ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:遺伝学者

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 今日は、大正時代の1924年(大正13)に、生物学者・遺伝学者木村資生の生まれた日であると共に、1994年(平成6)に亡くなった日でもあります。
 木村資生(きむら もとお)は、愛知県岡崎市菅生町において、鋳物業を営んでいた父・木村逸作、母・かなの子として生まれました。愛知県岡崎中学校(現在の愛知県立岡崎高等学校)、旧制第八高等学校を経て、京都帝国大学理学部生物学科に進学し、1947年(昭和22)に卒業後、京都大学農学部副手、ついで京都大学農学部助手となり、木原均の遺伝学研究室に所属します。
 1949年(昭和24)に国立遺伝学研究所(静岡県三島市)の研究員となり、1953年(昭和28)にアイオワ州立大学に留学、1954年(昭和29)からウィスコンシン大学で集団遺伝学を学び、翌年に帰国しました。1956年(昭和31)に、学位論文「自然集団における遺伝子頻度の機会的変動について」で、大阪大学より理学博士を得て、1957年(昭和32)には、国立遺伝学研究所研究室長に昇進します。
 1959年(昭和34)に日本遺伝学会賞を受賞、1964年(昭和39)に国立遺伝学研究所集団遺伝部長に昇進、1965年(昭和40)には、ウェルドン賞(オックスフォード大学)を受賞しました。1968年(昭和43)に遺伝子の「分子進化の中立説」を太田朋子と「Nature」に発表、「集団遺伝学の理論の研究」により日本学士院賞、1970年(昭和45)に日本人類遺伝学会賞を受賞、1973年(昭和48)には、全米科学アカデミー外国人会員となります。
 1976年(昭和51)に文化勲章を受章、文化功労者、フランス科学アカデミー外国人会員、1977年(昭和52)に岡崎市名誉市民となり、1978年(昭和53)には、シカゴ大学名誉理学博士(D.Sc.)を得ました。1981年(昭和56)に日本遺伝学会会長(~59年)、1982年(昭和57)に日本学士院会員、1984年(昭和59)には、国立遺伝学研究所集団遺伝研究系主幹並びに教授となります。
 1986年(昭和61)にウィスコンシン大学名誉理学博士(D.Sc.)、フランス政府国家功績勲章騎士号を得、1987年(昭和62)に朝日賞、ジョン・カーティー科学進歩賞(米国科学アカデミー)を受賞、1988年(昭和63)には、国立遺伝学研究所を定年退官し名誉教授、集団遺伝研究系客員教授となり、第4回国際生物学賞を受賞しました。1992年(平成4)に英国王立協会よりダーウィン・メダルを授与され、1993年(平成5)にロンドン王立協会外国人会員(日本人で5人目)となりましたが、1994年(平成6)11月13日に、静岡県三島市の自宅廊下で転倒し頭部を強打、頭蓋内出血のため搬送先の病院において、70歳で亡くなっています。

〇木村資生の主要な著作

・『集団遺伝学概論』(1960年)
・『遺伝学から見た人類の未来』(1974年)
・編著『分子進化学入門』(1984年)
・『分子進化の中立説』(1986年)
・『生物進化を考える』(1988年)

