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 今日は、平成時代の1989年(平成元)に、漫画家・アニメ監督・医師手塚治虫の亡くなった日です。
 手塚治虫(てづか おさむ)は、昭和時代前期の1928年(昭和3)11月3日に、大阪府豊能郡豊中町(現在の豊中市)で、住友金属に勤めるサラリーマンだった父・手塚粲(ゆたか)、母・文子の長男として生まれましたが、本名は治(おさむ)と言いました。1933年(昭和8)に兵庫県川辺郡小浜村(現在の宝塚市)へ引っ越し、1935年(昭和10)に大阪府立池田師範付属小学校(現在の大阪教育大学付属池田小学校)に入学します。
 漫画と昆虫採集に熱中し、1941年(昭和16)に小学校を卒業後、大阪府立北野中学(現在の北野高校)に入学、翌年には同窓の友人らと動物同好會を設立し、会誌「動物の世界」を発行しました。1945年(昭和20)に北野中学を卒業後、大阪大学付属医学専門部に入学、翌年『毎日小学生新聞』の4コマ漫画『マアチャンの日記帳』でデビューします。
 1947年(昭和22)に、酒井七馬原案の描き下ろし単行本『新寶島』がベストセラーとなり、大阪に赤本ブームを引き起こし、1950年(昭和25)に『ジャングル大帝』を「漫画少年」に連載開始、東京児童漫画会(児漫長屋)にも入会しました。同年に、大阪大学医学専門部を卒業して、医師国家試験に合格、翌年から代表作『鉄腕アトム』の「少年」連載を始めます。
 1952年(昭和27)に上京して、翌年には都内豊島区椎名町のトキワ荘へ住むようになり、1961年(昭和36)には医学博士の学位も取得しました。1962年(昭和37)に虫プロダクションを設立し、翌年から放映開始した日本初となる30分枠のテレビアニメシリーズ『鉄腕アトム』は爆発的な人気を呼び、今日のアニメブームの先駆となります。
 1966年(昭和41)制作の劇場用アニメ『ジャングル大帝』が、翌年にベネチア国際映画祭サン・マルコ銀獅子賞を受賞しました。同年に漫画雑誌「COM」を創刊してライフ・ワーク『火の鳥』連載のほか、若手漫画家に発表の場を与えています。
 その後も、『ブラック・ジャック』、『三つ目がとおる』、『ブッダ』などのヒット作を発表、数々の賞も得ました。晩年になっても、『陽だまりの樹』、『アドルフに告ぐ』など青年漫画においても傑作を生み出し、“マンガの神様”とも称されるようになります。
 しかし、『ネオ・ファウスト』他を連載の途中、1989年(平成元)2月9日に東京において、胃ガンのため60歳で亡くなりました。尚、1994年(平成6)にその業績をたたえ、少年時代のゆかりの地である兵庫県宝塚市に「市立手塚治虫記念館」が設立されています。

〇手塚治虫の主要な著作

・長編漫画『新宝島』(1947年)
・漫画『びいこちゃん』第三回小学館漫画賞受賞
・漫画『漫画生物学』第三回小学館漫画賞受賞
・長編漫画『鉄腕アトム』
・長編漫画『ジャングル大帝』
・長編漫画『リボンの騎士』
・長編漫画『火の鳥』第1回講談社出版文化賞(児童漫画部門)受賞
・長編漫画『ブラックジャック』第4回日本漫画家協会賞特別賞受賞
・長編漫画『アドルフに告ぐ』第10回講談社漫画賞(一般部門)受賞
・長編漫画『陽だまりの樹』第29回小学館漫画賞(青年・一般向け部門)受賞

