ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:院政

gashirakawatennou01

 今日は、鎌倉時代初期の1192年(建久3)に、第77代の天皇とされる後白河天皇の亡くなった日ですが、新暦では4月26日となります。
 後白河天皇(ごしらかわてんのう)平安時代後期の1127年(大治2年9月11日)に、京都において、鳥羽天皇の第四皇子(母は藤原公実の女璋子)として生まれましたが、名は雅仁(まさひと)と言いました。1129年(大治4)に曽祖父の白河法皇が亡くなり、鳥羽上皇による院政が開始され、1139年(保延5)に12歳で元服して二品に叙せられます。
 1143年(康治2)に最初の妃の源有仁の養女・懿子が守仁親王(後の二条天皇)を産んで急死しましたが、1155年(久寿2年7月24日)に近衛天皇が亡くなると、立太子を経ないまま29歳で即位し、第77代とされる天皇となりました。1156年(保元元年)に鳥羽法皇が亡くなった後、保元の乱に勝利し、信西(藤原通憲)を重用して政治を取り仕切らせ、新制七ヶ条を制定し、記録所を設置して荘園整理を行い、寺社勢力の削減を図ろうとします。
 1158年(保元3)には守仁親王(二条天皇)に譲位し、太上天皇となり、上皇として院政(以後六条、高倉、安徳、後鳥羽と4朝30余年にわたる)を始めました。1159年(平治元)の平治の乱に勝利したものの、信西を失ない、平清盛が乱後の実権を握る形で院政は進められます。
 その後、平氏の全盛期、源平合戦、平氏の滅亡、鎌倉幕府の成立へと進む変革期となりましたが、近臣と共に源平対立を巧みに利用してして対処、王朝権力の維持に努めました。一方で、仏道に帰依し、1169年(嘉応元年)に出家して法皇となり、蓮華王院、長講堂等の造寺・造仏、熊野参詣(34回)、高野山、比叡山、東大寺などへの行幸を盛んに行ないます。
 また、今様を好み歌謡集『梁塵秘抄』 (10巻) 、『梁塵秘抄口伝集』 (10巻) を撰しましたが、1192年(建久3年3月13日)に京都において、数え年66歳で亡くなりました。尚、陵墓は京都三十三間堂廻の法住寺陵(現在の京都府京都市東山区)とされています。

〇後白河天皇関係略年表(日付は旧暦です)

