ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:野間文芸賞

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 今日は、昭和時代後期の1979年(昭和54)に、フランス文学者・文芸評論家中島健蔵が亡くなった日です。
 中島健蔵(なかじま けんぞう)は、明治時代後期の1903年(明治36)2月21日に、東京・麴町において、東京専門学校(後の早稲田大学)で講師を務めた父・中島泰蔵の長男として生まれました。東京高師附属中学校、旧制松本高等学校文科乙類を経て、1925年(大正14)に、東京帝国大学文学部仏文科へ入学します。
 1926年(大正15)に今日出海と「仏蘭西文学研究」を創刊、1928年(昭和3)には、東京帝国大学文学部仏文科を卒業し、副手として研究室に残りました。1931年(昭和6)に「作品」の同人となり、バレリーの『ヴアリエテ』などを訳載、文芸時評ほかを書き、1933年(昭和8)には、東京帝国大学文学部助手に昇格します。
 1934年(昭和9)に、辰野隆や鈴木信太郎の世話で東京帝国大学文学部臨時講師となり、最初の評論集『懐疑と象徴』を刊行しました。太平洋戦争中の1942年(昭和17)に、陸軍に徴用されたためマライ派遣軍の一員の陸軍報道班員としてシンガポールに赴き、年末に帰国します。
 戦後は、1945年(昭和20)に日本文芸家協会を再建し、理事に就任(~1974年)、翌年には、日本著作家組合を創設し、書記長となり、野上彰の「火の会」にも参加しました。1948年(昭和23)に福田陸太郎、太田三郎とともに日本比較文学会を結成、初代会長となり、1951年~52年(昭和26~27)には、伊藤整のチャタレー裁判で特別弁護人として出廷し、言論の自由を擁護します。
 1954年(昭和29)に著作権保護への貢献によって、第2回菊池寛賞を受賞、1955年(昭和30)に新日本文学会幹事会議長(~1961年)となり、1956年(昭和31)には、日中文化交流協会を結成して理事長となりました。1959年(昭和34)に安保批判の会に参加、1960年(昭和35)に東京大学仏文大学院講師となりましたが、1962年(昭和37)には東京大学を辞職しています。
 1977年(昭和52)に『回想の文学』で、第30回野間文芸賞を受賞、1978年(昭和53)に『新聞収録大正史』(大正出版)を監修したものの、1979年(昭和54)6月11日に、東京都中野区において、76歳で亡くなりました。 

〇中島健蔵の主要な著作

・評論集『懐疑と象徴』(1934年)
・『現代文芸論』(1936年)
・『現代作家論』(1941年)
・『文芸学試論』(1942年)
・『アンドレ・ジード』(1949年)
・『昭和時代』(1957年)
・自伝小説『自画像』(1963~66年)
・『現代文化論』(1966年)
・『音楽とわたくし』(1971~73年)
・『回想の文学』全五巻(1977年)第30回野間文芸賞受賞
・『回想の戦後文学』(1979年)

