しかし、皇帝フビライは納得せず、今度は高麗が自ら責任をもって日本へ使節を派遣するよう命じ、1268年(文永5年/至元5年1月)に、高麗使節団が大宰府に到着しました。この時、大宰府の鎮西奉行・少弐資能は国書と高麗国王書状、使節団代表の潘阜の添え状の3通を受け取り、鎌倉へ送達します。
その文面は、中国側の史料の『元史』「外夷伝日本伝」至元三年八月条と日本側の史料の『東大寺尊勝院臓本』(東大寺尊勝院所蔵『調伏異朝怨敵抄』)によって、伝えられてきました。『元史』載録の国書には、『東大寺尊勝院臓本』の「蒙古國牒状」と違い、冒頭の「上天眷命」および結びの「不宣」は記録されていないなどの相違が見られますが、内容は同じで、両文とも至元3年8月に発令されたことも一致しています。これに対して、日本側は返牒をしないという態度をとりました。
以下に、「蒙古国牒状」のことを記した『東大寺尊勝院臓本』と『元史』「外夷伝日本伝」、及び「高麗国王書状」を掲載しておきますので、ご参照下さい。

