ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:長崎

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 今日は、江戸時代後期の1854年(嘉永7)に、長崎において、「日英和親条約」が調印(同年8月29日批准書交換)された日ですが、新暦では10月14日となります。
 「日英和親条約」(にちえいわしんじょうやく)は、日本が「日米和親条約」に次いで、イギリスとの間で締結した最初の条約で、「日英約定」とも呼ばれてきました。東インド・中国艦隊司令長官スターリングと長崎で調印されましたが、船舶修理や食料・必需品の補給のため長崎・箱館を開くこと、難船には他の諸港への入港を許すこと、片務的最恵国待遇などが規定されています。
 これは、外交上の全権をもたない使節と調印した点で異例であり、不平等条約であったものの、1858年(安政5)の「日英修好通商条約」にも受け継がれることとなりました。
 以下に、「日英和親条約」の英語原文と江戸幕府による日本語訳を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇「日本國大不列顛國約定(日英和親条約)」 1854年10月14日(嘉永7年8月23日)長崎にて調印

<英語原文>

Convention between Great Britain and Japan (Anglo-Japanese Friendship Treaty)

Ratifications exchanged at Nagasaki, October 9th 1855 (the 29th day, 8th month, 2nd year of Ansei).

Signed at Nagasaki, October 14th 1854 (the 23rd day, 8th month, 7th year of Kaei).

It is agreed between Sir James Stirling, Knight, Rear-Admiral and Commander-in-chief of the ships and vessels of Her Britannic Majesty in the East Indies and seas adjacent, and Mizu-no Chikugo-no Kami, Obugio of Nagasaki, and Nagai Iwa-no jio, Ometske of Nagasaki, ordered by His Imperial Highness the Emperor of Japan to act herein, that:--

 ARTICLE I.

The Ports of Nagasaki [Hizen] and Hakodate [Matsmai] shall be open to British ships for the purposes of effecting repairs, and obtaining fresh water, provisions, and other supplies of any sort they may absolutely want for the use of the ships.

 ARTICLE II.

Nagasaki shall be open for the purposes aforesaid from and after the present date; and Hakodate from and after the end of fifty days from the Admiral’s departure from this port. The rules and regulations of each of these ports are to be complied with.

 ARTICLE III.

Only ships in distress from weather, or unmanageable, will be permitted to enter other ports than those specified in the foregoing Articles, without permission from the Imperial Government.

 ARTICLE IV.

British ships in Japanese ports shall conform to the laws of Japan. If high officers or commanders of ships shall break any such laws, it will lead to the ports being closed. Should inferior persons break them, they are to be delivered over to the Commanders of their ships for punishment.

 ARTICLE V.

In the ports of Japan, either now open, or which may hereafter be opened, to the ships or subjects of any foreign nation, British ships and subjects shall be entitled to admission, and to the enjoyment of an equality of advantages with those of the most favoured nation, always excepting the advantages accruing to the Dutch and Chinese from their existing relations with Japan.

 ARTICLE VI.

This Convention shall be ratified, and the ratifications shall be exchanged at Nagasaki on behalf of Her Majesty the Queen of Great Britain, and on behalf of His Highness the Emperor of Japan, within twelve months from the present date.

 ARTICLE VII.

When this Convention shall be ratified, no high officer coming to Japan shall alter it.

<江戸幕府による日本語訳>

嘉永七年(安政元年)甲寅八月二十三日(西曆千八百五十四年第十月十四日)於長崎調印

安政二年乙卯八月二十九日(西曆千八百五十五年第十月九日)於同所本書交換

日本大君の命を請たる長崎奉行水野筑後守御目付永井岩之丞と東印度及ひ其近海の英國軍艦を指揮する第三等水師提督ナイト(爵名)ゼームス、スチルリングと同意約定する條々左の如し

