
小泉 八雲(こいずみ やくも)は、本名は、パトリック・ラフカディオ・ハーンといい、1850年6月27日に当時のイギリス領であったレフカダ島で生まれます。1852年、両親と共に父の家があるダブリンに移住し、幼少時代を過ごしました。
フランス・イギリスで教育を受けた後、1859年にアメリカに渡り、20代前半からジャーナリストとして活躍し始め、文芸評論から事件報道まで行います。1890年(明治23)、アメリカの出版社通信員として来日したものの、その契約を破棄して、島根県松江尋常中学校と島根県尋常師範学校の英語教師に任じられて、松江にやってきました。
そして、翌年に元松江藩士の娘セツと結婚し、約5ヶ月間新婚生活を松江で過ごします。その後八雲は、熊本の第五高等学校へ転任、そして1894年(明治27)には、外国人居留地の神戸に移り、英字新聞の記者となりました。
1896年(明治29)には帰化して、東京帝国大学や東京専門学校(現早稲田大学)で英文学を講じます。しかし、1904年(明治37)9月26日に、狭心症のため東京の自宅において、54歳でで亡くなりました。
この間、14年を日本で過ごしましたが、怪談「耳なし芳一」や「雪女」の作者として有名で、翻訳、紀行、随筆、文芸批評、民俗学などの分野でも多くの作品を残しています。
フランス・イギリスで教育を受けた後、1859年にアメリカに渡り、20代前半からジャーナリストとして活躍し始め、文芸評論から事件報道まで行います。1890年(明治23)、アメリカの出版社通信員として来日したものの、その契約を破棄して、島根県松江尋常中学校と島根県尋常師範学校の英語教師に任じられて、松江にやってきました。
そして、翌年に元松江藩士の娘セツと結婚し、約5ヶ月間新婚生活を松江で過ごします。その後八雲は、熊本の第五高等学校へ転任、そして1894年(明治27)には、外国人居留地の神戸に移り、英字新聞の記者となりました。
1896年(明治29)には帰化して、東京帝国大学や東京専門学校(現早稲田大学)で英文学を講じます。しかし、1904年(明治37)9月26日に、狭心症のため東京の自宅において、54歳でで亡くなりました。
この間、14年を日本で過ごしましたが、怪談「耳なし芳一」や「雪女」の作者として有名で、翻訳、紀行、随筆、文芸批評、民俗学などの分野でも多くの作品を残しています。
〇ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)関係略年表
・1850年 - イギリス領レフカダ島において生まれる
・1852年 - 両親と共に父の家があるダブリンに移住する
・1854年 - 精神を病んだ母がギリシャのキシラ島へ帰国する
・1856年 - 父母が離婚し、父は再婚する
・1863年 - フランスの神学校に移るも帰国し、ダラム大学セント・カスバーツ・カレッジ(後のアショウ・カレッジ)へ入学する
・1865年 - カレッジの回転ブランコで遊んでいる最中にロープの結び目が左眼に当たって失明する
・1866年 - 父が西インドから帰国途中に病死、大叔母は破産する
・1867年 - 大叔母の破産を受けてダラム大学セント・カスバーツ・カレッジを退学してロンドンに行く
・1869年 - リヴァプールからアメリカ合衆国のニューヨークへ移民船で渡り、シンシナティに行く
・1872年 - トレード・リスト紙の副主筆となる
・1874年 - インクワイアラー社に入社、マティ・フォリーと結婚する
・1875年 - マティとの結婚も一因となり、インクワイアラー社を退社する
・1876年 - インクワイアラー社のライバル会社だった、シンシナティ・コマーシャル社に入社する
・1877年 - 離婚して、シンシナティの公害による目への悪影響を避け、ニューオーリンズへ行く
・1879年 - アイテム社の編集助手。食堂「不景気屋」を経営するも失敗する
・1882年 - アイテム社を退社、タイムズ・デモクラット社の文芸部長になる
・1884年 - 8月末から1か月余り、メキシコ湾内のグランド島に滞在する
・1887年 - フランス領西インド諸島マルティニーク島に旅行へ出かける
・1889年 - フランス領西インド諸島マルティニーク島の旅行から帰る
・1890年(明治23)4月4日 - ハーバー・マガジンの通信員としてニューヨークからカナダのバンクーバーに立ち寄り、横浜港に着いたものの、トラブルにより契約を破棄する
・1890年(明治23)7月 アメリカ合衆国で知り合った服部一三の斡旋で、島根県尋常中学校(現在の島根県立松江北高等学校)と島根県尋常師範学校(現在の島根大学)の英語教師に任じられる
・1890年(明治23)8月30日 - 松江に到着する
・1891年(明治24)1月 - 一人住まいのハーンの家に、松江の士族小泉湊の娘・小泉節子(1868年2月4日 - 1932年2月18日)が住み込み女中として雇われ、二人はすぐに惹かれあい結婚、松江の根岸家を借用する
・1891年(明治24)11月 - チェンバレンの紹介で、熊本市の第五高等中学校(熊本大学の前身校。校長は嘉納治五郎)の英語教師となる
・1894年(明治27) - 神戸市のジャパンクロニクル社に就職、神戸に転居する。
・1896年(明治29) - 東京帝国大学文科大学の英文学講師に就職、日本に帰化し「小泉八雲」と名乗り、秋に牛込区市谷富久町(現在の新宿区)に転居する
・1897年(明治30) - 次男・巌が誕生する
・1899年(明治32) - 三男・清が誕生する
・1902年(明治35)3月19日 - 東京・西大久保の家に転居する
・1903年(明治36) - 東京帝国大学を退職(後任は夏目漱石)、長女・寿々子が誕生する
・1904年(明治37)3月 - 早稲田大学の講師を務める
・1904年(明治37)9月26日 東京の自宅において、狭心症のため、54歳で亡くなる