ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:関西汽船

murotomaru01
 今日は、昭和時代前期の1945年(昭和20)に、関西汽船「室戸丸」が西宮沖で機雷に接触し沈没(室戸丸沈没事故)し、死者・行方不明475名を出した日です。
 室戸丸沈没事故(むろとまるちんぼつじこ)は、関西汽船別府航路の旅客船「室戸丸」が、大阪から別府に向けて航行中、この日の午後1時半頃、神戸魚崎沖合8kmの大阪湾海上で、機雷に触れて爆発を生じ、沈没して、死者・行方不明475名を出す大惨事となり、戦後の大規模な海難事故の一つとされています。乗客の内、大阪市の住友倉庫社員26名は、翌8日午前5時半頃、折良く現場近くを通りかかった機帆船宝勢丸に救助されたものの、他の乗客は行方不明となりました。
 機雷は、水中に設置され、物理的刺激や磁気などに反応して爆発する水中兵器で、太平洋戦争末期にアメリカ軍が、日本近海の船舶交通を封鎖するために、爆撃機B29等により大量に投下(1万発以上)したものです。1945年(昭和20)に「ポツダム宣言」受諾による敗戦後、同年9月2日に降伏文書署名に至り、日本を占領した連合国軍は、その日の内に連合軍最高司令官指令(SCAPIN)の第1号を発令、その中で日本政府は、「すべての機雷と機雷原および航行の障害物を除去すること」をはじめ,船舶航行の安全確保にかかわるさまざまな義務を負うことになりました。
 しかし、この事故は、終戦後直ぐのことで、機雷除去作業が進んでいなかったために起きた事故です。同月13日には、客船「華城丸」が神戸沖で機雷に触れて沈没し、死者・行方不明175名を出し、14日には、客船「珠丸」が壱岐島沖で機雷に触れて沈没し、死者・行方不明545名を出すなど、各地で触雷事故が起き、多くの犠牲者を出しました。

〇太平洋戦争後(1945年9月以降)日本近海での主な海難事故(死者・行方不明100名以上)

・1945年(昭和20)10月7日 - 関西汽船「室戸丸」が西宮沖で機雷に接触し沈没し、行方不明475名を出す(室戸丸沈没事故)
・1945年(昭和20)10月13日 - 客船「華城丸」が神戸沖で機雷に触れて沈没し、死者・行方不明175名を出す(華城丸沈没事故)
・1945年(昭和20)10月14日 - 客船「珠丸」が壱岐島沖で機雷に触れて沈没し、死者・行方不明545名を出す(珠丸沈没事故)
・1945年(昭和20)11月1日 - 台湾からの引き揚げ船「栄丸」が座礁沈没し、死者約100人名を出す(栄丸遭難事件)
・1945年(昭和20)11月6日 - 尾道港発今治港行き瀬戸内海汽船の今尾連絡船「第十東予丸」が、荒天の中、伯方島木浦港沖で転覆・沈没し、死者・行方不明397名を出す(第十東予丸沈没事故)
・1945年(昭和20)12月9日 - 「せきれい丸」が荒天の明石海峡で転覆し沈没、死者・行方不明304名を出す(せきれい丸沈没事故)
・1948年(昭和23)1月28日 - 関西汽船「女王丸」が瀬戸内海で機雷に触れ沈没、死者・行方不明者188名を出す(女王丸沈没事故)
・1949年(昭和24)6月21日 - 川崎汽船「青葉丸」がデラ台風(昭和24年台風第2号)により大分県沖で転覆し、死者・行方不明者141名を出す(青葉丸転覆事故)
・1954年(昭和29)9月26日 - 青函連絡船「洞爺丸」が函館市沖で洞爺丸台風の暴風により転覆・沈没し乗員乗客1,155名が死亡する(洞爺丸事故)
・1955年(昭和30)5月11日 - 宇高連絡船「紫雲丸」と「第3宇高丸」が濃霧の中で衝突し「紫雲丸」が沈没して死者・行方不明167名、負傷者122名を出す(紫雲丸事故)
・1957年(昭和32)4月12日 - 瀬戸内海の定期客船「第5北川丸」が暗礁で座礁・転覆し、死者・行方不明113名を出す(第五北川丸沈没事故)
・1958年(昭和33)1月26日 - 紀阿連絡航路の旅客船「南海丸」が紀伊水道沼島沖で沈没し乗員乗客167名全員が死亡・行方不明となる(南海丸遭難事故)
・1963年(昭和38)8月17日 - 那覇から久米島へ向かう旅客船「みどり丸」が横波に襲われ転覆し、死者・行方不明者112名を出す(みどり丸沈没事故)

