ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:都市疎開実施要綱

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 今日は、昭和時代前期の太平洋戦争下、1944年(昭和19)に、内務省が東京と名古屋に初の建物疎開命令を出し、指定区域内の建造物の強制取り壊しが始まった日です。
 建物疎開(たてものそかい)は、都市部において、防空対策を十分なものとするため、住宅密集地の家屋を強制的に解体し「防空空地」を設け、空襲の類焼を防ぐための政策でした。昭和時代前期の1937年(昭和12)4月5日に公布(施行は10月1日)された「防空法」(1943年改正)に基づき、1943年(昭和18)12月21日に、東条英機内閣において、閣議決定された「都市疎開実施要綱」を受けたもので、翌年1月26日に、内務省が東京と名古屋に初の建物疎開命令を出し、指定区域内の建造物の強制取り壊しが始まります。
 1945年(昭和20)の敗戦までの間に、東京や横浜、名古屋、京都、大阪、広島、長崎など全国279都市で実施され、約60万戸が強制的に撤去されました。
 以下に、「都市疎開実施要項」を全文掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇「都市疎開実施要項」(としそかいじっしようこう)とは?

 昭和時代前期の太平洋戦争中、連合軍による直接的な本土攻撃の危機が増大した1943年(昭和18)12月21日に、東條英機内閣によって、建物や人員の疎開を促進するために閣議決定されたものです。これによって、京浜、阪神、名古屋、北九州地域の重要都市に於ける疎開区域や人口疎開の対象者を定め、人口疎開政策の具体化が図られ、都市施設の地方分散がおこなわれました。
 しかし、防火区域を設定するための空地帯をつくること、重要施設(官公署や軍事施設、軍需工場)を守るため、その周囲の民家をとりこわし空地をつくることが主目的となります。防火地帯にかかる建物が強制的に撤去され、それは、東京や京都、広島などで約60万戸に及びました。
 
☆都市疎開実施要綱 (全文)  1943年(昭和18)12月21日閣議決定 

都市疎開実施要綱 (昭和18年12月21日閣議決定)

第一 方針
九月二十一日閣議決定「現情勢下ニ於ケル国政運営要綱」ノ趣旨ニ基キ帝都其ノ他ノ重要都市ニ付強力ナル防空都市ヲ構成スル如ク人員、施設及建築物ノ疎開ヲ実施ス

第ニ 要領

一、疎開区域
疎開区域ハ京浜、阪神、名古屋及北九州地域ニ属スル左ノ重要都市トス
京浜地域  東京都区部、横浜市、川崎市
阪神地域  大阪市、神戸市、尼崎市
名古屋地域 名古屋市
北九州地域 門司市、小倉市、戸畑市、若松市、八幡市
前項ノ区域外ニ於テモ情況ニ依リ必要ト認ムル都市ニ於テハ疎開ノ勧奨、建築物ノ除却ヲ行ヲ

二、人員ノ疎開
(一)疎開セシムベキ人員
疎開セシムベキ人員ハ建築物ノ疎開又ハ施設ノ疎開ニ伴フ者ノ外左ニ掲グル者及其ノ家族トス但シ特ニ疎開区域内ニ居住スルヲ必要トスル者ヲ除ク
(イ)疎開区域外ニ職場ヲ有スル者
(ロ)企業整備等ニ依リ転廃業スル者
(ハ)其ノ他疎開区域内ニ居住スルノ要尠キ者
適当ナル時期ニ疎開人員ニ関スル実情調査ヲ実施ス
(二)疎開ノ勧奨
(1)人員ノ疎開ハ原則トシテ勧奨ニ依ルモノトシ其ノ目標程度ハ時期及情勢ニ依リ之ヲ定ム
(2)疎開ノ勧奨ニ当リテハ総合戦力増強ノ為ニスル国民ノ戦時配備ニ積極的ニ寄与スル所以ナルコトヲ徹底セシム
(3)疎開ノ勧奨ニ当リテハ成ル可ク世帯単位ノ地方転出ヲ図ル等家族主義ノ精神ニ悖ラザル如ク指導ス
(4)人員ノ転出先ハ疎開区域及軍事上ノ重要都市ノ地域ヲ避クル如ク指導ス
(三)移転奨励金ノ交付
左ニ掲グルモノニシテ世帯ヲ単位トシテ転出スル者ニ対シ移転奨励金ヲ交付ス
(イ)都市民税一定額以下ノ者及都市民税免除者
(ロ)入営、応召軍人ノ遺家族
(ハ)被徴用者ノ遺家族
(ニ)其ノ他必要ト認ムル者

