転々としました。1949年(昭和24)に錦城山岳会を結成し、理事となり、1955年(昭和30)に東京に転居、1957年(昭和32)には、『贋作家故郷へ行く』を最後に小説の筆を折ります。
 1958年(昭和33)にヒマラヤ探査行を実行、1959年(昭和34)に山岳雑誌『山と高原』(朋文堂)で毎月2山の連載を開始、1964年(昭和39)には、『日本百名山』を刊行し、翌年に第16回読売文学賞(評論・伝記賞)を受賞して人気作家に返り咲きました。1966年(昭和41)にシルクロード学術踏査等で、約4ヶ月中央アジアを旅行し、1968年(昭和43)には、日本山岳会の副会長に就任します。
 1969年(昭和44)には、山渓賞(山と渓谷社)を受賞しましたが、1971年(昭和46)3月21日に、登山中の茅ヶ岳(1,704m)にて、脳卒中により、68歳で急逝しました。

〇深田久弥の主要な著作

・『わが山山』(1934年)
・『津軽の野づら』(1935年)
・『鎌倉夫人』(1937年)
・『山岳展望』(1937年)
・『親友』(1943年)
・『知と愛』(1953年)
・『日本百名山』(1964年)第16回読売文学賞(評論・伝記賞)受賞
・『ヒマラヤの高峰』(1964~65年)

☆深田久弥関係略年表

・1903年(明治36)3月11日 石川県江沼郡大聖寺町字中町(現在の加賀市)において、深田屋紙店を営む深田家の長男として生まれる
・1915年(大正4) 12歳の時、福井県境に近い富士写ヶ岳(942m)に登ったのがきっかけで登山に興味を持つ
・1918年(大正7) 旧制福井中学校(現在の福井県立藤島高等学校)へ入学し、友人と二人で白山に登頂して山岳開眼する
・1923年(大正12) 旧制第一高校へ入学する
・1926年(大正15) 旧制第一高校を卒業し、東京帝国大学文学部哲学科入学する
・1927年(昭和2) 大学に在籍しつつ、改造社に入社する
・1929年(昭和4) 『イエスの弟子』を発表する
・1930年(昭和5) 「文芸春秋」に発表した『オロッコの娘』で小説家としての地位を確立、東京帝国大学を中退して、作家生活に入る
・1932年(昭和7) 『あすならう』を発表して文壇的評価を確立する
・1933年(昭和8) 小林秀雄らと「文学界」を創刊する
・1935年(昭和10) 『津軽の野づら』連作により文壇の評価を高め、日本山岳会に入会する
・1937年(昭和12) 『鎌倉夫人』、『山岳展望』を刊行する
・1940年(昭和15) 北畠八穂と結婚して正式に夫婦となる
・1941年(昭和16) 中島敦がパラオに出立する前に、深田に自身の原稿をまとめたもの『古潭』を託し、発表の仲介を依頼する
・1942年(昭和17) 前年託された中島の原稿のうち『李陵』『山月記』、また田中英光の『オリンポスの果実』の原稿を「文学界」に紹介する
・1943年(昭和18) 『親友』を刊行、木庭志げ子が深田の子を出産したことが北畠に露見する
・1944年(昭和19) 応召されて、中国各地を転戦する
・1946年(昭和21) 中国から復員する
・1947年(昭和22) 北畠と離婚の上、木庭志げ子と再婚する
・1949年(昭和24) 錦城山岳会を結成し、理事となる
・1955年(昭和30) 東京に転居する
・1957年(昭和32) 『贋作家故郷へ行く』を最後に小説の筆を折る
・1958年(昭和33) ヒマラヤ探査行をする
・1959年(昭和34) 山岳雑誌『山と高原』(朋文堂)で毎月2山の連載を開始する
・1964年(昭和39) 『日本百名山』を刊行する
・1965年(昭和40) 『日本百名山』が第16回読売文学賞(評論・伝記賞)を受賞し、人気作家に返り咲く
・1966年(昭和41) シルクロード学術踏査等で、約4ヶ月中央アジアを旅行をする
・1968年(昭和43) 日本山岳会の副会長に就任する
・1969年(昭和44) 山渓賞(山と渓谷社)を受賞する
・1971年(昭和46)3月21日 登山中の茅ヶ岳(1,704m)にて脳卒中により、68歳で急逝する

