ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:陽成天皇

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 今日は、平成時代の2007年(平成19)に、関西国際空港の第二滑走路(B滑走路)がオープンし、国内初の完全24時間空港になった日です。
 関西国際空港(かんさいこくさいくうこう)は、大阪湾南東部の泉州沖5kmの海を埋め立てた人工島(大阪府泉佐野市・泉南郡田尻町・泉南市にまたがる)に建設され、国際線・国内線共に乗り入れる日本を代表する国際拠点空港の一つとされています。立地条件のため騒音問題や処理能力の限界に達した大阪国際空港(伊丹空港)に替わるものとして、大阪湾泉州沖の海上に計画され、1983年(昭和58)に空港設置が地元で承認され、翌年、国・大阪府・民間の4対1対1の出資により第三セクターの関西国際空港株式会社が設立されました。
 1987年(昭和62)に第1期建設工事が始まり、面積約5.10平方kmの沖合人工島を造成、3,500mの滑走路(A滑走路)が設置され、1994年(平成6)9月4日に開港します。さらに、1999年(平成11)に第2期工事が着工され、約5.45平方kmの用地を造成し、4,000mの滑走路(B滑走路)が整備され、2007年(平成19)8月2日に供用を開始しました。
 この建設は、総額5兆円という東京湾アクアラインと並ぶ20世紀最後の大プロジェクトといわれ、24時間利用が可能なハブ空港としての役割を期待されます。第2期工事が完了した2007年度の航空機発着回数は約13万回、航空旅客数は約1669万人、貨物取扱量は約84万6500トンでしたが、2017年度には、航空機発着回数は18万8,276回、航空旅客数は2,880万2,506人 貨物取扱量は85万1,559トンへ増加しました。
 この間、2012年(平成24)7月、関西国際空港は大阪国際空港と経営統合を行い、同年設立された新関西国際空港株式会社が両空港の管理・運営業務を開始し、2016年(平成28)4月に、事業運営権の売却が実施され、純民間企業となった関西エアポート株式会社による運営が行われています。尚、関西国際空港への交通手段として、高速道路が建設され、JR西日本と南海電鉄の乗り入れが行われ、高速船も運航されてきました。

〇関西国際空港関係略年表

・1963年(昭和38) 総理府内近畿圏整備本部提出の「大阪国際空港拡張整備と第2国際空港建設」計画が閣議了承される
・1968年(昭和43) 運輸省が関西第二空港建設へ向けての基本調査を開始する
・1983年(昭和58) 泉州沖の空港設置が地元で承認される
・1984年(昭和59) 国・大阪府・民間の4:1:1の出資で第三セクターの関西国際空港株式会社が設立される
・1987年(昭和62) 第1期建設工事が始まる
・1991年(平成3) 空港1期島造成工事が完了する
・1994年(平成6)9月4日 第1期建設工事が完成し、関西国際空港が開港する
・1999年(平成11) 第2期工事が着工される
・2007年(平成19)8月2日 第2期工事が完成し、2本目の滑走路(B滑走路)の供用を開始する
・2012年(平成24)7月1日 大阪国際空港と経営統合を行い、新関西国際空港株式会社が両空港の管理・運営業務を開始する
・2015年(平成27) 年間発着回数約16万4千回、年間旅客数約2,321万人、年間取扱貨物量約71万9千トンとなる
・2016年(平成28)4月1日 事業運営権の売却が実施され、純民間企業となった関西エアポート株式会社による運営が開始される
・2018年(平成30)3月31日 大阪国際空港のマスコットキャラクター「そらやん」が関西エアポートグループの公式キャラクターとなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

901年(延喜元)六国史一番最後の『日本三代実録』が完成する詳細
1721年(享保6)徳川吉宗の命で江戸・評定所の門前に目安箱が設置される(新暦9月23日)詳細
1738年(元文3)俳人上島鬼貫の命日(新暦9月15日)詳細
1864年(元治元)14代将軍徳川家茂が中国・四国など35藩に長州征討(第一次長州征討)の為の出兵を命令(新暦9月2日)詳細
1918年(大正7)寺内正毅内閣によって、日本軍が英・米・仏軍と共に、シベリア出兵することが閣議決定される詳細
1945年(昭和20)アメリカ軍のB-29爆撃機174機による富山大空襲で、市街地の99.5%を焼失、死者2,737人を出す詳細
ドイツのベルリン郊外でのポツダム会談(アメリカ・イギリス・ソ連3国の首脳会談)が終了する詳細
1947年(昭和22)中学校用『あたらしい憲法のはなし』・高校用『民主主義の手引』の副読本発行詳細

