ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:遷都

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 今日は、奈良時代の784年(延暦3)に、桓武天皇が人心一新のため、平城京から長岡京に遷都した日ですが、新暦では12月27日となります。
 長岡京(ながおかきょう)は、山城国乙訓郡(現在の京都府向日市・長岡京市・京都市西京区)にあった桓武天皇が造営させた都でした。奈良時代の784年(延暦3年11月11日)に、平城京より遷都されましたが、785年(延暦4)に、造長岡宮使藤原種継の暗殺、廃太子早良親王の非業の死などがあり、造営工事はついに中止され、約10年間存在しただけで、794年(延暦13年10月22日)には、新京(平安京)に遷されています。
 南北は十条、東西は左右各四坊計八坊あったと考えられ、碁盤の目のような街並みが造営され、長岡宮へとつながる朱雀大路が都の中心を通り、南北方向の大路が右京・左京にそれぞれ4本ずつひかれ、東西方向の大路は、九条まで造られており、それぞれの大路に囲まれたなかは小路などで区画され、役所や市、貴族の邸宅などが身分に応じて割りあてられました。1964年(昭和39)に、宮跡の一部は国史跡に指定され、周辺の発掘調査によって、1,000枚を超える木簡が出土、墨書土器とともに重要な資料を提供しています。

〇長岡京関係略年表

<延暦3年(784年)>
・5月7日 がま2万匹ばかり、難波の市の南道より四天王寺の内に入る(長岡遷都の前ぶれ)
・5月16日 中納言藤原小黒麻呂、同藤原種継、左大弁佐伯今毛人らを派遣、遷都のため山背国乙訓郡長岡村を視る
・6月10日 造長岡宮使に藤原種継、佐伯今毛人らを任命し、長岡宮・京を造り始める

<延暦3年(784年)>
・6月13日 遷都を山背国の賀茂大神社に告げ、今年の調・庸税と宮を造る人夫の必要物資を諸国に命じて新京の長岡宮へ運ばせる
・6月23日 新京に邸宅を造るため、 正税68万束を右大臣以下の政府要人に与える
・6月28日 長岡村の百姓宅で宮内に入るもの57町に立のき料として正税約4万3千束を与える
・7月4日 阿波・讃岐・伊豫の3国に命じて、山崎橋を造る料材を出させる
・11月11日 長岡京に遷都する
・11月20日 遷都のため賀茂上・下社、松尾・乙訓神に叙位。
・11月28日 賀茂上・下社、松尾・乙訓神の4社を修理する
・12月2日、18日、29日 宮城を築いた山背国葛野郡の秦足長ら、宮を造る功労者にそれぞれ叙位と賜爵を与える

<延暦3年(784年)>
・12月13日 王臣家・諸司・寺司による山野の独占を禁止する

<延暦4年(785年)>
・1月1日 長岡新京の大極殿で初めて朝賀式。五位以上の貴族、内裏で祝宴をする
・1月14日 摂津国神下・梓江・鯵生野に堀を作り、三国川に結ぼうとする(京へ資材運搬のため)
・3月3日 嶋院で天皇と貴族、曲水の宴をする
・5月19日 4月末に皇后宮に瑞兆の赤雀が現われたのを祝い、賜爵・叙位・免租等を行う
・5月24日 諸国貢進の調・庸税の粗悪について、国司・郡司の責任を明確にする
・7月20日 宮を造る人夫に諸国の百姓31万4千人を雇う
・7月24日 国司の正税流用を禁止する
・8月23日 太政官院の垣を築いた大秦宅守に叙位する
・9月23日 藤原種継暗殺される。
・9月24日 藤原種継暗殺の犯人大伴氏ら数十人逮捕される
・9月28日 早良皇太子廃し、乙訓寺へ幽閉される
・10月4日 班田収授のため、五畿内に使を派遣し、検田する
・11月25日 安殿親王(のちの平城天皇)立太子する

