ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:遣唐使

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 今日は、飛鳥時代の630年(舒明天皇2)に、犬上御田鍬(大使)・薬師恵日らが第1回遣唐使として、唐へ遣わされた日ですが、新暦では9月16日となります。
 第1回遣唐使は、舒明天皇の御代に、遣隋使のあとをうけ、犬上御田鍬(いぬかみのみたすき)を大使として、薬師恵日らを中国の唐へ派遣したものでした。使節は、大使、副使、判官、録事から構成され、留学生、留学僧を伴って、2隻に分乗し、朝鮮半島沿岸を北上して山東半島に上陸する北路を通ったと考えられます。
 洛陽を経由して、唐の都長安へと至り、唐帝に謁見して、国書・贈物を奉献すること(朝貢)を任務としたものですが、唐の制度・文物を学んで、それを導入する目的もありました。2年後に帰国した使節団や留学生、留学僧などによって、政治・学問・宗教などに多くの貢献がなされたとされています。
 本来、朝貢は中国の皇帝に対して年1回で行うのが原則ですが、遠方にある日本は毎年でなくてよいとする措置がとられ、以後は、894年(寛平6)に、菅原道真の建議により停止されるまで、数年から数十数の間隔で実施されました。以下に、『日本書紀』巻第二十三の第1回遣唐使の事を記した部分を抜粋しておきますので、ご参照下さい。

〇『日本書紀』巻第二十三の遣唐使に関連する部分の抜粋

<原文>

二年(中略)秋八月癸巳朔丁酉、以大仁犬上君三田耜・大仁藥師惠日、遣於大唐。

四年秋八月、大唐遣高表仁送三田耜、共泊于對馬。是時、學問僧靈雲・僧旻・及勝鳥養・新羅送使等、從之。

<読み下し文>

二年(中略)秋八月癸巳朔丁酉、大仁犬上君三田耜・大仁藥師惠日を以て、大唐に遣す。

四年秋八月、大唐高表仁を遣して、三田耜を送る。共に對馬に泊れり。是の時、學問僧靈雲・僧旻・及勝鳥養・新羅送使等、之を從たり。

<現代語訳>

舒明天皇2年(中略)秋8月5日、大仁犬上君三田耜・大仁藥師惠日を大唐へ遣わした。

舒明天皇4年秋8月、大唐は高表仁を遣して、三田耜を送らせた。共に対馬に泊った。この時、學問僧靈雲・僧旻および勝鳥養、新羅の送使らがこれに従った。

〇遣唐使(けんとうし)とは?

 飛鳥時代から平安時代前期にかけて、国際情勢や大陸文化を摂取するために、遣隋使のあとをうけ、10数回にわたって日本から唐へ派遣された公式使節です。使節は、大使、副使、判官、録事から構成され、留学生、留学僧を伴って、数百人が数隻の船に分乗し、2~3年がかりで往復し、国書・物品などを奉献しました。第1回は、630年(舒明天皇2)に、犬上御田鍬(いぬかみのみたすき)を大使として派遣され、第5回までは朝鮮半島沿岸を北上して山東半島に上陸する北路を、その後新羅による朝鮮統一により、九州から東シナ海を横断して、揚子江河口に上陸する南路をとって入唐するようになります。とても厳しい航海で、計画したものの断念したり、途中で難破して沈没したり、引き返したこともありましたが、政治・学問・宗教などに多くの貢献をしました。しかし、唐も安史の乱(755~763年)後、しだいに勢力が衰え、また、商人による貿易もさかんになってきていたので、894年(寛平6)に、菅原道真の建議により停止され、907年(延喜7)には唐が滅亡してなくなりました。

☆遣唐使一覧(カッコの回は唐へ行っていない)

