ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:鎌倉幕府

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 今日は、鎌倉時代の1275年(建治元)に、鎌倉幕府第8代執権北条時宗が、入貢を要求した元の使者5人を斬殺し、第2回元寇(弘安の役)の要因となった日ですが、新暦では9月27日となります。
 弘安の役(こうあんのえき)は、鎌倉時代の1281年(弘安4)にあった、元寇の第2回目のことです。第1回目(文永の役)は、1274年(文永11)にあり、激戦の末に蒙古軍を撃退しました。
 しかし、その6年半後に第2回目(弘安の役)があり、再び対馬(現在の長崎県)への来襲に始まります。この時、蒙古軍は対馬沖に到着し、対馬の世界村大明浦に上陸しましたが、日本側の激しい抵抗を受け、郎将の康彦、康師子等が戦死しました。
 また、5月26日に蒙古軍は壱岐に襲来、6月8日には志賀島にも上陸したものの、日本軍が攻撃して、蒙古軍は敗走します。さらに、6月14日に蒙古軍が長門に襲来、6月29日には、壱岐島に駐留する蒙古軍に対して日本軍が攻撃、7月2日にも再度攻撃し、蒙古軍は平戸島に退却しました。
 その後、7月27日に鷹島の沖合に停泊していた蒙古軍船に対して日本軍が攻撃、7月30日には、台風が襲来し、蒙古軍の軍船の多くが沈没・損壊します。そこで、閏7月5日に蒙古軍は撤退を決定、同月7日には鷹島に残留する蒙古軍10万に対して、日本軍は総攻撃しこれを壊滅して、弘安の役が終わりました。

〇元寇(げんこう)とは?

 鎌倉時代中期に、当時大陸を支配していたモンゴル帝国およびその属国である高麗王国によって2度にわたり行われた日本への侵攻のことで、蒙古襲来ともいいます。1回目の1274年(文永11)のを文永の役、2回目の1281年(弘安4)のを弘安の役と呼んできました。
 台風の襲来によるモンゴル軍側の損害もあって、2度とも撤退しています。2回の元寇の後、鎌倉幕府は博多湾の防備を強化しましたが、この戦いで日本側が物質的に得たものは無く、恩賞は御家人たちに満足のいくものではありませんでした。
 モンゴル軍の再度の襲来に備えて御家人の統制が進められましたが、戦費で窮迫した御家人達は借金に苦しむようになります。やむを得ず幕府は「永仁の徳政令」などを発布して御家人の困窮対策にしようとしましたが、御家人の不満は解消されず、鎌倉幕府に対して不信感を抱くものが増えていきました。
 これらの動きはやがて大きな流れとなり、鎌倉幕府滅亡の原因の一つになったと言われています。

☆元寇関係略年表

<1266年(弘長元)>
・11月 第1回の蒙古の使節が日本を訪れ国書(蒙古国牒状)を持参したが、高麗から帰国する

<1268年(文永5)>
・1月 第2回の蒙古の使節が日本を訪れ国書(蒙古国牒状)を持参し、大宰府で渡す

<1269年(文永6)>
・2月 第3回の蒙古の使節が日本を訪れるが幕府は入国を許さず、使節は対馬の住民を拉致して帰国した
・9月 第4回の蒙古の使節が拉致した対馬の住民を護送する使者が大宰府を訪れる

<1271年(文永8)>
・9月 第5回の蒙古の使節が日本の大宰府を訪れ国書を持参した

<1272年(文永9)>
・2月または4月 第6回の蒙古の使節が日本を訪れ国書を持参した

<1274年(文永11)>
・10月3日 蒙古軍が大小900の船団を率いて出航する
・10月5日 蒙古軍が対馬に上陸して、多くの島民を殺害する
・10月14日 蒙古軍が壱岐に上陸して、多くの島民を殺害する
・10月16-17日 蒙古軍が肥前沿岸に襲来する
・10月20日 蒙古軍が博多湾に襲来するが、激戦の末に蒙古軍を撃退する(文永の役終了)

<1275年(建治元)>
・9月7日 服属を求めに来た元の使者を鎌倉幕府第8代執権北条時宗は鎌倉で処刑し、元の襲来に備え博多湾岸に石築地を築かせる
・11月 鎌倉幕府は元の襲来を防ぐ目的での朝鮮出兵、高麗遠征計画を立てて、金沢実政が九州に下向する