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 今日は、平安時代中期の949年(天暦3)に、第57代の天皇とされる陽成天皇が亡くなった日ですが、新暦では10月23日となります。
 陽成天皇(ようぜいてんのう)は、平安時代前期の868年(貞観10)に京都において、清和天皇の第一皇子(母は藤原長良の娘高子)として生まれましたが、名は貞明(さだあきら)と言いました。869年(貞観11)に清和天皇の皇太子となり、876年(貞観18)に9歳で父・清和天皇から譲位され、第57代とされる天皇として即位したものの、母の兄の藤原基経が摂政となり、実権を握ります。
 880年(元慶4)に父・清和上皇が亡くなり、基経が関白に任ぜられましたが、882年(元慶6)に15歳で元服した頃から基経と対立するようになりました。『日本三代実録』には、闘犬・闘鶏を好み、内裏で馬を乗り回したり、動物をひそかに飼うなど異常な行動が記され、素行に問題があったとされます。
 883年(元慶7)に天皇の乳母紀全子(きのまたこ)の産んだ源益(みなもとのみつ)を殺す事件があり、藤原基経が出仕を拒否するようになりました。それらの原因により、翌年には病気を理由に、17歳で時康親王(光孝天皇)に譲位させられ、二条院(陽成院)に移ります。
 退位後に幾度か歌合を催していて、歌才があったとされますが、残されている歌は、『後撰和歌集』に収める「筑波嶺の峰より落つるみなの川恋ぞつもりて淵となりぬる」のみで、これは後に「小倉百人一首」にも採録されました。長寿を保ったものの、949年(天暦3年9月20日)に病により出家し、9日後の9月29日に、京都において、数え年82歳で亡くなり、墓所は神楽岡東陵(現在の京都市左京区浄土寺真如町)とされています。

<代表的な歌>

・「筑波嶺の 峰より落つる みなの川 恋ぞつもりて 淵となりぬる」(後撰和歌集・百人一首)

☆陽成天皇関係略年表(日付は旧暦です)

・868年(貞観10年) 京都において、清和天皇の第一皇子(母は藤原長良の娘高子)として生まれる
・869年(貞観11年2月1日) 清和天皇の皇太子となる
・876年(貞観18年11月29日) 9歳で父・清和天皇から譲位され、母の兄の藤原基経が摂政となる
・880年(元慶4年) 父・清和上皇が亡くなる
・880年(元慶4年) 藤原基経が関白に任ぜられる
・882年(元慶6年1月) 15歳で元服する
・883年(元慶7年) 天皇の乳母紀全子(きのまたこ)の産んだ源益(みなもとのみつ)を殺す
・883年(元慶7年8月) 藤原基経が出仕を拒否するようになる
・884年(元慶8年2月4日) 17歳で病気を理由に、時康親王(光孝天皇)に譲位し、二条院(陽成院)に移る
・949年(天暦3年9月20日) 病により出家する
・949年(天暦3年9月29日) 京都において、数え年82歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

930年(延長8)第60代の天皇とされる醍醐天皇の命日(新暦10月23日)詳細
1801年(享和元)国学者本居宣長の命日(新暦11月5日)詳細
1879年(明治12)学制」が廃止され、「教育令」が制定される詳細
1972年(昭和47)日本と中国が「日中共同声明」に調印する詳細


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 今日は、平安時代前期の901年(延喜元)に、六国史一番最後の『日本三代実録』が完成した日ですが、新暦では9月17日となります。
 これは、六国史の一番最後のもので、清和天皇、陽成天皇、光孝天皇の3代である、858年年(天安2)8月から887年(仁和3)8月までの30年間を扱っていました。漢文の編年体の史書で、全五十巻からなっていますが、巻によりかなりの脱漏があります。
 宇多天皇の勅を奉じて、892年(寛平4)に藤原時平、菅原道真、大蔵善行、三統理平らが編纂に着手し、901年(延喜元)に完成しました。
 六国史の中では最も詳しく、詔勅・上表文や恒例の年中行事、祥瑞(喜ばしい前兆)・災異(地震・火災等)をも収め、また干支だけでなく日子(ひにち)も併記するなど、史書としての体裁が整備されています。
 以下に『日本三代実録』序の原文を掲載しておきましたので、ご参照ください。