☆木村資生関係略年表

・1924年(大正13)11月13日 愛知県岡崎市菅生町において、鋳物業を営んでいた父・木村逸作、母・かなの子として生まれる
・1942年(昭和17) 愛知県岡崎中学校(現在の愛知県立岡崎高等学校)を卒業し、旧制第八高等学校に入学する
・1947年(昭和22) 京都帝国大学理学部生物学科卒業後、京都大学農学部副手となる、ついで京都大学農学部助手となる。木原均の遺伝学研究室に所属していた。
・1949年(昭和24) 国立遺伝学研究所(静岡県三島市)の研究員となる
・1953年(昭和28) アイオワ州立大学に留学する(~1954年)
・1954年(昭和29) ウィスコンシン大学で集団遺伝学を学ぶ集団遺伝学を学ぶ(~1955年)
・1956年(昭和31) 学位論文「自然集団における遺伝子頻度の機会的変動について」で、大阪大学より理学博士を得る
・1957年(昭和32) 国立遺伝学研究所研究室長となる
・1959年(昭和34) 日本遺伝学会賞を受賞する
・1964年(昭和39) 国立遺伝学研究所集団遺伝部長となる
・1965年(昭和40) ウェルドン賞(オックスフォード大学)を受賞する
・1968年(昭和43) 遺伝子の「分子進化の中立説」を太田朋子と「Nature」に発表、「集団遺伝学の理論の研究」により日本学士院賞を受賞する
・1970年(昭和45) 日本人類遺伝学会賞を受賞する
・1973年(昭和48) 全米科学アカデミー外国人会員となる
・1976年(昭和51) 文化勲章を受章、文化功労者、フランス科学アカデミー外国人会員となる
・1977年(昭和52) 岡崎市名誉市民となる
・1978年(昭和53) シカゴ大学名誉理学博士(D.Sc.)を得る
・1981年(昭和56) 日本遺伝学会会長(~59年)となる
・1982年(昭和57) 日本学士院会員となる
・1984年(昭和59) 国立遺伝学研究所集団遺伝研究系主幹並びに教授となる
・1986年(昭和61) ウィスコンシン大学名誉理学博士(D.Sc.)、フランス政府国家功績勲章騎士号を得る
・1987年(昭和62) 朝日賞、ジョン・カーティー科学進歩賞(米国科学アカデミー)を受賞する
・1988年(昭和63) 国立遺伝学研究所を定年退官し名誉教授、集団遺伝研究系客員教授となり、第4回国際生物学賞を受賞する
・1992年(平成4) 英国王立協会よりダーウィン・メダルを授与される
・1993年(平成5) ロンドン王立協会外国人会員となる(日本人で5人目)。
・1994年(平成6)11月13日 静岡県三島市の自宅廊下で転倒し頭部を強打、頭蓋内出血のため搬送先の病院において、70歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1752年(宝暦2)浮世絵師・宮川派の祖宮川長春の命日(新暦12月18日)詳細
1904年(明治37)週刊「平民新聞」第53号に、日本初の翻訳された『共産党宣言』(第三章を除く)が掲載される詳細
1940年(昭和15)第4回御前会議において「支那事変処理要綱」が決定される詳細
1966年(昭和41)全日空YS-11が松山空港沖で墜落(全日空機松山沖墜落事故)し、乗員・乗客50名全員が死亡する詳細
1973年(昭和48)詩人・作詞家・作家サトーハチローの命日詳細
1997年(平成9)北陸自動車道の新潟亀田~新潟空港が開通し、米原~新潟空港間が全通する詳細
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kiharahitoshi01
 今日は、昭和時代後期の1986年(昭和61)に、遺伝学者木原均の亡くなった日です。
 木原均(きはら ひとし)は、明治時代後期の1893年(明治26)10月21日に、東京市の芝白金に生まれ、麻布中学校を経て、1912年(大正元)に東北帝国大学農科大学(現在の北海道大学)大学予科に入学しました。1913年(大正2)に大正2年度寮歌「幾世幾年」の作歌を担当、1915年(大正4)には、農学科第三部(のちの農業生物学科、現在の応用生命科学科)に進学し植物生理学を専攻します。
 1918年(大正7)に卒業論文は「花粉に及ぼす低温の影響」を書いて、北海道帝国大学農学部を卒業し、同大学院へ進学、1920年(大正9)に京都帝国大学理学部植物学教室助手となり、1922年(大正11)には講師に昇進しました。1924年(大正13)に「雜種に於ける染色体の行動及不實性を特に考察せる重要禾殻の細胞學的並に遺傳學的研究」で農学博士となり、助教授(農林生物学第三講座)に昇進、1925年(大正14)からドイツ、イギリス、アメリカに留学します。
 1927年(昭和2)に教授(実験遺伝学講座)に昇進、1940年(昭和15)には、京都帝国大学評議員(1942年まで)となり、日本遺伝学会賞を受賞しました。1942年(昭和17)に財団法人木原生物学研究所が創設(京都)され所長を務め、1943年(昭和18)に「小麦の細胞遺伝学的研究」で、学士院恩賜賞を受賞、1944年(昭和19)には、パンコムギの祖先の1つがタルホコムギであることを発見します。
 太平洋戦争後の1948年(昭和23)に文化勲章を受章、1949年(昭和24)に日本学士院会員に選任され、1951年(昭和26)には、文化功労者となりました。1955年(昭和30)に京都大学カラコルム・ヒンズークシ学術探検隊長を務め、国立遺伝学研究所所長(1969年まで)併任となります。
 一方で、スポーツに熱心で、1958年(昭和33)に全日本スキー連盟会長(1968年まで)となり、1960年(昭和35)の第8回冬季オリンピック(スコーバレー)、1964年(昭和39)の第9回冬季オリンピック(インスブルック)では、日本選手団団長となり、1972年(昭和47)の第11回冬季オリンピック(札幌)では、組織委員を務めました。1974年(昭和49)に麻布学園理事長となり、1975年(昭和50)に勲一等旭日大綬章を受章、1977年(昭和52)には、アメリカ園芸学会賞、遺伝学大賞を受賞します。
 1985年(昭和60)に今までの業績を記念し、21世紀に向けて生命料学の振興を図ることを目的に木原記念横浜生命科学振興財団が設立されましたが、1986年(昭和61)7月27日に、神奈川県横浜市において、92歳で亡くなり、正三位を追贈されました。