・1127年(大治2年9月11日) 京都において、鳥羽天皇の第四皇子(母は藤原公実の女璋子)として生まれる
・1127年(大治2年11月14日) 親王宣下を受けて「雅仁」と命名される
・1129年(大治4年) 曽祖父の白河法皇が亡くなり、鳥羽上皇による院政が開始される
・1139年(保延5年12月27日) 12歳で元服して二品に叙せられる
・1141年(永治元年12月7日) 崇徳天皇に譲位により、得子所生の体仁親王が即位(近衛天皇)する
・1143年(康治2年) 最初の妃の源有仁の養女・懿子が守仁親王(後の二条天皇)を産んで急死する
・1155年(久寿2年7月24日) 近衛天皇が崩御すると、立太子を経ないまま29歳で即位し、第77代とされる天皇となる
・1155年(久寿2年10月) 藤原公能の娘である藤原忻子が入内する
・1156年(保元元年) 鳥羽法皇が亡くなると保元の乱が発生する
・1158年(保元3年) 守仁親王(二条天皇)に譲位し、太上天皇となる
・1159年(平治元年) 平治の乱が起きて信西を失い、平清盛が乱後の実権を握る形で院政は進められる
・1160年(永暦元年10月) 焼失した三条殿に代わる新たな院政の拠点として、法住寺殿の造営に取り掛かる
・1161年(永暦2年4月13日) 完成した御所に移り住む
・1161年(永暦2年9月3日) 滋子は後白河院の第七皇子(憲仁親王、後の高倉天皇)を出産する
・1161年(永暦2年9月15日) 憲仁立太子の陰謀が発覚し、院政派の平時忠・平教盛・平基盛・藤原成親・藤原信隆らが二条帝により解官される
・1161年(永暦2年12月17日) 藤原育子が入内する
・1162年(応保2年2月19日) 育子が中宮に冊立されると閑院流の藤原実長が中宮権大夫となる
・1162年(応保2年3月) 配流されていた大炊御門経宗が帰京を許される
・1162年(応保2年6月23日) 実長の密告により二条天皇呪詛の容疑で源資賢・平時忠が流罪となる
・1164年(長寛2年12月17日) 多年の宿願により、千体の観音堂・蓮華王院を造営する
・1165年(永万元年6月25日) 子の二条天皇は病状の悪化で順仁親王(六条天皇)に譲位する
・1165年(永万元年7月28日) 子の二条天皇が亡くなる
・1165年(永万元年12月25日) 後白河院は憲仁に親王宣下を行い、平清盛を親王勅別当とする
・1166年(永万2年7月26日) 基実が急死すると、嫡子の近衛基通が幼少のため、松殿基房が新たに摂政・氏長者に任じられる
・1166年(永万2年10月10日) 平清盛の協力を得て、憲仁親王の立太子を実現する
・1167年(仁安2年1月19日) 御所の拡張で法住寺南殿が新しく建て替えられる
・1167年(仁安2年5月10日) 平清盛の長男・平重盛に対して東山・東海・山陽・南海道の山賊・海賊追討宣旨を下す
・1168年(仁安3年2月) 平清盛が病に倒れる
・1168年(仁安3年2月19日) 六条天皇が譲位し、憲仁親王(高倉天皇)が即位する
・1169年(仁安4年1月) 12度目の熊野詣に向かう
・1169年(嘉応元年) 出家して法皇となる
・1169年(嘉応元年12月23日) 延暦寺が藤原成親の配流を要求して強訴する(嘉応の強訴)
・1170年(嘉応2年4月19日) 東大寺で受戒するために奈良に御幸する
・1170年(嘉応2年9月20日) 福原に御幸して宋人と会う
・1170年(嘉応2年10月21日) 参内途中の摂政・松殿基房の車を平重盛配下の武士が襲撃する事件(殿下乗合事件)が起こる
・1170年(嘉応2年12月9日) 藤原基房が太政大臣となる
・1171年(嘉応3年1月3日) 摂政・大臣・公卿・平氏一門が臨席する中、高倉天皇元服の儀式が執り行われる
・1171年(嘉応3年12月14日) 平徳子が後白河院の猶子として高倉天皇に入内する
・1172年(承安2年9月) 宋から後白河院と清盛に供物が届けられる
・1173年(承安3年3月3日) 左大臣・大炊御門経宗の計らいで返牒が出され、答進物が送られることになる
・1173年(承安3年6月25日) 興福寺が多武峯を襲撃して、藤原鎌足の御影堂までも焼き払う
・1173年(承安3年11月3日) 興福寺は強訴と延暦寺攻撃の方針を固めて宇治に向かい、天台座主の配流・覚興の召還・七大寺の所領奪取を図る延暦寺僧の禁獄を要求する
・1176年(安元2年) 建春門院が亡くなると、近臣と平氏の争いが激化する
・1177年(治承元年) 院近臣による平氏打倒の謀議が発覚、近臣数名が平氏によって処罰される(鹿ヶ谷事件)
・1179年(治承3年11月) 平清盛によって鳥羽殿に幽閉される
・1180年(治承4年4月9日) 以仁王が、各地の源氏に平家追討の令旨を出す
・1180年(治承4年4月22日) 高倉天皇の譲位により、安徳天皇(外祖父は平清盛)が即位する
・1180年(治承4年5月26日) 源頼政が以仁王を立てて挙兵するが、平知盛に敗れ、平等院にて敗死する
・1180年(治承4年6月22日) 平氏が福原遷都を強行する
・1180年(治承4年8月17日) 源頼朝が、伊豆で挙兵し山木館を襲撃する
・1180年(治承4年9月7日) 源(木曽)義仲が挙兵する
・1180年(治承4年10月20日) 富士川の戦いが起こり、平氏軍は水鳥の飛び立つ音を源氏の襲撃と間違えて敗走する
・1180年(治承4年11月17日) 源頼朝が、鎌倉に侍所(別当は和田義盛)を設置する
・1180年(治承4年12月28日) 平重衡が、東大寺・興福寺を焼く
・1181年(養和元年閏2月4日) 平清盛が病没する
・1183年(寿永2年5月11日) 倶利伽羅峠の戦いで源(木曽)義仲が平氏を破る
・1183年(寿永2年7月28日) 源(木曽)義仲が、京都に入る
・1183年(寿永2年10月14日) 源頼朝が、寿永宣旨を受け、東国支配権を獲得する
・1184年(寿永3年1月20日) 宇治川の戦いで源義経が源(木曽)義仲を討つ
・1184年(寿永3年1月26日) 平宗盛追討の宣旨を出す
・1184年(寿永3年2月7日) 一ノ谷の戦いで源義経が平氏を破り、平家惣領・平宗盛らは四国・九州に敗走する
・1185年(元暦2年2月19日) 屋島の戦いで源義経らが平氏を破る
・1185年(元暦2年3月24日) 壇の浦の戦いで源義経らが平氏を破り、安徳天皇は入水・死亡し、平氏は滅亡する
・1185年(元暦2年7月9日) 京都を大地震が襲い、多くの建物が倒壊する(文治地震)
・1185年(文治元年8月28日) 八条院や公卿・殿上人を引き連れて東大寺に御幸し、大仏の開眼供養をする
・1185年(文治元年11月28日) 源頼朝が源義経追討のため諸国に守護・地頭を置く勅許を得る(文治の勅許)
・1187年(文治3年2月) 源義経が、藤原秀衡を頼って奥州に落ちのびる
・1189年(文治5年閏4月30日) 衣川の戦いが起き、藤原泰衡が、源義経を討つ
・1189年(文治5年9月18日) 源頼朝が、奥州を平定する
・1190年(建久元年11月9日) 源頼朝と院御所・六条殿で初めての対面を果たす
・1191年(建久2年3月22日) 17ヶ条の新制を発布する
・1192年(建久3年2月18日) 後鳥羽天皇が見舞いのため六条殿に行幸する
・1192年(建久3年3月13日) 京都において、数え年66歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1868年(慶応4)江戸開城を巡って、西郷隆盛と勝海舟が江戸で会談を始める(新暦4月5日)詳細
1988年(昭和63)青函トンネルが開通する詳細
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