 第一條

長崎箱館の兩港を英國船修復淸水食料其外都て船中必需の貯品を供せん爲め開くへし

 第二條

長崎は右のため今より開き箱館は水師提督當港を出帆の日より五十日後に開くへし尤も右兩港の法律規則は都て聽從すへし

 第三條

暴風雨の爲に困難し或は不得止時のみは日本政府の免許を受けす前條に取極し港の外他港へ入津するを許すへし

 第四條

日本の港に入津する英船は日本の法律に從ふへし船中の高官或は指揮官右法律を犯す時は其港を鎖し其以下の人々之を犯す時は其船の指揮官に引渡し罰を加ふへし

 第五條

他の外國の船或は人民の爲に今開きたる港或は此後開くへき港に於ては英國の船並人民も其港に入津し且最も恩惠を加へらる〃國に與へらる〃利益は同樣之を受くへし然れ共日本と先前より交際を存する和蘭並支那に與ふる利益は常に此例に非さるへし

 第六條

此約書確證の上本書は日本大君と英國女王の爲め今より十二箇月の中に長崎に於て取替すへし

 第七條

此約書本書爲取替相濟たる上は日本に來る高官誰にても此約を變更する事なし

右證據として於長崎此書に手記調印する者也

 嘉永七年甲寅八月二十三日
 千八百五十四年十月十四日

  水野筑後守 花押
  永井岩之丞 花押
  ゼームス、スチルリング 手記

   「日本外交年表竝主要文書上巻」より

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1180年(治承4)石橋山の戦いで、300騎の源頼朝が3,000余騎の大庭景親に敗れる(新暦9月14日)詳細
1914年(大正3)第一次世界大戦で、「日英同盟」を理由に日本がドイツに宣戦布告する詳細
1942年(昭和17)日本画家竹内栖鳳の命日詳細
1944年(昭和19)「学徒勤労令」が公布・施行される詳細
「女子挺身勤労令」が公布・施行される詳細
1975年(昭和50)中央自動車道の恵那山トンネル(当時日本最長の道路トンネル)が開通する詳細
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 今日は、江戸時代前期の1641年(寛永18)に、江戸幕府が平戸のオランダ人を長崎の出島に移住させた日ですが、新暦では6月25日となります。
 出島(でじま)は、江戸幕府による鎖国政策の一環として、1634年(寛永11)の「第2次鎖国令」により、対外政策の一環として長崎に築造開始された扇型の人工島でした。完成は、1636年(寛永13)で、面積は3,969坪(約13,000㎡)、市街地との連絡は1本の橋のみで、見張番所を置き出入りを厳重に監視し、当初はポルトガル人の隔離を目的としたものです。
 1637年(寛永14)の島原の乱後、1639年(寛永16年7月5日)の「第5次鎖国令」が出されて、ポルトガル船の入港禁止により、ポルトガル人が追放され、1641年(寛永18年5月17日)に平戸のオランダ商館がここに移されました。甲比丹(かぴたん)部屋、紅毛人部屋、倉庫、通詞会所など65棟が建てられ、奉行所役人、入札商人、遊女、人夫のみ出入を許可されます。しかし、鎖国政策下において、世界への窓の役割を果たし、西欧の文物を取り入れる拠点として、幕末まで存続しました。
 明治以降は、長崎港の港湾整備に伴い、1899年(明治32)~1904年(明治37)に付近が埋め立てられて陸続きとなり、扇形の人工島であった頃の面影は失われたものの、1922年(大正11)に、「出島和蘭商館跡」として国の史跡に指定されます。1996年(平成8)から、長崎市によって、江戸当時の姿への復元を目指す「出島復元整備事業計画」が進められてきました。

☆「鎖国」完成までの略年表(日付は旧暦です)