<延暦5年(786年)>
・1月21日 近江国滋賀郡にはじめて梵釈寺を造る
・4月11日 諸国の調・庸等の税の未納について、国司・郡司の怠慢を責める
・5月3日 左・右京および東・西の市人に物を賜う
・6月1日 諸国の正倉の火災について、国司の責任を明確にする
・7月19日 太政官院が完成する。百官はじめて朝座につく
・8月8日 蝦夷を攻めるため、この時より約2年間、東国にて兵士・武器・物資の準備を進める
・9月18日 渤海国の使、船一隻に乗って出羽国に漂着する
・9月29日 五畿内の班田長官を任命する

<延暦6年(787年)>
・閏5月11日 左右京職の税の濫用を禁止し、交替時に解由状を与えることとする
・10月8日 「水陸の便なるをもって都をこの邑に遷す」の詔あり。また賑給・減税・賜爵を行う
・11月5日 天神を河内国の交野に祀る

<延暦7年(788年)>
・9月26日 「水陸の便あって都市を長岡に建つ。しかも宮室未だ就らず、興作いよいよ多くして徴発の苦すこぶる百姓にあり」を詔して、減税を行う
・12月7日 征東大将軍紀古佐美、節刀を賜わり蝦夷へ出征する

<延暦8年(789年)>
・1月6日 五位以上、南院で節会。これより後、南院(南園)でしばしば宴が催される
・1月17日 この頃「造東大宮所」が東大宮(第2次内裏)を造る(長岡京跡左京第51次調査出土木簡No216)
・2月27日 天皇、西宮(第1次内裏)より、はじめて東宮(第2次内裏)に移る
・3月1日 造宮使、お酒食等を献上して祝う
・3月9日 軍を多賀城に集結し蝦夷を攻める
・3月16日 造東大寺司を廃止する
・7月14日 伊勢・美濃・越前の三関を廃止する
・11月9日 造宮大工物部建麻呂に叙位する
・12月28日 桓武天皇の母高野新笠没する

<延暦9年(790年)>
・1月15日 桓武天皇の母高野新笠を大枝山陵に葬る
・閏3月4日 蝦夷を攻めるため、これより約2年間、諸国に命じて武器・軍糧を準備させる
・閏3月10日 皇后藤原乙牟漏没する
・10月2日 再び鋳銭司を設置する
・11月3日 税の欠負未納を補塡する公廨稲の割合を設定する

<延暦10年(791年)>
・3月6日 吉備真備・大和長岡らによる刪定律令24条を施行する
・4月18日 山背国内の諸寺の塔を修理する
・5月29日 翌年の班田に備え、国司・王臣家・殷富百姓が下田を上田に換える等の不法を改める
・6月25日 再び山野独占の禁令を出し、山背国の百姓の山野利用の便をはかる
・8月5日 畿内の班田使を任じる。
・9月16日 平城宮の諸門を壊し運んで長岡宮に移し造らせる

<延暦11年(792年)>
・1月9日 天皇、諸院を巡行し、猪隈院にて五位以上に弓を射さす
・6月7日 諸国の兵士制を廃止する
・6月14日 健児の制を設ける
・6月10日 皇太子の病を占い、「早良親王の崇り」とでる
・6月22日 式部省の南門、激しい雷雨で倒れる
・8月9日 大雨・洪水で桂川等あふれる
・8月11日 天皇、紀伊郡赤目崎にて洪水を視る
・10月28日 京畿に限って班田を実施し、細則を一部修正する
・閏11月1日 新弾例83条を施行する

<延暦12年(793年)>
・1月15日 大納言藤原小黒痳呂、左大弁紀古佐美らを遣し、遷都のため山背国葛野郡宇太村を視る
・1月21日 宮を壊体するため天皇東院に移る
・2月2日 遷都を賀茂大神に告げる
・3月1日 葛野の行幸し、はじめて新京を巡行する
・3月12日 新京の宮城を築かせる
・6月23日 新宮の諸門を造らせる
・7月7日 馬埒殿で節会の相撲あり
・9月2日 新京の宅地を班給する