☆中島健蔵関係略年表

・1903年(明治36)2月21日 東京・麴町において、東京専門学校(後の早稲田大学)で講師を務めた父・中島泰蔵の長男として生まれる
・1909年(明治42) 東京高等師範学校附属小学校(現・筑波大学附属小学校)に入学する
・1914年(大正3) 父宛に贈られた親類前田夕暮(泰蔵の姪を妻に持つ)の第三歌集『生くる日に』を読んで感銘を受け、短歌を創作する
・1919年(大正8) 父・中島泰蔵を結核で亡くす
・1920年(大正9) 東京高師附属中学校を卒業し、補習科に通う
・1921年(大正10) 旧制松本高等学校文科乙類へ入学する
・1925年(大正14) 旧制松本高等学校文科乙類を卒業し、東京帝国大学文学部仏文科へ入学する
・1926年(大正15) 今日出海と「仏蘭西文学研究」を創刊する
・1928年(昭和3) 東京帝国大学文学部仏文科を卒業し、副手として研究室に残る
・1931年(昭和6) 「作品」の同人となり、バレリーの『ヴアリエテ』などを訳載、文芸時評ほかを書く
・1933年(昭和8) 東京帝国大学文学部助手に昇格する
・1934年(昭和9) 辰野隆や鈴木信太郎の世話で東京帝国大学文学部臨時講師となり、最初の評論集『懐疑と象徴』を刊行する
・1935年(昭和10) 東大仏文の研究室にて太宰治と檀一雄の訪問を受ける
・1942年(昭和17) 陸軍報道班員としてシンガポールに赴く
・1945年(昭和20) 日本文芸家協会を再建し、理事に就任(~1974年)する
・1946年(昭和21) 日本著作家組合を創設し、書記長となり、野上彰の「火の会」に参加する
・1948年(昭和23) 福田陸太郎、太田三郎とともに日本比較文学会を結成、初代会長となる
・1951年~52年(昭和26~27) 伊藤整のチャタレー裁判で特別弁護人として出廷し、言論の自由を擁護する
・1954年(昭和29) 著作権保護への貢献によって、第2回菊池寛賞を受賞する
・1955年(昭和30) 新日本文学会幹事会議長(~1961年)となる
・1956年(昭和31) 日中文化交流協会を結成して理事長となる
・1959年(昭和34) 安保批判の会に参加する
・1960年(昭和35) 東京大学仏文大学院講師となる
・1962年(昭和37) 東京大学を辞職する
・1977年(昭和52) 『回想の文学』で、第30回野間文芸賞を受賞する
・1978年(昭和53) 『新聞収録大正史』(大正出版)を監修する
・1979年(昭和54)6月11日 東京都中野区において、76歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1615年(慶長20)武将・大名・茶人・織部流茶道の祖古田重然(織部)が豊臣方内通の罪に問われ自刃する(新暦7月6日)詳細
1873年(明治6)「国立銀行条例」に基づき、第一国立銀行(現在のみずほ銀行)が設立される(国立銀行設立の日)詳細
1942年(昭和17)関門トンネルが開通し、最初の試運転列車が通過する詳細
1951年(昭和26)「産業教育振興法」が公布される詳細
1969年(昭和44)「東京国立近代美術館」(現在の本館)が開館する詳細
1975年(昭和50)考古学者宮坂英弌の命日詳細
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 今日は、平成時代の1999年(平成11)に、文芸評論家江藤淳の亡くなった日です。
 江藤 淳(えとう じゅん)は、1932年(昭和7)12月25日に、東京府豊多摩郡大久保町字百人町(現在の東京都新宿区)において、銀行員だった父・江頭隆、母・廣子の長男としてに生まれましたが、本名は江頭淳夫(えがしら あつお)と言いました。1937年(昭和12)の4歳半の時、母を結核で失ない、1945年(昭和20)には、太平洋戦争下の空襲で、東京大久保の生家が焼失します。
 戦後、旧制湘南中学(現在の県立湘南高等学校)、旧制都立第一中学校(現在の都立日比谷高等学校)を経て、1953年(昭和28)に慶應義塾大学文学部(教養課程)に進みました。翌年に専門課程への進学に際して英文科を選びましたが、喀血して自宅で療養を余儀なくされます。
 1955年(昭和30)に「三田文学」に『夏目漱石論』を発表、初めて江藤淳を名乗り、1957年(昭和32)に卒業後、大学院文学研究科修士課程に進みました。1958年(昭和33)に『奴隷の思想を排す』を上梓、石原慎太郎、大江健三郎、谷川俊太郎、寺山修司、浅利慶太、永六輔、黛敏郎、福田善之ら若手文化人らと「若い日本の会」を結成し、60年安保に反対します。
 1959年(昭和34)に講談社から『作家は行動する』を上梓、大学院を中退、1962年(昭和37)にロックフェラー財団の研究員としてプリンストン大学に留学、『小林秀雄』で第9回新潮社文学賞受賞、翌年にはプリンストン大学東洋学科で日本文学史を教えました。1964年(昭和39)に帰国し、1967年(昭和42)に遠山一行、高階秀爾と雑誌『季刊藝術』を創刊(1979年まで刊行)、1970年(昭和45)には、評伝『漱石とその時代』で、第18回菊池寛賞・第23回野間文芸賞を受賞します。
 1971年(昭和46)に東京工業大学助教授となり、翌年に中央教育審議会の委員に就任、1973年(昭和48)には、教授に昇任しました。1975年(昭和50)に、比較文学の手法に立脚した博士論文『漱石とアーサー王伝説』で文学博士号取得、第32回日本芸術院賞(文芸部門)受賞、『海は甦える』で第37回文芸春秋読者賞を受賞します。
 1990年(平成2)に東京工業大学を辞職、翌年に日本芸術院会員となり、1992年(平成4)には、慶應義塾大学環境情報学部教授となりました。1994年(平成6)に第45回NHK放送文化賞を受賞、日本文芸家協会理事長となり、日本文学大賞、文學界新人賞、群像新人文学賞、文藝賞、三島由紀夫賞などの選考委員を務めます。
 1997年(平成9)に定年まで1年を残し慶應義塾を去り、大正大学教授に就任しましたが、翌年暮れに癌により慶子夫人を亡くし、1999年(平成11)に、手記『妻と私』を発表、同年7月21日に、鎌倉市西御門の自宅において、66歳で自殺しました。

