ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:陽成天皇

youzeitennou01

 今日は、平安時代中期の949年(天暦3)に、第57代の天皇とされる陽成天皇が亡くなった日ですが、新暦では10月23日となります。
 陽成天皇(ようぜいてんのう)は、平安時代前期の868年(貞観10)に京都において、清和天皇の第一皇子(母は藤原長良の娘高子)として生まれましたが、名は貞明(さだあきら)と言いました。869年(貞観11)に清和天皇の皇太子となり、876年(貞観18)に9歳で父・清和天皇から譲位され、第57代とされる天皇として即位したものの、母の兄の藤原基経が摂政となり、実権を握ります。
 880年(元慶4)に父・清和上皇が亡くなり、基経が関白に任ぜられましたが、882年(元慶6)に15歳で元服した頃から基経と対立するようになりました。『日本三代実録』には、闘犬・闘鶏を好み、内裏で馬を乗り回したり、動物をひそかに飼うなど異常な行動が記され、素行に問題があったとされます。
 883年(元慶7)に天皇の乳母紀全子(きのまたこ)の産んだ源益(みなもとのみつ)を殺す事件があり、藤原基経が出仕を拒否するようになりました。それらの原因により、翌年には病気を理由に、17歳で時康親王(光孝天皇)に譲位させられ、二条院(陽成院)に移ります。
 退位後に幾度か歌合を催していて、歌才があったとされますが、残されている歌は、『後撰和歌集』に収める「筑波嶺の峰より落つるみなの川恋ぞつもりて淵となりぬる」のみで、これは後に「小倉百人一首」にも採録されました。長寿を保ったものの、949年(天暦3年9月20日)に病により出家し、9日後の9月29日に、京都において、数え年82歳で亡くなり、墓所は神楽岡東陵(現在の京都市左京区浄土寺真如町)とされています。

<代表的な歌>

・「筑波嶺の 峰より落つる みなの川 恋ぞつもりて 淵となりぬる」(後撰和歌集・百人一首)

☆陽成天皇関係略年表(日付は旧暦です)

・868年(貞観10年) 京都において、清和天皇の第一皇子(母は藤原長良の娘高子)として生まれる
・869年(貞観11年2月1日) 清和天皇の皇太子となる
・876年(貞観18年11月29日) 9歳で父・清和天皇から譲位され、母の兄の藤原基経が摂政となる
・880年(元慶4年) 父・清和上皇が亡くなる
・880年(元慶4年) 藤原基経が関白に任ぜられる
・882年(元慶6年1月) 15歳で元服する
・883年(元慶7年) 天皇の乳母紀全子(きのまたこ)の産んだ源益(みなもとのみつ)を殺す
・883年(元慶7年8月) 藤原基経が出仕を拒否するようになる
・884年(元慶8年2月4日) 17歳で病気を理由に、時康親王(光孝天皇)に譲位し、二条院(陽成院)に移る
・949年(天暦3年9月20日) 病により出家する
・949年(天暦3年9月29日) 京都において、数え年82歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

930年(延長8)第60代の天皇とされる醍醐天皇の命日(新暦10月23日)詳細
1801年(享和元)国学者本居宣長の命日(新暦11月5日)詳細
1879年(明治12)学制」が廃止され、「教育令」が制定される詳細
1972年(昭和47)日本と中国が「日中共同声明」に調印する詳細


このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

イメージ 1

 今日は、平安時代前期の901年(延喜元)に、六国史一番最後の『日本三代実録』が完成した日ですが、新暦では9月17日となります。
 これは、六国史の一番最後のもので、清和天皇、陽成天皇、光孝天皇の3代である、858年年(天安2)8月から887年(仁和3)8月までの30年間を扱っていました。漢文の編年体の史書で、全五十巻からなっていますが、巻によりかなりの脱漏があります。
 宇多天皇の勅を奉じて、892年(寛平4)に藤原時平、菅原道真、大蔵善行、三統理平らが編纂に着手し、901年(延喜元)に完成しました。
 六国史の中では最も詳しく、詔勅・上表文や恒例の年中行事、祥瑞(喜ばしい前兆)・災異(地震・火災等)をも収め、また干支だけでなく日子(ひにち)も併記するなど、史書としての体裁が整備されています。
 以下に『日本三代実録』序の原文を掲載しておきましたので、ご参照ください。