<延暦13年(794年)>
・6月13日 副将軍坂上田村麻呂ら、蝦夷を坆めて勝利を得る
・7月1日 東・西の市を新京に移。
・8月13日 右大臣藤原継縄ら「続日本紀」を撰修する
・10月22日 新京(平安京)に遷る

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1348年(貞和4)第95代の天皇とされる花園天皇(持明院統)の命日(新暦12月2日)詳細
1477年(文明9)大内軍が京から撤収し、応仁の乱が終結する(新暦12月16日)詳細
1890年(明治23)浅草に12階建ての凌雲閣が完成し、日本初の電動式エレベーターが一般公開される詳細
1911年(明治44)新派俳優・興行師川上音二郎の命日詳細
1944年(昭和19)太平洋戦争末期の本土決戦に備えて、松代大本営が着工される 詳細
1955年(昭和30)下中弥三郎・茅誠司・平塚らいてう・湯川秀樹らによって、世界平和アピール七人委員会が結成される詳細
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 今日は、平安時代後期の1180年(治承4)に、平清盛が遷都を目指して福原(現在の神戸市兵庫区)への行幸(福原遷都)を決行した日ですが、新暦では6月26日となります。
 福原遷都(ふくはらせんと)は、平清盛が京都から摂津の福原(現在の兵庫県神戸市兵庫区・中央区付近)に一時的に都を移したことでした。1179年(治承3)に、清盛はクーデターを実行し、後白河院を幽閉して実権を握り、自ら軍事的独裁政治を開始しましたが、比叡山延暦寺の衆徒を強く刺激します。
 翌年には、源頼政が以仁王 の令旨を諸国の源氏に伝えて決起を促したものの、宇治川の戦いに敗れ、鎮圧されました。しかし、この影響が広がる中で、突然に安徳天皇、高倉上皇を伴ってみずからの根拠地福原への遷都を強行したものです。
 遷都後は、延暦寺の衆徒の蜂起が起き、平宗盛など一門の主張もあって、都城造営も進まぬうちに、同年11月には、再び京都(平安京)に都を戻さざるをえませんでした。この遷都は、平氏政権の威信を下げるものになったとされています。
 以下に、このことを描いた『方丈記』の福原遷都の部分を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇『方丈記』福原遷都

<原文>

また、治承四年[1]水無月の比[2]、にはかに都遷り侍りき。いと思ひの外なりし事なり。おほかた、この京[3]のはじめを聞ける事は、嵯峨の天皇[4]の御時、都と定まりにけるより後、既に四百余歳[5]と経たり。ことなるゆゑ[6]なくて、たやすく改まるべくもあらねば、これを世の人安からず憂へあへる、実にことはりにも過ぎたり。されど、とかくいふかひなくて[7]、帝[8]より始め奉りて、大臣・公卿[9]みな悉くうつろひ給ひぬ。世に仕ふるほどの人、たれか一人ふるさとに残りをらむ。官・位に思ひをかけ、主君のかげ[10]を頼むほどの人は、一日なりとも疾く移ろはむとはげみ、時を失ひ[11]世に余されて[12]期する所なきもの[13]は愁へながら止まり居り、軒を争ひし人のすまひ、日を経つゝ荒れゆく。家はこぼたれて[14]淀河に浮び[15]、地は目のまへに畠となる。人の心みな改りて、たゞ馬・鞍をのみ重くす。牛・車を用する人なし[16]。西南海[17]の所領を願ひて、東北[18]の庄園を好まず。その時、おのづから事の便りありて、津の国[19]の今の京[20]に至れり。所のありさまを見るに、その地、程狭くて条里を割る[21]に足らず。北は山に沿ひて高く南は海に近くて下れり `波の音常にかまびすしく[22]て塩風殊にはげしく内裏は山の中なればかの木丸殿[23]もかくやとなかなか様変はりて優なるかたも侍りき。日々に毀ち川もせきあへず運びくだす家はいづくに作れるにかあらん。なほ空しき地は多く作れる家は少なし。古京[24]はすでに荒れて、新都[25]はいまだ成らず。ありとしある人は皆浮雲の思ひ[26]をなせり。もとよりこの処に居たる者は地を失ひて愁へ今移り住む人は土木の煩ひあることを嘆く。道の辺[27]を見れば車に乗るべきは馬に乗り衣冠布衣[28]なるべきは直垂[29]を著たり。都のてぶり[30]忽ちに改りてただ鄙びたる[31]武士に異ならず。これは世の乱るる瑞相[32]とか聞きおけるもしるく日を経つつ世の中浮き立ちて人の心も治まらず民の愁へ遂に空しからざりければ同じ年の冬なほこの京[3]に帰り給ひにき。されど毀ち渡せりし家どもはいかになりにけるにか。悉くもとのやうにも作らず。ほのかに伝へ聞くにいにしへの賢き御代[33]には憐みをもて国を治め給ふ。即ち御殿に茅を葺きて軒をだに整へず[34]。煙の乏しき[35]を見給ふ時は限りある貢物[36]をさへ免されき、これ民を恵み世をたすけ給ふによりてなり。今の世の中の有様昔になぞらへて知りぬべし。