☆手塚治虫関係略年表

・1928年(昭和3)11月3日 大阪府豊能郡豊中町(現大阪府豊中市)で、手塚粲(ゆたか)、文子(ふみこ)の長男として生まれ、治(おさむ)と命名される
・1930年(昭和7) 関西大学の創立者の一人であった祖父・太郎が亡くなる
・1933年(昭和8) 兵庫県川辺郡小浜村(1954年に宝塚市となる)へ引っ越す
・1935年(昭和10) 大阪府立池田師範付属小学校(現、大阪教育大学付属池田小学校)に入学する
・1936年(昭和11) 二年生のとき、髪の毛がちぢれていたので、「ガヂャボイ」というアダ名をつけられる
・1937年(昭和12) 三年生の二学期から、乾秀雄先生が担任となり、綴り方教育をうける、最初のマンガ「ピンピン生チャン」を描く
・1939年(昭和14) 「支那の夜」という長編マンガを描いて学校で回覧、先生にも評判となる
・1941年(昭和16) 池田師範付属小学校を卒業、大阪府立北野中学(現、北野高校)に入学する
・1942年(昭和17) 同窓の友人らと動物同好會設立、会誌「動物の世界1」を発行する
・1943年(昭和18) 「原色甲蟲圖譜」第一集・第二集、「動物の世界2・3」などを発行する
・1944年(昭和19) エッセイ集「昆蟲つれづれ草」、「原色櫛水母圖譜」発行、仁川の一里山健民修練所に一事入所する
・1945年(昭和20) 北野中学を卒業、大阪大学付属医学専門部に入学する
・1946年(昭和21) マンガ家・手塚治虫デビュー作の四コママンガ「マアチャンの日記帳」の連載が『少国民新聞(のち毎日小学生新聞)大阪版』で始まる
・1947年(昭和22) 酒井七馬原作の長編マンガ「新宝島」刊行。版を重ね四十万部を売り尽くす、「新宝島」を持って上京し、新関健之介、島田啓三の家を訪ね評を聞く
・1950年(昭和25) 「ジャングル大帝」を『漫画少年』に連載することになる、東京児童漫画会(児漫長屋)が結成され、入会する、大阪大学医学専門部を卒業、医師国家試験に合格する
・1953年(昭和28) 都内豊島区椎名町のトキワ荘へ引っ越す
・1954年(昭和29) 関西長者番付画家の部でトップ(年収217万円)となる
・1955年(昭和30) ラジオ東京で連続ドラマ「リボンの騎士」放送開始(〜9月26日)
・1957年(昭和32) 都内渋谷区代々木初台に引っ越す、東京テレビで紙人形劇「鉄腕アトム」放送開始(〜9月28日)される
・1958年(昭和33) 「びいこちゃん」「漫画生物学」で第三回小学館漫画賞を受賞する
・1959年(昭和34) フジテレビ開局番組に「鉄腕アトム」がドラマ化(松崎プロダクション制作、〜1960年5月28日)される、岡田悦子と結婚する
・1960年(昭和35) 都内練馬区谷原町(現、富士見台)に家を新築、東映動画「西遊記」が公開される
・1961年(昭和36) 奈良県立医科大学で「異型精子細胞における膜構造の電子顕微鏡的研究(タニシの精虫の研究)」により医学博士の学位をとる
・1962年(昭和37) 虫プロダクションの新スタジオが完成、引越し、東映動画「シンドバッドの冒険」が公開される
・1963年(昭和38) 国産初のテレビアニメシリーズ「鉄腕アトム」がフジテレビで放映開始、高視聴率をあげる、「ある街角の物語」で第17回芸術祭奨励賞・第13回ブルーリボン教育文化映画賞・第17回毎日映画コンクール第1回大藤信郎賞を受賞する
・1964年(昭和39) 「鉄腕アトム」で第2回テレビ記者会賞特別賞受賞、東京ムービー制作のテレビアニメ「ビッグX」がTBSテレビで放映開始(〜1965年9月27日)
・1965年(昭和40) 「鉄腕アトム」で、厚生大臣より表彰を受ける、
・1966年(昭和41) 「ジャングル大帝」で第4回テレビ記者会賞特別賞・児童福祉文化賞放送部門を受賞する