〇『日本三代実録』序

<原文>
 日本三代實錄序
 臣時平等.竊惟,帝王稽古,咸置史官.述言事而徵廢興,甄善惡以備懲勸.開闢之辰,日暮於手披之處,遂初之跡,俄頃於目閱之間者也.伏惟,太上天皇生知至聖,性植純仁.體耀魄而居宸,平泰階而建極,彛倫攸敘,憲竄該舉.以為,始自貞觀,爰及仁和,三代風猷,未著篇牘.若闕文之靡補,恐盛典之長虧.詔大納言-正三位-兼行左近衛大將-皇太子傅-陸奧出羽按察使臣-源朝臣-能有、中納言-兼右近衛大將-從三位-行春宮大夫臣-藤原朝臣-時平、參議-勘解由長官-從四位下-兼守右大辨-行春宮亮臣-菅原朝臣-道真、從五位下-行大外記-兼播磨權大掾臣-大藏朝臣-善行、備中掾-從六位上三統宿禰理平等,因循舊貫,勒就撰修.四五年來,大納言-能有朝臣拜右大臣,奄然殞逝.既而搜採稍周,條流且辨.天皇,倦負扆於九重,輕脫屣於萬乘.宸旈應厭,凝神默於姑射,淨居有勸,落飾於魔宮.爾乃時屬揖讓,朝廷務般.在此際會,蹔停刑緝.
 今上陛下,承累聖之寶祚,順兆民之樂推.天縱雄才,嗤漢武於大略.德尚恭己,法虞舜之無為.思欲遵前旨之草創,從即日之財成.敕正三位-守左大臣-兼行左近衛大將臣-籐據朝臣-時平、正三位-守右大臣-兼行右近衛大將臣-菅原朝臣-道真、從五位上-行勘解由次官-兼大外記-參河權介臣-大藏朝臣-善行、大外記-正六位上臣-三統宿禰-理平等,賷其叅譁,亟有頭角.右大臣-道真朝臣坐事左降,歘向西府.洎斯文之成立,值彼臣之謫行.大外記-理平賜爵遷官,不遂其業.
 臣等,強勉專精,經引積稔,編次究數,筆削畢功.起於天安二年八月乙卯,訖于仁和三年八月丁卯,首尾三十年,都為五十卷,名曰-日本三代實錄.今之所撰,務歸簡正,君舉必書.綸言遐布,五禮沿革,萬機變通,祥瑞天之所祚於人主,灾異之所誡於人主.理燭方策,撮而悉戴之.節會儀注,烝嘗制度,蕃客朝聘.自餘諸事,永式是存,粗舉大綱.臨時之事,履行成常,聊標凡例,以示有之矣.開委巷之常,乖教世之要,妄誕之品,棄而不取焉.臣等生謝含章,辭非隱核.腐毫淹祀,靦汙失魂.謹詣朝堂,奉進以聞.謹序.
      延喜元年八月二日
            左大臣從二位兼行左近衛大將臣藤原朝臣時平
            從五位上行勘解由次官兼大外記臣大藏朝臣善行
                        
                           國史大系『日本三代實錄』より

☆六国史とは?

 奈良時代から平安時代前期に、編纂された以下の6つの官撰の正史のことで、おおむね編年体で記されています。
(1)『日本書紀』 720年(養老4)完成 撰者は、舎人親王 
 全30巻(他に系図1巻は失われた)で、神代から持統天皇まで(?~697年)を掲載する
(2)『続日本紀』 797年(延暦16)完成 撰者は、菅野真道・藤原継縄等
 全40巻で、文武天皇から桓武天皇まで(697~791年)を掲載する
(3)『日本後紀』 840年(承和7)完成 撰者は、藤原冬嗣・藤原緒嗣等
 全40巻(10巻分のみ現存)で、桓武天皇から淳和天皇まで(792~833年)を掲載する
(4)『続日本後紀』 869年(貞観11)完成 撰者は、藤原良房・春澄善縄等
 全20巻で、仁明天皇の代(833~850年)を掲載する
(5)『日本文徳天皇実録』 879年(元慶3)完成 撰者は、藤原基経・菅原是善・嶋田良臣等
 全10巻で、文徳天皇の代(850~858年)を掲載する
(6)『日本三代実録』 901年(延喜元)完成 撰者は、藤原時平・大蔵善行・菅原道真等
 全50巻で、清和天皇から光孝天皇まで(858~887年)を掲載する
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

↑このページのトップヘ