【注釈】

[1]治承四年:ちしょうよねん=1180年のこと。
[2]水無月の比:みなづきのころ=6月2日。
[3]この京:このきょう=平安京(京都)のこと。
[4]嵯峨の天皇:さがのてんのう=桓武天皇の誤り。
[5]四百余歳:よんひゃくよねん=正確には平安遷都後386年で、多少誇張しているか。
[6]ことなるゆゑ:ことなるゆえ=特別な根拠。
[7]いふかひなくて:いうかいなくて=言っても始まらないので。
[8]帝:みかど=安徳天皇のこと。
[9]大臣・公卿:だいじん・くぎょう=摂政・関白以下、参議以上の現官と三位以上の有位者の貴族のこと。
[10]主君のかげ:しゅくんのかげ=主君の威光。
[11]時を失ひ:ときをうしない=出世の機会を失う。
[12]世に余されて:よにあまされて=世間から取り残されて。
[13]期する所なきもの:ごするところなきもの=将来に希望の持てない人。
[14]こぼたれて=取り壊されて。
[15]淀河に浮び:よどがわにうかび=家を壊した木材が筏となって淀川を流れ下って、福原まで運ばれたことを表現している。
[16]牛・車を用する人なし:うしくるまをようするひとなし=(公家風に)牛や車を使用する人がいない。
[17]西南海:せいなんかい=再海道(紀伊・淡路・四国)と南海道(九州)のことで、平氏の勢力範囲だった。
[18]東北:とうほく=東国(東海道・東山道)と北国(北陸道)のことで、源氏の勢力範囲だった。
[19]津の国:つのくに=摂津国のこと。
[20]今の京:いまのきょう=福原京のこと。
[21]条里を割る:じょうりをわる=土地の区画をする。
[22]かまびすしく=やかましく。騒々しく。うるさく。
[23]木丸殿:きのまろどの=削ったりみがいたりしない質素な丸木造りの宮殿。黒木造りの御所。とくに福岡県朝倉郡朝倉町にあった斉明天皇の行宮のこと。
[24]古京:こきょう=平安京(京都)のこと。
[25]新都:しんと=福原京のこと。
[26]浮雲の思ひ:うきぐものおもい=落ち着かない気持ち。
[27]道の辺:みちのべ=道のほとり。道ばた。また、道。
[28]衣冠布衣:いかんほい=公家男子の服装の一種。
[29]直垂:ひたたれ=武士の服装。
[30]てぶり=ならわし。風習。風俗。
[31]鄙びたる:ひなびたる=いなかふうになる。いなかくさく、やぼったくなる。いなかびる。
[32]瑞相:ずいそう=きざし。前兆。
[33]賢き御代:かしこきみよ=賢帝が治めていた時代。
[34]軒をだに整へず:のきをだにととのえず=軒さえ切り揃えなかった。
[35]煙の乏しき:けむりのとぼしき=民のかまどから上がる煙が少ない。
[36]貢物:くもつ=支配者に差出されるみつぎ物。領主に納入する年貢。