〇江藤淳の主要な著作

・『夏目漱石』(1956年)
・『奴隷の思想を排す』(1958年)
・『作家は行動する』(1959年)
・『小林秀雄』(1962年)第9回新潮社文学賞受賞
・『アメリカと私』(1965年)
・『成熟と喪失』(1967年)
・評伝『漱石とその時代』(1970年)第18回菊池寛賞・第23回野間文芸賞受賞
・『一族再会』(1972年)
・『海は甦(よみが)える』(1973年)第37回文芸春秋読者賞受賞
・『海舟余波 わが読史余滴』(1974年)
・『漱石とアーサー王伝説』(1975年)
・『忘れたこと忘れさせられたこと』(1979年)
・『落葉の掃寄せ』(1982年)
・『自由と禁忌』(1984年)
・『近代以前』(1985年)
・文学論『昭和の文人』(1989年)
・評論集『保守とはなにか』(1996年)
・手記『妻と私』(1999年)

☆江藤淳関係略年表

・1932年(昭和7)12月25日 東京府豊多摩郡大久保町字百人町(現在の東京都新宿区)において、銀行員だった父・江頭隆、母・廣子の長男としてに生まれる
・1937年(昭和12) 4歳半の時、母を結核で失う。
・1939年(昭和14) 戸山小学校に入学するも、病弱な上に教師と合わず、不登校になる
・1942年(昭和17) 神奈川県鎌倉市の鎌倉第一国民学校に転校してから学校が好きになり、成績が上昇する
・1945年(昭和20)5月 空襲にて東京大久保の生家が焼失する
・1946年(昭和21) 神奈川県藤沢市の旧制湘南中学(現在の神奈川県立湘南高等学校)に入学する
・1948年(昭和23) 旧制の東京都立第一中学校(現在の東京都立日比谷高等学校)に転校する
・1951年(昭和26) 健康診断で肺浸潤が見つかったため、高校を休学して自宅療養する
・1953年(昭和28) 東京大学文科二類(現在の文科三類に相当)を受験して失敗、慶應義塾大学文学部(教養課程)に進む
・1954年(昭和29)4月 専門課程への進学に際して英文科を選ぶ
・1954年(昭和29)6月 喀血して自宅で療養する
・1955年(昭和30) 『三田文学』に「夏目漱石論」を発表。初めて江藤淳を名乗る
・1957年(昭和32) 慶應義塾大学文学部文学科(英米文学専攻)を卒業後、慶應義塾大学大学院文学研究科修士課程に進む
・1958年(昭和33) 文藝春秋から『奴隷の思想を排す』を上梓。石原慎太郎、大江健三郎、谷川俊太郎、寺山修司、浅利慶太、永六輔、黛敏郎、福田善之ら若手文化人らと「若い日本の会」を結成し、60年安保に反対した
・1959年(昭和34) 講談社から『作家は行動する』を上梓、退学届けを提出し、正式に大学院を中退する
・1962年(昭和37) ロックフェラー財団の研究員としてプリンストン大学に留学する、『小林秀雄』で第9回新潮社文学賞を受賞する
・1963年(昭和38) プリンストン大学東洋学科で日本文学史を教える
・1964年(昭和39) 日本へ帰国する
・1967年(昭和42) 遠山一行、高階秀爾と雑誌『季刊藝術』を創刊(1979年まで刊行)
・1970年(昭和45) 評伝『漱石とその時代』で、第18回菊池寛賞・第23回野間文芸賞を受賞する
・1971年(昭和46) 東京工業大学助教授となる
・1972年(昭和47) 中央教育審議会の委員に就任する
・1973年(昭和48) 東京工業大学教授となる
・1974年(昭和49) 「『フォニイ』考」で、加賀乙彦、辻邦生らの長編を、純文学ならざるものとして批判し、論争となる
・1975年(昭和50) 博士論文『漱石とアーサー王伝説』を慶應義塾大学に提出し、同大学より文学博士号を取得、第32回日本芸術院賞(文芸部門)受賞、『海は甦える』で第37回文芸春秋読者賞を受賞する
・1976年(昭和51) NHKのドキュメンタリー・ドラマ『明治の群像』のシナリオを手掛ける
・1977年(昭和52) 『文學界』1月号掲載の開高健との対談『作家の狼疾』で、埴谷を激怒させ、『江藤淳のこと』を『文藝』に掲載し批判した
・1979年(昭和54) ワシントンのウィルソン・センターで米軍占領下の検閲事情を調査する
・1980年(昭和55) 田中康夫の文藝賞受賞作『なんとなく、クリスタル』を高く評価する
・1982年(昭和57) 『海』4月号で吉本隆明と対談(『現代文学の倫理』)する
・1983年(昭和58) 「ユダの季節」で、保守派の論客である山崎正和、中嶋嶺雄、粕谷一希の党派性を批判し、保守論壇から孤立することとなる
・1988年(昭和63) 『新潮』5月号の創刊1000号記念で、大江健三郎、開高健、石原慎太郎ら同世代の作家と「文学の不易と流行」と題した座談会を行なう
・1990年(平成2) 東京工業大学を辞職する
・1991年(平成3) 日本芸術院会員となる
・1992年(平成4) 慶應義塾大学環境情報学部教授となる
・1994年(平成6) 第45回NHK放送文化賞を受賞、日本文芸家協会理事長となる
・1995年(平成7) 文藝春秋5月号で『皇室にあえて問う』を発表する
・1995年(平成7)12月7日 日本文藝家協会理事長として、公正取引委員会による出版流通の再販制度見直しに反対する声明を出す
・1997年(平成9) 定年まで1年を残し慶應義塾を去り、大正大学教授に就く
・1998年(平成10) 第13回正論大賞を受賞、暮れに癌により慶子夫人が亡くなる
・1999年(平成11)7月21日 鎌倉市西御門の自宅において、66歳で自殺する