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1582年(天正10)織田信長・徳川家康連合軍に敗れた武田勝頼が自害し甲斐武田家が滅亡(新暦4月3日)詳細
1643年(寛永20)江戸幕府が「田畑永代売買禁止令」を発布する(新暦4月29日)詳細
1834年(天保5)福井藩士・幕末の志士・思想家橋下佐内の誕生日(新暦4月19日)詳細
1901年(明治33)国木田独歩の初の作品集『武蔵野』が民友社から刊行される詳細
2010年(平成22)農林水産省により「ため池百選」が選定される詳細
2011年(平成23)東北地方太平洋沖地震が発生し、激しい揺れと大津波によって、東日本大震災と称される大被害を出す詳細
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nakagawakazumasa01
 今日は、明治時代中頃の1893年(明治26)に、洋画家・歌人・詩人・随筆家中川一政の生まれた日です。
 中川一政(なかがわ かずまさ)は、東京市本郷区駒込西片町(現在の東京都文京区西片)において、刀剣鍛冶松戸家を営む父・中川政朝、母・スワの子として生まれましたが、1902年(明治35)に母・スワが亡くなりました。1903年(明治36)に東京市北豊島郡巣鴨村向原(現在の豊島区東池袋)に転居、1907年(明治40)には、本郷区誠之尋常高等小学校を卒業し、神田錦町の錦城中学校に入学します。
 在学中の1908年(明治41)に『少年世界』の表紙図案に入選、与謝野晶子撰歌集『白光』に歌3首が収録され、1910年(明治43)に『スバル』や『創作』に短歌が紹介され、1911年(明治44)には、『萬朝報』の懸賞小説に自伝的短編小説「椎の樹」が当選し掲載されました。1912年(明治45)に錦城中学校を卒業、『萬朝報』の懸賞小説に「螻蛄の歌」が当選し掲載され、1913年(大正2)には、中村星湖の推薦で『早稲田文学』に短歌「逝春」を発表しています。
 1914年(大正3)に処女作油彩「酒倉」が画会第14回展に出品され、岸田劉生の推薦で入選、画家を志すようになり、1915年(大正4)には、巽画会第15回展に「霜のとける道」ほかを出品し、最高位二等賞銀牌を受賞、草土社を結成しました。1916年(大正5)に同人誌『貧しき者』を創刊し、詩や随想を発表、1917年(大正6)から二科会展に連続して入賞し、1921年(大正10)には、詩集『見なれざる人』を出版、二科会第8回展に「静物」などを出品し、二科賞を受賞しています。
 1922年(大正11)に萬鉄五郎、岸田劉生らと春陽会設立に参加、1924年(大正13)に短歌雑誌『日光』の同人となり、1925年(大正14)には、訳著『ゴオホ』を出版、東京府和田堀之内村永福寺隣(現在の杉並区永福)に転居しました。1926年(大正15)に初の画集『中川一政畫集』を出版、1928年(昭和3)に東京朝日新聞に連載の片岡鉄兵「生ける人形」の挿画を担当、1930年(昭和5)には、随筆『美術の眺め』を出版します。
 1931年(昭和6)に個展「中川一政水墨展」を開催、佐藤春夫、日夏耿之介と同人文芸誌『古東多万』を創刊、1933年(昭和8)に都新聞に連載の尾﨑士郎「人生劇場 青春篇」の挿画を担当、1937年(昭和12)には、小川芋銭、小杉放菴らと「墨人倶楽部」を結成しました。1938年(昭和13)に第2回文部省美術展覧会(新文展)第二部審査員を委嘱され、1939年(昭和14)に初の中国旅行で鹿島龍蔵と北京、ハルピン、熱河、大同を巡り、1940年(昭和15)には、藤田嗣治、小杉放菴、木村荘八らと邦画一如会を結成します。
 1948年(昭和23)に武者小路実篤を中心に結成された生成会に同人として参加、1949年(昭和24)に神奈川県足柄下郡真鶴町にアトリエを構え、1953年(昭和28)には、初の洋行で、約5か月にわたりブラジル、フランス、イタリア、イギリスを歴訪しました。1958年(昭和33)に訪中団団長として中国を訪問、1960年(昭和35)に全国知事会の依頼で「漁村凱風」を制作、東宮御所に献納され、1961年(昭和36)には、宮中歌会始の召人となります。
 1964年(昭和39)に日中文化交流協会代表団として訪中し、中国建国15周年を祝う国慶節式典に参列、1965年(昭和40)には、ソ連文化省の招きでソ連を訪問し、同国の美術演劇事情を視察しました。1975年(昭和50)に『中川一政全集』(全5巻)、『腹の虫』を出版、文化勲章を受章し、文化功労者となり、1982年(昭和57)には、日中文化交流協会代表団の顧問として訪中します。
 1984年(昭和59) 東京都名誉都民となり、1986年(昭和61)には、母の故郷である石川県松任市(現在の白山市)に「松任市立中川一政記念美術館」が開館、松任市名誉市民となりました。1989年(平成元)には、神奈川県真鶴町に「真鶴町立中川一政美術館」が開館しましたが、1991年(平成3)2月5日に、東京において、97歳で亡くなっています。

