ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:金閣寺

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 今日は、昭和時代中期の1955年(昭和30)に、1950年(昭和25)に、放火で炎上した京都市の金閣(鹿苑寺舎利殿)が再建された日です。
 金閣寺(鹿苑寺)(きんかくじ)は、京都府京都市北区にある鹿苑寺の通称で、相国寺の山外塔頭寺院です。室町幕府3代将軍足利義満は別荘北山殿に金閣などの殿楼を造営しましたが、1408年(応永15)の義満の死後、遺言により夢窓疎石を勧請開山とし、禅宗の寺院とされました。
 宗派は臨済宗相国寺派、本尊は聖観世音菩薩で、当時は金閣以外に紫雲殿、天上間、拱北楼、反橋、芳徳殿、天鏡閣、泉殿、護摩堂、懺法堂などが立ち並び、壮観を極めたものの、のちに紫雲殿、天鏡閣は南禅寺に、天上間は建仁寺に、懺法堂は等持寺に移転され、焼失や破壊された建物もあって衰退します。しかし、天正年間(1573~1592年)から再建が始まり、徐々に堂舎の修理、復興が行われ、昭和時代前期には、金閣、方丈(本堂)、不動堂、大書院、夕佳亭などがありました。
 ところが、中心となる金閣は、1950年(昭和25)7月2日に放火によって焼失、現在のものは1955年(昭和30)に同じ様式で再建されたものです。金閣の前の庭は、室町時代初期に改修されましたが、池中の島の配置などに山荘時代の面影を残す名園で、1956年(昭和31)に国の特別史跡・特別名勝に指定されました。
 尚、1994年(平成6)には、「古都京都の文化財」の一つとして世界遺産(文化遺産)に登録されています。

〇金閣寺(鹿苑寺)関係略年表

・1225年(元仁元) 藤原公経が西園寺を建立し、併せて山荘を営む
・1397年(応永4) 金閣寺の開祖である足利義満が河内国と交換に西園寺を譲り受け、改築と新築を行い(北山山荘)、当時は「北山殿」「北山第」などと呼ばれる
・1399年(応永6) 現在の金閣寺舎利殿が完成したと推定される
・1403年(応永10) 相国寺七重大塔が落雷により焼失すると、義満は当地に七重大塔(北山大塔)を再建。相国寺七重大塔と同程度の規模とされる。
・1408年(応永15) 義満が死亡すると、義持は北山第に住んでいた異母弟義嗣をその生母春日局の屋敷に移し、自らここに入る
・1409年(応永16) 北山第の一部を破却して三条坊門第に移る
・1416年(応永23) 七重大塔が落雷で再度焼失する
・1419年(応永26) 日野康子が死亡すると、舎利殿以外の寝殿等は解体され、南禅寺や建仁寺に寄贈される
・1420年(応永27) 北山第は足利義満の遺言により禅寺とされ、義満の法号「鹿苑院殿」から鹿苑寺と名付けられ、夢窓疎石を勧請開山(名目上の開山)とする
・1467~77年(応仁元~文明9) 応仁の乱で、西軍の陣となり建築物の多くが焼失する
・1485年(文明17) 足利義政が参詣した際の、義政と亀泉集証(『蔭涼軒日録』の筆者)のやりとりが記録される
・1573~92年(天正年間) 西笑承兌が中興し、主要な建物の再建開始される
・1649年(慶安2) 舎利殿が大修理される
・1894年(明治27) 庭園および金閣を一般に公開すると共に拝観料を徴収して寺収入を確保する
・1897年(明治30) 舎利殿(金閣)が「古社寺保存法」に基づき「特別保護建造物」に指定される
・1929年(昭和4)7月1日 「国宝保存法」施行に伴い(旧)国宝に指定される
・1904~06年(明治37~39) 解体修理が行われる 。
・1925年(大正14)10月8日 庭園が「史蹟名勝天然紀念物保存法」によりに史跡・名勝に指定される
・1935年(昭和10) 満洲国の皇帝である愛新覚羅溥儀が、国賓として来日した際、鹿苑寺を訪れる
・1950年(昭和25)7月2日 放火により国宝の舎利殿(金閣)と安置されていた仏像等を焼失する(金閣寺放火事件)
・1956年(昭和31)7月19日 庭園が「文化財保護法」により特別史跡・特別名勝に指定される
・1952年(昭和27) 舎利殿(金閣)の再建に着工する
・1955年(昭和30) 舎利殿(金閣)の再建が竣工し、創建当時の姿に復元される
・1986~7年(昭和61~62) 金閣の「昭和大修復」が行われる
・1997年(平成9) 茶室「夕佳亭」の解体修理がおこなわれる
・2005~7年(平成17~19) 方丈の解体修理も行われる
・1994年(平成6)12月 ユネスコ世界遺産(文化遺産)「古都京都の文化財」の構成要素のひとつとして登録される
・2003年(平成15) 茶室「常足亭」 にチタン屋根を用い、最新技術を伝統建築に融合させた代表例となる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1590年(天正18)日本画家狩野永徳の命日(新暦10月12日)詳細
1643年(寛永20)江戸幕府3代将軍徳川家光の乳母春日局の命日(新暦10月26日)詳細
1905年(明治38)奥羽線の湯沢駅~横手駅間が開業し、福島駅~青森駅間(奥羽本線)が全通する詳細
1919年(大正8)写真家三木淳の誕生日詳細
1947年(昭和22)カスリーン台風が来襲し甚大な被害をもたらし始める詳細
1950年(昭和25)キジア台風によって、大雨に見舞われ、山口県岩国市の錦川にかかる錦帯橋が流失する詳細
1954年(昭和29)木下恵介監督の映画『二十四の瞳』(壷井栄原作)が封切られる詳細
2007年(平成19)日本画家高山辰雄の命日詳細
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 今日は、室町時代の1408年(応永15)に、室町幕府第3代将軍足利義満の亡くなった日ですが、新暦では5月31日となります。
 足利義満(あしかが よしみつ)は、1358年(延文3/正平13年8月22日)に、室町幕府第2代将軍の父・足利義詮、母・紀良子の長男として、京都で生まれましたが、幼名は春王と言いました。
 1366年(正平21/貞治5)には、後光厳天皇から名字を義満と賜り、従五位下に叙せられます。1367年(貞治6/正平22)に父の死後10歳で家督を継ぎ、翌年に室町幕府第3代将軍に就任しました。
 管領細川頼之の補佐をうけ、1371年以降今川了俊に九州を統一させ、1378年(天授4/永和4)には、室町に新邸(花の御所)を造営して移住し、幕府の基礎を固めます。
 しかし、1379年(天授5/康暦元)には、細川頼之に帰国を命じ(康暦の政変)、斯波義将を管領としました。1390年(明徳元/元中7)の美濃の乱で土岐康行、翌年の明徳の乱で山名氏清を鎮圧して、強力な守護の勢力を弱める一方で、1392年(元中9/明徳3)に南北朝の合一を実現し、幕府権力を確立します。
 1394年(応永元)には、子の義持に将軍職をゆずって太政大臣となり、翌年出家しますが、実権は保持し続けました。
 一方で、五山制度を整備し、能楽も保護して、1397年(応永4)に北山に金閣を建て、北山殿と呼ばれるようになり、いわゆる北山文化を現出します。
 さらに、1399年(応永6)には、応永の乱で中国地方の雄大内義弘を滅ぼし、1401年(応永8)に明に入貢、勘合貿易を開いて、「日本国王」として冊封を受け、室町幕府の最盛期を作りました。
 しかし、1408年(応永15年5月6日)には、咳病を患って、49歳で京都の北山第に急逝します。