三、施設ノ疎開
(一)左ニ掲グルモノノ施設又ハ事業ニ関シ統合整理又ハ地方移転等ノ計画ヲ樹立実施ス
(イ)学校
(ロ)公共団体、各種外廓団体
(ハ)各種統制機関
(ニ)会社、工場等
(二)疎開区域内ニ於テハ店舗、工場等ノ疎開ニ資スル如ク企業整備ヲ特ニ強化促進ス

四、建築物ノ疎開
(一)都市疎開事業トシテ左ニ掲グル地区内ノ建築物ヲ除却ス
(イ)疎開空地帯
(ロ)疎開空地
i 重要施設疎開空地
ii 交通疎開空地
iii 疎開小空地
(二)建築物ノ除却ハ防空法第五条ノ六ニ依ル
測量、評価、除却等ノ施行ハ徹底シタル戦時的方式ニ拠ル
(三)建築物ノ除却ニ因リ移転スル人員ハ能フ限リ疎開区域外ニ転出セシム
(四)移転者ニ対シテハ防空法第十ニ条ノ二ニ依リ移転費ヲ支給ス
(五)除却建築物ノ古材等ノ利用ハ之ヲ統制ス
(六)交付スベキ補償金等ニ付テハ之ガ浮動化防止ノ措置ヲ講ズ

五、輸送ニ関スル措置
(一)疎開ニ関スル輸送ハ鉄道及自動車輸送其ノ他ノ小運搬、荷造作業等ヲ通ジ統合的ニ処理シ得ル如ク措置ス
(二)疎開輸送ヲ迅速且円滑ナラシムル為各種資材ノ確保ヲ図リ之ガ配分ニ関シテハ前項ノ統合的輸送ニ適合スル如ク措置ス
(三)荷造所要資材ニ関シテハ極力故品ノ利用ヲ図リ且之ガ回収ヲ強力ニ実施ス
(四)運賃、料金其ノ他諸費用ニ関スル特別取扱ヲ行フト共ニ其ノ簡明単純化ヲ図ル
(五)荷造及小運搬ノ労務ニ関シテハ極力余剰労力ヲ動員スル等ノ措置ヲ講ズ

六、移転先家屋ノ斡旋供給其ノ他ノ便宜供与
(一)移転先ノ家屋ニ付テハ各自ノ縁故先ニ之ヲ求ムルノ外家屋空間ノ提供慫慂及店舗等ノ住宅化ヲ強力ニ実施ス
(二)移転先ニ於ケル転就職ノ斡旋又ハ転入学ノ特別取扱、土地家屋家財ノ受託管理又ハ売買斡旋等ニ関シテハ極力便宜供与ノ措置ヲ講ズ

七、其ノ他疎開ニ伴フ措置
(一)建築ノ規制
(1)建築規制区域ハ疎開区域トシ防空法第五条ノ五第一項ニ依リ指定ス
(2)建築規制区域内ノ建築ハ原則トシテ之ヲ禁止ス
(二)転入ノ規制
(1)転入規制区域ハ疎開区域トシ防空法第五条ノ九ニ依リ指定ス
(2)転入ノ規制ハ転入ヲ必要トスル証明書ノ発給又ハ地方長官ノ許可ニ依リ之ヲ行ヲ
(3)業務ノ場所ノ新設及転入ハ極力抑制ス
(三)建築物ノ利用統制
建築物ノ除却ニ伴フ人員ニシテ疎開区域内ニ居住ヲ要スルモノニ対シ住居ヲ確保スル等ノ目的ヲ以テ疎開区域内ニ於テハ防空法第五条ノ十ノ規定ニ基キ建築物ノ利用統制ヲ行ヲ