・1回 舒明2年(630年)~舒明4年(632年)---犬上御田鍬(大使)・薬師恵日 唐使高表仁来日、僧旻帰国
・2回 白雉4年(653年)~白雉5年(654年)---吉士長丹(大使)、高田根麻呂(大使)、吉士駒(副使)、掃守小麻呂(副使)、道昭・定恵・道観(派遣者) 第2船が往途で遭難
・3回 白雉5年(654年)~斉明元年(655年)---高向玄理(押使)、河辺麻呂(大使)、薬師恵日(副使) 高向玄理は帰国せず唐で没
・4回 斉明5年(659年)~斉明7年(661年)---坂合部石布(大使)、津守吉祥(副使)、伊吉博徳(派遣者) 第1船が往途で南海の島に漂着し、坂合部石布が殺される
・5回 天智4年(665年)~天智6年(667年)---守大石(送唐客使)、坂合部石積、吉士岐彌、吉士針間 唐使の劉徳高を送る。唐使の法聡が来日
・(6)回 天智6年(667年)~天智7年(668年)---伊吉博徳(送唐客使) 唐使の法聡を送る。唐には行かず?
・7回 天智8年(669年)~不明 河内鯨(大使)---第5次から第7次は、百済駐留中の唐軍との交渉のためか
・8回 大宝2年(702年)~慶雲元年(704年)---粟田真人(執節使)、高橋笠間(大使)、坂合部大分(副使)、山上憶良・道慈(派遣者)
・9回 養老元年(717年)~養老2年(718年)---多治比縣守(押使)、大伴山守(大使)、藤原馬養(副使)、阿倍仲麻呂・吉備真備・玄昉・井真成(派遣者) 
・10回 天平5年(733年)~天平6年(734年)---多治比広成(大使)、中臣名代(副使)、平群広成(判官)、大伴古麻呂(派遣者)
・(11)回 天平18年(746年)~ 石上乙麻呂(大使) 停止される
・12回 天平勝宝4年(752年)~天平勝宝6年(754年)---藤原清河(大使)、吉備真備(副使)、大伴古麻呂(副使) 鑑真が来日する
・13回 天平宝字3年(759年)~天平宝字5年(761年)---高元度(迎入唐大使使)、内蔵全成(判官)
・(14)回 天平宝字5年(761年)---仲石伴(大使)、石上宅嗣(副使)、中臣鷹主(遣唐判官) 船破損のため停止
・(15)回 天平宝字6年(762年)---中臣鷹主(送唐客使)、藤原田麻呂(副使)、高麗広山(副使) 唐使沈惟岳を送らんとするも安史の乱の影響により渡海できず停止する
・16回 宝亀8年(777年)~宝亀9年(778年)---小野石根(持節副使・大使代行)、大神末足(副使)
・17回 宝亀10年(779年)~天応元年(781年)---布施清直(送唐客使) 唐使孫興進を送る
・18回 延暦23年(804年)~大同元年(806年)10月---藤原葛野麻呂(大使)、石川道益(副使)、最澄・空海・橘逸勢・霊仙(派遣者)
・19回 承和5年(838年)~承和6年(839年)---藤原常嗣(大使)、円仁、藤原貞敏(准判官)、長岑高名(准判官)、良岑長松(准判官)、菅原梶成(知乗船事・医師) 小野篁(副使)は拒否して流罪
・(20)回 寛平6年(894年)---菅原道真(大使)、紀長谷雄(副使) 予定されたが菅原道真の建議により停止する

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1864年(文久4)四国艦隊下関砲撃事件が起きる(新暦9月5日)詳細
1873年(明治9)武士等の家禄・賞典禄を廃止し、金禄公債を発行するための「金禄公債証書発行条例」が公布される詳細
1911年(明治44)小説家田宮虎彦の誕生日詳細
1983年(昭和58)俳人・国文学者中村草田男の命日詳細
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 今日は、奈良時代の746年(天平18)に、法相宗の僧玄昉が亡くなった日ですが、新暦では7月15日となります。
 玄昉(げんぼう)は、生年不詳ですが、俗姓は阿刀氏で大和(現在の奈良県)の出とされ、出家して法相宗の義淵の弟子となりました。716年(霊亀2)に学問僧に任じられ、翌年には遣唐使に学問僧として随行して入唐し、法相宗の智周について学びます。
 その後、玄宗皇帝に認められて、三品の位に准じられ、紫衣を賜りました。在唐18年の後、遣唐大使の大使多治比真人広成に随い、仏教経典・注釈書等5,000巻と諸々の仏像を携えて、735年(天平7)に帰国、日本へ法相宗を伝えた4番目の人(第四伝)とされます。
 736年(天平8)に封戸を与えられ、翌年には、僧正に任じられて紫袈裟を賜り、皇太夫人藤原宮子の看病によって功績があり、宮中の内道場の出入りを許されました。それを機会に、聖武天皇の信頼も得て、吉備真備と共に橘諸兄政権の担い手として出世し、国分寺を創設を進言するなど宮廷に権勢を得ます。
 しかし、人格に対して人々の批判も強く、740年(天平12)に藤原広嗣が吉備真備と玄昉を排除しようと九州で兵を起こしました(藤原広嗣の乱)。乱は鎮圧され、広嗣も敗死したものの、藤原仲麻呂が勢力を持つようになると橘諸兄は権勢を失い、玄昉も745年(天平17)に官位を下げられ、筑紫観世音寺別当に左遷、封物も没収されます。
 興福寺法相宗の基を築き、慈訓、善珠などの弟子も育てましたが、746年(天平18年6月18日)に左遷先の筑紫国において亡くなり、「広嗣の霊に害された」とのうわさも広まったとされています。
 以下に、『続日本紀』巻第十六の天平18年(746年)6月18日の条に書かれている玄昉に関する記述を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇『続日本紀』巻第十六 天平18年(746年)6月18日の条

