ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:鎖国

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 今日は、江戸時代前期の1641年(寛永18)に、江戸幕府が平戸のオランダ人を長崎の出島に移住させた日ですが、新暦では6月25日となります。
 出島(でじま)は、江戸幕府による鎖国政策の一環として、1634年(寛永11)の「第2次鎖国令」により、対外政策の一環として長崎に築造開始された扇型の人工島でした。完成は、1636年(寛永13)で、面積は3,969坪(約13,000㎡)、市街地との連絡は1本の橋のみで、見張番所を置き出入りを厳重に監視し、当初はポルトガル人の隔離を目的としたものです。
 1637年(寛永14)の島原の乱後、1639年(寛永16年7月5日)の「第5次鎖国令」が出されて、ポルトガル船の入港禁止により、ポルトガル人が追放され、1641年(寛永18年5月17日)に平戸のオランダ商館がここに移されました。甲比丹(かぴたん)部屋、紅毛人部屋、倉庫、通詞会所など65棟が建てられ、奉行所役人、入札商人、遊女、人夫のみ出入を許可されます。しかし、鎖国政策下において、世界への窓の役割を果たし、西欧の文物を取り入れる拠点として、幕末まで存続しました。
 明治以降は、長崎港の港湾整備に伴い、1899年(明治32)~1904年(明治37)に付近が埋め立てられて陸続きとなり、扇形の人工島であった頃の面影は失われたものの、1922年(大正11)に、「出島和蘭商館跡」として国の史跡に指定されます。1996年(平成8)から、長崎市によって、江戸当時の姿への復元を目指す「出島復元整備事業計画」が進められてきました。

☆「鎖国」完成までの略年表(日付は旧暦です)

・1612年(慶長17年3月) 幕領に禁教令を出す
・1616年(元和2年8月) 明朝以外の船の入港を長崎・平戸に限定する
・1620年(元和6年) 平山常陳事件で英蘭が協力してポルトガルの交易を妨害し、元和の大殉教に繋がる
・1623年(元和9年11月) イギリスが業績不振のため平戸商館を閉鎖する
・1624年(寛永元年3月) スペインとの国交を断絶、来航を禁止する
・1628年(寛永5年) タイオワン事件の影響で、オランダとの交易が4年間途絶える
・1631年(寛永8年6月) 奉書船制度の開始で朱印船に朱印状以外に老中の奉書が必要となる
・1633年(寛永10年2月28日) 「第1次鎖国令」(奉書船以外の渡航禁止、海外に5年以上居留する日本人の帰国を禁止)が出される
・1634年(寛永11年) 「第2次鎖国令」(第1次鎖国令の再通達。長崎に出島の建設を開始)が出される
・1635年(寛永12年5月) 「第3次鎖国令」(中国・オランダなど外国船の入港を長崎のみに限定、東南アジア方面への日本人の渡航及び日本人の帰国を禁止)が出される
・1636年(寛永13年5月19日) 「第4次鎖国令」(貿易に関係のないポルトガル人とその妻子287人をマカオへ追放、残りのポルトガル人を出島に移す)が出される
・1637年(寛永14年) 島原の乱が始まり、幕府に武器弾薬をオランダが援助する
・1639年(寛永16年7月5日) 「第5次鎖国令」(ポルトガル船の入港禁止)が出される
・1640年(寛永17年) マカオから通商再開依頼のためポルトガル船来航、徳川幕府が使者61名を処刑する
・1641年(寛永18年5月17日) オランダ商館を平戸から出島に移す
・1643年(寛永20年) ブレスケンス号事件でオランダ船は日本中どこに入港しても良いとの徳川家康の朱印状が否定される
・1644年(正保元年) 中国にて明が滅亡し、満州の清が李自成の順を撃破して中国本土に進出。明再興を目指す勢力が日本に支援を求める(日本乞師)が、徳川幕府は拒絶を続ける
・1647年(正保4年) ポルトガル船2隻、国交回復依頼に来航、徳川幕府は再びこれを拒否、以後、ポルトガル船の来航が絶える
・1673年(延宝元年1月) リターン号事件でイギリスとの交易の再開を拒否、以降100年以上、オランダ以外のヨーロッパ船の来航が途絶える

