今日は、鎌倉時代の1273年(文永10)に、鎌倉幕府第7代執権北条政村の亡くなった日ですが、新暦では6月13日となります。
北条政村(ほうじょう まさむら)は、1205年(元久2年6月22日)に、第2代執権北条義時の五男(母は伊賀朝光の娘)として生まれました。1213年(建暦3)に元服し、相模四郎政村を名乗り、1224年(元仁元)に父・義時が亡くなると、兄光宗らの陰謀(伊賀氏の変)に巻き込まれたものの、事なきを得ます。
常陸大掾・式部少丞・右馬助・右馬権頭などを歴任し、1237年(嘉禎3)には、従五位上に叙せられました。1239年(延応元)に幕府の評定衆となり、翌年には、評定衆筆頭に就きます。
1244年(寛元2)に従四位下に昇叙、1249年(建長2)に引付頭人を兼務、1256年(建長8)には連署となりました。1264年(文永元)に、第6代執権北条長時が亡くなると、第7代執権に就き、1266年(文永3)に、将軍宗尊(むねたか)親王を廃する難局を乗り切ります。
1268年(文永5)に、執権職を時宗に譲り、再び連署となり、侍所別当を兼務し、蒙古襲来直前の多難な時期にもかかわらず、よく時宗を補佐しました。一方、和歌に優れ、宗尊親王家百首に出詠し、自邸で探題当座千首会を開くなどし、『新勅撰和歌集』、『続千載和歌集』等の勅撰和歌集に40首入集しています。
しかし、1273年(文永10)に、病気によって出家して常盤院覚崇を称し、同年5月27日には、鎌倉において、数え年69歳で亡くなりました。
<代表的な歌>
・「たかし山 夕越え暮れて 麓なる 浜名の橋を 月に見るかな」(続古今和歌集)
・「今日いくか 野山のあらし 身にしめて 故郷とほく 別れ来ぬらむ」(玉葉和歌集)
・「来し方ぞ 月日にそへて 偲ばるる 又めぐりあふ 昔ならねば」(続拾遺和歌集)
〇北条政村関係略年表(日付は旧暦です)
・1205年(元久2年6月22日) 第2代執権北条義時の五男(母は伊賀朝光の娘)として生まれる
・1213年(建暦3年) 元服し、相模四郎政村を名乗る
・1224年(元仁元年) 父・義時が亡くなると、兄光宗らの陰謀(伊賀氏の変)に巻き込まれる
・1230年(寛喜2年1月13日) 常陸大掾に任官する
・1230年(寛喜2年閏1月4日) 式部少丞に転任する
・1230年(寛喜2年10月15日) 従五位下に叙位される
・1236年(嘉禎2年3月4日) 右馬助に遷任される
・1236年(嘉禎2年4月14日) 右馬権頭に転任する
・1237年(嘉禎3年9月15日) 従五位上に昇叙する
・1238年(嘉禎4年8月28日) 正五位下に昇叙する
・1239年(延応元年10月) 幕府の評定衆と就る
・1240年(仁治元年4月5日) 右馬権頭を辞任する
・1240年(仁治元年) 評定衆筆頭と就る
・1244年(寛元2年6月22日) 従四位下に昇叙する
・1249年(建長2年12月9日) 引付頭人(一番)を兼務する
・1251年(建長3年2月) 常盤(ときわ)の別業(べつぎょう)で和歌会を催す
・1256年(建長8年3月30日) 連署となる
・1256年(建長8年4月5日) 陸奥守に任官する
・1257年(正嘉元年6月12日) 相模守に遷任される
・1264年(文永元年8月11日) 第6代執権北条長時が死去し、第7代執権となる
・1265年(文永2年2月21日) 従四位上に昇叙する
・1265年(文永2年3月28日) 左京権大夫に転任する
・1266年(文永3年3月2日) 正四位下に昇叙する
・1266年(文永3年6月) 将軍宗尊(むねたか)親王を廃する
・1268年(文永5年3月5日) 執権職を時宗に譲り、再び連署と就り、侍所別当を兼務する
・1273年(文永10年5月18日) 出家して、常盤院覚崇を称する
・1273年(文永10年5月27日) 鎌倉において、数え年69歳で亡くなる
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
743年(天平15) | 「墾田永年私財法」が出される(新暦6月23日) | 詳細 |
1235年(文暦2) | 藤原定家によって「小倉百人一首」が完成された(百人一首の日) | 詳細 |
1938年(昭和13) | 「日独防共協定」締結による同盟強化に伴い、大日本青少年独逸派遣団が出発する | 詳細 |