〇木原均の主要な著作

・『小麦の細胞遺伝学的研究』(1943年)
・『実験遺伝学』(1949年)
・編著『小麦の研究』(1954年)
・『コムギの合成 - 木原均随想集』(1973年)
・『一粒舎主人寫眞譜』(1985年)

☆木原均関係略年表

・1893年(明治26)10月21日 東京市の芝白金に生まれる
・1912年(大正元) 東北帝国大学農科大学(現:北海道大学)大学予科に入学する
・1913年(大正2) 大正2年度寮歌「幾世幾年」の作歌を担当する
・1915年(大正4) 農学科第三部(のちの農業生物学科、現在の応用生命科学科)に進学し植物生理学を専攻する
・1918年(大正7) 卒業論文は「花粉に及ぼす低温の影響」を書いて、北海道帝国大学農学部を卒業し、同大学院へ進学する
・1920年(大正9) 京都帝国大学理学部植物学教室助手となる
・1922年(大正11) 京都帝国大学理学部植物学教室講師となる
・1924年(大正13) 「雜種に於ける染色体の行動及不實性を特に考察せる重要禾殻の細胞學的並に遺傳學的研究」で農学博士となり、京都帝国大学農学部農林生物学科助教授(農林生物学第三講座)となる
・1925年(大正14) ドイツ、イギリス、アメリカに留学する
・1926年(大正15) 実験遺伝学講座へ移る
・1927年(昭和2) 京都帝国大学農学部農林生物学科教授(実験遺伝学講座)となる
・1940年(昭和15) 京都帝国大学評議員(1942年まで)となり、日本遺伝学会賞を受賞する
・1942年(昭和17) 財団法人木原生物学研究所が創設(京都)され所長を務める
・1943年(昭和18) 「小麦の細胞遺伝学的研究」で、学士院恩賜賞を受賞する
・1944年(昭和19) パンコムギの祖先の1つがタルホコムギであることを発見する
・1948年(昭和23) 文化勲章を受章する
・1949年(昭和24) 日本学士院会員に選任される
・1951年(昭和26) 文化功労者となる
・1955年(昭和30) 京都大学カラコルム・ヒンズークシ学術探検隊長を務め、国立遺伝学研究所所長(1969年まで)併任となる
・1957年(昭和32) 木原生物学研究所が横浜に移設され、スウェーデン王立農大名誉博士となる
・1958年(昭和33) 第4代全日本スキー連盟会長(1968年まで)となる
・1959年(昭和34) 京都大学名誉教授となる
・1960年(昭和35) 日本原子力委員会委員長(1964年まで)となり、第8回冬季オリンピック(スコーバレー)日本選手団団長となる
・1964年(昭和39) 農林省植物ウイルス研究所所長(1968年まで)となり、第9回冬季オリンピック(インスブルック)日本選手団団長となる
・1969年(昭和44) 木原生物学研究所三島分室(静岡県三島市)が開設(1978年まで)される
・1972年(昭和47) 第11回冬季オリンピック(札幌)の組織委員となる
・1974年(昭和49) 麻布学園理事長となる
・1975年(昭和50) 勲一等旭日大綬章を受章する
・1977年(昭和52) アメリカ園芸学会賞、遺伝学大賞を受賞する
・1984年(昭和59) 木原生物学研究所を横浜市立大学に移管、横浜市立大学木原生物学研究所が発足、名誉所長となる
・1985年(昭和60) 木原の業績を記念し、21世紀に向けて生命料学の振興を図ることを目的に木原記念横浜生命科学振興財団が設立される(2013年に公益財団法人に移行)
・1986年(昭和61)7月27日 神奈川県横浜市において、92歳で亡くなり、正三位を追贈される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1471年(文明3)浄土真宗中興の祖・蓮如が越前に吉崎御坊を建てる(新暦8月13日)詳細
1719年(享保4)幕臣・大名・老中田沼意次の誕生日(新暦9月11日)詳細
1835年(天保6)日本画家橋本雅邦の誕生日(新暦8月21日)詳細
1940年(昭和15)大本営政府連絡会議において、「世界情勢ノ推移ニ伴フ時局処理要綱」が決定される詳細
1976年(昭和51)田中角榮前首相がロッキード事件で東京地検に逮捕される詳細
1995年(平成7)人吉仮出入口~えびのIC間の開通(暫定2車線)により、九州自動車道が全線開通する詳細
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 今日は、昭和時代中期の1952年(昭和27)に、植物学者・遺伝学者藤井健次郎が亡くなった日です。
 藤井健次郎(ふじい けんじろう)は、1866年(慶応2年10月5日)に、加賀国金沢城下(現在の石川県金沢市出羽町)で、加賀藩士だった父・藤井平丞の長男として生まれました。幼くして両親を亡くし、叔母に育てられ、石川県専門学校を経て、1882年(明治15)に、東京大学三学部予備門に入学します。
 1889年(明治22)に帝国大学理科大学に入学、1892年(明治25)に卒業後、大学院に進み、金沢市の持明院の妙蓮を研究しました。1895年(明治28)に帝国大学理科大学の助手となり、1901年(明治34年)にドイツへ留学し、ボン大学でシュトラスブルガーに植物細胞学、ゲーベルに植物形態学を学び、イギリスへ移って、スコットやワイスに植物解剖学、植物化石学などを学びます。
 1902年(明治35)の留学中に東京帝国大学理科大学助教授に昇任、1905年(明治38)に留学から帰国、1911年(明治44)には、東京帝国大学理科大学教授に昇任しました。1913年(大正2)に東京帝国大学より理学博士を得て、1918年(大正7)には、日本で初めての遺伝学講座を担当します。
 1920年(大正9)に遺伝物質を「遺伝子」と名付け、1923年(大正12)頃に、私立の徳川生物学研究所評議員に就任、1926年(昭和元)には、「染色体二重螺旋構造」を発表しました。1927年(昭和2)に定年退官して名誉教授となり、従三位に叙され、1929年(昭和4)に国際細胞学雑誌『キトロギア(Cytologia)』を創刊、1939年(昭和14)には、日本学士院会員となります。
 太平洋戦争中は、一時期山梨県へ疎開していましたが、戦後東京へ戻り、1950年(昭和25)に文化勲章を受章、翌年には、第1回文化功労者となったものの、1952年(昭和27)1月11日に、東京において、85歳で亡くなりました。