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

717年(養老元)浮浪・逃亡が増え、「諸国の百姓の浮浪・逃亡の続出に関する詔」が出される(新暦6月30日)詳細
1875年(明治8)最初の屯田兵が北海道の琴似(現在の札幌市西区)に入植する詳細
1890年(明治23)「府縣制」(明治23年法律第35号)が公布される詳細
 「郡制」(明治23年法律第36号)が公布される詳細
1946年(昭和21)GHQから「肥料の生産、分配及び使用に関する覚書」(SCAPIN-962)が指令される詳細
1965年(昭和40)労働者の結社の自由・団結権の保護を定めた「ILO87号条約」を国内で承認する詳細
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 今日は、江戸時代前期の1636年(寛永13)に、江戸幕府により「寛永十三年五月令」(第四次鎖国令)が出され、通商に無関係なポルトガル人の追放などがなされた日ですが、新暦では6月22日となります。
 寛永十三年五月令(かんえいじゅうごねんごがつれい)は、江戸幕府の鎖国政策の一環をなす法令の四番目のもので、「第四次鎖国令」とも呼ばれています。内容は、貿易に関係のないポルトガル人とその妻子287人をマカオへ追放、残りのポルトガル人を出島に移すなど全18条から成り、老中から長崎奉行に通達されたものでした。
 それ以前の1633年(寛永10年2月28日)に、「第一次鎖国令」(奉書船以外の渡航禁止、海外に5年以上居留する日本人の帰国を禁止など)、1634年(寛永11)に「第二次鎖国令」(第一次鎖国令の再通達、長崎に出島の建設を開始)、1635年(寛永12)に「第三次鎖国令」(中国・オランダなど外国船の入港を長崎のみに限定、東南アジア方面への日本人の渡航及び日本人の帰国を禁止)が出されていて、この後、1639年(寛永16年7月5日)に「第五次鎖国令」(ポルトガル船の入港禁止)が出され、1641年(寛永18年4月)の平戸オランダ商館の出島移転によって整います。これにより、キリスト教国(スペインとポルトガル)の人の来航と日本人の東南アジア方面への出入国を禁止し、貿易を管理・統制・制限した対外政策が続けられることとなりました。
 この状態は、ペリーの来航による1854年(嘉永7)の「日米和親条約」締結まで続くこととなります。
 以下に、「寛永十三年五月令」(第四次鎖国令)全18条の内、主要な4条だけ抜粋して、現代語訳付で掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇「寛永十三年五月令」(第四次鎖国令) 1636年(寛永13年5月19日)

一、伴天連訴人褒美の事
  伴天連の訴人は、其品ニ寄、或ハ三百枚、或ハ弐百枚たるべし。其外ハ此以前の如く相計申すべき事。

一、異国船申分これ有り而江戸江言上の間、番船の事、此以前大村方江申し 越すべき事。

一、南蛮人子孫残し置かず、詳ニ堅く申し付くべき事。若違背せしめ、残置族これ有るニおゐてハ其者ハ死罪、一類の者ハ科の軽重ニより申し付くべ き事。

一、南蛮人、長崎にて持候子并右の子共の内、養子に仕る族の父母等、悉死罪為りと雖も、身命を助ケ南蛮人江遣され候間、自然彼の者共の内、重て日本江来ル歟又は書通これ有るに於てハ、本人は勿論死罪、親類以下迄科の軽重に随ひ申付くべき事。

   寛永十三年五月十九日

<現代語訳>

一、バテレンを密告した者にはほうびを与えること。
  バテレンを密告した者には、その地位により、あるいは銀三百枚、あるいは二百枚とする、その他は従前のようにはかるべきこと。

一、外国船について言い分があって、江戸へ言上する場合は、番船の事については、これ以前のように大村藩の方へ申し入れること。

一、南蛮人(ポルトガル人)の子孫は日本に残り置かないように詳細に厳しく申し付けること。もし、違反して残り置く者がいたならばその者は死罪、それに手を貸した者は、その罪の重さにより、処罰を申し付けること。

一、南蛮人(ポルトガル人)、長崎にてもうけた子供ならびにその子供を養子にした父母等、ことごとく死罪にするといえども、身命を助け、南蛮人のもとへ遣わすことにしたので、もしも、かの者たちの内、再び日本へ来るとか、または文通が有った場合は、本人はもちろん死罪、親類以下まで罪の重さに従って、処罰すべきこと。

   寛永13年(1636年)5月19日

☆「鎖国」完成までの略年表(日付は旧暦です)

・1612年(慶長17年3月) 幕領に禁教令を出す
・1616年(元和2年8月) 明朝以外の船の入港を長崎・平戸に限定する
・1620年(元和6年) 平山常陳事件で英蘭が協力してポルトガルの交易を妨害し、元和の大殉教に繋がる
・1623年(元和9年11月) イギリスが業績不振のため平戸商館を閉鎖する
・1624年(寛永元年3月) スペインとの国交を断絶、来航を禁止する
・1628年(寛永5年) タイオワン事件の影響で、オランダとの交易が4年間途絶える
・1631年(寛永8年6月) 奉書船制度の開始で朱印船に朱印状以外に老中の奉書が必要となる
・1633年(寛永10年2月28日) 「第1次鎖国令」(奉書船以外の渡航禁止、海外に5年以上居留する日本人の帰国を禁止)が出される
・1634年(寛永11年) 「第2次鎖国令」(第1次鎖国令の再通達。長崎に出島の建設を開始)が出される
・1635年(寛永12年5月) 「第3次鎖国令」(中国・オランダなど外国船の入港を長崎のみに限定、東南アジア方面への日本人の渡航及び日本人の帰国を禁止)が出される
・1636年(寛永13年5月19日) 「第4次鎖国令」(貿易に関係のないポルトガル人とその妻子287人をマカオへ追放、残りのポルトガル人を出島に移す)が出される
・1637年(寛永14年) 島原の乱が始まり、幕府に武器弾薬をオランダが援助する
・1639年(寛永16年7月5日) 「第5次鎖国令」(ポルトガル船の入港禁止)が出される
・1640年(寛永17年) マカオから通商再開依頼のためポルトガル船来航、徳川幕府が使者61名を処刑する
・1641年(寛永18年4月) オランダ商館を平戸から出島に移す
・1643年(寛永20年) ブレスケンス号事件でオランダ船は日本中どこに入港しても良いとの徳川家康の朱印状が否定される
・1644年(正保元年) 中国にて明が滅亡し、満州の清が李自成の順を撃破して中国本土に進出。明再興を目指す勢力が日本に支援を求める(日本乞師)が、徳川幕府は拒絶を続ける
・1647年(正保4年) ポルトガル船2隻、国交回復依頼に来航、徳川幕府は再びこれを拒否、以後、ポルトガル船の来航が絶える
・1673年(延宝元年1月) リターン号事件でイギリスとの交易の再開を拒否、以降100年以上、オランダ以外のヨーロッパ船の来航が途絶える