〇足利義満関係略年表(日付は旧暦です)

・1358年(延文3/正平13)8月22日 室町幕府第2代将軍足利義詮の長男として、京都で生まれる
・1361年(康安元/正平16) 南軍の入京で一時赤松則祐の播磨白旗城に避難する
・1362年(康安2/正平17) 幕府・北朝側が京都を奪還したため帰京する
・1366年(貞治5/正平21) 後光厳天皇から名字を義満と賜り、従五位下に叙せられる
・1367年(貞治6/正平22) 父義詮は死に臨んで10歳の義満に家督を譲り、細川頼之を管領に任じて後事を託す
・1368年(応安元/正平23) 応安半済令が出される
・1368年(応安元/正平23) 室町幕府第3代将軍に就任する
・1371年(応安4/建徳2)以降 今川了俊に九州を統一させる
・1372年(応安5/建徳3) 判始の式を行なう
・1378年(天授4/永和4) 室町に新邸(花の御所)を造営して移住する
・1379年(天授5/康暦元) 細川頼之に帰国を命じ(康暦の政変)、斯波義将を管領とする
・1382年(弘和2/永徳2) 左大臣となる
・1382年(弘和2/永徳2) 開基として相国寺の建立を開始する
・1383年(弘和3/永徳3) 准三后宣下を受ける
・1386年(元中3/至徳3) 天橋立の景勝遊覧に出かける
・1386年(元中3/至徳3) 五山制度の大改革を断行、南禅寺を「五山の上」とする
・1388年(元中5/嘉慶2) 東国の景勝遊覧に出かける
・1389年(元中6/観応元) 安芸厳島の景勝遊覧に出かける
・1390年(元中7/明徳元) 美濃の乱で土岐康行を鎮圧する
・1391年(元中8/明徳2) 明徳の乱で山名氏清を鎮圧する
・1392年(元中9/明徳3) 南北朝の合一を実現する
・1394年(応永元) 子の義持に将軍職をゆずって太政大臣となる
・1395年(応永2) 太政大臣を辞して出家し、道義と号する
・1397年(応永4) 北山に金閣を建てる
・1398年(応永5) 三管領・四職の制を定める
・1399年(応永6) 応永の乱で中国地方の雄大内義弘を滅ぼす
・1401年(応永8) 明に入貢し、倭寇の取りしまりを約する
・1402年(応永9) 明使の詔書に「日本国王源道義」と記され、明の冊封を受ける
・1404年(応永11) 勘合貿易が始まる
・1408年(応永15)5月6日 咳病を患って、49歳で京都の北山第で急逝する
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