〇藤井健次郎の主要な著書

・『博物学教科書』
・『中等教育植物学教科書』
・『輓近細胞学の進歩と其研究方法』

☆藤井健次郎関係略年表

・1866年(慶応2年10月5日) 加賀国金沢城下(現在の石川県金沢市出羽町)で、平丞の長男として生まれる
・1875年(明治8年) 百々女木小学校に入学する
・1879年(明治12年) 石川県専門学校に入学する
・1882年(明治15年) 東京大学三学部予備門に入学する
・1889年(明治22年) 帝国大学理科大学に入学する
・1892年(明治25年) 帝国大学を卒業し、大学院に進み、金沢市の持明院の妙蓮を研究する
・1895年(明治28年) 帝国大学理科大学の助手となる
・1901年(明治34年) ドイツに留学、ボン大学で植物細胞学を学ぶ
・1902年(明治35年) 留学中に東京帝国大学理科大学助教授に昇任する
・1905年(明治38年) ドイツ留学から帰国する 
・1908年(明治41年)12月11日 従六位に叙される
・1911年(明治44年) 東京帝国大学理科大学教授に昇任する
・1913年(大正2年) 理学博士となる
・1918年(大正7年) 日本で初めての遺伝学講座を担当する
・1920年(大正9年) 遺伝物質を「遺伝子」と名付ける
・1923年(大正12年)頃 私立の徳川生物学研究所評議員に就任する
・1926年(昭和元年) 「染色体二重螺旋構造」を発表する
・1927年(昭和2年) 定年退官して名誉教授となり、従三位に叙される
・1929年(昭和4年) 国際細胞学雑誌『キトロギア(Cytologia)』を創刊する
・1939年(昭和14年) 日本学士院会員となる
・1950年(昭和25年) 文化勲章を受章する
・1951年(昭和26年) 第1回文化功労者となる
・1952年(昭和27年)1月11日 東京において、85歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