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1560年(永禄3)桶狭間の戦いで、織田信長が今川義元を急襲して討ち取る(新暦6月12日)詳細
1565年(天文15)室町幕府第13代将軍足利義輝が松永久秀に攻められ自害する(新暦6月17日)詳細
1877年(明治10)詩人・随筆家薄田泣菫の誕生日

詳細

1946年(昭和21)東京の皇居前広場で食糧メーデー(飯米獲得人民大会)が開催される詳細
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 今日は、江戸時代前期の1639年(寛永16)に、江戸幕府が「寛永十六年七月令」(第五次鎖国令)を布告し、ポルトガル船の入港禁止し、幕府による貿易管理が完成した日ですが、新暦では8月4日となります。
 「寛永十六年七月令(かんえいじゅうろくねんしちがつれい)」は、江戸幕府によって発布された、鎖国政策の一環をなす法令の最後のもので、「第五次鎖国令」とも呼ばれ、内容は、ポルトガル船の入港禁止でした。それ以前、1633年(寛永10)に「第一次鎖国令」(奉書船以外の渡航禁止、海外に5年以上居留する日本人の帰国禁止など)、1634年(寛永11)に「第二次鎖国令」(第一次鎖国令の再通達、長崎に出島の建設を開始)、1635年(寛永12)に「第三次鎖国令」(東南アジア方面への日本人の渡航及び日本人の帰国を禁止)、1636年(寛永13)に「第四次鎖国令」(貿易に関係のないポルトガル人とその妻子287人をマカオへ追放、残りのポルトガル人を出島に移す)が出され、その後、1641年(寛永18年)の平戸オランダ商館の出島移転によって鎖国が整います。
 これにより、キリスト教国(スペインとポルトガル)の人の来航と日本人の東南アジア方面への出入国を禁止し、貿易を管理・統制・制限した対外政策が続けられることとなりました。この状態は、ペリーの来航による1854年(嘉永7)の「日米和親条約」締結まで続くこととなります。
 以下に、「寛永十六年七月令」(第五次鎖国令)を全文掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇「寛永十六年七月令」(第五次鎖国令) 1639年(寛永16年7月5日)発布

一 日本国被成御制禁候切支丹[1]宗門[2]之儀、乍存其趣弘彼宗之者、今ニ密々指渡[3]之事

一 宗門[2]之族結徒党企邪儀[4]、則御誅罰[5]之事

一 伴天連[6]同宗旨[7]之者、かくれ居所江彼国[8]よりつけ届物[9]送りあたふる事

 右因茲自今以後[10]かれうた[11]渡海之儀、被停止之畢、此上若差渡ニおいては破却其船、并乗来者速可被処斬罪[12]之旨、所被仰出也、仍執達[13]如件

  寛永十六年卯七月五日
   対馬守(阿部重次)    豊後守(阿部忠秋)
   伊豆守(松平信綱)    加賀守(堀田正盛)
   讃岐守(酒井忠勝)    大炊頭(土井利勝)
   掃部頭(井伊直孝)

     『徳川禁令考 前集第六』による
 
【注釈】

[1]切支丹:きりしたん=日本に伝えられた、キリスト教ローマカトリックの信徒。また、そのキリスト教そのもの。
[2]宗門:しゅうもん=宗派。宗旨。
[3]密々指渡:みつみつさしわたる=密かに日本へやってくること。
[4]邪儀:じゃぎ=悪いこと。よからぬこと。ここでは、島原の乱を指す。
[5]誅罰:ちゅうばつ=処罰。
[6]伴天連:ばてれん=キリスト教が日本に伝来した当時のカトリックの宣教師。
[7]宗旨:しゅうし=ある宗教・宗派の教義の中心となる趣旨。
[8]彼国:かのくに=ポルトガルを指す。
[9]つけ届物:つけとどけもの=仕送りの物。
[10]自今以後:じこんいご=今後。
[11]かれうた=ガレオタ船のこと。ポルトガル船を指す。
[12]斬罪:ざんざい=死刑。打ち首。
[13]執達:しったつ=上位の者の意向・命令などを下位の者に伝えること。通達。 

