今日は、飛鳥時代の630年(舒明天皇2)に、犬上御田鍬(大使)・薬師恵日らが第1回遣唐使として、唐へ遣わされた日ですが、新暦では9月16日となります。
第1回遣唐使は、舒明天皇の御代に、遣隋使のあとをうけ、犬上御田鍬(いぬかみのみたすき)を大使として、薬師恵日らを中国の唐へ派遣したものでした。使節は、大使、副使、判官、録事から構成され、留学生、留学僧を伴って、2隻に分乗し、朝鮮半島沿岸を北上して山東半島に上陸する北路を通ったと考えられます。
洛陽を経由して、唐の都長安へと至り、唐帝に謁見して、国書・贈物を奉献すること(朝貢)を任務としたものですが、唐の制度・文物を学んで、それを導入する目的もありました。2年後に帰国した使節団や留学生、留学僧などによって、政治・学問・宗教などに多くの貢献がなされたとされています。
本来、朝貢は中国の皇帝に対して年1回で行うのが原則ですが、遠方にある日本は毎年でなくてよいとする措置がとられ、以後は、894年(寛平6)に、菅原道真の建議により停止されるまで、数年から数十数の間隔で実施されました。以下に、『日本書紀』巻第二十三の第1回遣唐使の事を記した部分を抜粋しておきますので、ご参照下さい。
〇『日本書紀』巻第二十三の遣唐使に関連する部分の抜粋
<原文>
二年(中略)秋八月癸巳朔丁酉、以大仁犬上君三田耜・大仁藥師惠日、遣於大唐。
四年秋八月、大唐遣高表仁送三田耜、共泊于對馬。是時、學問僧靈雲・僧旻・及勝鳥養・新羅送使等、從之。
<読み下し文>
二年(中略)秋八月癸巳朔丁酉、大仁犬上君三田耜・大仁藥師惠日を以て、大唐に遣す。
四年秋八月、大唐高表仁を遣して、三田耜を送る。共に對馬に泊れり。是の時、學問僧靈雲・僧旻・及勝鳥養・新羅送使等、之を從たり。
<現代語訳>
舒明天皇2年(中略)秋8月5日、大仁犬上君三田耜・大仁藥師惠日を大唐へ遣わした。
舒明天皇4年秋8月、大唐は高表仁を遣して、三田耜を送らせた。共に対馬に泊った。この時、學問僧靈雲・僧旻および勝鳥養、新羅の送使らがこれに従った。
〇遣唐使(けんとうし)とは?
飛鳥時代から平安時代前期にかけて、国際情勢や大陸文化を摂取するために、遣隋使のあとをうけ、10数回にわたって日本から唐へ派遣された公式使節です。使節は、大使、副使、判官、録事から構成され、留学生、留学僧を伴って、数百人が数隻の船に分乗し、2~3年がかりで往復し、国書・物品などを奉献しました。第1回は、630年(舒明天皇2)に、犬上御田鍬(いぬかみのみたすき)を大使として派遣され、第5回までは朝鮮半島沿岸を北上して山東半島に上陸する北路を、その後新羅による朝鮮統一により、九州から東シナ海を横断して、揚子江河口に上陸する南路をとって入唐するようになります。とても厳しい航海で、計画したものの断念したり、途中で難破して沈没したり、引き返したこともありましたが、政治・学問・宗教などに多くの貢献をしました。しかし、唐も安史の乱(755~763年)後、しだいに勢力が衰え、また、商人による貿易もさかんになってきていたので、894年(寛平6)に、菅原道真の建議により停止され、907年(延喜7)には唐が滅亡してなくなりました。
☆遣唐使一覧(カッコの回は唐へ行っていない)
・1回 舒明2年(630年)~舒明4年(632年)---犬上御田鍬(大使)・薬師恵日 唐使高表仁来日、僧旻帰国
・2回 白雉4年(653年)~白雉5年(654年)---吉士長丹(大使)、高田根麻呂(大使)、吉士駒(副使)、掃守小麻呂(副使)、道昭・定恵・道観(派遣者) 第2船が往途で遭難
・3回 白雉5年(654年)~斉明元年(655年)---高向玄理(押使)、河辺麻呂(大使)、薬師恵日(副使) 高向玄理は帰国せず唐で没
・4回 斉明5年(659年)~斉明7年(661年)---坂合部石布(大使)、津守吉祥(副使)、伊吉博徳(派遣者) 第1船が往途で南海の島に漂着し、坂合部石布が殺される
・5回 天智4年(665年)~天智6年(667年)---守大石(送唐客使)、坂合部石積、吉士岐彌、吉士針間 唐使の劉徳高を送る。唐使の法聡が来日
・(6)回 天智6年(667年)~天智7年(668年)---伊吉博徳(送唐客使) 唐使の法聡を送る。唐には行かず?
・7回 天智8年(669年)~不明 河内鯨(大使)---第5次から第7次は、百済駐留中の唐軍との交渉のためか
・8回 大宝2年(702年)~慶雲元年(704年)---粟田真人(執節使)、高橋笠間(大使)、坂合部大分(副使)、山上憶良・道慈(派遣者)
・9回 養老元年(717年)~養老2年(718年)---多治比縣守(押使)、大伴山守(大使)、藤原馬養(副使)、阿倍仲麻呂・吉備真備・玄昉・井真成(派遣者)
・10回 天平5年(733年)~天平6年(734年)---多治比広成(大使)、中臣名代(副使)、平群広成(判官)、大伴古麻呂(派遣者)
・(11)回 天平18年(746年)~ 石上乙麻呂(大使) 停止される
・12回 天平勝宝4年(752年)~天平勝宝6年(754年)---藤原清河(大使)、吉備真備(副使)、大伴古麻呂(副使) 鑑真が来日する
・13回 天平宝字3年(759年)~天平宝字5年(761年)---高元度(迎入唐大使使)、内蔵全成(判官)
・(14)回 天平宝字5年(761年)---仲石伴(大使)、石上宅嗣(副使)、中臣鷹主(遣唐判官) 船破損のため停止
・(15)回 天平宝字6年(762年)---中臣鷹主(送唐客使)、藤原田麻呂(副使)、高麗広山(副使) 唐使沈惟岳を送らんとするも安史の乱の影響により渡海できず停止する
・16回 宝亀8年(777年)~宝亀9年(778年)---小野石根(持節副使・大使代行)、大神末足(副使)
・17回 宝亀10年(779年)~天応元年(781年)---布施清直(送唐客使) 唐使孫興進を送る
・18回 延暦23年(804年)~大同元年(806年)10月---藤原葛野麻呂(大使)、石川道益(副使)、最澄・空海・橘逸勢・霊仙(派遣者)
・19回 承和5年(838年)~承和6年(839年)---藤原常嗣(大使)、円仁、藤原貞敏(准判官)、長岑高名(准判官)、良岑長松(准判官)、菅原梶成(知乗船事・医師) 小野篁(副使)は拒否して流罪
・(20)回 寛平6年(894年)---菅原道真(大使)、紀長谷雄(副使) 予定されたが菅原道真の建議により停止する
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
1864年(文久4) | 四国艦隊下関砲撃事件が起きる(新暦9月5日) | 詳細 |
1873年(明治9) | 武士等の家禄・賞典禄を廃止し、金禄公債を発行するための「金禄公債証書発行条例」が公布される | 詳細 |
1911年(明治44) | 小説家田宮虎彦の誕生日 | 詳細 |
1983年(昭和58) | 俳人・国文学者中村草田男の命日 | 詳細 |