・1612年(慶長17年3月) 幕領に禁教令を出す
・1616年(元和2年8月) 明朝以外の船の入港を長崎・平戸に限定する
・1620年(元和6年) 平山常陳事件で英蘭が協力してポルトガルの交易を妨害し、元和の大殉教に繋がる
・1623年(元和9年11月) イギリスが業績不振のため平戸商館を閉鎖する
・1624年(寛永元年3月) スペインとの国交を断絶、来航を禁止する
・1628年(寛永5年) タイオワン事件の影響で、オランダとの交易が4年間途絶える
・1631年(寛永8年6月) 奉書船制度の開始で朱印船に朱印状以外に老中の奉書が必要となる
・1633年(寛永10年2月28日) 「第1次鎖国令」(奉書船以外の渡航禁止、海外に5年以上居留する日本人の帰国を禁止)が出される
・1634年(寛永11年) 「第2次鎖国令」(第1次鎖国令の再通達。長崎に出島の建設を開始)が出される
・1635年(寛永12年5月) 「第3次鎖国令」(中国・オランダなど外国船の入港を長崎のみに限定、東南アジア方面への日本人の渡航及び日本人の帰国を禁止)が出される
・1636年(寛永13年5月19日) 「第4次鎖国令」(貿易に関係のないポルトガル人とその妻子287人をマカオへ追放、残りのポルトガル人を出島に移す)が出される
・1637年(寛永14年) 島原の乱が始まり、幕府に武器弾薬をオランダが援助する
・1639年(寛永16年7月5日) 「第5次鎖国令」(ポルトガル船の入港禁止)が出される
・1640年(寛永17年) マカオから通商再開依頼のためポルトガル船来航、徳川幕府が使者61名を処刑する
・1641年(寛永18年5月17日) オランダ商館を平戸から出島に移す
・1643年(寛永20年) ブレスケンス号事件でオランダ船は日本中どこに入港しても良いとの徳川家康の朱印状が否定される
・1644年(正保元年) 中国にて明が滅亡し、満州の清が李自成の順を撃破して中国本土に進出。明再興を目指す勢力が日本に支援を求める(日本乞師)が、徳川幕府は拒絶を続ける
・1647年(正保4年) ポルトガル船2隻、国交回復依頼に来航、徳川幕府は再びこれを拒否、以後、ポルトガル船の来航が絶える
・1673年(延宝元年1月) リターン号事件でイギリスとの交易の再開を拒否、以降100年以上、オランダ以外のヨーロッパ船の来航が途絶える

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

717年(養老元)浮浪・逃亡が増え、「諸国の百姓の浮浪・逃亡の続出に関する詔」が出される(新暦6月30日)詳細
1875年(明治8)最初の屯田兵が北海道の琴似(現在の札幌市西区)に入植する詳細
1890年(明治23)「府縣制」(明治23年法律第35号)が公布される詳細
 「郡制」(明治23年法律第36号)が公布される詳細
1946年(昭和21)GHQから「肥料の生産、分配及び使用に関する覚書」(SCAPIN-962)が指令される詳細
1965年(昭和40)労働者の結社の自由・団結権の保護を定めた「ILO87号条約」を国内で承認する詳細
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 今日は、江戸時代後期の1823年(文政6)に、P.F.vonシーボルトがオランダ商館の医師として長崎・出島に着任した日ですが、新暦では8月12日となります。
 P.F.vonシーボルト(フィリップ・フランツ・バルタザール・フォン・シーボルト)は、ドイツの医師・博物学者で、オランダ商館の医師として来日し、長崎に鳴滝塾を開設していますが、正式には、フィリップ・フランツ・バルタザール・フォン・シーボルト(ドイツ語: Philipp Franz Balthasar von Siebold)と言いました。1796年2月17日に、南ドイツのバイエルンのビュルツブルクにおいて、医師の家系で、父はヴュルツブルク大学医学部産婦人科教授ヨハン・ゲオルク・クリストフ・フォン・シーボルトの次男として生まれます。
 1歳余で父を亡くし、ハイディングスフェルに住む母方の叔父に育てられました。1810年にヴュルツブルクの高校に入学し、その後、ビュルツブルク大学で医学、植物学、動物学、地理学などを学び、1820年に学位を得ています。
 1822年にオランダ領東インド会社付の医官となり、翌年にジャワに赴任しました。まもなく、日本に任官することになり、1823年(文政6年7月7日)にオランダ商館の医師として来日、長崎出島に入ります。
 翌年に長崎郊外に学塾兼診療所「鳴滝(なるたき)塾」を開設、西洋医学および一般科学を教授して、高野長英、高良斎、伊東玄朴、戸塚静海、美馬順三、二宮敬作ら多くの門人を育てました。1826年(文政9)にオランダ商館長の江戸参府に随行して、1ヶ月余り江戸に滞在、その間に高橋景保、大槻玄沢、宇田川榕庵ら江戸の蘭学者と交流を持ちます。
 また、日本の動植物を研究し、日本に関する研究資料も集めました。帰国に際し、国禁の日本地図や葵紋付き衣服などを持ち出そうとして発覚(シーボルト事件)し、処罰され、1829年(文政12)に国外追放処分を受けます。
 その後、1858年(安政5)の「日蘭修好通商条約」の締結により、P.F.vonシーボルトの追放が解除となり、翌年にオランダ商事会社員として長男アレクサンダーを伴って再来日しました。幕府の外交にも参与しましたが、1862年(文久2)に日本を去り、1866年10月18日に、ドイツのミュンヘンにおいて、70歳で病死しています。