<1281年(弘安4)>
・5月3日 蒙古軍が日本に向けて朝鮮を出発する
・5月21日 蒙古軍が対馬に上陸したものの、日本軍の激しい抵抗を受ける
・5月26日 蒙古軍が壱岐に上陸する
・6月8日 志賀島に上陸した蒙古軍を日本軍が攻撃して、蒙古軍は敗走する
・6月14日 蒙古軍が長門に襲来する
・6月29日 壱岐島に駐留する蒙古軍に対して日本軍が攻撃する
・7月2日 壱岐島に駐留する蒙古軍に対して日本軍が再度攻撃し、蒙古軍は平戸島に退却する
・7月27日 鷹島の沖合に停泊していた蒙古軍船に対して日本軍が攻撃する
・7月30日 台風が襲来し、蒙古軍の軍船の多くが沈没・損壊する
・閏7月5日 蒙古軍は撤退を決定する
・閏7月7日 鷹島に残留する蒙古軍10万に対して、日本軍は総攻撃しこれを壊滅する(弘安の役終了)

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1751年(寛延4)浄瑠璃作者並木宗輔(千柳)の命日(新暦10月25日)詳細
1816年(文化13)浮世絵師・戯作者山東京伝の命日(新暦10月27日)詳細
1858年(安政5)尊攘派の小浜藩士・梅田雲濱が京都で捕縛され、安政の大獄が始まる(新暦10月13日)詳細
1871年(明治4)「田畑夫食取入ノ余ハ諸物品勝手作ヲ許ス」が出され、田畑勝手作許可がされる(新暦10月2日)詳細
1901年(明治34)清朝と日本を含む諸外国間で、義和団事件収拾のための最終議定書「北京議定書」に調印する詳細
1908年(明治41)建築家吉村順三の誕生日詳細
1939年(昭和14)小説家泉鏡花の命日(泉鏡花忌)詳細
1973年(昭和48)長沼ナイキ訴訟で、第1審の札幌地裁が「自衛隊は違憲」との初の判断を示す詳細
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 今日は、鎌倉時代の1281年(弘安4)に、翌日にかけて激しい風雨(台風)があり、第2回元寇(弘安の役)の蒙古軍が壊滅した日ですが、新暦では8月15日となります。
 弘安の役(こうあんのえき)は、鎌倉時代の1281年(弘安4)にあった、元寇の第2回目のことです。第1回目(文永の役)は、1274年(文永11)にあり、激戦の末に蒙古軍を撃退しました。
 しかし、その6年半後に第2回目(弘安の役)があり、再び対馬(現在の長崎県)への来襲に始まります。この時、蒙古軍は対馬沖に到着し、対馬の世界村大明浦に上陸しましたが、日本側の激しい抵抗を受け、郎将の康彦、康師子等が戦死しました。
 また、5月26日に蒙古軍は壱岐に襲来、6月8日には志賀島にも上陸したものの、日本軍が攻撃して、蒙古軍は敗走します。さらに、6月14日に蒙古軍が長門に襲来、6月29日には、壱岐島に駐留する蒙古軍に対して日本軍が攻撃、7月2日にも再度攻撃し、蒙古軍は平戸島に退却しました。
 その後、7月27日に鷹島の沖合に停泊していた蒙古軍船に対して日本軍が攻撃、7月30日には、台風が襲来し、蒙古軍の軍船の多くが沈没・損壊します。そこで、閏7月5日に蒙古軍は撤退を決定、同月7日には鷹島に残留する蒙古軍10万に対して、日本軍は総攻撃しこれを壊滅して、弘安の役が終わりました。

〇元寇(げんこう)とは?

 鎌倉時代中期に、当時大陸を支配していたモンゴル帝国およびその属国である高麗王国によって2度にわたり行われた日本への侵攻のことで、蒙古襲来ともいいます。1回目の1274年(文永11)のを文永の役、2回目の1281年(弘安4)のを弘安の役と呼んできました。
 台風の襲来によるモンゴル軍側の損害もあって、2度とも撤退しています。2回の元寇の後、鎌倉幕府は博多湾の防備を強化しましたが、この戦いで日本側が物質的に得たものは無く、恩賞は御家人たちに満足のいくものではありませんでした。
 モンゴル軍の再度の襲来に備えて御家人の統制が進められましたが、戦費で窮迫した御家人達は借金に苦しむようになります。やむを得ず幕府は「永仁の徳政令」などを発布して御家人の困窮対策にしようとしましたが、御家人の不満は解消されず、鎌倉幕府に対して不信感を抱くものが増えていきました。
 これらの動きはやがて大きな流れとなり、鎌倉幕府滅亡の原因の一つになったと言われています。