<原文>

己亥。僧玄昉死。玄昉俗姓阿刀氏。靈龜二年入唐學問。唐天子尊昉。准三品令着紫袈裟。天平七年隨大使多治比眞人廣成還歸。齎經論五千餘卷及諸佛像來。皇朝亦施紫袈裟着之。尊爲僧正。安置内道塲。自是之後。榮寵日盛。稍乖沙門之行。時人惡之。至是死於徙所。世相傳云。爲藤原廣嗣靈所害。
 
<読み下し文>

己亥。僧玄昉死ス。玄昉俗姓ハ阿刀氏。靈龜二年入唐シテ學問す。唐ノ天子[1]昉ヲ尊ビテ、三品[2]ニ准シテ紫ノ袈裟[3]ヲ着セ令ム。天平七年大使多治比ノ真人広成ニ随テ還帰ス。經論[4]五千餘巻及ヒ諸ノ佛像ヲ齎シテ來レリ。皇朝亦タ紫ノ袈裟[3]ヲ施シテ之を着セシム。尊テ僧正[5]ト爲ス、内道場[6]ニ安置ス。是ヨリノ後、栄耀日ニ盛ニシテ、稍ク沙門ノ行ニ乖ケリ。時ノ人之ヲ悪ム。是ニ至テ、徙所[8]ニ死ス。世相傳ヘテ云フ、藤原広嗣[9]カ霊ノ爲ニ害セルト。

【注釈】

[1]唐の天子:とうのてんし=当時の唐の皇帝玄宗のこと。
[2]三品:さんぼん=中国・日本の位階の第三位。三位。
[3]紫の袈裟:むらさきのけさ=紫色の法衣。勅許などによって高位・高徳の僧に着用が許された。紫衣。
[4]経論:きょうろん=仏の教えを記した経と、経の注釈書である論。
[5]僧正:そうじょう=僧官僧綱の最上位。また、その人。
[6]内道場:ないどうじょう=宮中に設けられた仏事を行う堂宇。内寺。
[7]沙門:しゃもん=出家して修行に専念する人。求道者。
[8]徙所:としょ=移動先。移転先。この場合は、左遷先。
[9]藤原広嗣:ふじわらのひろつぐ=奈良時代の公卿。天平10年に大宰少弐となったが、橘諸兄と対立、その顧問である吉備真備・玄昉らを除こうとして反乱を起こしたが、敗れる(藤原広嗣の乱)。
 
<現代語訳>

6月18日。僧の玄昉が死んだ。玄昉は俗姓を阿刀氏と言い。靈龜2年(716年)に入唐して学問を学んだ。唐の天子(玄宗)は玄昉を尊く思い、三品に准じさせて紫の袈裟の着用を許した。天平7年(735年)に大使多治比真人広成(遣唐大使)に随って帰還した。仏教経典・注釈書5千余巻と諸々の仏像とを持ち帰った。朝廷も同様に紫の袈裟を下賜して着用を許した。尊んで僧正に任命し、内道場への出入りを許した。これより後、栄耀が日々に盛んになり、次第に僧侶としての行いに背いた。時の人々はこれを悪く思うようになった。ここに至って、左遷された地で死ぬこととなった。世間の言い伝えでは、「藤原広嗣の霊の為に殺されたのだ。」という。


☆玄昉関係略年表(日付は旧暦です)

・716年(霊亀2年) 学問僧に任じられる
・717年(養老元年) 遣唐使に学問僧として随行して入唐する
・735年(天平7年) 遣唐使の帰国に随い、経論5000巻の一切経と諸々の仏像を携えて帰国する
・736年(天平8年) 封戸を与えられる
・737年(天平9年) 僧正に任じられて内道場の出入りを許される
・740年(天平12年) 藤原広嗣が吉備真備と玄昉を排除しようと九州で兵を起こす(藤原広嗣の乱)
・741年(天平13年7月15日) 千手経1000巻を発願、書写・供養する
・745年(天平17年) 筑紫観世音寺別当に左遷される
・746年(天平18年6月18日) 筑紫国において亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