gosagatennou01

 今日は、鎌倉時代の1272年(文永9)に、第88代の天皇とされる後嵯峨天皇が亡くなった日ですが、新暦では3月17日となります。
 後嵯峨天皇(ごさがてんのう)は、1220年(承久2年2月26日)に京都において、土御門天皇の第三皇子(母は源通子)として生まれましたが、名は邦仁(くにひと)と言いました。翌年に承久の乱が起き、父の土御門天皇が土佐国に流され、母とも死別しました。その後は母方の大叔父である源通方に養われ、通方の死後は祖母承明門院源在子の土御門第に移ります。
 1242年(仁治3)に四条天皇が12歳で急死し、立太子を経ず践祚し、同年3月18日に第88代とされる天皇として即位しました。同年に西園寺実氏の息女(のちの大宮院)を中宮とし、翌年には法華八講を修して父の土御門天皇の霊を慰めます。
 在位わずか4年の1246年(寛元4)に皇子の久仁親王(後深草天皇)に譲位、上皇となって院政を開始しました。和歌を好み、1247年(宝治元)に歌合を開催、翌年にも応製百首歌「宝治百首」を主催、1251年(建長3)には、藤原為家に『続後撰集』を撰進させます。
 しかし、幕府の朝廷に対する干渉が強まり、幕府の意向を重視して、1252年(建長4)には北条時頼の要請に従い、皇子宗尊親王を最初の宮将軍として鎌倉に下しました。1259年(正元元)に後深草天皇に対し、後深草天皇の弟である恒仁親王(亀山天皇)への譲位を促し、さらに院政を続けます。
 1265年(文永2年)に藤原為家・真観・基家・行家らに『続古今集』を撰進させ、1268年(文永5)には、出家して法皇となり、素覚と号して、大覚寺に移りました。諸宗の法理に通じ、しばしば高野、熊野を巡り、また経論を書写供養しましたが、1272年(文永9年2月17日)に京都において、数え年53歳で亡くなっています。
 尚、亡くなる前に、御書を幕府に送って、将来の皇位は後深草、亀山両流のいずれとも定めず、幕府の推挙にまかせるとの旨を伝えましたが、これが後の北朝・持明院統(後深草天皇の血統)と南朝・大覚寺統(亀山天皇の血統)の確執の契機となり、それが南北朝騒乱へと至ります。