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1881年(明治14)「開拓使官有物払下げ事件」のきっかけとなった官有施設・設備払い下げを決定詳細
1896年(明治29)北京において「日清通商航海条約」が締結される詳細
1940年(昭和15)日本労働総同盟が自主解散を決議し、産業報国会への合流を決める詳細
1941年(昭和16)文部省教学局から『臣民の道』が刊行される詳細
2000年(平成12)写真家渡辺義雄の命日詳細
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 今日は、平成時代の2005年(平成17)に、小説家丹羽文雄の亡くなった日です。
 丹羽文雄(にわ ふみお)は、明治時代後期の1904年(明治37)11月22日に、四日市市浜田の真宗高田派佛法山崇顕寺住職だった父・丹羽教開、母・こうの次男として生まれました。三重県立富田中学校を経て、1923年(大正12)に、第一早稲田高等学院に入学、1926年(大正15)に早稲田大学文学部国文科へ進み、尾崎一雄の紹介で火野葦平らが発行していた同人誌「街」に『秋』を発表します。
 1929年(昭和4)に早稲田大学文学部国文科を卒業、帰郷して僧侶となったものの、文学への志を断ちがたく作品を書き続け、1932年(昭和7)に『鮎』 が永井龍男に認められて上京し、作家生活に入りました。1933年(昭和8)に『鶴』を「三田文学」に発表、1935年(昭10)には、第一創作集『鮎』を刊行、太田綾子と結婚して東京市中野区文園町に住むようになります。
 1934年(昭和9)に、『海面』、『甲羅類』、『象形文字』、『贅肉』などを発表して人気作家となりました。1938年(昭和13)に漢口攻略戦の「ペン部隊」役員に選ばれ、中国へ赴き、1942年(昭和17)には、海軍報道班員としてラバウルへ赴きましたが、ソロモン群島で砲火を浴びて負傷、しかし、『海戦』で第2回中央公論賞を受賞しています。
 空襲が激しくなると、1944年(昭和19)に栃木県烏山町の妻の実家に疎開しました。太平洋戦争後は、作風の領域や奥行を拡大し、1947年(昭和22)に『厭(いや)がらせの年齢』を発表、1953年(昭和28)には、『蛇と鳩』で野間文芸賞を受賞しています。
 また、1950年代には同人誌『文学者』を主宰、瀬戸内寂聴や吉村昭、津村節子、富島健夫、中村八朗たちを育成しました。1956年(昭和31)に日本文芸家協会理事長となり、1959年(昭和34)に『顔』で毎日芸術賞を受賞、『一路』(1962~66年)で読売文学賞を受賞、1965年(昭和40)には日本芸術院会員ともなります。
 1966年(昭和41)に日本文芸家協会会長に就任(~1972年)、1977年(昭和52)には、文化勲章を受章しました。文壇の発展のみならず、文学者のための社会保険制度の創設など社会的な面でも尽力したものの、2005年(平成17)4月20日に、東京都武蔵野市の自宅で、肺炎のため100歳で亡くなりました。

〇丹羽文雄の主要な著作

・『鮎(あゆ)』(1932年)
・『海戦』(1942年)第2回中央公論賞受賞
・『青麦』(1953年)
・『蛇と鳩』(1953年)野間文芸賞受賞
・『菩提樹(ぼだいじゅ)』(1955~56年)
・『顔』(1959年)毎日芸術賞受賞
・『有情(うじょう)』(1962年)
・『一路』(1962~66年)読売文学賞受賞
・『親鸞(しんらん)』(1965~69年)
・『無慚無愧(むざんむき)』(1970年)
・『蓮如(れんにょ)』(1971~81年)野間文芸賞受賞