<現代語訳>

一、日本国が禁止しているキリスト教について、その趣旨を知りながら、キリスト教を布教する者が、今でもこっそり渡航してくること。

一、キリスト教徒が徒党を組んで(島原の乱のような)よからぬことを企てれば、直ちに処罰すること。

一 宣教師や信徒の者が、隠れているところへポルトガル国から仕送りの物が届けられること。

 右の理由により、今後ポルトガル船の来航はこれを禁止する。この上もし渡航してくれば、その船を破却し、ならびに乗組員は速やかに打ち首とされる旨、命じられた。よってこのように通達する。

  寛永十六年卯七月五日
   対馬守(阿部重次)    豊後守(阿部忠秋)
   伊豆守(松平信綱)    加賀守(堀田正盛)
   讃岐守(酒井忠勝)    大炊頭(土井利勝)
   掃部頭(井伊直孝)

☆「鎖国」完成までの略年表(日付は旧暦です)

・1612年(慶長17年3月) 幕領に禁教令を出す
・1616年(元和2年8月) 明朝以外の船の入港を長崎・平戸に限定する
・1620年(元和6年) 平山常陳事件で英蘭が協力してポルトガルの交易を妨害し、元和の大殉教に繋がる
・1623年(元和9年11月) イギリスが業績不振のため平戸商館を閉鎖する
・1624年(寛永元年3月) スペインとの国交を断絶、来航を禁止する
・1628年(寛永5年) タイオワン事件の影響で、オランダとの交易が4年間途絶える
・1631年(寛永8年6月) 奉書船制度の開始で朱印船に朱印状以外に老中の奉書が必要となる
・1633年(寛永10年2月28日) 「第1次鎖国令」(奉書船以外の渡航禁止、海外に5年以上居留する日本人の帰国を禁止)が出される
・1634年(寛永11年) 「第2次鎖国令」(第1次鎖国令の再通達。長崎に出島の建設を開始)が出される
・1635年(寛永12年5月) 「第3次鎖国令」(中国・オランダなど外国船の入港を長崎のみに限定、東南アジア方面への日本人の渡航及び日本人の帰国を禁止)が出される
・1636年(寛永13年5月19日) 「第4次鎖国令」(貿易に関係のないポルトガル人とその妻子287人をマカオへ追放、残りのポルトガル人を出島に移す)が出される
・1637年(寛永14年) 島原の乱が始まり、幕府に武器弾薬をオランダが援助する
・1639年(寛永16年7月5日) 「第5次鎖国令」(ポルトガル船の入港禁止)が出される
・1640年(寛永17年) マカオから通商再開依頼のためポルトガル船来航、徳川幕府が使者61名を処刑する
・1641年(寛永18年4月) オランダ商館を平戸から出島に移す
・1643年(寛永20年) ブレスケンス号事件でオランダ船は日本中どこに入港しても良いとの徳川家康の朱印状が否定される
・1644年(正保元年) 中国にて明が滅亡し、満州の清が李自成の順を撃破して中国本土に進出。明再興を目指す勢力が日本に支援を求める(日本乞師)が、徳川幕府は拒絶を続ける
・1647年(正保4年) ポルトガル船2隻、国交回復依頼に来航、徳川幕府は再びこれを拒否、以後、ポルトガル船の来航が絶える
・1673年(延宝元年1月) リターン号事件でイギリスとの交易の再開を拒否、以降100年以上、オランダ以外のヨーロッパ船の来航が途絶える

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1141年(建保3)僧侶・臨済宗の開祖栄西の命日(新暦8月1日)詳細
1590年(天正18)北條氏直が小田原城を開城して豊臣秀吉に降伏し、秀吉の天下統一が完成する詳細
1949年(昭和24)下山事件が起こる詳細
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 今日は、江戸時代前期の1635年(寛永12)に、江戸幕府が「寛永十二年五月令」(第三次鎖国令)を布告し、海外渡航の全面禁止、在外邦人の帰国禁止などをした日ですが、新暦では7月12日となります。
 「寛永十二年五月令(かんえいじゅうにねんごがつれい)」は、江戸幕府の鎖国政策の一環をなす法令の三番目のもので、「第三次鎖国令」とも呼ばれてきました。内容は、東南アジア方面への日本人の渡航及び日本人の帰国を全面禁止など全17条から成り、長崎奉行に通達されたものです。
 それ以前の1633年(寛永10年2月28日)に、「第一次鎖国令」(奉書船以外の渡航禁止、海外に5年以上居留する日本人の帰国を禁止など)、1634年(寛永11)に「第二次鎖国令」(第一次鎖国令の再通達、長崎に出島の建設を開始)が出されていて、この後、1636年(寛永13年5月19日)に「第4次鎖国令」(貿易に関係のないポルトガル人とその妻子287人をマカオへ追放、残りのポルトガル人を出島に移す)、1639年(寛永16年7月5日)に「第五次鎖国令」(ポルトガル船の入港禁止)が出され、1641年(寛永18年4月)の平戸オランダ商館の出島移転によって整いました。これにより、キリスト教国(スペインとポルトガル)の人の来航と日本人の東南アジア方面への出入国を禁止し、貿易を管理・統制・制限した対外政策が続けられることとなります。
 この状態は、ペリーの来航による1854年(嘉永7)の「日米和親条約」締結まで続くこととなりました。
 以下に、「寛永十二年五月令」(第三次鎖国令)を全文掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇「寛永十二年五月令」(第三次鎖国令)全17条 1635年(寛永12年5月28日)発布

