今日は、昭和時代中期の1950年(昭和25)に、松竹より、大庭秀雄監督の映画『長崎の鐘』(原作:永井隆)が封切られた日です。
『長崎の鐘』(ながさきのかね)は、昭和時代中期の1949年(昭和24)1月30日に刊行された、長崎医科大学(現在の長崎大学医学部)教授だった永井隆が自身の被爆体験を綴った随筆です。その内容は、長崎市の原爆爆心地に近い長崎医科大学での原爆投下直後の状況と自身が重傷を負い、妻を亡くしながらも、被爆者の救護活動に当たる様子を記録したものでした。
タイトルは廃墟となった浦上天主堂の煉瓦の中から、壊れずに掘り出された鐘から命名したもの出す。この作品は、1946年(昭和21)8月には書き上げられていたものの、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の検閲のため、すぐには出版許可が下りず、マニラ大虐殺の記録集である『マニラの悲劇』との合本とすることを条件に、ようやく1949年(昭和24)1月30日に、日比谷出版社から出版されました。
当時としては空前のベストセラーとなり、同年7月には、この書をモチーフとした歌謡曲が、サトウハチロー作詞、古関裕而作曲、藤山一郎歌唱で発売されて大ヒットします。さらに、翌年9月23日には、松竹製作・配給、大庭秀雄監督によって映画公開されました。脚本は、新藤兼人、光畑硯郎、橋田壽賀子で、永井隆を若原雅夫、妻の緑を月丘夢路が演じています。
タイトルは廃墟となった浦上天主堂の煉瓦の中から、壊れずに掘り出された鐘から命名したもの出す。この作品は、1946年(昭和21)8月には書き上げられていたものの、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の検閲のため、すぐには出版許可が下りず、マニラ大虐殺の記録集である『マニラの悲劇』との合本とすることを条件に、ようやく1949年(昭和24)1月30日に、日比谷出版社から出版されました。
当時としては空前のベストセラーとなり、同年7月には、この書をモチーフとした歌謡曲が、サトウハチロー作詞、古関裕而作曲、藤山一郎歌唱で発売されて大ヒットします。さらに、翌年9月23日には、松竹製作・配給、大庭秀雄監督によって映画公開されました。脚本は、新藤兼人、光畑硯郎、橋田壽賀子で、永井隆を若原雅夫、妻の緑を月丘夢路が演じています。
〇永井隆(ながい たかし)とは?
昭和時代に活躍した医学者・随筆家です。明治時代後期の1908年(明治41)2月3日 島根県松江市において、医師であった父・寛と母・ツネの長男として生まれました。松江中学校を経て、松江高等学校に進み、1928年(昭和3)に卒業後、長崎医科大学(現・長崎大学医学部)に入学します。
1932年(昭和7)に長崎医科大学卒業後、同大学物理的療法科(レントゲン科)に入り、放射線医学を専攻、助手として放射線物理療法の研究に取り組みました。1933年(昭和8)に幹部候補生として広島歩兵連隊に入隊し、短期軍医として満州事変に従軍、翌年帰国し、大学の研究室助手に復帰、洗礼を受け、洗礼名をパウロとし、森山緑と結婚します。
1937年(昭和12)に長崎医科大学の講師に就任したものの、日中戦争勃発後まもなく第5師団衛生隊隊長・軍医中尉として出征、1940年(昭和15)に日本に帰国し、功績により功五級金鵄勲章を受章しました。1940年(昭和15)に長崎医科大学助教授・物理的療法科部長に就任、1944年(昭和19)には、「尿石の微細構造」で医学博士号を授与されます。
1945年(昭和20)6月に被曝による白血病と診断され、余命3年の宣告を受け、同年8月9日の長崎原爆投下により、被爆し重傷を負い、妻を亡くすも、被爆者の救護活動に当たりました。太平洋戦争後の1946年(昭和21)に長崎医科大学教授に就任しましたが、半年後には長崎駅近くで倒れ、その後は病床に伏すこととなります。
闘病生活を送りながら、1948年(昭和23)に随筆『生命の河』、『この子を残して』、翌年に随筆『長崎の鐘』が日比谷出版より刊行され、大きな反響を呼びました。同年7月には、この書をモチーフとした歌謡曲が、サトウハチロー作詞、古関裕而作曲、藤山一郎歌唱で発売されて大ヒット、さらに、翌年には、松竹製作・配給、大庭秀雄監督によって映画化されます。
1949年(昭和24)に長崎市名誉市民の称号を受け、翌年5月14日にローマ教皇特使として大司教のフルステンベルクが見舞いに訪れ、ロザリオを下賜されたものの、1951年(昭和26)5月1日に長崎市において、白血病のため43歳で亡くなりました。
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
1932年(昭和7)に長崎医科大学卒業後、同大学物理的療法科(レントゲン科)に入り、放射線医学を専攻、助手として放射線物理療法の研究に取り組みました。1933年(昭和8)に幹部候補生として広島歩兵連隊に入隊し、短期軍医として満州事変に従軍、翌年帰国し、大学の研究室助手に復帰、洗礼を受け、洗礼名をパウロとし、森山緑と結婚します。
1937年(昭和12)に長崎医科大学の講師に就任したものの、日中戦争勃発後まもなく第5師団衛生隊隊長・軍医中尉として出征、1940年(昭和15)に日本に帰国し、功績により功五級金鵄勲章を受章しました。1940年(昭和15)に長崎医科大学助教授・物理的療法科部長に就任、1944年(昭和19)には、「尿石の微細構造」で医学博士号を授与されます。
1945年(昭和20)6月に被曝による白血病と診断され、余命3年の宣告を受け、同年8月9日の長崎原爆投下により、被爆し重傷を負い、妻を亡くすも、被爆者の救護活動に当たりました。太平洋戦争後の1946年(昭和21)に長崎医科大学教授に就任しましたが、半年後には長崎駅近くで倒れ、その後は病床に伏すこととなります。
闘病生活を送りながら、1948年(昭和23)に随筆『生命の河』、『この子を残して』、翌年に随筆『長崎の鐘』が日比谷出版より刊行され、大きな反響を呼びました。同年7月には、この書をモチーフとした歌謡曲が、サトウハチロー作詞、古関裕而作曲、藤山一郎歌唱で発売されて大ヒット、さらに、翌年には、松竹製作・配給、大庭秀雄監督によって映画化されます。
1949年(昭和24)に長崎市名誉市民の称号を受け、翌年5月14日にローマ教皇特使として大司教のフルステンベルクが見舞いに訪れ、ロザリオを下賜されたものの、1951年(昭和26)5月1日に長崎市において、白血病のため43歳で亡くなりました。
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
785年(延暦4) | 長岡京造営中に、藤原種継暗殺事件が起きる(新暦10月30日) | 詳細 |
1557年(天正5) | 手取川の戦いで、上杉謙信軍が織田信長軍に大勝する(新暦11月3日) | 詳細 |
1790年(寛政2) | 前句付点者柄井川柳の命日(新暦10月30日) | 詳細 |
1832年(天保3) | 儒学者・詩人頼山陽の命日 | 詳細 |
1871年(明治4) | 思想家・社会運動家幸徳秋水の誕生日(新暦11月5日) | 詳細 |
1884年(明治17) | 自由民権運動激化事件の一つ、加波山事件が起きる | 詳細 |
1913年(大正2) | 音楽評論家・随筆家吉田秀和の誕生日 | 詳細 |