八、疎開事務担当機関
(一)疎開区域ニ関係アル都府県庁ニハ疎開事務ノ総合連絡調整並ニ都市疎開事業ノ円滑ナル執行ヲ図ル為必要ナル組織ヲ設ク
(二)各庁連絡ニ関シテハ地方行政協議会ノ活動等ニ依ルモノトス
(三)区役所等ニ疎開指導所ヲ設置シ疎開ニ関スル勧奨、指導、斡旋ニ任ゼシム

備考
本件ニ関シ必要ナル事項ニ付関係各庁ハ具体策ヲ樹立シ防空総本部ニ連絡ノ上実施スルコト

     「東京大空襲・戦災誌 第3巻 軍・政府(日米)公式記録集」より
 
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1949年(昭和24)奈良の法隆寺金堂が火災により焼損する(文化財防火デー)詳細
1958年(昭和33)旅客船「南海丸」が紀伊水道沼島沖で沈没、167名全員が死亡・行方不明となる(南海丸遭難事故)詳細
1997年(平成9)小説家藤沢周平の命日詳細
2006年(平成18)「重要文化的景観」第1号として滋賀県の「近江八幡の水郷」が国から選定される詳細
2013年(平成25)小説家安岡章太郎の命日詳細
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 今日は、昭和時代前期の1945年(昭和20)に、東京都の学童集団疎開引揚げ第一陣が東京へ着いた日です。
 太平洋戦争も後期になるとアメリカ軍の反撃・侵攻が著しくなり、爆撃機による直接的な本土攻撃の危機が増大した1943年(昭和18)12月「都市疎開実施要綱」が閣議決定されて都市施設の地方分散がはかられ、東京都での学童疎開も始まっていました。ついには、1944年(昭和19)6月15日に、アメリカ軍がサイパン島に上陸しましたが、この島が陥落しアメリカ軍の手に渡ると、B-29爆撃機による直接的な本土攻撃の危機が迫ります。
 そこで、6月30日に、東条英機内閣は、「学童疎開促進要綱」、「帝都学童集団疎開実施要領」を閣議決定し、「縁故疎開」を「強力ニ勧奨スル」とともに、縁故のない児童について「集団疎開」を実施することになりました。7月10日には、「帝都学童集団疎開実施細目」が発表され、文部省は、国民学校初等科第3~6学年児童約47万人中20万人の集団疎開計画を示すこととなります。
 そして、20万人規模の学校単位の集団疎開が実施されることとなり、8月4日には第1陣として、東京の国民学校初等科3年以上の児童が上野駅から群馬県に出発しました。その後も、続々と実施され、8月~9月には、約35万人の児童が、地方の約7,000ヶ所の公会堂、社寺、旅館などに集団疎開することとなります。
 そこで授業等も行われましたが、戦争末期の食糧不足、物資の欠乏により、その調達に追われる日々で、まとも教育はあまり行われなかったものの、1945年(昭和20)の疎開児童数は約45万人に達しました。そんな中で、1944年(昭和19)8月22日、沖縄県の児童、教員、保護者を乗せた疎開船「対馬丸」が、アメリカ軍潜水艦に撃沈され、犠牲者数1,476名(内、疎開学童780名)を出すという、いたましい対馬丸事件も発生しています。
 終には、「ポツダム宣言」を受諾し、1945年(昭和20)8月15日に「大東亜戦争終結ノ詔書」(玉音放送)が流されて戦争が終わると翌日に、東京都は学童集団疎開を翌年3月まで継続する方針を明示したものの、10月10日に東京都の学童集団疎開引揚げ第一陣が東京へ着き、11月には、集団疎開からの大部分の復帰が完了しました。

☆学童疎開関係略年表

<1941年(昭和16)>
・11月20日 芦田均議員が空襲の危険がある東京・大阪で子供を事前に避難させることを推奨する
・12月16日 勅令「防空法施行令」で国民学校初等科児童は、病人、妊婦、老人などと共に事前避難の対象とされる

<1943年(昭和18)>
・10月25日 次官会議決定で、重要都市人口疎開に対する当面の啓発宣伝方針で、「任意の人口疎開」をうたう
・10月31日 「防空法改正」(第三次防空法)で、「疎開」の言葉が登場する
・12月10日 文部省により縁故による学童疎開促進が発表される
・12月21日 東條内閣により「都市疎開実施要綱」が閣議決定され、東京都区部、横浜、川崎、名古屋、大阪、神戸などを疎開地区とする