  条々 長崎
一、異国江日本の船[1]これを遣わすの儀、堅く停止の事。
一、日本人異国江遣わし申す間敷候。若忍び候而乗渡る者これ有るに於てハ、其者ハ死罪、其船船主共ニ留置き言上仕るべき事。
一、異国江渡り住宅仕りこれ有る日本人来り候ハゝ死罪申し付くべき事。
一、伴天連[2]の宗旨[3]これ有る所江ハ両人より申し遣わし、穿鑿[4]を遂ぐべき事。
一、伴天連[2]訴人褒美の事。
  上の訴人には銀子百枚[5]、其より下には其の忠にしたがひ相計るべき事。
一、異国船申分これ有りて、江戸え言上の間、番船の事、此の以前の如く大村方[6]え申越すべき事。
一、伴天連[2]の宗旨[3]改め候南蛮人[7]、其の外悪名の者これ有る時は、前々の如く大村の篭に入置くべき事。
一、伴天連[2]の儀、船中の改迄、念入り申付くべき事。
一、諸色[8]一所え買取り申す儀、停止の事。
一、武士の面々[9]、長崎におひて異国船の荷物、唐人[10]より直に買取り候儀、停止の事。
一、異国船荷物の書立て[11]、江戸え注進候て、返事これなき以前にも、前々の如く商売申付くべき事。
一、異国船つみ来たり候白糸[12]、直段[13]を立て候て、残らず五ケ所[14]其の外書付の所割符[15]仕るべき事。
一、糸の外諸色[8]の儀、糸の直段極り候あての上、相対次第商売仕るべし。但し、唐船[16]者小船の事に候間、見計い[17]申付くべき事。
 付、荷物の代銀直段[13]立て候ての上、廿日切たるべき事。
一、異国船もどり候事、九月廿日切りたるべし。若しおそく来たり候船は、着き候てより五十日切たるべきなり。唐船[16]は見計い[17]、かれうた[18]より跡に出船申付くべき事。
一、異国船売残しの荷物預ケ置き候儀も、又預り候儀も停止の事。
一、五ケ所[14]惣代の者、長崎え参着の儀、七月五日切きたるべし。其よりもおそく参り候者には、割符[15]をはづし申すべき事。
一、平戸え着き候船も、長崎の糸の直段[13]の如くたるべし、長崎にて直段[13]立ち候はぬ以前に、商売停止の事。
 右、此の旨守らるべき者なり。仍て執達[20]件の如し。
    寛永十二年
 
    『徳川禁令考』より

【注釈】

[1]日本の船:にほんのふね=第一次鎖国令では、奉書船以外となっていたのが日本の船(全面禁止)となる。
[2]伴天連:ばてれん=キリスト教が日本に伝来した当時のカトリックの宣教師。
[3]宗旨:しゅうし=ある宗教・宗派の教義の中心となる趣旨。
[4]穿鑿:せんさく=吟味。取り調べ。
[5]銀子百枚:ぎんひゃくまい=一枚は銀43匁で、百枚は金83両となる。
[6]大村方:おおむらかた=大村藩のこと。
[7]南蛮人:なんばんじん=日本に渡来したポルトガル人・スペイン人などの称。
[8]諸色:しょしき=いろいろの品物。諸品。
[9]武士の面々:ぶしのめんめん=武士の人々。
[10]唐人:からびと=外国人。異人。
[11]書立て:かきたて=箇条書。一つ書き。目録書。
[12]白糸:しろいと=中国産の上質な生糸のこと。
[13]直段:ねだん=売買の相場。あたい。代価。価格。
[14]五ケ所:ごかしょ=江戸、京都、大坂。堺、長崎の五ヶ所の特権商人のこと。
[15]割符:わっぷ=輸入生糸配分について五ヶ所の商人の糸割符仲間に与えた証明目録。
[16]唐船:からぶね=中国の船。また、中国風の船。
[17]見計い:みはからい=見て見当をつける。
[18]かれうた=ガレオタ船のこと。ポルトガル船を指す。
[19]惣代:そうだい=仲間あるいは地域集団の代表者。
[20]執達:しったつ=上位の者の意向・命令などを下位の者に伝えること。通達。