708年(和銅元)武蔵国秩父郡から朝廷に銅が献上され、記念して和銅改元がされる(新暦2月7日)詳細
1938年(昭和13)御前会議で「支那事変処理根本方針」が決定される詳細
1964年(昭和39)伊豆大島大火で584棟418戸が焼失する詳細
1966年(昭和41)青森県三沢市で三沢大火が起きる詳細
1974年(昭和49)劇作家・小説家山本有三の命日(1.11忌)詳細
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 今日は、昭和時代後期の1980年(昭和55)に、遺伝学者・植物細胞学者・生理学者・教育者坂村徹の亡くなった日です。
 坂村徹(さかむら てつ)は、明治時代前期の1888年(明治21)10月13日に、広島県広島市幟町(現在の広島市中区)において、生まれました。1907年(明治40)に、旧制・広島第一中学(現在の広島国泰寺高校)を卒業し、東北帝国大学農科大学(現在の北海道大学)へ入学、恵迪寮に入ります。
 1913年(大正2)に卒業後、「植物ニ於ケル遺伝及ヒ之ニ関スル細胞学攻究」を研究テーマとして大学院へ進みました。1918年(大正7)に、小麦の染色体数を明らかにする画期的な業績を上げ、大学院を修了し北海道帝国大学農科大学助教授になり、ハーバード大学、ベルリン大学に留学します。
 帰国後、1920年(大正9)に理学博士を取得、翌年には教授に昇任しました。1930年(昭和5)に北海道帝国大学理学部植物学講座教授に転じ、1941年(昭和16)には、植物生理学の集大成『植物生理学』上下二巻を刊行します。
 1952年(昭和27)に北海道大学を退官し、名誉教授となり、1964年(昭和39)には、日本学士院会員となりました。1976年(昭和51)には、文化功労者となり、北海道大学創基百年にあたり、坂村徹と木原均に研究材料を提供したキャンパス内の小麦田圃跡に「小麦研究記念碑」が建立されましたが、1980年(昭和55)10月18日に、広島県広島市において、92歳で亡くなっています。

〇坂村徹の主要な著作

・『植物生理学』上下二巻(1941年)
・『植物細胞滲透生理学』(1952年)

☆坂村徹関係略年表

・1888年(明治21)10月13日 広島県広島市幟町(現在の広島市中区)において、生まれる
・1907年(明治40) 旧制・広島第一中学(現在の広島国泰寺高校)を卒業し、東北帝国大学農科大学(現在の北海道大学)へ入学する
・1913年(大正2) 東北帝国大学農科大学(現在の北海道大学)を卒業、「植物ニ於ケル遺伝及ヒ之ニ関スル細胞学攻究」を研究テーマとして大学院へ進む
・1918年(大正7) 小麦の染色体数を明らかにする画期的な業績を上げ、大学院を修了し北海道帝国大学農科大学助教授になり、ハーバード大、ベルリン大に留学する
・1920年(大正9) 理学博士を取得する
・1921年(大正10) 北海道帝国大学農科大学教授に昇任する
・1930年(昭和5) 北海道帝国大学理学部植物学講座教授に転ずる
・1941年(昭和16) 植物生理学の集大成「植物生理学」上下二巻を刊行する
・1952年(昭和27) 北海道大学を退官し、名誉教授となる
・1964年(昭和39) 日本学士院会員となる
・1976年(昭和51) 文化功労者となり、北海道大学創基百年にあたり、坂村徹と木原均に研究材料を提供したキャンパス内の小麦田圃跡に「小麦研究記念碑」が建立される
・1980年(昭和55)10月18日 広島県広島市において、92歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1881年(明治14)日本初の全国政党「自由党」の結成大会が行われる詳細
1898年(明治31)安部磯雄・片山潜・幸徳秋水らが社会主義研究会(後の社会主義協会)を結成する詳細
1939年(昭和14)「価格等統制令」が公布され、物価などの価格が統制される詳細
1945年(昭和20)小説家葉山嘉樹の命日詳細
1955年(昭和30)長崎県大村湾口に当時日本一長さ(支間長:216m)の西海橋が開通する詳細
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