☆元寇関係の年表(日付は旧暦です)

<1266年(弘長元)>
・11月 第1回の蒙古の使節が日本を訪れ国書(蒙古国牒状)を持参したが、高麗から帰国する

<1268年(文永5)>
・1月 第2回の蒙古の使節が日本を訪れ国書(蒙古国牒状)を持参し、大宰府で渡す

<1269年(文永6)>
・2月 第3回の蒙古の使節が日本を訪れるが幕府は入国を許さず、使節は対馬の住民を拉致して帰国した
・9月 第4回の蒙古の使節が拉致した対馬の住民を護送する使者が大宰府を訪れる

<1271年(文永8)>
・9月 第5回の蒙古の使節が日本の大宰府を訪れ国書を持参した

<1272年(文永9)>
・2月または4月 第6回の蒙古の使節が日本を訪れ国書を持参した

<1274年(文永11)>
・10月3日 蒙古軍が大小900の船団を率いて出航する
・10月5日 蒙古軍が対馬に上陸して、多くの島民を殺害する
・10月14日 蒙古軍が壱岐に上陸して、多くの島民を殺害する
・10月16-17日 蒙古軍が肥前沿岸に襲来する
・10月20日 蒙古軍が博多湾に襲来するが、激戦の末に蒙古軍を撃退する(文永の役終了)

<1275年(建治元)>
・9月7日 服属を求めに来た元の使者を北条時宗は鎌倉で処刑し、元の襲来に備え博多湾岸に石築地を築かせる
・11月 鎌倉幕府は元の襲来を防ぐ目的での朝鮮出兵、高麗遠征計画を立てて、金沢実政が九州に下向する

<1276年(建治2)>
・3月10日 鎌倉幕府が、蒙古再来に備えて築前の海岸に石塁(石築地)を築かせるように指示する
・8月 元寇防塁(石築地)が、ほぼ完成する

<1281年(弘安4)>
・5月3日 蒙古軍が日本に向けて朝鮮を出発する
・5月21日 蒙古軍が対馬に上陸したものの、日本軍の激しい抵抗を受ける
・5月26日 蒙古軍が壱岐に上陸する
・6月8日 志賀島に上陸した蒙古軍を日本軍が攻撃して、蒙古軍は敗走する
・6月14日 蒙古軍が長門に襲来する
・6月29日 壱岐島に駐留する蒙古軍に対して日本軍が攻撃する
・7月2日 壱岐島に駐留する蒙古軍に対して日本軍が再度攻撃し、蒙古軍は平戸島に退却する
・7月27日 鷹島の沖合に停泊していた蒙古軍船に対して日本軍が攻撃する
・7月30日 台風が襲来し、蒙古軍の軍船の多くが沈没・損壊する
・閏7月5日 蒙古軍は撤退を決定する
・閏7月7日 鷹島に残留する蒙古軍10万に対して、日本軍は総攻撃しこれを壊滅する(弘安の役終了) 