<現代語訳>

一、異国へ日本の船を派遣することは厳重に禁止すること。
一、日本人を異国へ派遣してはならない。もしこっそり隠れて乗り渡る者があれば、その者は死罪、その船・船主共に留め置いて、幕府へ報告すべきこと。
一、異国へ渡って住み着いていた日本人が帰国したならば死罪に処するべきこと。
一、バテレンの宗旨がある所へは両奉行を派遣して調べること。
一、バテレンを密告した者には褒美を与えること。
 地位の高いバテレンを密告した者には銀百枚、それより地位が下の者の場合にはその忠義心によって褒美の額を考慮すること。
一、外国船について言い分があって、江戸へ言上する場合は、番船の事については、以前のように大村藩へ申し入れること。
一、バテレンの宗旨を取り調べる南蛮人やその他不届きな者がある時は、以前のように大村藩の牢へ入れ置くこと。
一、バテレンについては船の中の取り調べも入念にするよう申し付けるべきこと。
一、諸品を一ヶ所で買い取ることは停止すること。
一、武士の人々が長崎において、外国船の荷物を外国人より直接に買い取ることは停止すること。
一、外国船の荷物の目録書を江戸へ注進し、返事が来る前でも、以前のように商売が出来るべきこと。
一、外国船で輸入した生糸は価格を決定して、残らず五ヶ所(江戸・京都・大坂・堺・長崎)その他書付のところの商人へ分配すること。
一、生糸の他の諸品について、生糸の直段を決めた上、当事者同士の成り行きで商売してもよいこと。ただし、中国船は小船であったならば、見当をつけて申し付けるべきこと。
 付、商品代金については、銀の相場が立ったならば、20日を限度として取り引きすること。
一、外国船が帰国できるのは9月20日を期限とすること。もし、遅く到着した船は着いてから50日を期限とすること。中国船は見当をつけ、ポルトガル船より後に出船申し付けるべきこと。
一、外国船が売残した荷物を預り置くことも、また預ることも停止すること。
一、五ヶ所(江戸・京都・大坂・堺・長崎)の商人の代表者の長崎への来着については7月5日を限度とし、それより遅く到着した者は分配対象から外すべきこと。
一、平戸の港に入港した船も、長崎の生糸の直段に従うようにせよ。長崎において直段を決定しない以前の取引は停止すること。
 右の条文について守るべきものであること、通達する。
    寛永12年(1635年)

☆「鎖国」完成までの略年表(日付は旧暦です)

・1612年(慶長17年3月) 幕領に禁教令を出す
・1616年(元和2年8月) 明朝以外の船の入港を長崎・平戸に限定する
・1620年(元和6年) 平山常陳事件で英蘭が協力してポルトガルの交易を妨害し、元和の大殉教に繋がる
・1623年(元和9年11月) イギリスが業績不振のため平戸商館を閉鎖する
・1624年(寛永元年3月) スペインとの国交を断絶、来航を禁止する
・1628年(寛永5年) タイオワン事件の影響で、オランダとの交易が4年間途絶える
・1631年(寛永8年6月) 奉書船制度の開始で朱印船に朱印状以外に老中の奉書が必要となる
・1633年(寛永10年2月28日) 「第1次鎖国令」(奉書船以外の渡航禁止、海外に5年以上居留する日本人の帰国を禁止)が出される
・1634年(寛永11年) 「第2次鎖国令」(第1次鎖国令の再通達。長崎に出島の建設を開始)が出される
・1635年(寛永12年5月) 「第3次鎖国令」(中国・オランダなど外国船の入港を長崎のみに限定、東南アジア方面への日本人の渡航及び日本人の帰国を禁止)が出される
・1636年(寛永13年5月19日) 「第4次鎖国令」(貿易に関係のないポルトガル人とその妻子287人をマカオへ追放、残りのポルトガル人を出島に移す)が出される
・1637年(寛永14年) 島原の乱が始まり、幕府に武器弾薬をオランダが援助する
・1639年(寛永16年7月5日) 「第5次鎖国令」(ポルトガル船の入港禁止)が出される
・1640年(寛永17年) マカオから通商再開依頼のためポルトガル船来航、徳川幕府が使者61名を処刑する
・1641年(寛永18年4月) オランダ商館を平戸から出島に移す
・1643年(寛永20年) ブレスケンス号事件でオランダ船は日本中どこに入港しても良いとの徳川家康の朱印状が否定される
・1644年(正保元年) 中国にて明が滅亡し、満州の清が李自成の順を撃破して中国本土に進出。明再興を目指す勢力が日本に支援を求める(日本乞師)が、徳川幕府は拒絶を続ける
・1647年(正保4年) ポルトガル船2隻、国交回復依頼に来航、徳川幕府は再びこれを拒否、以後、ポルトガル船の来航が絶える
・1673年(延宝元年1月) リターン号事件でイギリスとの交易の再開を拒否、以降100年以上、オランダ以外のヨーロッパ船の来航が途絶える

