今日は、奈良時代の764年(天平宝字8)に、孝謙太上天皇の寵臣・道鏡を除こうとする謀叛(藤原仲麻呂の乱)が発覚した日ですが、新暦では10月10日となります。
藤原仲麻呂の乱(ふじわらのなかまろのらん)は、奈良時代に藤原仲麻呂(恵美押勝)が、道鏡を除こうとしておこした反乱で、恵美押勝の乱(えみのおしかつのらん)とも呼ばれてきました。760年(天平宝字4)に藤原仲麻呂を庇護してきた光明皇太后(こうみょうこうたいごう)が亡くなると、道鏡を寵愛する孝謙太上天皇(こうけんだいじょうてんのう)と、藤原仲麻呂が擁立した淳仁天皇(じゅんにんてんのう)との関係が険悪化します。
762年(天平宝字6)には、太上天皇が国家大事・賞罰二権の掌握を宣言するに至りました。764年(天平宝字8)に、太上天皇と天皇の間にもすきが生まれたのを契機として、仲麻呂は太上天皇側に対して反乱を企てようと考え、9月に都督使に任じられた機に、正規の30倍もの兵士を動員しようとします。
これを高丘比良麻呂 (たかおかのひらまろ) に密告され、同月11日に天皇の居所にあった天皇権力の象徴である鈴印を太上天皇側に奪われ、仲麻呂は近江へ逃走しました。しかし、太上天皇側の派遣した討伐軍に近江高島郡に追いつめられて敗れ、同月18日に斬殺されて乱は鎮圧されます。
乱後は、道鏡が大臣禅師に任じられて政権を掌握し、淳仁天皇は廃位ののち淡路に配流され、孝謙太上天皇が称徳天皇(しょうとくてんのう)として重祚します。
以下に、このことを記した『続日本紀』巻第二十五の天平宝字8年9月の条を現代語訳・注釈付きで掲載しておきますので、ご参照下さい。
〇『続日本紀』巻第二十五の天平宝字八年九月の条
乙巳。太師藤原惠美朝臣押勝逆謀頗泄。高野天皇遣少納言山村王。收中宮院鈴印。押勝聞之。令其男訓儒麻呂等邀而奪之。天皇遣授刀少尉坂上苅田麻呂。將曹牡鹿嶋足等。射而殺之。押勝又遣中衛將監矢田部老。被甲騎馬。且刧詔使。授刀紀船守亦射殺之。勅曰。太師正一位藤原惠美朝臣押勝并子孫。起兵作逆。仍解免官位。并除藤原姓字已畢。其職分功封等雜物。宜悉收之。即遣使固守三關。」授從三位藤原朝臣永手正三位。正四位下吉備朝臣眞備從三位。正五位下藤原朝臣繩麻呂從四位下。正七位上大津連大浦從四位上。從七位上牡鹿連嶋足。正六位上坂上忌寸苅田麻呂。外從五位下粟田朝臣道麻呂。從六位下中臣伊勢連老人。從八位上弓削宿祢淨人。外從五位下高丘連比良麻呂。正五位上日下部宿祢子麻呂並從四位下。從七位下紀朝臣船守從五位下。正七位上民忌寸総麻呂外從五位下。」弓削宿祢淨人賜姓弓削御淨朝臣。中臣伊勢連老人中臣伊勢朝臣。大津連大浦大津宿祢。牡鹿連嶋足牡鹿宿祢。坂上忌寸苅田麻呂坂上大忌寸。是夜。押勝走近江。官軍追討。
<読み下し文>
乙巳[1]。太師藤原の惠美の朝臣押勝[2]逆謀[3]頗る泄る。高野の天皇[4]少納言山村の王[5]を遣して、中宮院[6]の鈴印[7]を收めしむ。押勝之を聞て、其の男訓儒麻呂[8]等をして邀へて之を奪は令む。天皇授刀[9]の少尉坂上の苅田麻呂、將曹[10]の牡鹿の嶋足等を遣して、射て之を殺さしむ。押勝又中衛[11]の將監矢田部の老を遣して、甲を被馬に騎て、且ち詔使[12]を刧かす、授刀[9]紀の船守をして亦之を射殺さしむ。勅して曰く。「太師正一位藤原の惠美の朝臣押勝并に子孫、兵を起して逆を作す。仍て官位を解免[13]し、并に藤原姓の字を除くことを已に畢しぬ。其の職分[14]功封[15]等雜物[16]。宜く悉く之を收むべし。」即ち使を遣して固く三關[17]を守らしむ。從三位藤原の朝臣永手に正三位、正四位下吉備の朝臣眞備に從三位、正五位下藤原の朝臣繩麻呂に從四位下、正七位上大津の連大浦に從四位上、從七位上牡鹿の連嶋足、正六位上坂の上の忌寸苅田麻呂、外從五位下粟田の朝臣道麻呂、從六位下中臣伊勢の連老人、從八位上弓削の宿祢淨人、外從五位下高丘の連比良麻呂、正五位上日下部の宿祢子麻呂に並に從四位下、從七位下紀の朝臣船守に從五位下、正七位上民の忌寸総麻呂に外從五位下を授く。弓削の宿祢淨人には姓を弓削の御淨朝臣と賜ふ。中臣の伊勢の連老人には中臣伊勢の朝臣、大津の連大浦には大津の宿祢、牡鹿の連嶋足には牡鹿の宿祢、坂の上の忌寸苅田麻呂には坂の上の大忌寸。」是夜。押勝近江に走る。官軍追討[18]す。