〇『日本三代実録』序

<原文>
 日本三代實錄序
 臣時平等.竊惟,帝王稽古,咸置史官.述言事而徵廢興,甄善惡以備懲勸.開闢之辰,日暮於手披之處,遂初之跡,俄頃於目閱之間者也.伏惟,太上天皇生知至聖,性植純仁.體耀魄而居宸,平泰階而建極,彛倫攸敘,憲竄該舉.以為,始自貞觀,爰及仁和,三代風猷,未著篇牘.若闕文之靡補,恐盛典之長虧.詔大納言-正三位-兼行左近衛大將-皇太子傅-陸奧出羽按察使臣-源朝臣-能有、中納言-兼右近衛大將-從三位-行春宮大夫臣-藤原朝臣-時平、參議-勘解由長官-從四位下-兼守右大辨-行春宮亮臣-菅原朝臣-道真、從五位下-行大外記-兼播磨權大掾臣-大藏朝臣-善行、備中掾-從六位上三統宿禰理平等,因循舊貫,勒就撰修.四五年來,大納言-能有朝臣拜右大臣,奄然殞逝.既而搜採稍周,條流且辨.天皇,倦負扆於九重,輕脫屣於萬乘.宸旈應厭,凝神默於姑射,淨居有勸,落飾於魔宮.爾乃時屬揖讓,朝廷務般.在此際會,蹔停刑緝.
 今上陛下,承累聖之寶祚,順兆民之樂推.天縱雄才,嗤漢武於大略.德尚恭己,法虞舜之無為.思欲遵前旨之草創,從即日之財成.敕正三位-守左大臣-兼行左近衛大將臣-籐據朝臣-時平、正三位-守右大臣-兼行右近衛大將臣-菅原朝臣-道真、從五位上-行勘解由次官-兼大外記-參河權介臣-大藏朝臣-善行、大外記-正六位上臣-三統宿禰-理平等,賷其叅譁,亟有頭角.右大臣-道真朝臣坐事左降,歘向西府.洎斯文之成立,值彼臣之謫行.大外記-理平賜爵遷官,不遂其業.
 臣等,強勉專精,經引積稔,編次究數,筆削畢功.起於天安二年八月乙卯,訖于仁和三年八月丁卯,首尾三十年,都為五十卷,名曰-日本三代實錄.今之所撰,務歸簡正,君舉必書.綸言遐布,五禮沿革,萬機變通,祥瑞天之所祚於人主,灾異之所誡於人主.理燭方策,撮而悉戴之.節會儀注,烝嘗制度,蕃客朝聘.自餘諸事,永式是存,粗舉大綱.臨時之事,履行成常,聊標凡例,以示有之矣.開委巷之常,乖教世之要,妄誕之品,棄而不取焉.臣等生謝含章,辭非隱核.腐毫淹祀,靦汙失魂.謹詣朝堂,奉進以聞.謹序.
      延喜元年八月二日
            左大臣從二位兼行左近衛大將臣藤原朝臣時平
            從五位上行勘解由次官兼大外記臣大藏朝臣善行
                        
                           國史大系『日本三代實錄』より

☆六国史とは?

 奈良時代から平安時代前期に、編纂された以下の6つの官撰の正史のことで、おおむね編年体で記されています。
(1)『日本書紀』 720年(養老4)完成 撰者は、舎人親王 
 全30巻(他に系図1巻は失われた)で、神代から持統天皇まで(?~697年)を掲載する
(2)『続日本紀』 797年(延暦16)完成 撰者は、菅野真道・藤原継縄等
 全40巻で、文武天皇から桓武天皇まで(697~791年)を掲載する
(3)『日本後紀』 840年(承和7)完成 撰者は、藤原冬嗣・藤原緒嗣等
 全40巻(10巻分のみ現存)で、桓武天皇から淳和天皇まで(792~833年)を掲載する
(4)『続日本後紀』 869年(貞観11)完成 撰者は、藤原良房・春澄善縄等
 全20巻で、仁明天皇の代(833~850年)を掲載する
(5)『日本文徳天皇実録』 879年(元慶3)完成 撰者は、藤原基経・菅原是善・嶋田良臣等
 全10巻で、文徳天皇の代(850~858年)を掲載する
(6)『日本三代実録』 901年(延喜元)完成 撰者は、藤原時平・大蔵善行・菅原道真等
 全50巻で、清和天皇から光孝天皇まで(858~887年)を掲載する
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