<現代語訳>

また、治承4年(1180年)6月の頃、急に遷都が行われた。とても予想外の事であった。だいたい、平安京の始まりを聞いていることには、嵯峨天皇の時代に、都として定まったより後、すでに400余年を経ている。特別な根拠もなくて、軽々しく変更すべきものでもないので、これを世間の人が不安に思って心配し合ったのも、実に当然の事であった。しかし、とやかく言っても始まらないので、安徳天皇をはじめ、大臣・公卿の全員がすべて移転してしまった。朝廷に仕えるほどの人であったならば、誰一人旧都に残るであろうか。`官位の昇進に望みをかけ、主君の威光を頼みとするほどの人は、一日でも早く移ろうと励み、出世の機会を失い世間から取り残されて将来に希望の持てない人は、愁えながら旧都に留まっていた。軒を並べていた人家は、日を経るごとに荒れていった。家は取り壊されて、家を壊した木材が筏となって淀川に浮かび、宅地は見る見るうちに畠となってしまった。人の考え方もみな改って、ただ(武家風に)馬・鞍ばかりが重宝とされている。(公家風の)牛や車を使用する人はいない。再海道(紀伊・淡路・四国)と南海道(九州)の所領を願って、東国(東海道・東山道)と北国(北陸道)の庄園は好まれない。その時、私(鴨長明)はたまたま用事のついでに、摂津国の福原京に行ってみた。その所の有様を見ると、その土地は、狭くて土地の区画をするのに足らない。北は山に沿って高く、南は海に近くて低くなっている。波の音は常に騒々しくて、塩風はとりわけ激しく、内裏は山の中なので、かの筑前朝倉に斉明天皇の造った行宮ももこうであったかと、なかなかに風変わりな情趣も感じられた。日々壊して、淀川もいっぱいになるほどに筏にして運び下す家は、どこに再建されたのであろうか。尚、空地は多く、建てられている家は少ない。平安京はすでに荒れて、福原京はいまだ完成されていない。ありとあらゆる人々は、みな落ち着かない気持ちでいた。以前からこの地にいる者は、土地を失って悲しみ、今移り住んできた人々は普請の煩わしさを嘆く。道路を見れば今までは牛車に乗るはずの公家が馬に乗り、公家男子の服装であるべき者は武士の服装を著ている。都の風俗はまたたく間に改まって、ただ田舎くさい武士に異ならない。これは世の中の乱れる前兆と聞いていたが全くそのとおり、日を経るにつれて世の中は騒がしくなり、人の心も動揺し、民衆の愁えはとうとう現実となったため、同じ年の冬、ついに平安京に還都された。しかし、破壊してしまった家々はどうなったのか。ことごとく元のように再建されたわけではなかった。わずかに伝え聞くところによれば、古代の賢帝が治めていた時代には、愛情をもって国を治められたという。すなわち、御殿に茅を葺いても、軒さえ切り揃えなかった。民のかまどから上がる煙が少ないをご覧になった時は、決められた税をさえ免ぜられた、これは、民に恩恵を与え、世を救済されたいとの思いからである。今の世の有様は、昔と比べて理解すべきである。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