【注釈】
[1]乙巳:おっし=十干と十二支とを組み合わせたものの第四二番目。ここでは、9月11日のこと。
[2]太師藤原の惠美の朝臣押勝:たいしふじわらのえみのあそんおしかつ=太政大臣藤原仲麻呂のこと。
[3]逆謀:ぎゃくぼう=謀反のはかりごと。反逆のたくらみ。謀逆。
[4]高野の天皇:たかぬのすめらみこと=孝謙天皇(称徳天皇)のこと。
[5]少納言山村の王:しょうなごんやまむらのおう=奈良時代の皇族で用明天皇の皇子であった山村王のこと。
[6]中宮院:ちゅうぐういん=禁中。内裏。御所。
[7]鈴印:れんいん=天皇権力の象徴である駅鈴と御璽。
[8]訓儒麻呂:くずまろ=藤原仲麻呂の息子、藤原久須麻呂のこと。
[9]授刀:たちはき=太刀を帯びること。また、その人。帯刀の舎人(とねり)の略。
[10]將曹:しょうそう=近衛府(このえふ)の主典(さかん)。正七位下相当。
[11]中衛:ちゅうえい=中衛府の兵士。〔
[12]詔使:しょうし=詔書を諸国、諸司に伝達するために派遣された使者。ここでは山村王のこと。
[13]解免:げめん=解官と免官の総称。
[14]職分:しきぶん=官職に対して給される田地、職分田のこと。
[15]功封:こうふ=親王の一品以下、臣下の五位以上の国家に功労のあった者に与えられた封戸。
[16]雜物:ぞうもつ=種々雑多なもの。また、いろいろな財物。雑具。
[17]三關:さんかん=古代の三つの関所(伊勢国鈴鹿関、美濃国不破関、越前国愛発関)。
[18]追討:ついとう=賊などを追いかけてうちとること。討手(うって)をさしむけて征伐すること。追伐。
<現代語訳>
9月11日。太政大臣藤原仲麻呂の反逆のたくらみがたいそう漏洩した。孝謙上皇(称徳天皇)は少納言山村王を派遣して、淳仁天皇の御所の天皇権力の象徴である駅鈴と御璽を回収させた。藤原仲麻呂(恵美押勝)はこれを聞いて、その息子藤原久須麻呂等をして待ち伏せさせてこれを奪わせた。天皇は授刀の少尉坂上の苅田麻呂、將曹の牡鹿の嶋足等を派遣して、これを射殺させた。藤原仲麻呂(恵美押勝)はまた中衛の將監矢田部の老を派遣、甲冑を着け馬に乗って、すなわち派遣された使者(山村王)を脅かす。授刀紀の船守はまたこれを射殺した。
勅して言うことには、「太政大臣藤原仲麻呂(恵美押勝)ならびにその子や孫は、兵を起して反逆を成した。よって官位を剥奪し、ならびに藤原姓の字を除くことをすでに処置した。その職分田や封戸等からのいろいろな財物をことごとくこれを収公すること。」。
ただちに使者を派遣して、固く三つの関所(伊勢国鈴鹿関、美濃国不破関、越前国愛発関)を守らせた。
從三位藤原の朝臣永手に正三位、正四位下吉備の朝臣眞備に從三位、正五位下藤原の朝臣繩麻呂に從四位下、正七位上大津の連大浦に從四位上、從七位上牡鹿の連嶋足、正六位上坂の上の忌寸苅田麻呂、外從五位下粟田の朝臣道麻呂、從六位下中臣伊勢の連老人、從八位上弓削の宿祢淨人、外從五位下高丘の連比良麻呂、正五位上日下部の宿祢子麻呂に並に從四位下、從七位下紀の朝臣船守に從五位下、正七位上民の忌寸総麻呂に外從五位下を授けた。弓削の宿祢淨人には姓を弓削の御淨朝臣を賜った。中臣の伊勢の連老人には中臣伊勢の朝臣、大津の連大浦には大津の宿祢、牡鹿の連嶋足には牡鹿の宿祢、坂の上の忌寸苅田麻呂には坂の上の大忌寸を賜った。
この夜、藤原仲麻呂(恵美押勝)は近江に逃走し、官軍が追討する。
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
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