
翌15日に京方の藤原秀康・近畿6ヶ国守護大内惟信率いる800騎が伊賀光季邸を襲撃、光季は討死しましたが、変事を鎌倉に知らせました。この時に、執権北条義時追討の宣旨が出されたものの、5月19日に幕府へ西園寺公経の家司三善長衡と伊賀光季からの上皇挙兵の急報が届けられ、北条政子が御家人たちを集めて、鎌倉創設以来の頼朝の恩顧を訴え、その団結を図ります。
そして、幕府側は遠江以東15ヶ国の兵を集め、5月22日に東海道は北条泰時・時房、東山道は武田信光・小笠原長清、北陸道は北条朝時・結城朝広らを大将軍として、三道から京へ攻め上がりました。6月5日に東山道軍5万騎は大井戸渡に布陣する大内惟信、高桑大将軍が率いる京方2000騎を撃破、6月6日には主力の東海道軍10万騎が尾張川を渡河し、墨俣の陣に攻めかかり、山田重忠のみが杭瀬川で奮戦するものの、京方は総崩れになり、大敗を喫します。
6月13日に京方と幕府軍が宇治川で衝突、京方は宇治川の橋を落とし、必死に防戦しましたが、翌14日に佐々木信綱を先頭として強引に敵前渡河し、多数の溺死者を出しながらも敵陣の突破に成功、京方は潰走し、15日には幕府軍は京都に攻め入り、京方の敗北で終わりました。その結果、後鳥羽上皇は隠岐島、土御門上皇は土佐国、順徳上皇は佐渡島に配流、上皇方の公家・武士の所領は没収されます。
また、新補地頭の設置、朝廷監視のため六波羅探題の設置などにより、公家勢力の権威は著しく失墜し、鎌倉幕府の絶対的優位が確立しました。
以下に、『吾妻鏡』第廿五巻の承久の乱の後鳥羽上皇遠流の部分を現代語訳・注釈付で掲載しておきますので、ご参照ください。
その後、後白河法皇の院宣を受ける形で践祚し、翌年、神器のないままに即位式が実施され、天皇が二人いる状態となりました。1185年(文治元年)に、平家が壇ノ浦の戦いで滅亡し、安徳天皇も亡くなり、天皇重複は解消されます。
1191年(建久2)に建久新制が宣下され、1192年(建久3)には、後白河法皇が亡くなり、天皇親政となりました。しかし、1198年(建久9)に土御門天皇に譲位し、上皇として以後三代にわたって院政を行なうようになります。
一方、歌人としてもすぐれ、1200年(正治2)に、正治初度百首和歌を主宰し、1201年(建仁元)には、30人の歌人に100首ずつ詠進させた「院第三度百首」を結番した千五百番歌合を行わせました。また、1201年(建仁元)に和歌所を再興し、『新古今和歌集』の撰定に関わり、1205年(元久2)には完成記念の宴が後鳥羽院の御所で催されています。
1219年(建保7)に鎌倉幕府第3代将軍源実朝が暗殺されると、幕府側の混乱を見て取り、1221年(承久3)に北条義時追討の院宣を発して、鎌倉幕府打倒を試みましたが失敗(承久の乱)しました。その結果、土御門・順徳の2上皇と共に配流となり、同年7月に出家して隠岐へ流されます。
帰京がかなわぬまま、18年を過ごし、歌集『詠五百首和歌』、『遠島御百首』、秀歌撰『時代不同歌合』などを残しましたが、1239年(延応元年2月22日)に、隠岐国海部郡刈田郷の御所にて、数え年60歳で亡くなりました。
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
1596年(文禄5) | 慶長伏見地震が起き、伏見城天守が倒壊するなど死者1,000人以上を出す | 詳細 |
1882年(明治15) | 洋画家青木繁の誕生日 | 詳細 |
1886年(明治19) | 東経135度の時刻を日本標準時と定める勅令を公布(日本標準時制定記念日) | 詳細 |
1948年(昭和23) | 優生手術、人工妊娠中絶等について定めた旧「優生保護法」が公布(施行は同年9月11日)される | 詳細 |
1967年(昭和42) | 歌人・書家・文学研究者吉野秀雄の命日 | 詳細 |