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1502年(文亀2)連歌師・古典学者宗祇の命日(新暦9月1日)詳細
1907年(明治40)日本とロシアとの間で、「第一次日露協約」が締結される詳細
1913年(大正2)歌人・小説家伊藤左千夫の命日(左千夫忌)詳細
1958年(昭和33)冶金学者俵国一の命日詳細
1965年(昭和40)小説家谷崎潤一郎の命日(潤一郎忌)詳細
1971年(昭和46)全日空機雫石衝突事故が起き、乗員乗客162人全員が死亡する詳細
1976年(昭和51)内閣が「人名用漢字追加表」を告示し、「人名用漢字別表」に28字を追加する詳細
1988年(昭和63)北陸自動車道の朝日IC~名立谷浜ICが開通し、新潟黒埼IC~米原JCTが全通する詳細
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 今日は、鎌倉時代の1308年(徳治3)に、第94代の天皇とされる後二條天皇が亡くなった日ですが、新暦では9月10日となります。
 後二条天皇(ごにじょうてんのう)は、鎌倉時代の1285年(弘安8年2月2日)に、京都において、第91代の天皇とされる後宇多天皇(大覚寺統)の第一皇子(母は堀河具守女基子)として生まれました。1286年(弘安9年10月)に親王宣下され、1298年(永仁6年)には、冷泉万里小路殿で元服、両統(持明院統・大覚寺統)迭立により、後伏見天皇の皇太子に立てられます。
 1300年(正安2年)に徳大寺忻子が女御として入内、五辻宗子を母として邦良親王(後に第一皇子)が生まれました。1301年(正安3年)に鎌倉幕府の介入により、後伏見天皇の譲位を受けて践祚、第94代とされる天皇として即位しましたが、父・後宇多院が院政を敷きます。
 1302年(正安4年)に五辻宗子を母として第二皇子の花町宮邦省親王が生まれ、二条為藤らを召して当座歌合を催しました。1303年(嘉元元年)に徳大寺忻子が中宮に冊立され、後二条院歌合を催し、内裏百首を召します。
 1305年(嘉元3年)に自撰の御集『後二条院御集』を撰集しましたが、1308年(徳治3年8月25日)に、京都の二条高倉皇居において、数え年24歳で急死し、墓所は北白河陵(現在の京都市左京区)とされました。尚、歌を能くし、宮中で歌合を何度か催し、新後撰集初出で、勅撰入集は、計百首に及んでいます。

<代表的な和歌>

・「人としていかでか世にもありふべき五(いつつ)の常のみちはなれては」(後二条院御百首)
・「ながき日をふりくらしたる春雨はさびしきことのかぎりなりけり」(後二条院御百首)
・「志賀の山風をさまれる春にあひて君が御幸を花も待ちけり」(新拾遺和歌集)
・「うづら鳴く野原の浅茅うちなびき夕露もろく秋風ぞふく」(新後撰和歌集)
・「白露のをかべの薄はつ尾花ほのかになびく時は来にけり」(続後拾遺和歌集)
・「もみぢ葉の深山にふかく散りしくは秋のかへりし道にやあるらん」(風雅和歌集)
・「恋しさの寝てや忘るると思へどもまた名残そふ夢の面影」(玉葉和歌集)

〇後二条天皇関係略年表(日付は旧暦です)

・1285年(弘安8年2月2日) 京都において、第91代の天皇とされる後宇多天皇の第一皇子(母は堀河具守女基子)として生まれる
・1286年(弘安9年10月) 親王宣下される
・1298年(永仁6年) 冷泉万里小路殿で元服、両統迭立により後伏見天皇の皇太子に立てられる
・1300年(正安2年) 徳大寺忻子が女御として入内、五辻宗子を母として邦良親王(後に第一皇子)が生まれる
・1301年(正安3年) 鎌倉幕府の介入により、後伏見天皇の譲位を受けて践祚、第94代とされる天皇として即位するが、父・後宇多院が院政を敷く
・1302年(正安4年) 第二皇子の花町宮邦省親王が生まれ、二条為藤らを召して当座歌合を催す
・1303年(嘉元元年) 徳大寺忻子が中宮に冊立され、後二条院歌合を催し、内裏百首を召す
・1305年(嘉元3年) 自撰の御集『後二条院御集』を撰集する
・1308年(徳治3年8月25日) 京都の二条高倉皇居において、数え年24歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1498年(明応7)東海道沖で明応地震が起きる(新暦9月20日)詳細
1543年(天文12)ポルトガル船が種子島に漂着し、日本に鉄砲伝来する(新暦9月23日)詳細
1648年(慶安元)儒者・日本陽明学の祖中江藤樹の命日(新暦10月11日)詳細
1757年(宝暦7)柄井川柳が最初の川柳評万句合を行った日(川柳発祥の日)です(新暦10月7日)詳細
1907年(明治40)明治40年函館大火で、死者8名、負傷者1,000名、焼失12,390戸の被害を出す詳細
1922年(大正12)日本最大の分水工事である信濃川の大河津分水工事が完成し、通水する詳細
1931年(昭和6)東京飛行場(現在の東京国際空港)が開港する詳細
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 今日は、鎌倉時代の1276年(建治2)に、鎌倉幕府が、蒙古再来に備えて築前の海岸に元寇防塁(石築地)を築かせるように指示した日ですが、新暦では3月26日となります。
 元寇防塁(げんこうぼうるい)は、鎌倉時代に北部九州の博多湾沿岸一帯に築かれた防塁で、石築地(いしついじ)が本来の呼び名でした。1274年(文永11)に、第1回元寇(文永の役)にあった鎌倉幕府は、翌年、少弐経資に命じて、3月10日に異国警護のために元寇防塁(石築地)の築造を指示し、8月に至ってほぼ完成したとされます。
 築造は、九州の地頭御家人だけでなく、公領や荘園にも平均に割り当てられ、鎌倉幕府の支配が強化される契機ともなりました。総延長は約20kmに及んだとされ、1281年(弘安4)の第2回元寇(弘安の役)の際には、役に立ったということです。
 年代を経て風化が進み、地中に埋もれているところもありますが、今津地区(西区)、西新地区(早良区)、地行地区(中央区)、地蔵松原地区(東区)をはじめ、9地区に防塁が残されてきました。1913年(大正2)から発掘・整備が進められ、1931年(昭和6)に国の史跡に指定、1981年(昭和56)に追加指定がなされています。