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

715年(霊亀元)元正天皇が「陸田での麦・粟を奨励する詔」を出す(新暦11月7日)詳細
1859年(安政6)安政の大獄で、橋下佐内、頼三樹三郎、飯泉喜内が斬首される(新暦11月1日)詳細
1899年(明治32)箒川鉄橋列車転落事故が起き、死者19人、負傷者38人が出る詳細
1914年(大正3)物理学者(流体力学)今井功の誕生日詳細
1948年(昭和23)芦田均内閣が「昭和電工事件」によって、総辞職に追い込まれる詳細
1949年(昭和24)弁護士・政治家斎藤隆夫の命日詳細
1986年(昭和61)小説家石坂洋二郎の命日詳細
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jyooumaru01

 今日は、昭和時代中期の1948年(昭和23)に、関西汽船の「女王丸」が瀬戸内海で機雷に触れ沈没、死者・行方不明者188名を出した日です。
 女王丸沈没事故(じょおうまるちんぼつじこ)は、瀬戸内海の阪神~多度津航路を運行していた関西汽船「女王丸」(401総トン、長さ48.9m、速力10ノット、乗客定員366名、明治37年4月に進水した鋼船)が、大阪から多度津(香川県)に向かって、乗客269名と乗組員35名の計304名を乗せて航行中、この日の午前3時頃に、岡山県牛窓沖合で機雷に触れて爆発を生じ、僅か20~30分で沈没して引き起こされました。懸命の救助活動にもかかわらず、死者・行方不明188名を出す大惨事となり、戦後の大規模な海難事故の一つとされています。
 機雷は、水中に設置され、物理的刺激や磁気などに反応して爆発する水中兵器で、太平洋戦争末期にアメリカ軍が、日本近海の船舶交通を封鎖するために、爆撃機B29等により大量に投下(1万発以上)したものでした。1945年(昭和20)に「ポツダム宣言」受諾による敗戦後、同年9月2日に降伏文書署名に至り、日本を占領した連合国軍は、その日の内に連合軍最高司令官指令(SCAPIN)の第1号を発令、その中で日本政府は、「すべての機雷と機雷原および航行の障害物を除去すること」をはじめ,船舶航行の安全確保にかかわるさまざまな義務を負うことになります。
 機雷除去作業は、東京湾、呉、佐世保、長崎、神戸などの重要港から順次進められたものの、まだ瀬戸内海航路には危険が潜んでいる状況で、前年7月には「第二日航丸」(500トン)が、続いて9月には「馬山丸」(8700トン)、が触雷していました。そんな状況下で起きた、戦後の悲惨な事故の一つとされています。
 尚、沈没現場を見下ろす高台に本蓮寺があり、この事故の際に遺体が安置された場所で、現在境内には事故で犠牲になった方々の為の慰霊碑が立ち、事故日には法要も営まれて来ました。

〇太平洋戦争後(1946年以降)日本近海での主な海難事故(死者・行方不明100名以上)

・1948年(昭和23)1月28日 - 関西汽船「女王丸」が瀬戸内海で機雷に触れ沈没、死者・行方不明者188名を出す(女王丸沈没事故)
・1954年(昭和29)9月26日 - 青函連絡船「洞爺丸」が函館市沖で洞爺丸台風の暴風により転覆・沈没し乗員乗客1,155名が死亡する(洞爺丸事故)
・1955年(昭和30)5月11日 - 宇高連絡船「紫雲丸」と「第3宇高丸」が濃霧の中で衝突し「紫雲丸」が沈没して死者166名、負傷者122名を出す(紫雲丸事故)
・1957年(昭和32)4月12日 - 瀬戸内海の定期客船「第5北川丸」が暗礁で座礁・転覆し、死者・行方不明113名を出す(第五北川丸沈没事故)
・1958年(昭和33)1月26日 - 紀阿連絡航路の旅客船「南海丸」が紀伊水道沼島沖で沈没し乗員乗客167名全員が死亡・行方不明となる(南海丸遭難事故)
・1963年(昭和38)8月17日 - 那覇から久米島へ向かう旅客船「みどり丸」が横波に襲われ転覆し、死者・行方不明者112名を出す(みどり丸沈没事故)

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

712年(和銅5)太安万侶が編纂した『古事記』が完成し、元明天皇に献上される(新暦3月9日)詳細
1582年(天正10)天正遣欧使節がローマに向かって長崎港を出港する(新暦2月20日)詳細


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