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1988年(昭和63)朝日新聞のスクープによってリクルート事件が発覚する詳細
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 今日は、平安時代前期の835年(承和2)に、平安時代の僧・真言宗の開祖空海(弘法大師)の亡くなった日ですが、新暦では4月22日となります。
 空海(くうかい)は、奈良時代の774年(宝亀5)に讃岐国多度郡屏風浦(現在の香川県善通寺市)で、郡司の父・佐伯直田公(さえきのあたいたぎみ)、母・阿刀大足の娘の子として生まれましたが、名は眞魚(まお)といいました。788年(延暦7)に平城京に上り、789年(延暦8)に15歳で母方の叔父の阿刀大足について論語、孝経、史伝、文章などを学びます。
 792年(延暦11)に18歳で京の大学寮に入り、明経道を専攻し、春秋左氏伝、毛詩、尚書などを学びましたが、翌年には大学での勉学に飽き足らず、19歳を過ぎた頃から山林での修行に入ったとされてきました。阿波の大滝岳、土佐の室戸岬、伊予の石鎚山、大和の金峰山などの聖地を巡って修行に励み、798年(延暦18)に24歳で儒教・道教・仏教の比較思想論でもある『聾瞽指帰』を著して俗世の教えが真実でないことを示します。
 803年(延暦22)に医薬の知識を生かして推薦され、遣唐使の医薬を学ぶ薬生として出発するが悪天候で断念したものの、翌年の第18次遣唐使一行として、最澄や霊仙、橘逸勢らと共に、長期留学僧の学問僧として唐に渡り、同年12月には、唐の長安へ入りました。805年(延暦24)に長安醴泉寺の般若三蔵らに就いてサンスクリット(梵語)やインドの学問を学習、青龍寺の恵果から密教の伝授を受け始めて、真言密教の第八祖を継ぎ、恵果が60歳で没したとき、門下から選ばれて追悼の碑文を書きます。
 翌年に膨大な密教の典籍、仏像、法典、曼荼羅等の文物を持ち、無事に博多津に帰着し、『請来目録』を朝廷に差し出しました。809年(大同4)に京都高雄山寺(神護寺)を本拠に布教を開始し、翌年に国家を鎮める修法を行ない、812年(弘仁3)には、比叡山の最澄や弟子に灌頂を授けます。
 816年(弘仁7)に43歳の時、高野山を国家のために、また修行者の道場とするために開きたいと嵯峨天皇に上奏して勅許を得て、819年(弘仁10)から高野山の伽藍建立に着手しました。821年(弘仁12)に四国讃岐の満濃池を修築し、農民のために尽力するなど社会事業にもいろいろと取り組んだとされます。
 823年(弘仁14)に京都の東寺(教王護国寺)を給預され、真言密教の根本道場に定め、後進の育成に努め、翌年に大僧都に任ぜられ、828年(天長5)には東寺の東隣に日本最初の庶民教育の学校として綜芸種智院を開設しました。835年(承和2)に宮中真言院で後七日御修法を行ないましたが、同年3月21日に高野山において、数え年62歳で亡くなっています。
 また、漢詩集として『性霊集』,漢詩文のつくり方などを論じた『文鏡秘府論』を著し、書においては、嵯峨天皇、橘逸勢と共に三筆の一人に数えられるようになりました。尚、921年(延喜21)には醍醐天皇から弘法大師の諡号が贈られています。

〇空海(弘法大師)の主要な著作

・『三教指帰(さんごうしいき)』(797年)
・『文筆眼心抄』(820年)
・『十住心論(じゅうじゅうしんろん)』(830年)
・『秘蔵宝鑰(ほうやく)』
・『弁顕密(べんけんみつ)二教論』
・『即身成仏義(そくしんじょうぶつぎ)』
・漢詩集『性霊集』
・『文鏡秘府論(ぶんきょうひふろん)』
・『篆隷(てんれい)万象名義』
・『声字実相義(しょうじじっそうぎ)』
・『吽字義(うんじぎ)』
・『般若心経秘鍵(ひけん)』
・書簡『風信帖』

☆空海(弘法大師)関係略年表(日付は旧暦です)