<代表的な歌>

・「敷島や やまと島ねの あさがすみ もろこしまでも 春はたつらし」(続後撰和歌集)
・「吹く風の さそふにほひを しるべにて 行方さだめぬ 花の頃かな」(続拾遺和歌集)
・「暮れてゆく 春の手向や これならむ 今日こそ 花はぬさと 散りけれ」(新後撰和歌集)
・「もろこしも おなじ空こそ しぐるらめ 唐紅に もみぢする頃」(風雅和歌集)
・「三代までに いにしへ今の 名もふりぬ 光をみがけ 玉津島姫」(玉葉和歌集)

〇後嵯峨天皇関係略年表(日付は旧暦です)

・1220年(承久2年2月26日) 京都において、土御門天皇の第三皇子(母は源通子)として生まれる
・1221年(承久3年5月) 承久の乱が起きる
・1221年(承久3年7月) 承久の乱の結果、父の土御門天皇が土佐国に流される
・1221年(承久3年8月) 母と死別する
・1231年(寛喜3年10月11日) 父の土御門天皇が阿波国で亡くなる
・1242年(仁治3年1月9日) 四条天皇が12歳で急死、順徳天皇の皇子忠成王と共に皇位継承候補と目される
・1242年(仁治3年1月20日) 立太子を経ず践祚する
・1242年(仁治3年3月18日) 第88代とされる天皇として即位する
・1242年(仁治3年8月) 西園寺実氏の息女(のちの大宮院)を中宮とする
・1243年(寛元元年) 法華八講を修して父の土御門天皇の霊を慰める
・1246年(寛元4年1月29日) 皇子の久仁親王(後深草天皇)に譲位、上皇となって院政を開始する
・1246年(寛元4年閏4月) 宮騒動が起き、前将軍・藤原頼経が鎌倉から追放される
・1247年(宝治元年) 歌合を開催する
・1248年(宝治2年) 応製百首歌「宝治百首」を主催する
・1251年(建長3年) 藤原為家に『続後撰集』を撰進させる
・1252年(建長4年) 北条時頼の要請に従い、皇子宗尊親王を最初の宮将軍として鎌倉に下す
・1259年(正元元年) 後深草天皇に対し、後深草天皇の弟である恒仁親王(亀山天皇)への譲位を促す
・1265年(文永2年) 藤原為家・真観・基家・行家らに『続古今集』を撰進させる
・1268年(文永5年) 出家して法皇となり、素覚と号して、大覚寺に移る
・1272年(文永9年2月17日) 京都において、数え年53歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1946年(昭和21)金融緊急措置令」(勅令第83号)が発布・施行される詳細
1955年(昭和30)小説家・評論家・随筆家坂口安吾の命日(安吾忌)詳細


このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

tobatennou01

 今日は、平安時代後期の1103年(康和5)に、第74代の天皇とされる鳥羽天皇が生まれた日ですが、新暦では2月24日となります。
 鳥羽天皇(とばてんのう)は、京都において、堀河天皇の第一皇子(母は贈皇太后・藤原苡子)として生まれましたが、名は宗仁(むねひと)と言いました。生後間もなく母・苡子が没し、祖父の白河法皇の下に引き取られて養育され、7ヶ月で立太子されます。
 1107年(嘉承2)に父・堀河天皇が亡くなり、5歳で即位しましたが、実際の政務は白河法皇が執りました。1114年(永久2年)と1117年(永久5年)に内裏歌合を催し、同年に白河法皇の養女である藤原璋子(待賢門院)が入内、翌年には中宮となります。
 1118年(永久6年)に諸国飢饉で、京中の道路に餓死者あふれ、勅願寺として最勝寺を建立、1121年(保安2)にも伊賀・伊勢地方一帯が大きな台風の被害を受けるなどしました。1123年(保安4)に第一皇子の顕仁親王(崇徳天皇)に譲位、1129年(大治4)の白河法皇崩御の後、院政を敷き、宇治に蟄居していた前関白・藤原忠実をに呼び戻し、娘の泰子(高陽院)を入内させ、皇后とします。
 1133年(長承2)頃から藤原得子(美福門院)を寵愛するようになり、1135年(保延元)に子(叡子内親王)を成し、1139年(保延5)には皇子・体仁親王が誕生しました。その子を生後3ヶ月で皇太子とし、1141年(永治元)崇徳天皇を譲位させ、3歳で皇位につけ(近衛天皇)、同年自分は東大寺戒壇院で受戒して法皇となります。
 1155年(久寿2年)に近衛天皇が17歳で後嗣もないまま早世すると、第四皇子で崇徳上皇の同母弟である雅仁親王(後白河天皇)を即位させました。このようにして、崇徳、近衛、後白河の3天皇の28年間院政を行ない、寄進地系荘園を大量に認め、自らも安楽寿院、八条女院、歓喜光院領荘園などを膨大に集積し、摂関家を院近臣として従属させ、伊勢平氏を政権の基盤にとりこむなど、専制的な政治を行います。
 一方、催馬楽、音律、典故に長じ、和歌も八首が勅撰入集、仏教を信じて最勝寺、六勝寺など諸寺を創建、20回を超える熊野詣でを行いました。しかし、1156年(保元元年7月2日)に、京都において、数え年54歳で亡くなり、陵墓は現在の京都市伏見区にある安楽寿院陵とされています。

<代表的な歌>

・「尋ねつる われをや花も まちつらむ けふぞ盛りに 匂ひましける」(金葉和歌集)
・「心あらば 匂ひを添へよ 桜花 のちの春をば いつか見るべき」(千載和歌集)
・「つねよりも むつましきかな 時鳥 しでの山路の 友とおもへば」(千載和歌集)

〇鳥羽天皇関係略年表(日付は旧暦です)