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 今日は、奈良時代の710年(和銅3)に、元明天皇が藤原京から平城京に遷都した日ですが、新暦では4月13日となります。
 平城京(へいじょうきょう)は、710年(和銅3)に元明天皇が藤原京から遷都し、784年 (延暦3) に桓武天皇が山城長岡京に移ったまでの74年間の都だったところです。707年(慶雲4)から遷都の審議が始まり、708年(和銅元年2月15日)には、元明天皇により造営の詔が出されました。
 「平城の地、四禽図(青龍、白虎、玄武、朱雀)に叶い、三山(春日山、奈良山、生駒山)鎮をなし、亀筮(亀の甲や筮竹を用いる卜占)並び従ふ。」と吉相の地で占いにもかなうとされていますが、その理由は、一定の広さがあり、水陸の交通便が良く、地元豪族の影響排除が可能だったこととされています。工事が進められて、710年(和銅3年3月10日)に平城京に遷都されましたが、内裏と大極殿などの主要な官舎が整った程度の状態だったとされ、その後順次整備されていきました。
 唐の長安京の都城制を模してつくられ、南北9条(約4.8km)、東西8坊(約4.3km)で約2,500ha面積を有し、全域72坊に区画設定されています。中央北域に平城宮(大内裏)をおき、その南の朱雀門から都の南端にある羅城門まで、中央を南北に走る幅75m、長さ3.7kmの朱雀大路(すざくおおじ)によって左京・右京に二分しました。
 さらに、南北・東西を大路・小路によって碁盤の目のように整然と区画しています。平城京に居住した人口は、17万人前後ではないかと推定され、貴族(内五位以上は100人前後)や下級官人、一般庶民の住宅が立ち並んでいました。しかし、この間、740年(天平12)から745年(天平17)までの間は恭仁京・難波京に遷都されています。
 奈良時代の後半は、政治が混乱を深めたため、784年(延暦3)の長岡京遷都へ至ったとされてきました。尚、平城京の大内裏の跡(平城宮跡)は、1952年(昭和27)に国の特別史跡に指定され、国営公園として整備されつつあり、1998年(平成10年)12月には、「古都奈良の文化財」として東大寺などと共に世界遺産(文化遺産)にも登録されています。

〇『続日本紀』の「平城京遷都」の記事 710年(和銅3年3月10日)

<原文> 

辛酉。始遷都于平城。以左大臣正二位石上朝臣麻呂爲留守。

   『続日本紀』巻第五より

<読み下し文>

辛酉。始て都を平城に遷す。以左大臣正二位石上の朝臣麿を留守と爲す。

<現代語訳>

3月10日。初めて都を平城京に遷す。左大臣・正二位石上の朝臣麿を(藤原京)の留守司とする。

〇『続日本紀』の「平城京造営の詔」の記事 708年(和銅元年2月15日) 

<原文> 

和銅元年二月。
戊寅。詔曰。朕祗奉上玄。君臨宇内。以菲薄之徳。処紫宮之尊。常以為。作之者労。居之者逸。遷都之事。必未遑也。而王公大臣咸言。往古已降。至于近代。揆日瞻星。起宮室之基。卜世相土。建帝皇之邑。定鼎之基永固。無窮之業斯在。衆議難忍。詞情深切。然則京師者。百官之府。四海所帰。唯朕一人。豈独逸予。苟利於物。其可遠乎。昔殷王五遷。受中興之号。周后三定。致太平之称。安以遷其久安宅。方今、平城之地。四禽叶図。三山作鎮。亀筮並従。宜建都邑。宜其営構資、須随事条奏。亦待秋収後。令造路橋。子来之義、勿致労擾。制度之宜。令後不加。

   『続日本紀』巻第四より

*縦書きの原文を横書きに改め、句読点を付してあります。
 
<読み下し文>

和銅元年2月戌寅、詔して曰く、
『朕祇みて上玄[1]に奉じ、宇内[2]に君臨す。菲薄の徳を以て、紫宮[3]の尊に処れり。常に以為らく、之を為す者は労し、之に居る者は逸す。遷都の事、必しも未だ遑[4]あらず、而も王公大臣咸云ふ。往古以降近代に至り、日を挑り[5]星を瞻て[6]、宮室[7]の基を起し、世を卜し[8]土を相して[9]、帝王の邑を建つ。永鼎[10]の基を定め、無窮[11]の業を固うすることここにあらんと。衆議忍び難く詞情深く切なり。然らば則ち京師は百官の府[12]、四海[13]の帰する所、ただ朕一人のみ独り逸予[14]せんや。苟くも物に利あらば、それ遠ざかるべけんや。昔は段王五たび遷りて中興の号を受け、周公三たび定めて太平の称を致す。安んじて以てその久安の宅を遷せるなり。方今[15]平城の地四禽図[16]に叶い三山[17]鎮をなす。亀筮[18]並び従ふ。宜しく都邑[19]を建つべじ。其の營構[20]を宜うし、資は須らく事条に随って奏すべし。亦秋収[21]の後を待って、路橋を造らしめて、子来[22]の義、労擾[23]を致すこと勿れ。制度の宜後に加へざらしめよ。』と。