・774年(宝亀5年) 讃岐国多度郡屏風浦で、郡司の父・佐伯直田公(さえきのあたいたぎみ)、母・阿刀大足の娘の子として生まれる
・788年(延暦7年) 平城京に上る
・789年(延暦8年) 15歳で母方の叔父の阿刀大足について論語、孝経、史伝、文章などを学ぶ
・792年(延暦11年) 18歳で京の大学寮に入り、明経道を専攻し、春秋左氏伝、毛詩、尚書などを学ぶ
・793年(延暦12年) 大学での勉学に飽き足らず、19歳を過ぎた頃から山林での修行に入ったとされる
・798年(延暦18年) 24歳で儒教・道教・仏教の比較思想論でもある『聾瞽指帰』を著して俗世の教えが真実でないことを示す
・803年(延暦22年) 医薬の知識を生かして推薦され、遣唐使の医薬を学ぶ薬生として出発するが悪天候で断念する
・804年(延暦23年) 第18次遣唐使一行として、最澄や霊仙、橘逸勢らと共に、長期留学僧の学問僧として唐に渡る
・804年(延暦23年12月) 唐の長安へ入る 
・805年(延暦24年) 長安醴泉寺(れいせんじ)の般若三蔵らに就いてサンスクリット(梵語)やインドの学問を学習する
・805年(延暦24年6月) 青龍寺の恵果(けいか)から密教の伝授を受け始めて、真言密教の第八祖を継ぐ
・805年(延暦24年12月15日) 恵果が60歳で没したとき、門下から選ばれて追悼の碑文を書く
・806年(大同元年10月) 膨大な密教の典籍、仏像、法典、曼荼羅等の文物を持ち、無事に博多津に帰着する
・806年(大同元年12月) 『請来(しょうらい)目録』を朝廷に差し出す
・809年(大同4年) 京都高雄山寺(神護寺)を本拠に布教を開始する
・810年(大同5年) 国家を鎮める修法を行なう
・812年(弘仁3年) 比叡山の最澄や弟子に灌頂を授ける
・816年(弘仁7年7月8日) 43歳のとき、高野山を国家のために、また修行者の道場とするために開きたいと嵯峨(さが)天皇に上奏して勅許を得る
・819年(弘仁10年5月) 高野山の伽藍建立に着手する
・820年(弘仁11年) 『文筆眼心抄』が成立する
・821年(弘仁12年9月) 四国讃岐の満濃池を修築し、農民のために尽力する
・823年(弘仁14年1月) 京都の東寺(教王護国寺)を給預され、京都における真言密教の根本道場に定め、後進の育成に努める
・824年(天長元年) 大僧都に任ぜられる
・828年(天長5年12月) 東寺の東隣に日本最初の庶民教育の学校として綜芸種智院を開設する
・830年(天長7年) 『十住心論』が成立する
・835年(承和2年1月) 宮中真言院で後七日御修法を行なう
・835年(承和2年3月21日) 高野山において、数え年62歳で亡くなる
・921年(延喜21年) 醍醐天皇から弘法大師の諡号が贈られる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1934年(昭和9)函館大火が起こり、22,667戸焼失、死者2,166名、負傷者9,485名を出す詳細
1972年(昭和47)奈良県明日香村の高松塚古墳の石室で極彩色壁画を発見する詳細


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 今日は、平安時代前期の822年(弘仁13)に、平安初期の僧・日本天台宗の開祖最澄の亡くなった日ですが、新暦では6月26日となります。
 最澄(さいちょう)は、奈良時代の767年(神護景雲元年8月18日)に、近江国坂本(現在の滋賀県大津市)の一帯を統治する豪族の父・三津首百枝(みつのおびとももえ)の子として生まれましたが、幼名は広野と言いました。778年(宝亀9)、12歳のときに近江国分寺の行表を師として出家、780年(宝亀11)、14歳のときに得度し名を最澄と改めます。
 785年(延暦4)、19歳のとき東大寺の戒壇で具足戒(小乗戒)を受け、比叡山に登り山林に入り、天台三大部を研修しました。801年(延暦20)に南都の大徳10人を招いて法華会を修し、翌年には自ら高雄山寺で天台法華一乗を説きます。
 同年に桓武天皇から入唐の勅命を受け、804年(延暦23)に遣唐使の一員として、空海、橘逸勢らと共に入唐し、天台山で行満から天台の教えを受け、また禅法、大乗菩薩の戒法、密教を学びました。805年(延暦24)に帰国し、密教を伝えるために高雄山寺に灌頂壇を設け、翌年最澄の上表により、天台宗としての年分度者を許されます。
 しかし旧仏教の反対は強く、晩年には、法相宗の徳一との間で教理論争(三乗一乗権実論争)をおこない、819年 (弘仁10) に比叡山に大乗戒壇建立を奏上したものの、南都六宗の反対で許されませんでした。
 そして、822年(弘仁13)に、比叡山において、数え年56歳で亡くなりますが、没後7日目に大乗戒壇設立が勅許されます。尚、866年(貞観8)に、清和天皇より伝教大師(日本最初の大師号)の諡号が贈られました。