〇P.F.vonシーボルトの主要な日本関係の著作

・『日本』 Nippon(1832~54年) 
・『日本植物誌』 Flora Japonica(1835~70年) 
・『日本動物誌』 Fauna Japonica(1833~50年)
・『江戸参府紀行』 

☆P.F.vonシーボルト関係略年表

・1796年2月17日 南ドイツのバイエルンのビュルツブルクにおいて、医師の家系で、父はヴュルツブルク大学医学部産婦人科教授ヨハン・ゲオルク・クリストフ・フォン・シーボルトの次男として生まれる
・1810年 ヴュルツブルクの高校に入学する
・1815年 ウュルツブルク大学に入学、医学のほか生物学、人類学、民族学、地理学などを勉強する
・1820年 ビュルツブルク大学を卒業し、学位を得て、医学博士となる
・1822年(文政5年) オランダ領東インド会社付の医官(陸軍外科少佐)となる
・1823年(文政6年) ジャワに赴任する
・1823年(文政6年7月7日) オランダ商館の医師として来日、長崎出島に入る
・1824年(文政7年) 長崎郊外に学塾兼診療所「鳴滝(なるたき)塾」を開設、西洋医学および一般科学を教授する
・1826年(文政9年) オランダ商館長の江戸参府に随行して、1ヶ月余り江戸に滞在する
・1827年(文政10年) 娘いねが誕生する 
・1828年(文政11年) 帰国の際に、国禁の日本地図や葵紋付き衣服などを持ち出そうとして発覚する(シーボルト事件)
・1829年(文政12年) シーボルト事件で国外追放処分を受ける
・1830年(天保元年)7月7日 オランダに帰着する
・1832年(天保3年) 『日本』が刊行開始される
・1833年(天保4年) 『日本植物誌』が刊行開始される
・1835年(天保6年) 『日本動物誌』が刊行開始される
・1858年(安政5年) 「日蘭修好通商条約」の締結により、P.F.vonシーボルトの追放が解除される
・1859年(安政6年) オランダ商事会社員として長男アレクサンダーを伴って長崎へ再来日する
・1861年(文久元年) 幕府から江戸へ招かれる
・1862年(文久2年) 日本を去る
・1866年10月18日 ドイツのミュンヘンにおいて、70歳で病死する

☆シーボルト事件とは?