【注釈】

[1]上玄:じょうげん=天のこと。
[2]宇内:うだい=天下。世界。
[3]紫宮:しきゅう=天帝の居所。皇居。
[4]遑:いとま=時間の余裕。ひま。
[5]日を挑り:ひをはかり=太陽を観測すること。
[6]星を瞻て:ほしをみて=星を観測すること。
[7]宮室:きゅうしつ=帝王、天皇の住む宮殿。また、転じて、帝王、天皇の一族。皇室。
[8]世を卜し:よをぼくし=世界を占うこと。
[9]土を相して:つちをそうして=地相をみること。
[10]永鼎:えいけん=王位を安定させること。王位を永続させること。
[11]無窮:むきゅう=果てしないこと。また、そのさま。無限。永遠。
[12]百官の府:ひゃっかんのふ=多くの役人が事務をとる所。
[13]四海:しかい=国内。くにじゅう。世界。世の中。天下。
[14]逸予:いつよ=気ままに遊び楽しむこと。
[15]方今:ほうこん=まさに今。ただ今。また、このごろ。現今。
[16]四禽図:しきんと=四つの方角を現す神獣、青龍(東)・白虎(西)・朱雀(南)・玄武(北)のこと。
[17]三山:さんざん=春日山、奈良山、生駒山のこと。
[18]亀筮:きぜい=亀の甲や筮竹を用いる卜占。うらない。
[19]都邑:とゆう=みやこ。
[20]営構:えいこう=事業をいとなむこと。また、組織し経営すること。
[21]秋収:しゅうしゅう=秋の農作物のとりいれをすること。秋の収穫。
[22]子来:じらい=子が親を慕うように、高徳の主君のもとに民衆が喜び集まること。
[23]労擾:ろうじょう=つかれみだれること。あくせくする。辛苦する。 

<現代語訳> 平城京造営の詔

和銅元年(708年)二月戊寅(15日)
 詔の中で次のように述べられた。「私(元明天皇)は天帝の命を承って、天下に君主として臨んでおり、徳が薄いにもかかわらず、皇居の天皇という位にいる。常に思うのに、「天皇の住む宮殿を造る者は苦労し、これに住まう者は楽をする」という言葉である。遷都のことは、必ずしも時間の余裕のないことではない。ところが王公大臣はみな言う。「昔から近年に至るまで、太陽や星を観測して、東西南北を確かめ、天皇の住む宮殿の基礎を定め、世を占い地相を見て、帝皇の都を建てている。天子の証である鼎を安定させる基礎は、永く固く果てしなく、天子の業もここに定まるであろう」と。多くの臣下が議論することは抑えることが困難で、その言葉も情も深く切実である。そして都というものは多くの役人が事務をとる所であり、国中の民が集まるところであって、ただ私(元明天皇)一人がどうして独り気ままに遊び楽しんでいて好かろうか。いやしくも利点があるならば、従うべきではあるまいか。昔、殷の諸王は5回遷都して、国を中興したと称えられ、周の諸王は3度都を定めて、太平の誉れを残した。安んじてその久安の住居を遷そう。まさに今平城の地は、青竜・朱雀・白虎・玄武の4つの動物が陰陽の吉相に配され、三山(春日山、奈良山、生駒山)が鎮護の働きをなし、亀の甲や筮竹を用いる卜占にもかなっている。ここにみやこを建てるべきである。その事業を営むことをよろしくし、資材は必要に応じて箇条書きにして奏上せよ。また秋の収穫が終了するのを待って、道路や橋を造らせよ。子が親を慕うように、高徳の主君のもとに民衆が喜び集まって来るもので、仮りにも民衆を疲れ乱れさせるようなことがあってはならない。制度を適切なものとし、後から負担を増加することが無いようにせよ。」と。
 
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