〇元寇(げんこう)とは?

 鎌倉時代中期に、当時大陸を支配していたモンゴル帝国およびその属国である高麗王国によって2度にわたり行われた日本への侵攻のことで、蒙古襲来ともいいます。1回目の1274年(文永11)のを文永の役、2回目の1281年(弘安4)のを弘安の役と呼ばれてきました。
 台風の襲来によるモンゴル軍側の損害もあって、2度とも撤退しています。2回の元寇の後、鎌倉幕府は博多湾の防備を強化しましたが、この戦いで日本側が物質的に得たものは無く、恩賞は御家人たちに満足のいくものではありませんでした。
 モンゴル軍の再度の襲来に備えて御家人の統制が進められましたが、戦費で窮迫した御家人達は借金に苦しむようになります。やむを得ず幕府は「永仁の徳政令」などを発布して御家人の困窮対策にしようとしましたが、御家人の不満は解消されず、鎌倉幕府に対して不信感を抱くものが増えていきました。
 これらの動きはやがて大きな流れとなり、鎌倉幕府滅亡の原因の一つになったと言われています。

☆元寇関係略年表(日付は旧暦です)

<1266年(弘長元)>
・11月 第1回の蒙古の使節が日本を訪れ国書(蒙古国牒状)を持参したが、高麗から帰国する

<1268年(文永5)>
・1月 第2回の蒙古の使節が日本を訪れ国書(蒙古国牒状)を持参し、大宰府で渡す

<1269年(文永6)>
・2月 第3回の蒙古の使節が日本を訪れるが幕府は入国を許さず、使節は対馬の住民を拉致して帰国した
・9月 第4回の蒙古の使節が拉致した対馬の住民を護送する使者が大宰府を訪れる

<1271年(文永8)>
・9月 第5回の蒙古の使節が日本の大宰府を訪れ国書を持参した

<1272年(文永9)>
・2月または4月 第6回の蒙古の使節が日本を訪れ国書を持参した

<1274年(文永11)>
・10月3日 蒙古軍が大小900の船団を率いて出航する
・10月5日 蒙古軍が対馬に上陸して、多くの島民を殺害する
・10月14日 蒙古軍が壱岐に上陸して、多くの島民を殺害する
・10月16-17日 蒙古軍が肥前沿岸に襲来する
・10月20日 蒙古軍が博多湾に襲来するが、激戦の末に蒙古軍を撃退する(文永の役終了)

<1275年(建治元)>
・9月7日 服属を求めに来た元の使者を北条時宗は鎌倉で処刑し、元の襲来に備え博多湾岸に石築地を築かせる
・11月 鎌倉幕府は元の襲来を防ぐ目的での朝鮮出兵、高麗遠征計画を立てて、金沢実政が九州に下向する

<1276年(建治2)>
・3月10日 鎌倉幕府が、蒙古再来に備えて築前の海岸に石塁(石築地)を築かせるように指示する
・8月 元寇防塁(石築地)が、ほぼ完成する