 江戸時代後期の1828年(文政11)に、オランダ商館付のドイツ人医師P.F.vonシーボルトが帰国の際に、国禁の日本地図や葵紋付き衣服などを持ち出そうとして発覚した事件です。1826年(文政9)にオランダ商館長の江戸参府に随行し、幕府天文方高橋景保からは,クルーゼンシュテルンの『世界一周記』等と交換に、伊能忠敬の日本沿海実測図をもとにした地名入りの日本略図、蝦夷地図、間宮林蔵『東韃紀行』を贈られ、幕府眼科奥医師土生玄碩(はぶげんせき)からは、開瞳術伝授と交換に将軍拝領の葵の紋服を贈られました。
 それらが、1828年(文政11)に帰国する際に、8月9日の暴風で稲佐のなぎさに座礁した、コルネリス・ハルトマン号の修理のために降ろした積荷から発覚し、11月10日商館長メイランを通じて地図そのほか26点の品が押収されます。取調べは江戸と長崎で行われて長引き、P.F.vonシーボルトは約1年間長崎の出島に拘禁され、1829年(文政12年9月25日)に「日本御構(おかまえ)」の判決(国外追放処分)を受け、同年12月に日本より追放され、再渡航禁止を宣告されました。
 また江戸では、高橋景保は1828年(文政11年10月10日)に検挙され、翌年2月16日に獄死しましたが、死骸を塩漬にされ、1829年(文政13年3月26日)死刑の判決を受け、奥医師土生玄碩(家禄・屋敷没収)、長崎屋源右衛門などが、長崎では、門人の二宮敬作、高良斎、出島絵師川原登与助はじめ、通詞の馬場為八郎、吉雄忠次郎、稲部市五郎、堀儀左衛門、末永甚左衛門、岩瀬弥右衛門、同弥七郎から召使いに至るまで50数人の多数が処分を受けます。幕府は、これを機会として、より一層洋学者の行動をきびしく監視するようになりました。
 尚、1858年(安政5)の「日蘭修好通商条約」の締結により、P.F.vonシーボルトの追放が解除となり、翌年に長男アレクサンダーを伴って再来日し、幕府の外交顧問となっています。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

年中行事七夕です詳細
1129年(大治4)白河天皇(第72代)の命日(新暦7月24日)詳細
1615年(慶長20)江戸幕府が大名統制の為「武家諸法度」(元和令)を発布する(新暦8月30日)詳細
1844年(天保15)和歌山藩士・外交官・政治家・伯爵陸奥宗光の誕生日(新暦8月20日)詳細
1884年(明治17)「華族令」(明治17年宮内省達無号)が制定され、公・侯・伯・子・男の爵位が定められる詳細
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 今日は、江戸時代末期の1865年(元治2)に、長崎に大浦天主堂が完成(西洋建築の木造三廊)し、献堂式が挙行された日ですが、新暦では2月19日となります。
 大浦天主堂(おおうらてんしゅどう)は、長崎県長崎市に建立された日本最古の現存するキリスト教建築物でした。フランス人宣教師プティジャンらの指導により建設されたもので、正式名称は日本二十六聖殉教者堂といいました。
 教会完成後、浦上地区の村民たちが、ここのプチジャン司教を訪ね、カトリックの信者(江戸時代の間信仰を守った隠れキリシタン)であることを告白し、「信徒発見」とよばれる歴史的事件となります。1979年(明治12)には、木造からレンガ造りに改築(五廊式1塔の煉瓦壁漆喰塗)され、洋風のゴシック様式建造物となりました。
 現存する日本最古の洋風建造物として、とても貴重なので、1933年(昭和8)に、「国宝保存法」に基づき旧国宝(現行法の重要文化財に相当)となり、1953年(昭和28)には、「文化財保護法」に基づき国宝に指定されます。さらに、2018年(平成30)には、「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」を構成する文化財の1つとして、世界文化遺産に登録されました。

〇大浦天主堂関係略年表(明治5年以前の日付は旧暦です)