☆丹羽文雄関係略年表

・1904年(明治37)11月22日 四日市市浜田の真宗高田派佛法山崇顕寺住職だった父・丹羽教開、母・こうの次男として生まれる
・1911年(明治44) 四日市第二尋常小学校へ入学する
・1918年(大正7) 三重県立富田中学校へ入学する
・1923年(大正12) 第一早稲田高等学院に入学する
・1926年(大正15) 早稲田大学文学部国文科へ進学、同人誌「街」に『秋』を発表する
・1929年(昭和4) 早稲田大学文学部国文科を卒業、帰郷して僧侶となる
・1932年(昭和7) 『鮎』 が永井龍男に認められて上京し、作家生活に入る
・1933年(昭和8) 『鶴』を「三田文学」に発表する
・1935年(昭10) 第一創作集『鮎』を刊行、太田綾子と結婚して東京市中野区文園町に住む
・1938年(昭和13) 漢口攻略戦の「ペン部隊」役員に選ばれ、中国へ赴く
・1942年(昭和17) 海軍報道班員としてラバウルへ赴く、ソロモン群島で砲火を浴びて負傷、『海戦』で第2回中央公論賞を受賞する
・1944年(昭和19) 栃木県烏山町の妻の実家に疎開する
・1947年(昭和22) 『厭(いや)がらせの年齢』を発表する
・1953年(昭和28) 『蛇と鳩』で野間文芸賞を受賞する
・1956年(昭和31) 日本文芸家協会理事長となる
・1959年(昭和34) 『顔』で毎日芸術賞を受賞する
・1965年(昭和40) 日本芸術院会員となる
・1966年(昭和41) 日本文芸家協会会長に就任する
・1972年(昭和47) 日本文芸家協会会長を辞任する
・1977年(昭和52) 文化勲章を受章する
・2005年(平成17)4月20日 東京都武蔵野市の自宅で、肺炎のため100歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1546年(天文15)河越城の戦いで北条氏康が河越城包囲の上杉方を夜襲し勝利する(新暦5月19日)詳細
1651年(慶安4)江戸幕府三代将軍徳川家光の命日(新暦6月8日)詳細
1947年(昭和22)飯田大火で4,010戸が焼失する詳細
1978年(昭和53)小説家橋本英吉の命日詳細
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 今日は、明治時代前期の1882年(明治15)に、小説家・児童文学作家小川未明が生まれた日です。
 小川未明(おがわ みめい)は、新潟県中頸城郡高田町五分一(現在の上越市)において、旧士族だった父・小川澄晴、母・千代のひとり息子として生れましたが、本名は健作(けんさく)と言いました。旧制高田中学校(現在の県立高田高等学校)に進んだものの3回落第し、1901年(明治34)に上京、早稲田大学予備校に入学、専門部英文哲学科より転じて大学部英文科で修学します。
 坪内逍遙の指導を受け、在学中に『合歓の花』を「スケッチ」に、『帰想』、『故郷』を「読売新聞」、『漂浪児』を「新小説」に発表しました。1905年(明治38)に早稲田大学英文科卒業(卒業論文「ラフカディオ・ハーンを論ず」)、『鬼子母神』を「読売新聞」、『霞に霙』を「新小説」に発表、好評を得て作家的地位を確立します。
 1906年(明治39)に早稲田文学社に入り、島村抱月氏指導のもとに「少年文庫」を編集、翌年には、第一短編集『愁人』を出版、正宗白鳥氏の紹介で読売新聞社に入社、社会部の夜勤記者となりました。1908年(明治41)に新ロマンチシズムの文学研究会「青鳥会」をつくり、「秀才文壇」の記者となりましたが、翌年には、雑誌記者その他全ての勤めをやめて文筆で起とうと決心します。
 生活は貧困をきわめたものの、1910年(明治43)には、日本最初の創作童話集とされる第一童話集『赤い船』を出しました。1911年(明治44)に代表作とされる小説『物言はぬ顔』、『薔薇と巫女』を発表して名声を上げ、翌年には、唯一の長編小説『魯鈍な猫』を「読売新聞」に連載、「北方文学」を創刊、主幹となったものの4号で終刊となります。
 大正時代に入ってからは、社会主義に近づき、短編集『路上の一人』(1915年)、『小作人の死』(1918年)などを発表、労働文学の雑誌「黒煙」を指導するかたわら、1920年(大正9)の日本社会主義同盟の創立にも参加しました。1921年(大正10)に代表作の一つとされる童話『赤い蝋燭と人魚』を「朝日新聞」に書いたりする中で、大正末期になると、生得のロマンチックな性向と社会主義的な文学理論との違和が決定的となり、「日本童話作家協会」創立に参加、小説を断念して、昭和時代に入ってからは童話執筆に専念するようになります。
 1933年(昭和8)に長篇童話「雪原の少年」を「国民新聞」に連載、1937年(昭和12)には、子供研究社より児童文学雑誌「お話の木」を主宰(翌年2月発刊)するなど児童文学の世界で活躍しました。1941年(昭和16)に日本少国民文化協会の発足に参加、1944年(昭和19)には、少国民文化功労賞を受けています。
 太平洋戦争後は、1946年(昭和21)に第5回野間文芸賞を受賞、児童文学者協会を創立して、初代会長になり、児童文学の再建に尽力しました。1951年(昭和26)に児童文学における功績によって、芸術院賞を受賞、1953年(昭和28)には、日本芸術院会員、文化功労者ともなります。
 1954年(昭和29)から「小川未明作品集」(全5巻)、1958年(昭和33)から新版「小川未明童話全集」(全12巻)が刊行されたりしたものの、1961年(昭和36)5月11日に、東京において、79歳で亡くなりました。