<1281年(弘安4)>
・5月3日 蒙古軍が日本に向けて朝鮮を出発する
・5月21日 蒙古軍が対馬に上陸したものの、日本軍の激しい抵抗を受ける
・5月26日 蒙古軍が壱岐に上陸する
・6月8日 志賀島に上陸した蒙古軍を日本軍が攻撃して、蒙古軍は敗走する
・6月14日 蒙古軍が長門に襲来する
・6月29日 壱岐島に駐留する蒙古軍に対して日本軍が攻撃する
・7月2日 壱岐島に駐留する蒙古軍に対して日本軍が再度攻撃し、蒙古軍は平戸島に退却する
・7月27日 鷹島の沖合に停泊していた蒙古軍船に対して日本軍が攻撃する
・7月30日 台風が襲来し、蒙古軍の軍船の多くが沈没・損壊する
・閏7月5日 蒙古軍は撤退を決定する
・閏7月7日 鷹島に残留する蒙古軍10万に対して、日本軍は総攻撃しこれを壊滅する(弘安の役終了)

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

710年(和銅3)元明天皇が藤原京から平城京に都を遷す(新暦4月13日)詳細
1742年(寛保2)医者・俳人井上士朗の誕生日(新暦4月14日)詳細
1771年(明和8)八重山地震(推定M7.4)による大津波(明和の大津波)で、先島諸島に大被害が出る(新暦4月24日)詳細
1900年(明治33)「治安警察法」が公布される詳細
1945年(昭和20)東京大空襲か行われ、死傷10万人以上、焼失27万余戸、罹災100余万人が出る詳細
1975年(昭和50)山陽新幹線の岡山駅~博多駅間が延伸開業し、全線開業する詳細
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 今日は、鎌倉時代の1260年(文応元)に、日蓮が『立正安国論』を著し、北条時頼に提出した日ですが、新暦では8月24日となります。
 『立正安国論』(りっしょうあんこくろん)は、鎌倉時代の日蓮が著した問答体の仏教書で、『安国論』とも呼ばれてきました。旅客と主人の問答9番よりなり、東国に地震、大風、大雨、飢饉、疫病等災害が続出し、多くの人々が死に、病み、飢えて苦しんだのは、邪法(法然の念仏)を信じるがためと述べ、法華経に基づく諸経・諸宗の統一を主張し、正法が確立されない限り国の安泰はないと説いたものです。
 1260年(文応元年7月16日)に、宿屋左衛門入道を介して、鎌倉幕府の前執権北条時頼に提出されましたが、本論の国家諫暁の趣旨が、かえって幕府の反感を買い、日蓮は、伊豆国に流罪となりました。日蓮真筆本(国宝)が千葉県市川市の中山法華経寺に現存する他、直弟たちによる写本があり、『開目鈔』『観心本尊鈔』とならぶ、日蓮の三大著作の一つに数えられています。

〇日蓮(にちれん)とは?

 鎌倉時代の僧侶で、日蓮宗の開祖です。1222年(貞応元年2月16日)に、安房国長狭郡東条郷片海(現在の千葉県鴨川市)で、有力漁民の子として生まれましたが、幼名を薬王丸、本名は蓮長と言いました。
 1233年(天福元年)に、清澄山清澄寺の道善房を師として修学に励みます。1238年(暦仁元)に出家して、是生房蓮長と称し、鎌倉、京畿、比叡山などで諸教学を学びました。
 1253年(建長5)に清澄寺に帰山し、法華信仰に立って「南無妙法蓮華経」と題目を唱え始め(立教開宗)、名を日蓮と改めます。法華仏教至上の立場から浄土教を批判したため、浄土教徒に圧迫され清澄寺を退出、鎌倉にて辻説法を開始しました。
 『立正安国論』を著し、国難を予言して北条時頼に献じましたが、その忌諱に触れ、1261年(弘長元)に伊豆国伊東(現在の静岡県伊東市)へ配流されます。1263年(弘長3)に赦免され、鎌倉に戻って伝道活動を再開しますが、幕府・諸宗批判を止めなかったため、1269年(文永6)に龍ノ口で処刑(龍ノ口法難)されかけたものの、免れて佐渡に流されました。
 1274年(文永11)に赦免後は、甲斐身延山に隠棲し、弟子の育成に努めます。1282年(弘安5)に病を得て下山し、武蔵国千束郡(現在の東京都大田区池上)へ行き、六老僧を定めた後、同年10月13日に、数え年61歳で没しました。