〇中川一政の主要な作品

<絵画>

・「酒倉」(1914年)巽(たつみ)画会展入選
・「監獄の横」(1917年)
・「板橋風景」(1919年)東京国立近代美術館蔵
・「静物」(1921年)二科会第8回展二科賞受賞
・「少年像」(1942年)
・「漁村凱風」(1960年)東宮御所蔵
・「福浦」(1965年)
・「箱根駒ケ岳(こまがたけ)」(1982年)

<著作>

・詩集『見なれざる人』(1921年)
・画文集『中川一政画集』(1926年)
・随筆『美術の眺め』(1930年)
・歌集『向ふ山』(1943年)
・随筆『うちには猛犬がいる』(1963年)
・『腹の虫』(1975年)

☆中川一政関係略年表

・1893年(明治26)2月14日 東京市本郷区駒込西片町(現在の東京都文京区西片)において、刀剣鍛冶松戸家を営む父・中川政朝、母・スワの子として生まれる
・1902年(明治35) 母・スワ(享年33歳)が亡くなる
・1903年(明治36) 東京市北豊島郡巣鴨村向原(現在の豊島区東池袋)に転居する
・1907年(明治40) 本郷区誠之尋常高等小学校を卒業し、神田錦町の錦城中学校に入学する
・1908年(明治41) 『少年世界』の表紙図案に入選、与謝野晶子撰歌集『白光』に歌3首が収録される
・1910年(明治43) 『スバル』や『創作』に短歌が紹介される
・1911年(明治44) 『萬朝報』の懸賞小説に自伝的短編小説「椎の樹」が当選し掲載される
・1912年(明治45) 錦城中学校を卒業、『萬朝報』の懸賞小説に「螻蛄の歌」が当選し掲載される
・1913年(大正2) 中村星湖の推薦で『早稲田文学』に短歌「逝春」を発表する
・1914年(大正3) 処女作油彩「酒倉」が画会第14回展に出品され、岸田劉生の推薦で入選、画家を志す
・1915年(大正4) 巽画会第15回展に「霜のとける道」ほかを出品し、最高位二等賞銀牌を受賞、草土社を結成する
・1916年(大正5) 同人誌『貧しき者』を創刊し、詩や随想を発表する
・1917年(大正6) 二科会第4回展に「風景〔杉と茶畑〕」を出品し、入選、同人雑誌『観照』特別号として「中川一政詩集」が刊行される
・1918年(大正7) 二科会第5回展に「冬〔初冬〕」《夏》を出品し、入選する
・1919年(大正8) 二科会第6回展に「下板橋の川辺(冬)〔板橋風景〕」ほかを出品し入選する
・1920年(大正9) 初の個展(油彩)を開き、二科会第7回展に「自画像」ほかを出品し入選、千家元麿、宮崎丈二らと雑誌『詩』を創刊する
・1921年(大正10) 詩集『見なれざる人』を出版、二科会第8回展に「静物」などを出品し、二科賞を受賞する
・1922年(大正11) 小杉放庵、萬鉄五郎、石井鶴三、木村荘八、岸田劉生らと春陽会設立に参加する
・1923年(大正12) 伊藤暢子(伊藤為吉の娘)と結婚する
・1924年(大正13) 短歌雑誌『日光』の同人となる
・1925年(大正14) 訳著『ゴオホ』を出版、東京府和田堀之内村永福寺隣(現在の杉並区永福)に転居する
・1926年(大正15) 初の画集『中川一政畫集』を出版する
・1928年(昭和3) 東京朝日新聞に連載の片岡鉄兵「生ける人形」の挿画を担当する
・1930年(昭和5) 随筆『美術の眺め』を出版する
・1931年(昭和6) 個展「中川一政水墨展」を開催、佐藤春夫、日夏耿之介と同人文芸誌『古東多万』を創刊する
・1933年(昭和8) 都新聞に連載の尾﨑士郎「人生劇場 青春篇」の挿画を担当する