〇最澄の主要な著作

・『照権実鏡(しょうごんじっきょう)』
・『法華去惑(こわく)』
・『守護国界章(しゅごこっかいしょう)』(818年)
・『決権実論』
・『法華秀句(しゅうく)』
・『山家学生式(さんげがくしょうしき)』(818~819年)
・『顕戒論(けんかいろん)』
・『内証仏法血脈譜(ないしょうぶっぽうそうしょうけちみゃくふ)』
・『通六九証破比量文(つうろくきゅうしょうはひりょうもん)』
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 今日は、平安時代前期の894年(寛平6)に、菅原道真の建白により遣唐使の停止が決定した日ですが、新暦では11月1日となります。
 遣唐使は、遣隋使を引き継いで、630年(舒明天皇2)に、犬上御田鍬(いぬかみのみたすき)を大使として派遣されたのに始まり、260余年間続けられてきました。
 しかし、唐は安史の乱(755~763年)後、しだいに勢力が衰え、874年頃から起きた黄巣の乱によりさらに弱体化します。
 そこで、寛平6年(894年)に、遣唐大使となっていた菅原道真により、建議「請令諸公卿議定遣唐使進止状」が9月14日に出され、9月30日に停止されることが決まりました。
 その後、道真が左遷されて大使を解かれ、907年(延喜7)には唐が滅亡して、再開されないまま終わりを告げました。
 以下に、菅原道真の建議「請令諸公卿議定遣唐使進止状」(全文)を原文・読み下し文・現代語訳で掲載しておきますので、ご参照ください。

〇菅原道真「請令諸公卿議定遣唐使進止状」(全文) 894年(寛平6年9月14日)

請令諸公卿議定遣唐使進止状       菅原道眞

右臣某謹案在唐僧中瓘去年三月附商客王訥等所到之録記大唐凋弊載之具矣更告不朝之問終停入唐之人中瓘雖區々之旅僧爲聖朝盡其誠代馬越鳥豈非習性臣等伏撿舊記度々使等或有渡海不堪命者或有遭賊遂亡身者唯未見至唐有難阻飢寒之悲如中瓘所申報未然之事推而可知臣等伏願以中瓘録記之状遍下公卿博士詳被定其可否國之大事不獨爲身且陳欵誠伏請處分謹言

  寛平六年九月十四日 大使參議勘解由次官從四位下兼守左大辨行式部權大輔春宮亮菅原朝臣某

 『日本古典文学大系72 菅家文草 菅家後集』(岩波書店発行)による

<読み下し文>(読み仮名は、現代かなづかい)

 諸公卿をして遣唐使の進止[1]を議定せしめんことを請ふの状   菅原道真

 右臣某[2]、謹みて在唐の僧中瓘、去年三月[3]、商客[4]王訥等に附して到るところの録記を案ずるに、大唐の凋弊[5]、之を載すること[6]具なり[7]。更に不朝[8]の問を告げ、終に入唐の人を停む[9]。中瓘区々の旅僧[10]たりと雖も、聖朝のためにその誠を尽くす。代馬・越鳥[11]、豈に習性に非ざらんや。臣等、伏して旧記を検するに、度々の使等、或は海を渡りて命に堪えざりし者有り。或は賊に遭ひて遂に身を亡ぼせし者有り。唯だ、未だ唐に至りて難阻飢寒の悲しみ[12]有りしことを見ず。中瓘が申報するところの如くむば、未然の事[13]、推して知るべし。臣等、伏して願はくは、中瓘が録記の状を以て、遍ねく公卿・博士に下し、詳に其の可否を定められむことを。国の大事にして、独り身の為[14]ならず。且く款誠を陳べ[15]、伏して処分を請ふ。謹みて言す。