・1103年(康和5年1月16日) 京都において、堀河天皇の第一皇子(母は贈皇太后・藤原苡子)として生まれる
・1103年(康和5年1月25日) 生後間もなく母・苡子が没し、祖父の白河法皇の下に引き取られて養育される
・1103年(康和5年8月) 7ヶ月で立太子される、
・1107年(嘉承2年7月19日) 父・堀河天皇の死後、5歳で即位するが、実際の政務は白河法皇が執る
・1114年(永久2年) 内裏歌合を催す
・1117年(永久5年) 内裏歌合を催す
・1117年(永久5年12月13日) 白河法皇の養女である藤原璋子(待賢門院)が入内する
・1118年(永久6年1月26日) 藤原璋子が中宮となる
・1118年(永久6年) 諸国飢饉で、京中の道路に餓死者あふれる
・1118年(元永元年) 最勝寺を建立する
・1121年(保安2年8月25日) 伊賀・伊勢地方一帯、大きな台風の被害を受ける
・1123年(保安4年1月23日) 第一皇子の顕仁親王(崇徳天皇)に譲位する
・1125年(天治2年12月) 京都で大火がある
・1127年(大治2年) 大治の「荘園整理令」が出される
・1129年(大治4年) 白河法皇崩御の後、院政を敷く
・1131年(天承元年) 白河法皇の勅勘を受けて宇治に蟄居していた前関白・藤原忠実をに呼び戻し、娘の泰子(高陽院)を入内させ、上皇の妃としては異例の皇后とした
・1133年(長承2年)頃 藤原得子(美福門院)を寵愛する
・1135年(保延元年12月4日) 藤原得子が叡子内親王を出産する
・1137年(保延3年2月) 興福寺僧徒、神木を奉じ入京強訴する
・1139年(保延5年5月18日) 藤原得子が皇子・体仁親王(後の近衛天皇)を出産する
・1141年(永治元年) 23歳であった顕仁親王(崇徳天皇)に譲位し、太上天皇となる
・1142年(永治元年12月7日) 得子所生の第九皇子・体仁親王(近衛天皇)を3歳で即位させる
・1142年(康治元年) 東大寺戒壇院で受戒し法皇となる
・1150年(久安6年8月) 興福寺、春日神人が入京強訴する
・1155年(久寿2年) 近衛天皇が早世すると、第四皇子で崇徳上皇の同母弟である雅仁親王(後白河天皇)を即位させる
・1112年(天永3年) 60歳の御賀の際、自ら催馬楽を披露する
・1156年7月20日(保元元年7月2日) 京都において、数え年54歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1905年(明治38)小説家・詩人・文芸評論家伊藤聖の誕生日詳細
1986年(昭和61)洋画家梅原龍三郎の命日詳細
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

イメージ 1

 今日は、平安時代後期の1129年(大治4)に、白河天皇(第72代)が亡くなった日ですが、新暦では7月24日となります。
 白河天皇は、1053年(天喜元年6月19日)に、後三条天皇の第1皇子(母は藤原茂子)として、京都に生まれましたが、名は貞仁といいました。
 1065年(治暦元)に13歳で元服、1069年(延久元)に皇太子に立てられ、1072年(延久4)に、後三条天皇の譲位により、20歳で即位することになります。
 1075年(承保2)に荘園整理令を発し、1076年(承保3)に法勝寺を建立、1081年(永保元)には、宇佐神宮境内地に神宝塔院を建立しました。1086年(応徳3)には、第3皇子善仁親王 (堀河天皇) に譲位し、上皇となって、天皇を後見しながら政治の実権を握る、いわゆる院政(堀河・鳥羽・崇徳3天皇の43年間)を初めて行います。
 その後、1099年(康和1)、1107年(嘉承2)、1127年(大治2)などに何度も荘園整理令を発し、院の武力として北面の武士を創設、新興の源・平氏をこれにあてるなどして、摂関家の政治関与を抑えることに努めます。
 また、仏教への傾倒も著しく、1096年(永長元)出家して法皇となり、法勝寺などを建立しましたが、1129年(大治4年7月7日)に、数え年77歳で亡くなくなりました。

〇白河天皇関係略年表(日付は旧暦です)

・1053年(天喜元)6月19日 後三条天皇の第1皇子(母は藤原茂子)として、京都に生まれる
・1065年(治暦元) 数え年13歳で元服する
・1069年(延久元) 皇太子に立てられる
・1072年(延久4) 後三条天皇の譲位により、数え年20歳で即位し、第72代の天皇となる
・1075年(承保2) 荘園整理令を発する
・1076年(承保3) 法勝寺を建立する
・1081年(永保元) 宇佐神宮境内地に神宝塔院を建立する
・1086年(応徳3) 第3皇子善仁親王 (堀河天皇) に譲位し、上皇となって院政を始める
・1099年(康和1) 荘園整理令を発する
・1102年(康和4) 藤原忠実の職権を停止する
・1107年(嘉承2) 荘園整理令を発する
・1113年(永久元) 永久の変において、輔仁親王を没落に追い込む
・1127年(大治2) 荘園整理令を発する
・1096年(永長元) 出家して法皇となる
・1120年(保安元) 関白藤原忠実を勅勘に処し、職権を停止する
・1129年(大治4)7月7日 京都において、数え年77歳で亡くなる
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

↑このページのトップヘ