・1862年(文久2年) フランスのパリ外国宣教会宣教師で日本教区長のジラール神父の命により、横浜にいたフランス人司祭(神父)フューレが長崎に赴任、司祭館と教会堂の建築準備に着手する
・1863年(文久3年) プティジャン神父(後に司教)が長崎に着任、フューレを補助し、天主堂建設に尽力する
・1864年(元治元年12月1日) 大浦天主堂が竣工(西洋建築の木造三廊)する
・1865年(元治2年1月24日) ジラール神父を始め、フランス領事、長崎港内に停泊中のフランス、ロシア、オランダ、イギリス各国の軍艦艦長臨席のもとに荘厳に献堂式が挙行される
・1865年(元治2年2月12日) 浦上の潜伏キリシタンが大浦天主堂を訪ね、プティジャン神父に密かに信仰者であることを名乗る(信徒発見)
・1868年(慶応4年6月7日) フランス人神父ド・ロがペルーズ号で来航し、大浦天主堂に入る
・1875年(明治8年) ポアリエ神父の設計で、天主堂の大規模な増改築を開始する
・1879年(明治12年) 天主堂の大規模な増改築が完成し、九州初の煉瓦造構造(五廊式1塔の煉瓦壁漆喰塗)となる
・1891年(明治24年) カトリック長崎司教区(現・カトリック長崎大司教区)の司教座聖堂となる
・1933年(昭和8年)1月23日 当時の「国宝保存法」に基づき国宝(旧国宝:現行法の重要文化財に相当)に指定される
・1945年(昭和20年)8月9日 長崎市への原爆投下によって破損したが、爆心地から比較的離れていたため倒壊・焼失は免れる
・1952年(昭和27年)6月30日 原爆被害の修理が完了する
・1953年(昭和28年)3月31日 「文化財保護法」に基づき国宝に指定される(洋風建築としては初の国宝指定)
・1962年(昭和37年)1月1日 カトリック長崎大司教区の司教座聖堂が浦上教会に変更される
・1962年(昭和37年)6月8日 日本二十六聖人列聖記念100年祭のミサが執り行われる
・1962年(昭和37年)6月10日 西坂公園で記念式典を挙行、国内外よりカトリック信徒約1万人が参列する
・1965年(昭和40年)2月21日 大浦天主堂創建100周年記念式典が挙行される
・1965年(昭和40年)3月16日 キリスト信者発見100周年記念祭が開催。信者発見記念碑「聖母像」の除幕式が挙行される
・1965年(昭和40年)3月17日 ローマ教皇特使マレラ枢機卿が長崎を訪れ、大浦天主堂で荘厳ミサが執り行われる
・1975年(昭和50年)11月3日 天主堂に登る石段横の隣接地にカトリック大浦教会が新築される
・2007年(平成19年) 建立当初の設計図(平面図と側面図)がパリ外国宣教会本部古文書局の保管資料から発見される
・2016年(平成28年) 教皇庁典礼秘跡省長官ロベール・サラ枢機卿による4月26日付公式文書により、日本初の小バシリカとなる
・2018年(平成30年)4月1日 「キリシタン博物館」が開設される
・2018年(平成30年)6月 「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」を構成する文化財の1つとして、世界文化遺産に登録される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1632年(寛永9)武将・江戸幕府第2代将軍徳川秀忠の命日(新暦3月14日)詳細
1869年(明治2)詩人・随筆家・評論家大町桂月の誕生日(新暦3月6日)詳細
1871年(明治4)「書状ヲ出ス人ノ心得」、「郵便賃銭切手高並代銭表」等の太政官布告が出される(新暦3月14日)詳細
1960年(昭和35)小説家火野葦平の命日詳細
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 今日は、江戸時代後期の1829年(文政12)に、P.F.vonシーボルトがシーボルト事件によって、国外追放処分を受けた日ですが、新暦では10月22日となります。
 シーボルト事件(しーぼるとじけん)は、1828年(文政11)に、オランダ商館付のドイツ人医師P.F.vonシーボルトが帰国の際に、国禁の日本地図や葵紋付き衣服などを持ち出そうとして発覚した事件でした。1826年(文政9)にオランダ商館長の江戸参府に随行し、幕府天文方高橋景保からは,クルーゼンシュテルンの『世界一周記』等と交換に、伊能忠敬の日本沿海実測図をもとにした地名入りの日本略図、蝦夷地図、間宮林蔵『東韃紀行』を贈られ、幕府眼科奥医師土生玄碩(はぶげんせき)からは、開瞳術伝授と交換に将軍拝領の葵の紋服を贈られます。
 それらが、1828年(文政11)に帰国する際に、8月9日の暴風で稲佐のなぎさに座礁した、コルネリス・ハルトマン号の修理のために降ろした積荷から発覚し、11月10日商館長メイランを通じて地図そのほか26点の品が押収されました。取調べは江戸と長崎で行われて長引き、P.F.vonシーボルトは約1年間長崎の出島に拘禁され、1829年(文政12年9月25日)に「日本御構(おかまえ)」の判決(国外追放処分)を受け、同年12月に日本より追放され、再渡航禁止を宣告されます。
 また江戸では、高橋景保が1828年(文政11年10月10日)に検挙され,翌年2月16日に獄死しましたが、死骸を塩漬にされ、1829年(文政13年3月26日)死刑の判決を受け、奥医師土生玄碩(家禄・屋敷没収)、長崎屋源右衛門などが、長崎では、門人の二宮敬作、高良斎、出島絵師川原登与助はじめ、通詞の馬場為八郎、吉雄忠次郎、稲部市五郎、堀儀左衛門、末永甚左衛門、岩瀬弥右衛門、同弥七郎から召使いに至るまで50数人の多数が処分を受けました。幕府は、これを機会として、より一層洋学者の行動をきびしく監視するようになります。
 尚、1858年(安政5)の「日蘭修好通商条約」の締結により、P.F.vonシーボルトの追放が解除となり、翌年に長男アレクサンダーを伴って再来日し、幕府の外交顧問となりました。