〇小川未明の代表的な著作

・小説『霰(あられ)に霙(みぞれ)』(1905年)
・処女短編集『愁人(しゅうじん)』(1907年)
・処女童話集『赤い船』(1910年)
・小説『薔薇 (ばら) と巫女 (みこ) 』(1911年)
・小説『物言はぬ顔』(1911年)
・長編小説『魯鈍(ろどん)な猫』(1912年)
・詩集『あの山越えて』(1914年)
・短編集『路上の一人』(1915年)
・短編集『小作人の死』(1918年)
・童話『金の輪』(1919年)
・童話『牛女』(1919年)
・童話集『赤い蝋燭(ろうそく)と人魚』(1921年)
・童話『野薔薇』(1922年)
・長篇童話『雪原の少年』(1933年)
・童話『考えこじき』(1946年)

☆小川未明関係略年表

・1882年(明治15)4月7日 新潟県中頸城郡高田町五分一(現在の上越市)において、旧士族だった父・小川澄晴、母・千代のひとり息子として生れる
・1988年(明治21) 岡島小学校(現在の大手前)に入学する
・1892年(明治25) 高田尋常小学校に転入学する
・1895年(明治28) 旧制高田中学校(現在の県立高田高等学校)に入学する
・1897年(明治30) 一家で春日山に移る
・1898年(明治31) 佐久間象山の高弟、北沢乾堂先生、高田中学に赴任、漢文を学ぶ
・1900年(明治33) 学校の空気にあきたらず、文芸雑誌、政治雑誌を濫読。数学ができず落第する
・1901年(明治34) 4月6日に上京、早稲田大学予備校に入学、専門部英文哲学科より転じて大学部英文科に修学する
・1903年(明治36) 「合歓の花」を「スケッチ」に発表する
・1904年(明治37) 「帰想」、「故郷」を「読売新聞」、「漂浪児」を「新小説」に発表する
・1905年(明治38) 早稲田大学英文科卒業(卒業論文「ラフカディオ・ハーンを論ず」)、「鬼子母神」を「読売新聞」、「霞に霙」を「新小説」に発表、好評を得て作家的地位を確立する
・1906年(明治39) 越後長岡市山田藤次郎長女キチと結婚、早稲田文学社に入り、島村抱月氏指導のもとに「少年文庫」を編集する
・1907年(明治40) 第一短編集『愁人』が坪内逍遥序文、竹久夢二装丁、中沢弘光口絵で降文館より出版される、正宗白鳥氏の紹介で読売新聞社に入社、社会部の夜勤記者となる
・1908年(明治41) 新ロマンチシズムの文学研究会「青鳥会」をつくる、「秀才文壇」の記者となる
・1909年(明治42) 雑誌記者その他全ての勤めをやめて文筆で起とうと決心する
・1910年(明治43) 生活貧困をきわめ、ラフカディオ・ハーンやメーテルリンクなどの本を売りはらい、日本最初の創作童話集とされる第一童話集「赤い船」を出す
・1911年(明治44) 代表作のひとつ「物言はぬ顔」を「新小説」に、「薔薇と巫女」を「早稲田文学」に発表する
・1912年(明治45) 唯一の長編小説「魯鈍な猫」を「読売新聞」に連載、5月「北方文学」を創刊、主幹となったが4号で終刊となる
・1916年(大正5) 文化学会員となり、嶋中雄三氏らを知る
・1919年(大正8) 著作家組合会員となり、大庭柯公、堺利彦、長谷川如是閑、有島武郎氏らと知り合う。新しく創刊された児童雑誌「おとぎの世界」をしばらく主宰し、「牛女」、「金の輪」、「北海の白鳥」などを書く
・1920年(大正9) 一家親子4人流感にかかり、重体におちいり、病後伊豆山で静養、日本社会主義同盟の発起に参加する
・1921年(大正10) 代表作の一つとされる「赤い蝋燭と人魚」を「朝日新聞」にかく。また「火を点ず」を「種蒔く人」に、「港についた黒んぼ」を「童話」に発表する
・1922年(大正11) 出版社従業員組合員としてメーデーに参加する
・1923年(大正12) 有島武郎、片上伸、嶋中雄三氏ほか「種蒔き社」などの発起で「三人の会」(中村吉蔵、秋田雨雀、小川未明)が開かれ、未明の「野薔薇」が朗読される
・1924年(大正13) 日本フェビアン協会に入り、「社会主義研究」にも寄稿する
・1925年(大正14) 日本小説家協会員となる、「小川未明選集」(小説4巻、童話2巻、未明選集刊行会)の予約出版始まる
・1926年(大正15) 「未明選集」完結とともに小説の筆を絶ち、専心童話にいく決心をし、同志と日本無産派芸術聯盟を組織、「日本童話作家協会」創立に参加する
・1927年(昭和2) 「未明童話集」全5巻が出版される
・1928年(昭和3) 左翼文芸家聯合編の「戦争に対する戦争」に「野薔薇」を寄稿、「新興童話作家聯盟」の結成に参加する
・1929年(昭和4) 自由芸術家聯盟を結成、機関紙「童話の社会」に童話と童謡の革新を期し寄稿する
・1930年(昭和5) 東京市杉並区高円寺の新宅に移る
・1931年(昭和6) 中国にて張暁天氏訳「未明童話集」全4巻が出版される
・1933年(昭和8) 長篇童話「雪原の少年」を「国民新聞」に連載する
・1937年(昭和12) 子供研究社より児童文学雑誌「お話の木」を主宰(翌年2月発刊)する
・1941年(昭和16) 日本少国民文化協会の発足に参加する
・1944年(昭和19) 少国民文化功労賞を受ける
・1946年(昭和21) 第5回野間文芸賞を受賞、児童文学者協会創立、初代会長になり、児童文学の再建につくす
・1950年(昭和25) 「小川未明童話集」(講談社)刊行される
・1951年(昭和26) 児童文学における功績によって、芸術院賞を受賞する
・1953年(昭和28) 日本芸術院会員、文化功労者となる
・1954年(昭和29) 「小川未明作品集」(全5巻)講談社より刊行開始(翌年1月完結)
・1958年(昭和33) 新版「小川未明童話全集」全12巻(講談社)の刊行開始(翌年4月完結)
・1961年(昭和36)5月11日 東京において、79歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