<1944年(昭和19)>
・3月3日  「一般疎開促進要綱」が閣議決定され、縁故疎開促進の原則が出される 
・3月10日 東京都は「学童疎開奨励ニ関スル件」を通牒し、縁故・養護学園を利用する疎開実施につき指示する
・4月 東京都では縁故のない児童のための疎開学園設置が進められる
・4月2日 学童疎開の内務省案が示される
・4月5日 東京都は、縁故のない学童のため施設を利用する「戦時疎開学園設置要綱」を発表する
・6月30日 東条英機内閣が「学童疎開促進要綱」「帝都学童集団疎開実施要領」を閣議決定し、集団的な学童疎開が促進される
・7月5日 防空総本部は「帝都学童疎開実施細目」を定め、実施が勧奨される
・7月7日 緊急閣議により沖縄の疎開が決定される
・7月10日 「帝都学童集団疎開実施細目」が発表される
・7月12日 文部省は「帝都学童集団疎開実施細目」により、国民学校初等科第3~6学年児童約47万人中20万人の集団疎開計画を示す
・7月19日 沖縄県は「学童集団疎開準備ニ関スル件」を通牒し、疎開を準備するよう命じる
・7月22日 文部省は「帝都学童集団疎開実施要領」「同実施細目」に準じ、疎開都市として、横浜、川崎、横須賀、大阪、神戸、尼崎、名古屋、門司、小倉、戸畑、若松、八幡の12都市を追加指定する
・8月4日 20万人規模の疎開の第1陣の児童が東京の上野駅を出発する
・8月16日 沖縄県の九州などへの疎開が開始される
・8月22日 沖縄から本土への学童疎開のための「対馬丸」が米軍潜水艦により撃沈され、死者1,418人(うち学童775人)が出る(対馬丸事件)
・9月25日 全国で子供の集団疎開が41万6,946人となる
・8月~9月 約35万人の児童が、約7,000ヶ所の旅館、寺院などに集団疎開する
・9月 文部省は指令を改め、旅館を宿舎とする場合は一ヶ月25円、その他は23円以内とし、特別の事情ある場合は文部大臣の承認を受けることとする
・9月29日 「疎開学童対策協議会規程」と「疎開学童ニ関スル措置要領」が閣議決定される

<1945年(昭和20)>
・1月12日 「昭和20年度学童集団疎開継続ニ関スル措置要領」を閣議決定し、学童集団疎開期間を当初の予定より1年間延長する
・3月9日 「学童疎開強化要綱」を閣議決定し、初等科3年以上の児童は全員を疎開させ、1、2年の児童は、縁故疎開を強力に勧奨するとともに、集団疎開の対象にも加える
・3月15日 空襲に対処するため「大都市における疎開強化要綱」が閣議決定される(学童、母子など続々緊急疎開)
・3月16日 「学童疎開強化要綱(追加)」を再度閣議決定し、高等科の児童についても可能なかぎり縁故疎開をすすめるとする
・3月26日 東京都は千葉・茨城・静岡県の集団疎開学童に青森・岩手・秋田へ再疎開命令を出す
・4月 疎開都市に京都、舞鶴、広島、呉の4都市を追加指定する
・5月1日 集団疎開学童への主要食糧の配給量が減少する
・7月11日 集団疎開学童への主食の配給さらに1割減少、3年生まで252g(1合8勺)、4年生以上354g(2合5勺)となる
・8月16日 東京都は学童集団疎開を昭和21年3月まで継続する方針を明示する
・10月10日 東京都の学童集団疎開引揚げ第一陣が東京へ着く
・11月 集団疎開からの大部分の復帰が完了する

<1946年(昭和21)
・3月 神田・日本橋・京橋区などの集団疎開学童が帰京する
・11月 沖縄の集団疎開学童が九州から沖縄へ帰還する

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1877年(明治10)北海道石狩町で開拓使石狩缶詰所が創業、本格的な缶詰生産が始まる(缶詰の日)詳細
1934年(昭和9)彫刻家高村光雲の命日詳細
1945年(昭和20)日本政府が日本共産党を合法化、徳田球一ら政治犯439人を釈放、自由戦士出獄歓迎人民大会が開催される詳細
1964年(昭和39)第18回オリンピック・東京大会が開幕する詳細
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