・1967年(昭和42) テレビアニメ「悟空の大冒険」がフジテレビで放映開始(〜9月30日)、「展覧会の絵」で第21回芸術祭奨励賞・第17回ブルーリボン教育文化映画賞・毎日映画コンクール第5回大藤信郎賞を受賞、劇場版「ジャングル大帝」で、ベネチア国際映画祭サンマルコ銀獅子賞を受賞する
・1968年(昭和43) マンガ製作のための株式会社手塚プロダクションを設立、虫プロ商事制作の特撮テレビ映画「バンパイヤ」がフジテレビで放映開始(〜1969年4月 5日)、「千夜一夜物語」(日本ヘラルド映画配給)を公開し大ヒット
・1969年(昭和44) テレビアニメ「どろろ」フジテレビで放映開始(〜9月28日)
・1970年(昭和45) 「やさしいライオン」で毎日映画コンクール第8回大藤信郎賞・第12回児童福祉文化奨励賞受賞、「火の鳥」で第1回講談社出版文化賞児童まんが部門受賞。
・1971年(昭和46) 集英社『週刊少年ジャンプ』に新人の登竜門である手塚賞新設、審査委員長になる
・1972年(昭和47) アニメーションスタッフルーム制作テレビアニメ「海のトリトン」朝日放送で放映開始(〜9月30日)
・1973年(昭和48) 虫プロ制作テレビアニメ「ワンサくん」が関西テレビで放映開始(〜9月24日)、虫プロダクション倒産
・1974年(昭和49) 原案の人形劇「プルルくん」NHK教育テレビで放映開始(〜1976年3月15日)
・1975年(昭和50) 「ブラック・ジャック」で、第4回日本漫画家協会賞特別優秀賞、「ブッダ」「動物つれづれ草」で第21回文藝春秋漫画賞を受賞する
・1976年(昭和51) 手塚プロダクションが高田馬場に移転
・1977年(昭和52) 講談社より『手塚治虫漫画全集』全三百巻刊行開始、「三つ目がとおる」「ブラック・ジャック」で第1回講談社漫画賞を受賞する
・1978年(昭和53) 新発足の日本アニメーション協会の初代会長となる、東宝映画「火の鳥−黎明編」(市川崑監督)が公開される
・1979年(昭和54) 児童漫画の開拓と業績により、第二回巌谷小波文藝賞を受賞する
・1980年(昭和55) 都下東久留米市へ引っ越す、「火の鳥2772」で第1回ラスベガス映画祭動画部門賞を受賞する
・1981年(昭和56) 永年にわたるアニメーション文化の発展の貢献により「アニメージュ」主催の第3回アニメグランプリ特別賞を受賞する
・1983年(昭和58) 「鉄腕アトム」他で日本人のロボット観に大きな影響を与えたことにより第四回日本文化デザイン賞を受賞する
・1984年(昭和59) 「陽だまりの樹」で第29回小学館漫画賞(青年・一般向け部門)を受賞する
・1985年(昭和60) 『手塚治虫漫画全集』完結により講談社漫画賞特別賞受賞、「おんぼろフィルム」で第1回広島国際アニメーションフェスティバルグランプリ・第4回バルナ国際アニメーションフェスティバルカテゴリー部門最優秀賞を受賞、東京都民栄誉章受賞
・1986年(昭和61) 「アドルフに告ぐ」で第10回講談社漫画賞(一般部門)受賞
・1987年(昭和62) レーザーディスク「ジャンピング/手塚治虫」で第2回映像ソフト大賞(通産大臣賞)ビデオ部門受賞
・1988年(昭和63) 戦後漫画とアニメ界における創造的な業績により朝日賞受賞、「森の伝説」で毎日映画コンクール第26回大藤信郎賞・第8回ザグレブ国際アニメーションフェスティバルCIFEJ賞(青少年映画賞)・フランス・ブール・アン・ブレス青少年のためのアニメーション映画祭青少年審査員短編部門賞受賞
・1989年(平成元)2月9日 東京において、胃ガンのため60歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

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