772年(宝亀3)法相宗の僧道鏡の命日(新暦5月13日)詳細
1133年(長承2)浄土宗の開祖法然の誕生日(新暦5月13日)詳細
1526年(大永6)第104代の天皇とされる後柏原天皇の命日(新暦5月18日)詳細
1947年(昭和22)「労働基準法」が公布される詳細
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 今日は、大正時代の1926年(大正15)に、小説家河野多惠子の生まれた日です。
 河野多惠子(こうの たえこ)は、大阪府大阪市西区で椎茸問屋を営む父・河野為治、母・よねの二女として生まれました。大阪府立市岡高等女学校(現在の港高等学校)を経て、1944年(昭和19)に大阪府女子専門学校(現在の大阪女子大学)経済科に入学します。
 1945年(昭和20)の大阪大空襲で罹災、太平洋戦争後は1949年(昭和24)に肺結核を発病し、2年ほど療養生活をしました。その間、1950年(昭和25)に丹羽文雄主宰の同人誌『文学者』の同人となり、翌年に小説『余燼』が「文学者」に初掲載されます。
 1952年(昭和27)に上京したものの、1957年(昭和32)に肺結核を再発、1961年(昭和36)には父・為治が亡くなるなど困難が続きました。1961年(昭和36)に『幼児狩り』を発表、翌年第8回新潮同人雑誌賞を受賞、同年の『雪』と翌年の『美少女』が芥川賞候補となります。
 1963年(昭和38)に、特異な感覚で意識内の世界をえがいた『蟹』で第49回芥川賞を受賞、1965年(昭和40)には、洋画家の市川泰と結婚しました。その後、『最後の時』(1966年)で第6回女流文学賞、『不意の声』(1968年)で第20回読売文学賞、評論『谷崎文学と肯定の欲望』(1975年)で第28回読売文学賞、『一年の牧歌』(1980年)で第16回谷崎潤一郎賞と数々の栄誉に輝きます。
 1984年(昭和59)に日本芸術院賞を受賞、1987年(昭和62)から作家の大庭みな子と共に女性として初めて芥川賞の選考委員を務め、読売文学賞や谷崎潤一郎賞の選考委員にもなり、1989年(平成元)には日本藝術院会員にも選ばれました。2002年(平成12)に文化功労者となり、2014年(平成24)に文化勲章を受章しもしたが、翌年1月29日に、東京都千代田区の病院において、88歳で亡くなっています。