・1937年(昭和12) 小川芋銭、小杉放菴、菅楯彦、矢野橋村、津田青楓らと「墨人倶楽部」を結成する
・1938年(昭和13) 第2回文部省美術展覧会(新文展)第二部審査員を委嘱される
・1939年(昭和14) 初の中国旅行で鹿島龍蔵と北京、ハルピン、熱河、大同を巡る
・1940年(昭和15) 父・政朝が死去(享年79歳)、藤田嗣治、石井柏亭、鍋井克之、津田青楓、牧野虎雄、小杉放菴、石井鶴三、木村荘八らと邦画一如会を結成する
・1945年(昭和20) 疎開先の富山県高岡に約1か月滞在し、山形県酒田を経て宮城県黒川郡宮床村(現在の大和町宮床)で終戦を迎える
・1948年(昭和23) 武者小路実篤を中心に結成された生成会に同人として参加、文芸雑誌『心』が創刊される
・1949年(昭和24) 神奈川県足柄下郡真鶴町にアトリエを構える
・1953年(昭和28) 初の洋行で、約5か月にわたりブラジル、フランス、イタリア、イギリスを歴訪、東京新聞夕刊文化欄に旅行記を41回にわたり連載する
・1957年(昭和32) 『鉄斎』を武者小路実篤、梅原龍三郎、小林秀雄とともに監修、出版する
・1958年(昭和33) 「光琳生誕三〇〇年記念展」が北京で開催され、訪中団団長として訪問、東京新聞夕刊文化欄に「中国遊記」を7回にわたり連載する
・1960年(昭和35) 全国知事会の依頼で「漁村凱風」を制作、東宮御所に献納される
・1961年(昭和36) 宮中歌会始の召人となる
・1962年(昭和37) ミュンヘンのバイエルン独日協会の招きで渡欧、ミュンヘン市立美術館で「東洋美術の考え」を講演する
・1963年(昭和38) 「現代日本油絵展」が北京、上海で開催され、訪中洋画家団団長として訪問、随筆『うちには猛犬がゐる』を出版する
・1964年(昭和39) 日中文化交流協会代表団として訪中し、中国建国15周年を祝う国慶節式典に参列する
・1965年(昭和40) ソ連文化省の招きでソ連を訪問し、同国の美術演劇事情を視察、東京新聞夕刊文化欄に「私のソ連・欧州旅行」を8回にわたり連載する
・1967年(昭和42) 『中川一政画集』、随筆『遠くの顔』、『近くの顔』画文集、『中川一政書蹟』を出版、書展「中川一政書展」を開催する
・1975年(昭和50) 『中川一政全集』(全5巻)、『腹の虫』を出版、文化勲章を受章し、文化功労者となる
・1982年(昭和57) 日中文化交流協会代表団の顧問として訪中する
・1984年(昭和59) 東京都名誉都民となる
・1986年(昭和61) 母の故郷である石川県松任市(現在の白山市)に「松任市立中川一政記念美術館」が開館、松任市名誉市民となる
・1989年(平成元) 神奈川県真鶴町に「真鶴町立中川一政美術館」が開館する
・1991年(平成3)2月5日 東京において、97歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

741年(天平13)聖武天皇が「国分寺建立の詔」を出す(新暦3月5日)詳細
940年(天慶3)平将門が下野の豪族藤原秀郷と平貞盛らの軍勢により、猿島の北山で討たれる(新暦3月25日)詳細
1896年(明治29)日本画家徳岡神泉の誕生日詳細
1945年(昭和20)近衛文麿が昭和天皇に対して、上奏文(近衛上奏文)を出す詳細
1951年(昭和26)奄美大島日本復帰協議会(議長:泉芳朗)が結成される詳細
1967年(昭和42)小説家山本周五郎の命日詳細
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