ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:長屋王

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 今日は、奈良時代の722年(養老6)に、百万町歩開墾計画が出された日ですが、新暦では6月13日となります。
 百万町歩開墾計画(ひゃくまんちょうふかいこんけいかく)は、長屋王(ながやおう)の政権のもとで策定された国費による良田百万町歩の開墾計画でした。これは、人口増加によって、班田収授法により民に与えるための口分田が不足していたことから、多くの土地を開墾して田を増やすために出されたものです。
 国郡司が人夫(公民の成年男子)に食料を支給して10日を限度に徴発し、道具は官物を貸し出して開墾にあたらせることとされました。これには賞罰があって、国郡司で開墾を怠れば罷免し、恩赦があっても許さず、百姓で3,000石以上の収穫をあげれば勲位六階、1,000石以上は終身庸を免除、八位以上の者は勲位一階を昇叙するとされています。
 しかし、当時耕されていた水田面積は約百万町歩と推定されていますから、ほぼ水田倍増計画ということになるものの、水田開発には灌漑施設建設などたいへんな事業を伴うことから、雑穀栽培のための陸田の開発計画を含むのではないかとも言われてきました。また、陸奥国を対象としたものか、全国を対象としたものかも議論が分かれています。
 この計画は、かなり無理があったとみられ、その後負担から逃れるため夜逃げする者がでて、全国的に班田農民の浮浪人化が問題となり、思うように開墾が進まなかったとされてきました。
 そして、翌年には「三世一身法」が発布され、743年(天平15)には「墾田永年私財法」が出されて、律令制が崩れ、荘園の発生へと向かっていくこととなります。
 以下に、『続日本紀』巻第九に、この計画が記載された部分を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇『続日本紀』巻第九 養老六年(722年)閏四月乙丑(25日)条

<原文>

 太政官奏曰。(中略)又食之為本。是民所天。随時設策。治国要政。望請。勧農積穀。以備水旱。仍委所司。差発人夫。開墾膏腴之地良田一百万町。其限役十日。便給糧食。所須調度。官物借之。秋収而後。即令造備。若有国郡司詐作逗留。不肯開墾。並即解却。雖経恩赦。不在免限。如部内百姓。荒野閑地。能加功力。収獲雑穀三千石已上。賜勲六等。一千石以上、終身勿事。見帯八位已上、加勲一転。(後略)

<読み下し文>

 太政官奏して日く。(中略)食の本たる、これ民の天とするところ、時に随いて策をを設くるは、治国の要政[1]なり。望み請うらくは、農を勧め、穀を積みて、以て水旱[2]に備えん。仍て所司[3]に委ねて人夫を差発し、膏腴[4]の地良田一百万町を開墾せん。其の役を限ること十日、便ち糧食[5]を給す。須いん[6]ところの調度[7]は、官物もて之を借し、秋収[8]して後に即ち造り備えしめん。若し国郡司詐って[9]逗留[10]をなし、開墾を肯ぜざることあらば、並びに即ち解却[11]せよ。恩赦を経ると雖も免す限りにあらず。如し部内の百姓、荒野閑地[12]に、能く功力[13]を加えて、雑穀三千石巳上を収穫せば、勲六等を賜う。一千石以上は、終身事勿しむ。見に八位巳上を滞るには、勲一転を加えん。(後略)

【注釈】

[1]要政:ようせい=政治の要。
[2]水旱:すいかん=水害や干害。洪水や干ばつによる被害。  
[3]所司:しょし=官庁の役人。役所。
[4]膏腴:こうゆ=地味が肥えている土地。肥沃。
[5]糧食:りょうしょく=食料。糧米。
[6]須いん:すいん=必要とする。
[7]調度:ちょうど=日常に使う、手回りの道具類。
[8]秋収:しゅうしゅう=秋の農作物のとりいれをすること。秋の収穫。
[9]詐って:いつわって=だまして。欺いて。
[10]逗留:とうりゅう=一ヶ所にとどまって進まないこと。
[11]解却:げきゃく=官人の解任。罷免。
[12]閑地:かんち=使われていない土地。空き地。あいている場所。  
[13]功力:くりき=功徳の力。効験(こうけん)。

<現代語訳>

 太政官が奏上して言うことには、(中略)食の基本である、これは民の天とするところ、時局に応じて、策を設けるのは、国を治める政治の要である。目標とするのは、農業を勧め、収穫を豊かにし、もって水害や干害に備えることである。よって、役所に委任して人夫を派遣し、肥沃な土地の良田百万町歩を開墾せよ。それは、人夫(公民の成年男子)に食料を支給して、10日を限度として徴発し、必要な道具類は官物を貸し出して、秋の収穫後、すぐに造成を始めよ。もし、国郡司がいつわって進捗させず、開墾をしないことがあるならば、ともに即座に罷免せよ。恩赦があっても許さない。部内の百姓が、荒野や空き地に、よく功徳の力を加えて、雑穀3,000石以上の収穫をあげるようなことがあれば、勲位六階を与え、1,000石以上は終身庸を免除し、八位以上の者は、勲位一階を昇叙する。(後略)
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 今日は、奈良時代の729年(神亀6)に、長屋王が謀叛の疑いで邸宅を包囲され自害する事件(長屋王の変)が起きた日ですが、新暦では3月16日となります。
 長屋王は、天武天皇の孫で、高市皇子の長男とされていますが、生年ははっきりせず、684年(天武天皇13)とする説と676年(天武天皇5)とする説があります。
 704年(慶雲元)に無位から正四位へ昇進し、709年(和銅2)に宮内卿に叙任されて公卿に列し、翌年に式部卿、718年(養老2)に大納言、藤原不比等没後の721年(養老5)には右大臣となって、勢力を拡大しました。
 724年(神亀元)に聖武天皇が即位すると正二位左大臣となり、王族政治家として政治の実権を握り、藤原氏に対抗する勢力となります。
 728年(神亀5)には、父母や天皇などのため、それぞれ大般若経600巻を書写させたり、社会の安定化を図るため、公民の貧窮化や徭役忌避への対策を行い、開田策を実施するなど律令制維持を図る諸策を進めました。
 しかし、漆部君足らに謀反をくわだてていると密告(藤原氏の陰謀と言われている)され、朝廷から謀反の疑いを受けて軍隊に邸宅を囲まれ、729年(神亀6年2月12日)に、妻子とともに自害します。
 詩歌を好み、『懐風藻』に詩3編、『万葉集』に5首が掲載されていました。
 尚、1988年(昭和63)に、奈良市内の平城京左京三条二坊に当たる地の約6万屬鮴蠅瓩訶∥霎廚ら「長屋親王宮鮑 大 贄十編」と記す木簡をはじめ、約6万5千点もの木簡が出土し、そこに長屋王邸があったことが判明します。
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