〇河野多惠子の主要な著作

・『余燼(よじん)』(1951年)
・『幼児狩り』(1961年)新潮社同人雑誌賞受賞
・『雪』(1962年)芥川賞候補
・『美少女』(1963年)芥川賞候補
・『蟹(かに)』(1963年)第49回芥川賞受賞
・『最後の時』(1966年)第6回女流文学賞受賞
・『不意の声』(1968年)第20回読売文学賞受賞
・『回転扉』(1970年)
・『雙夢(そうむ)』(1972年)
・評論『谷崎文学と肯定の欲望』(1975年)第28回読売文学賞受賞
・『一年の牧歌』(1980年)第16回谷崎潤一郎賞受賞
・『みいら採り猟奇譚(きたん)』(1990年)野間文芸賞受賞
・『後日の話』(1999年)毎日芸術賞・伊藤整賞受賞
・『秘事』(2000年)
・『半所有者』(2002年)川端康成文学賞受賞

☆河野多惠子関係略年表

・1926年(大正15)4月30日 大阪府大阪市西区にある椎茸問屋の父為治、母よねの二女として生まれる
・1932年(昭和7)4月 大阪市日吉幼稚園に入園するが一学期で退園する
・1933年(昭和8)4月 大阪市日吉小学校に入学する
・1939年(昭和14)4月 大阪府立市岡高等女学校(現 港高等学校)に入学する
・1944年(昭和19)4月 大阪府女子専門学校(現 大阪女子大学)経済科に入学する
・1945年(昭和20)3月 大阪大空襲で罹災、阿倍野区昭和町へ仮寓する
・1949年(昭和24)3月 肺結核を発病する
・1950年(昭和25) 丹羽文雄主宰の同人誌「文学者」の同人となる
・1951年(昭和26) 小説『余燼(よじん)』が「文学者」に初掲載される
・1952年(昭和27)5月 上京する
・1957年(昭和32)10月 肺結核を再発する
・1961年(昭和36)2月 父・為治が亡くなる
・1961年(昭和36)9月 新宿区戸塚町の下宿に転居する
・1961年(昭和36)11月 『幼児狩り』を発表
・1962年(昭和37)1月 『幼児狩り』で第8回新潮同人雑誌賞受賞、戸塚町の知人の離れに移る
・1962年(昭和37)8月 『雪』が芥川賞候補となる
・1963年(昭和38)2月 『美少女』が芥川賞候補となる
・1963年(昭和38)8月 『蟹』で第49回芥川龍之介賞を受賞する
・1963年(昭和38)12月 新宿区早稲田町に転居する
・1965年(昭和40)4月 洋画家の市川泰と結婚する
・1967年(昭和42)4月 『最後の時』で第6回女流文学賞を受賞する
・1967年(昭和42)6月 中野区本町に転居する
・1969年(昭和44)2月 『骨の肉』を発表する
・1969年(昭和44)3月 『不意の声』で第20回読売文学賞を受賞する
・1971年(昭和46)4月 千代田区三番町へ転居する
・1974年(昭和49)10月 『血と貝殻』を発表する
・1977年(昭和52)2月 『谷崎文学と肯定の欲望』で第28回読売文学賞を受賞。この年『骨の肉』が英訳される
・1979年(昭和54)1月 『一年の牧歌』を発表する
・1979年(昭和54)4月 母・よねが亡くなる
・1980年(昭和55)10月 『一年の牧歌』で第16回谷崎潤一郎賞を受賞する
・1984年(昭和59) 日本芸術院賞を受賞する
・1987年(昭和62) 芥川賞選考委員を務める
・1989年(平成元) 日本藝術院会員となる
・1991年(平成3)11月 『みいら採り猟奇譚』で野間文芸賞を受賞する
・1994年(平成6) 『河野多恵子全集』の第一巻が刊行される
・2000年(平成10)1月 『後日の話』で毎日芸術賞を受賞する
・2002年(平成12)4月 『半所有者』で川端康成文学賞を受賞する
・2002年(平成12)11月 文化功労者となる
・2006年(平成16) 芥川賞の選考委員を辞任する
・2014年(平成24) 文化勲章を受章する
・2015年(平成27)1月29日 東京都千代田区の病院において、88歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1358年(正平13)室町幕府初代将軍足利尊氏の命日(新暦6月7日)詳細
1950年(昭和25)図書館法」が公布される(図書館記念日)詳細
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