 寛平六年九月十四日
 大使[16]参議[17]勘解由次官[18]従四位下兼守[19]左大弁[20]行式部権大輔[21]春宮亮[22]菅原朝臣某

【注釈】
 [1]進止:しんじ=進退。存廃。
 [2]臣某:しんそれがし=菅原道真のこと。
 [3]去年三月:さるとしさんがつ=893年(寛平5年3月)のこと。
 [4]商客:しょうきゃく=商人。
 [5]凋弊:ちょうへい=衰えること。
 [6]之を載すること:これをのすること=これを掲載すること。これが書かれていること。
 [7]具なり:つぶさなり=詳しい。具体的である。
 [8]不朝:ふちょう=来朝しないこと。
 [9]入唐の人を停む:にゅうとうのひとをとどむ=遣唐使の派遣を停止すること。
 [10]区々の旅僧:くくのりょそう=取るに足らない旅の僧。
 [11]代馬・越鳥:だいばえつちょう=代(地方名)に産する馬と越(国名)の鳥をいい、馬や鳥でも故郷を忘れがたいこと。
 [12]難阻飢寒の悲しみ:なんそきかんのかなしみ=旅の困難や飢えや寒さによる悲哀。
 [13]未然の事:みぜんのこと=将来のこと。
 [14]独り身の為:ひとりみのため=遣唐大使に選ばれている自身のため。
 [15]款誠を陳べ:かんせいをのべ=誠心を述べる。
 [16]大使:たいし=遣唐大使のこと。
 [17]参議:さんぎ=大臣・納言とともに国政を審議する官。
 [18]勘解由次官:かげゆのすけ=勘解由使局の次官。
 [19]守:かみ=官は高いが位の低い場合に記すもの。
 [20]左大弁:さだいべん=太政官の事務局の一つ、左弁官局の局長。
 [21]式部権大輔:しきぶごんのたいふ=式部省の権官で次官。
 [22]春宮亮:とうぐうのすけ=皇太子の宮の内政を担当する役所の次官。

<現代語訳>

 諸公卿の方々に遣唐使の存廃を審議し決定して頂くことを願う書状  菅原道真

 右のことについて私(菅原道真)がつつしんでんで申し上げます。唐に滞在中の僧中灌(チュウカン)が昨年3月に商人の王訥(オウトツ)らに託して送ってきた記録を見ましたところ、大唐の衰退した様子が詳しく記載されておりました。更に来朝しないことを問われたと報告し、ついには遣唐使の派遣を停めようとします。中瓘は取るに足らない旅の僧とはいえ、朝廷のために誠意を尽くしています。代(中国の北方地方)に産する馬や越(中国の南方の国)の鳥のさえも故郷を忘れず、それが習性というものでしょう。
 私達がつつしんで古い記録を調べてみますと、何回かの使節(遣唐使)は、海で遭難して命が絶えてしまった者や、賊に遭遇して命を落とした者がいます。ただ唐に到着してからは、旅の困難や飢えや寒さによる悲哀はありませんでした。
 中灌が報告した通りであれば、これからの遣唐使は何が起こるかは推して知るべきでしょう。
 私達臣下が心からお願いしたいことは、中灌の記録に記された内容をひろく公卿・博士に渡して、遣唐使派遣の可否を事細かに審議し決定するよう願うものであります。
このことは国家の大事であり決して我が身一人の安全のために申しているのではありません。まさに誠心を述べ、取り計らって頂くことを求めます。以上謹んで申し上げます。

  寛平6年9月14日 大使參議勘解由次官從四位下兼守左大辨行式部權大輔春宮亮菅原朝臣某

〇菅原道真(すがわら みちざね)とは?

 平安時代前期の学者・政治家です。845年(承和12)に、菅原是善の3男として生まれ。幼少の頃より詩歌に才能があったと言われています。
 862年(貞観4)に18歳で文章生となり、877年(元慶1)には、文章博士となりました。以後,宇多天皇の信任を得て、藤原氏を抑えるために重用され、894年(寛平6)には、遣唐使に任ぜられましたが建議して、これを中止したのです。
 899年(昌泰2)に、右大臣となりますが、左大臣藤原時平の中傷により、大宰権帥に左遷されました。そして、903年(延喜3)に大宰府において、59歳で亡くなっています。
 著作としては、詩文集に『菅家文草』、『菅家後集』、編著に『日本三代実録』、『類聚国史』などがあります。

〇遣唐使(けんとうし)とは?