<日蓮の主要な著作>

・『立正安国論』
・『開目鈔』
・『撰時鈔』
・『報恩鈔』
・『観心本尊鈔』
・『守護国家論』

〇日蓮著『立正安国論』抜粋

 若し先ず国土を安んじて現当を祈らんと欲せば速に情慮を回らし忩で対治を加えよ、所以は何ん、薬師経の七難の内五難忽に起り二難猶残れり、所以他国侵逼の難・自界叛逆の難なり、大集経の三災の内二災早く顕れ一災未だ起らず所以「兵革の災」なり、金光明経の内の種種の災過一一起ると雖も「他方の怨賊国内を侵掠する」此の災未だ露れず此の難未だ来らず、仁王経の七難の内六難今盛にして一難未だ現ぜず所以「四方の賊来つて国を侵すの難」なり。
(中略)
 若し残る所の難、悪法の科に依って並び起り競ひ来らば、其の時何んか為んや。帝王は国家を基として天下を治め、人臣は田園を領して世上を保つ。而るに他方の賊来りてその国を侵逼し、自界叛逆してその地を掠領せば、豈に驚かざらんや、豈に騒がざらんや。国を失い家を滅せば、いずれの所にか世を遁れん。
(中略)
 就中人の世に在るや、各後生を恐る。是を以て或は邪教を信じ、或は謗法を貴ぶ。各是非に迷ふことを悪むと雖も、而も猶仏法に帰することを哀しむ。何ぞ同じく信心の力を以て妄りに邪義の詞を崇ばんや、…汝早く信仰の寸心を改めて、速やかに実乗の一善に帰せよ。然れば則ち三界は皆仏国なり、仏国其れ衰へんや。十方は悉く宝土なり、宝土何ぞ壊れんや。国に衰微無く土に破壊無くんば、身は是れ安全にして、心は是れ禅定ならん。此の詞、此の言信ず可し、崇む可し。

☆北条 時頼(ほうじょう ときより)とは?

 鎌倉幕府第5代執権です。鎌倉時代の1227年(安貞元年5月14日)に、鎌倉において、六波羅探題北方に任じられた父・北条時氏(鎌倉幕府3代執権・北条泰時の長男)の次男(母は安達景盛の娘)として生まれましたが、幼名は戒寿と言いました。
 1230年(寛喜2)に3歳で父が亡くなったため、祖父・北条泰時に養育されることになります。1237年(嘉禎3)に11歳で元服して、五郎時頼を名乗り、左兵衛少尉に任官しました。
 1243年(寛元元)に左近将監従五位下となり、1246年(寛元4)には兄経時の病気隠退のあとを受け、第5代執権に就任します。その直後、同族名越光時らの陰謀を押えて一味を追放、翌年には、安達氏と協力して、光時と意を通じた三浦一族を挑発してこれを滅ぼしました(宝治合戦)。
 さらに、1252年(建長4)に第5代将軍藤原頼嗣を廃して宗尊親王を迎える(親王将軍の始まり)など、北条氏の権力確立に努めます。1249年(建長元)に相模守となり、引付衆を置き裁判の迅速公平を図るなど、幕政の刷新を図りました。
 一方、1253年(建長5)には、13ヶ条の新制で撫民のことを定め農民の保護に努めるなど善政を敷いたとされています。また、禅宗にも深い関心を抱き、同年に宋僧蘭渓道隆を招いて、鎌倉に建長寺を建てました。
 1256年(康元元)に病により、家督を6歳の時宗に譲り、最明寺で出家、法名を覚了房道崇としたものの、出家後も幕政に参与します。その後、諸国を回り民政を視察したという伝説が生じましたが、1263年(弘長3年11月22日)に、鎌倉の最明寺北亭において、数え年37歳で亡くなりました。 

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1304年(嘉元2)第89代の天皇とされる後深草天皇の命日(新暦8月17日)詳細
1885年(明治18)日本鉄道の宇都宮駅で、日本初の駅弁が発売された(駅弁記念日)詳細
1894年(明治27)領事裁判権の撤廃、相互最恵国待遇を認めた「日英通商航海条約」が締結される詳細
1919年(大正8)政治家板垣退助の命日詳細
1963年(昭和38)名神高速道路の栗東IC~尼崎ICが開通する(日本最初の高速道路の開通)詳細
1994年(平成6)三内丸山遺蹟で巨大建物の木柱等が出土、国内最大級の縄文集落跡と報道される詳細
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