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

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 今日は、江戸時代前期の1633年(寛永10)に、江戸幕府により「寛永十年二月令」(第一次鎖国令)が出された日ですが、新暦では4月6日となります。
 「寛永十年二月令(かんえいじゅうねんにがつれい)」は、江戸幕府の鎖国政策の一環をなす法令の最初のもので、「第一次鎖国令」とも呼ばれてきました。内容は、奉書船以外の渡航禁止、海外に5年以上居留する日本人の帰国を禁止などとなっています。
 その後、1634年(寛永11)に「第二次鎖国令」(第一次鎖国令の再通達、長崎に出島の建設を開始)、1635年(寛永12)に「第三次鎖国令」(中国・オランダなど外国船の入港を長崎のみに限定、東南アジア方面への日本人の渡航及び日本人の帰国を禁止)、1636年(寛永13)に「第4次鎖国令」(貿易に関係のないポルトガル人とその妻子287人をマカオへ追放、残りのポルトガル人を出島に移す)、1639年(寛永16)に「第五次鎖国令」(ポルトガル船の入港禁止)が出され、1641年(寛永18年)の平戸オランダ商館の出島移転によって整いました。これにより、キリスト教国(スペインとポルトガル)の人の来航と日本人の東南アジア方面への出入国を禁止し、貿易を管理・統制・制限した対外政策が続けられることとなります。
 この状態は、ペリーの来航による1854年(嘉永7)の「日米和親条約」締結まで続くこととなりました。
 以下に、「寛永十年二月令」(第一次鎖国令)を全文掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇「寛永十年二月令」(第一次鎖国令) 1633年(寛永10年2月28日)発布

 一 異国江奉書船[1]之外舟遣候儀堅停止之事
 一 奉書船之外ニ日本人異国江遣申間敷候、若忍候而乗まいり候もの於有之ハ其ものハ死罪、其船并船主共ニ留置言上可仕之事
 一 異国江渡り住宅在之日本人来候ハゝ死罪可申付候、但不及是非仕合[2]有之而、異国致逗留、五年より内ニ罷帰候ものハ遂穿鑿[3]、日本ニとまり可申ニつきては御免、併異国江又可立帰ニおゐては死罪可申付候事
 一 伴天連[4]宗旨[5]有之所江ハ従両人可申遣之事
 一 伴天連[4]訴人ほうひの事
 附、上之訴人には銀百枚[6]、それより下ハ其忠にしたかひ可相計之事
 一 異国船申分有之而江戸江言上之間番船之事、如前々大村方[7]江可申越之事
 一 伴天連[4]宗旨[5]弘候南蛮人[8]其外悪名之もの有之時ハ、如前々大村方[7]之籠ニ可入置之事
 一 伴天連[4]之儀船中之改迄入念可申付事
 一 諸品一所江買取申儀停止之事
 一 奉公人於長崎異国船之荷物唐人[9]前より直ニ買取候儀停止之事
 一 異国船荷物之書立江戸江注進候而、返事無之以前にも如前々商売可申付事
 一 異国船ニつみ来り候白糸[10]直段[11]を立候而、不残五ケ所[6]へ割符[7]可仕之事
 一 糸之外諸色之儀糸之直段[11]極候而之上、相対次第商売可仕之事
 附、荷物代銀直段[11]立候而之上可為廿日切之事
 一 異国船もとり候事九月廿日切たるへき事
 但、遅来候船ハ着候而五十日切たる事
 一 異国船売残し之荷物預置候儀も又預り候事も停止之事
 一 五ケ所[12]之商人長崎江来着候儀七月廿日切たるへし、それより遅く参候者ハ割符[13]をはつし可申事
 一 薩摩・平戸其外いつれ之浦に着候船[14]も、長崎之糸之直段[11]之如くたるへし、長崎にて直段[11]立候ハぬ以前商売停止之事
 右条々可被守此旨もの也、仍執達[15]如件

  寛永十年酉二月廿八日
      伊賀(内藤忠重)  信濃(永井尚政)
      讃岐(酒井忠勝)  大炊(土井利勝)
   曽我又左衛門(古祐)殿
   今村伝四郎(正長)殿

                   『徳川禁令考 前集第六』による

【注釈】

[1]奉書船:ほうしょせん=朱印状以外に海外渡航許可の老中奉書(許可状)を所持している船。
[2]不及是非仕合:ぜひにおよばざるしあわせ=やむを得ない理由。
[3]穿鑿:せんさく=吟味。取り調べ。
[4]伴天連:ばてれん=キリスト教が日本に伝来した当時のカトリックの宣教師。
[5]宗旨:しゅうし=ある宗教・宗派の教義の中心となる趣旨。
[6]銀百枚:ぎんひゃくまい=一枚は銀43匁で、百枚は金83両となる。
[7]大村方:おおむらかた=大村藩のこと。
[8]南蛮人:なんばんじん=日本に渡来したポルトガル人・スペイン人などの称。
[9]唐人:からびと=外国人。異人。
[10]白糸:しろいと=中国産の上質な生糸のこと。
[11]直段:ねだん=売買の相場。あたい。代価。価格。
[12]五ケ所:ごかしょ=江戸、京都、大坂。堺、長崎の五ヶ所の特権商人のこと。
[13]割符:わっぷ=輸入生糸配分について五ヶ所の商人の糸割符仲間に与えた証明目録。
[14]いつれ之浦に着候船:いずれのうらにつきそうろうふね=当時の外国船の寄港地となっていた鹿児島、坊津、山川、府内などのこと。
[15]執達:しったつ=上位の者の意向・命令などを下位の者に伝えること。通達。