 飛鳥時代から平安時代前期にかけて、国際情勢や大陸文化を摂取するために、遣隋使のあとをうけ、10数回にわたって日本から唐へ派遣された公式使節です。使節は、大使、副使、判官、録事から構成され、留学生、留学僧を伴って、数百人が数隻の船に分乗し、2~3年がかりで往復し、国書・物品などを奉献しました。第1回は、630年(舒明天皇2)に、犬上御田鍬(いぬかみのみたすき)を大使として派遣され、第5回までは朝鮮半島沿岸を北上して山東半島に上陸する北路を、その後新羅による朝鮮統一により、九州から東シナ海を横断して、揚子江河口に上陸する南路をとって入唐するようになります。とても厳しい航海で、計画したものの断念したり、途中で難破して沈没したり、引き返したこともありましたが、政治・学問・宗教などに多くの貢献をしました。しかし、唐も安史の乱(755~763年)後、しだいに勢力が衰え、また、商人による貿易もさかんになってきていたので、894年(寛平6)に、菅原道真の建議により停止され、907年(延喜7)には唐が滅亡してなくなりました。

☆遣唐使一覧(カッコの回は唐へ行っていない)

・1回 舒明2年(630年)~舒明4年(632年)---犬上御田鍬(大使)・薬師恵日 唐使高表仁来日、僧旻帰国
・2回 白雉4年(653年)~白雉5年(654年)---吉士長丹(大使)、高田根麻呂(大使)、吉士駒(副使)、掃守小麻呂(副使)、道昭・定恵・道観(派遣者) 第2船が往途で遭難
・3回 白雉5年(654年)~斉明元年(655年)---高向玄理(押使)、河辺麻呂(大使)、薬師恵日(副使) 高向玄理は帰国せず唐で没
・4回 斉明5年(659年)~斉明7年(661年)---坂合部石布(大使)、津守吉祥(副使)、伊吉博徳(派遣者) 第1船が往途で南海の島に漂着し、坂合部石布が殺される
・5回 天智4年(665年)~天智6年(667年)---守大石(送唐客使)、坂合部石積、吉士岐彌、吉士針間 唐使の劉徳高を送る。唐使の法聡が来日
・(6)回 天智6年(667年)~天智7年(668年)---伊吉博徳(送唐客使) 唐使の法聡を送る。唐には行かず?
・7回 天智8年(669年)~不明 河内鯨(大使)---第5次から第7次は、百済駐留中の唐軍との交渉のためか
・8回 大宝2年(702年)~慶雲元年(704年)---粟田真人(執節使)、高橋笠間(大使)、坂合部大分(副使)、山上憶良・道慈(派遣者)
・9回 養老元年(717年)~養老2年(718年)---多治比縣守(押使)、大伴山守(大使)、藤原馬養(副使)、阿倍仲麻呂・吉備真備・玄昉・井真成(派遣者) 
・10回 天平5年(733年)~天平6年(734年)---多治比広成(大使)、中臣名代(副使)、平群広成(判官)、大伴古麻呂(派遣者)
・(11)回 天平18年(746年)~ 石上乙麻呂(大使) 停止される
・12回 天平勝宝4年(752年)~天平勝宝6年(754年)---藤原清河(大使)、吉備真備(副使)、大伴古麻呂(副使) 鑑真が来日する
・13回 天平宝字3年(759年)~天平宝字5年(761年)---高元度(迎入唐大使使)、内蔵全成(判官)
・(14)回 天平宝字5年(761年)---仲石伴(大使)、石上宅嗣(副使)、中臣鷹主(遣唐判官) 船破損のため停止
・(15)回 天平宝字6年(762年)---中臣鷹主(送唐客使)、藤原田麻呂(副使)、高麗広山(副使) 唐使沈惟岳を送らんとするも安史の乱の影響により渡海できず停止する
・16回 宝亀8年(777年)~宝亀9年(778年)---小野石根(持節副使・大使代行)、大神末足(副使)
・17回 宝亀10年(779年)~天応元年(781年)---布施清直(送唐客使) 唐使孫興進を送る
・18回 延暦23年(804年)~大同元年(806年)10月---藤原葛野麻呂(大使)、石川道益(副使)、最澄・空海・橘逸勢・霊仙(派遣者)
・19回 承和5年(838年)~承和6年(839年)---藤原常嗣(大使)、円仁、藤原貞敏(准判官)、長岑高名(准判官)、良岑長松(准判官)、菅原梶成(知乗船事・医師) 小野篁(副使)は拒否して流罪
・(20)回 寛平6年(894年)---菅原道真(大使)、紀長谷雄(副使) 予定されたが菅原道真の建議により停止する
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