
1874年(明治7)に宮城師範学校に転校しましたが、1876年(明治9)には、宮城師範学校校長の松林義規に逆らい退校処分を受けて上京し、フランス法律学専修の司法省法学校に合格しました。1879年(明治12)に、賄征伐(調理場荒らし)のいたずらの譴責がこじれ、羯南は犯人でなかったが、義憤から原敬・福本日南・加藤恒忠・国分青崖らと退校し、故郷青森に帰り『青森新聞』編集長となったものの、翌年に「讒謗律」に触れ罰金刑を受けます。
1881年(明治14)に上京し、新設の農商務省などのフランス語の翻訳を下請けして食いつなぎ、1883年(明治16)には、太政官御用掛となり、新設の文書局に勤めました。1885年(明治18)に文書局が廃止され内閣官報局ができ、その編輯課長に昇進したものの、1888年(明治21)には依願退職し、谷干城,杉浦重剛らの支援を受けて新聞『東京電報』を創刊します。
1889年(明治22)に改組して、新聞『日本』を創刊し、社主兼主筆となり、1890年(明治23)には、東邦協会の設立に参画して評議員となり、国家経済会設立の発起人ともなりました。1892年(明治25)に隣りに移り住んだ正岡子規を支援し、紙面を提供、1895年(明治28)には、三国干渉に対し受け入れ論の東京日々新聞と論戦します。
1896年(明治29)に各社新聞同盟を結成し、「新聞紙条例」撤廃の運動を主導、翌年には、「新聞紙条例」の緩和に成功しました。1898年(明治31)に創立された東亜同文会の幹事長になり、1900年(明治33)には、近衛篤麿・富田鉄之助らと、日露開戦やむなしと議し、国民同盟会に相談役として参画します。
1901年(明治34)に近衛に従い清国・韓国を視察、近衛から日本新聞への資金援助を得、1902年(明治35)には、『日本人』誌の三宅雪嶺の外遊中、その社説執筆を分担しました。1903年(明治36)に米欧旅行に出発、翌年帰国し、その後の静養中に肺結核を発症、1905年(明治38)の夏からは三宅雪嶺が『日本新聞』の社説を書くようになります。
1906年(明治39)に健康不良と経営悪化から、『日本新聞』を伊藤欽亮に譲渡しましたが、引き続き社説欄を担当したものの、1907年(明治40年)9月2日に、神奈川県鎌倉市において、肺結核により、51歳で亡くなりました。
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
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1871年(明治4) | 社会統計学者・社会運動家高野岩三郎の誕生日(新暦10月15日) | 詳細 |
1913年(大正2) | 思想家・美術指導者岡倉天心の命日 | 詳細 |
1945年(昭和20) | 東京湾上のアメリカ戦艦ミズーリ号の甲板上において降伏文書に調印する | 詳細 |
連合国最高司令官の事務所からの最初の指令(SCAPIN-1)が出される | 詳細 | |
1990年(平成2) | 「児童の権利に関する条約」が国際条約として発効する | 詳細 |