〇P.F.vonシーボルトとは?

 ドイツの医師・博物学者で、オランダ商館の医師として来日し、長崎に鳴滝塾を開設していますが、正式には、フィリップ・フランツ・バルタザール・フォン・シーボルト(ドイツ語: Philipp Franz Balthasar von Siebold)と言います。
 1796年2月17日に、南ドイツのバイエルンのビュルツブルクにおいて、医師の家系で、父はヴュルツブルク大学医学部産婦人科教授ヨハン・ゲオルク・クリストフ・フォン・シーボルトの次男として生まれました。1歳余で父を亡くし、ハイディングスフェルに住む母方の叔父に育てられます。
 1810年にヴュルツブルクの高校に入学し、その後、ビュルツブルク大学で医学、植物学、動物学、地理学などを学び、1820年に学位を得ました。1822年にオランダ領東インド会社付の医官となり、翌年にジャワに赴任します。
 まもなく、日本に任官することになり、1823年(文政6)にオランダ商館の医師として来日、長崎出島に入りました。翌年に長崎郊外に学塾兼診療所「鳴滝(なるたき)塾」を開設、西洋医学および一般科学を教授して、高野長英、高良斎、伊東玄朴、戸塚静海、美馬順三、二宮敬作ら多くの門人を育てます。
 1826年(文政9)にオランダ商館長の江戸参府に随行して、1ヶ月余り江戸に滞在、その間に高橋景保、大槻玄沢、宇田川榕庵ら江戸の蘭学者と交流を持ちました。また、日本の動植物を研究し、日本に関する研究資料も集めます。
 帰国に際し、国禁の日本地図や葵紋付き衣服などを持ち出そうとして発覚(シーボルト事件)し、処罰され、1829年(文政12)に国外追放処分を受けました。
 その後、1858年(安政5)の「日蘭修好通商条約」の締結により、P.F.vonシーボルトの追放が解除となり、翌年にオランダ商事会社員として長男アレクサンダーを伴って再来日します。幕府の外交にも参与しましたが、1862年(文久2)に日本を去り、1866年10月18日に、ドイツのミュンヘンにおいて、70歳で病死しました。
 尚、『日本』 Nippon(1832~54年)、『日本植物誌』 Flora Japonica(1835~70年)、『日本動物誌』 Fauna Japonica(1833~50年)など日本関係の論著を多く残しています。

☆P.F.vonシーボルトの主要な日本関係の著作

・『日本』 Nippon(1832~54年)
・『日本植物誌』 Flora Japonica(1835~70年)
・『日本動物誌』 Fauna Japonica(1833~50年)
・『江戸参府紀行』

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