<現代語訳>

一、海外へ奉書船以外の船を派遣することを厳禁すること。
一、奉書船以外の船で日本人を外国へ派遣してはならない。もし、密航する者があれば、そのものは死罪、その船ならびに船主はともに抑留し、報告すること。
一、外国へ渡航し、住宅を持っている日本人が帰国してきたならば死罪を言い渡す。ただし、やむを得ない理由があって外国に滞在し、5年以内に帰国してきた者は、取り調べの上、日本に住む場合は無罪とする。しかし、外国へ帰る場合には死罪に処すること。
一、バテレンの宗旨がある所へは両奉行を派遣して調べること。
一、バテレンを密告した者には褒美を与えること。
付則、地位の高いバテレンを密告した者には銀百枚、それより地位が下の者の場合にはその忠義心によって褒美の額を考慮すること。
一、外国船について言い分があって、江戸へ言上する場合は、番船の事については、以前のように大村藩へ申し入れること。
一、バテレンの宗旨を広める南蛮人やその他に不届きな者がある時は、以前のように大村藩の牢へ入れ置くこと。
一、バテレンについては船の中も入念に調べるようすること。
一、諸品を一ヶ所で買い取ることは停止すること。
一、奉公人が長崎において、外国船の荷物を唐人より直接に買い取ることは停止すること。
一、外国船の荷物の目録を江戸へ注進し、返事が来る前でも、以前のように商売が出来るべきこと。
一、外国船で輸入した生糸は価格を決定して、残らず五ヶ所(江戸・京都・大坂・堺・長崎)商人へ分配すること。
一、生糸の他の諸商品について、生糸の直段を決めた上、当事者同士の成り行きで商売してもよいこと。
付則、商品代金については、銀の相場が立ったならば、20日を限度として取り引きすること。
一、外国船が帰国できるのは9月20日を期限とすること。
ただし、遅く到着した船は着いてから50日を期限とすること。
一、外国船が売残した荷物を預り置くことも、また預ることも停止すること。
一、五ヶ所(江戸・京都・大坂・堺・長崎)の商人の長崎へ来着については7月20日を限度とし、それより遅く到着した者は分配対象から外すべきこと。
一、薩摩・平戸、その他いずれの港に入港した船も、長崎の生糸の直段に従うようにせよ。長崎において直段を決定しない以前の取引は停止すること。
 右の条文について守るべきものであること、通達する。

  寛永10年酉2月28日
      伊賀(内藤忠重)  信濃(永井尚政)
      讃岐(酒井忠勝)  大炊(土井利勝)
   曽我又左衛門(古祐)殿
   今村伝四郎(正長)殿


☆「鎖国」完成までの略年表(日付は旧暦です)

・1612年(慶長17年3月) 幕領に禁教令を出す
・1616年(元和2年8月) 明朝以外の船の入港を長崎・平戸に限定する
・1620年(元和6年) 平山常陳事件で英蘭が協力してポルトガルの交易を妨害し、元和の大殉教に繋がる
・1623年(元和9年11月) イギリスが業績不振のため平戸商館を閉鎖する
・1624年(寛永元年3月) スペインとの国交を断絶、来航を禁止する
・1628年(寛永5年) タイオワン事件の影響で、オランダとの交易が4年間途絶える
・1631年(寛永8年6月) 奉書船制度の開始で朱印船に朱印状以外に老中の奉書が必要となる
・1633年(寛永10年2月28日) 「第1次鎖国令」(奉書船以外の渡航禁止、海外に5年以上居留する日本人の帰国を禁止)が出される
・1634年(寛永11年) 「第2次鎖国令」(第1次鎖国令の再通達。長崎に出島の建設を開始)が出される
・1635年(寛永12年5月) 「第3次鎖国令」(中国・オランダなど外国船の入港を長崎のみに限定、東南アジア方面への日本人の渡航及び日本人の帰国を禁止)が出される
・1636年(寛永13年5月19日) 「第4次鎖国令」(貿易に関係のないポルトガル人とその妻子287人をマカオへ追放、残りのポルトガル人を出島に移す)が出される
・1637年(寛永14年) 島原の乱が始まり、幕府に武器弾薬をオランダが援助する
・1639年(寛永16年7月5日) 「第5次鎖国令」(ポルトガル船の入港禁止)が出される
・1640年(寛永17年) マカオから通商再開依頼のためポルトガル船来航、徳川幕府が使者61名を処刑する
・1641年(寛永18年4月) オランダ商館を平戸から出島に移す
・1643年(寛永20年) ブレスケンス号事件でオランダ船は日本中どこに入港しても良いとの徳川家康の朱印状が否定される
・1644年(正保元年) 中国にて明が滅亡し、満州の清が李自成の順を撃破して中国本土に進出。明再興を目指す勢力が日本に支援を求める(日本乞師)が、徳川幕府は拒絶を続ける
・1647年(正保4年) ポルトガル船2隻、国交回復依頼に来航、徳川幕府は再びこれを拒否、以後、ポルトガル船の来航が絶える
・1673年(延宝元年1月) リターン号事件でイギリスとの交易の再開を拒否、以降100年以上、オランダ以外のヨーロッパ船の来航が途絶える

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

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1864年(元治元)小説家二葉亭四迷の誕生日(新暦4月4日)詳細
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