ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:連歌師

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 今日は、戦国時代の1549年(天文18)に、伊勢内宮の神官・連歌師・俳諧師荒木田守武の亡くなった日ですが、新暦では8月30日となります。
 荒木田守武(あらきだ もりたけ)は、1473年(文明5)に、伊勢において、伊勢内宮の神官を世襲する荒木田七家の一家で、内宮三禰宜だった父・荒木田守秀、母・荒木田(藤波)氏経の娘の子として生まれました。1487年(文明19)の15歳の時、禰宜となりましたが、若い頃より連歌を好み、1495年(明応4)の23歳の時、飯尾宗祇選『新撰菟玖波集』に兄の守晨と共に1句入集しています。
 連歌を宗祇、宗長、猪苗代兼載らに学び、1508年(永正5年)には、発句集『法楽発句集』を作りました。また、和歌も能くし、1525年 (大永5)に、世人を教諭する教訓歌集『世中百首(伊勢論語)』を作っています。
 1530年(享禄3)に、俳諧集『俳諧独吟百韻』を作り、1540年(天文9)の68歳の時、独吟の俳諧千句『守武千句(飛梅千句)』を作って、山崎宗鑑とともに俳諧独立の機運をつくり、宗鑑と並んで俳諧の祖と呼ばれるようになりました。伊勢内宮の神職としても累進し、1541年(天文10年)の69歳の時、伊勢内宮一禰宜(長官)となり、薗田長官とも呼ばれています。
 俳諧に座興的性格から脱して文芸性をつけようとしてきましたが、1549年(天文18年8月8日)に、伊勢において、数え年77歳で亡くなりました。

<代表的な句・歌>

・「飛梅や 軽々敷くも 神の春」(独吟千句)
・「落花枝に 返るとみれば 胡蝶かな」
・「元日や 神代のことも 思はるゝ」
・「散る花を 南無阿弥陀仏と 夕哉」
・「青柳の まゆかく きしのひたひかな」(守武千句)
・「聟入りの道のほとりの花薄 とくりを持たせ秋風ぞ吹く」
・「春の夜の朧月夜(おぼろづくよ)と世中の博打(ばくち)うたぬにしくものはなし」(世中百首)

〇荒木田守武の主要な著作

・連歌集『宗長追善千句』
・連歌集『秋津洲千句』
・随筆『守武随筆』
・発句集『法楽発句集』 (1508年)
・歌集『世中百首(伊勢論語)』 (1525年)
・俳諧集『俳諧独吟百韻』(1530年)
・俳諧集『守武千句(飛梅千句)』 (1540年)
・歌集『法楽和歌千首』 (1546年)

☆荒木田守武関係略年表(日付は旧暦です)

・1473年(文明5年) 伊勢において、父・荒木田守秀、母・荒木田(藤波)氏経の娘の子として生まれる
・1485年(文明17年) 13歳の時、宗祇の連歌集『老葉』を筆写する
・1487年(文明19年) 15歳の時、禰宜となる
・1495年(明応4年) 23歳の時、飯尾宗祇選『新撰菟玖波集』に兄の守晨と共に1句入集する
・1508年(永正5年) 発句集『法楽発句集』を作る
・1525年 (大永5年) 歌集『世中百首(伊勢論語)』を作る
・1530年(享禄3年) 俳諧集『俳諧独吟百韻』を作る
・1540年(天文9年) 68歳の時、独吟の俳諧千句『守武千句(飛梅千句)』を作り、山崎宗鑑とともに俳諧独立の機運をつくる
・1541年(天文10年) 69歳の時、伊勢内宮一禰宜となる
・1546年(天文15年) 歌集『法楽和歌千首』を作る
・1549年(天文18年8月8日) 伊勢において、数え年77歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

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1862年(文久2)教育者・思想家・農政学者新渡戸稲造の誕生日(新暦9月1日)詳細
1974年(昭和49)児童画家・絵本作家いわさきちひろの命日詳細
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 今日は、1554年(天文23)に、禅僧・連歌師・俳人山崎宗鑑が亡くなった日ですが、新暦では10月28日となります。
 山崎宗鑑(やまざき そうかん)は、1465年(寛正6)に近江国で生まれたとされますが、出自については諸説あってはっきりしません。年少の頃より室町幕府第9代将軍足利義尚に仕え、近江守護佐々木高頼を攻めましたが、1489年(延徳元)に義尚が陣中で没したため剃髪し、摂津の尼崎に隠遁したと言われています。
 1488年(長享2)に摂津の能勢頼則興行の千句にその名がみえ、連歌を得意とし、一休宗純とも親しく、淀川河畔の山城国山崎に庵「對月庵」を結んだので、山崎姓で呼ばれるようになりました。また、能書家でその書は宗鑑流とも言われ、人々の依頼を受けて数々の古典を書写しています。
 連歌師宗長と俳諧の腕を競ったことは、『宗長手記』よって知られ、俳諧選集『犬筑波集』(古くは『俳諧連歌抄』と呼ばれた)を編纂したことは著名で、俳諧を独立した芸術とし、庶民世界を面白く詠みあげていて、近世俳諧の先駆をなすものでした。1523年(大永3)頃に山崎の地を去り、1528年(享禄元)に讃岐国(現在の香川県観音寺市)の興昌寺に「一夜庵」を結んだとされます。
 この地において、1554年(天文23年10月2日)に、89歳で亡くなったとされますが、後世には、荒木田守武とともに俳諧の祖とされるようになりました。尚、辞世は「宗鑑は いづくへと人の 問うならば ちとよう(ヨウ)がありて あの世へといへ」です。

<代表的な句>

・「かしましや 此の里過ぎよ 時鳥 都のうつけ 如何に聞くらむ」
・「うづきゝて ねぶとに鳴くや 郭公(ほととぎす)」

〇『犬筑波集』抜粋

・下句「大長刀に 春風ぞ吹く」
 上句「弁慶も 今日や火花を 散らすらん」
・下句「月日の下に 我は寝にけり」
 上句「暦にて 破れをつづる 古衾」
・下句「上にかたかた 下にかたかた」
 上句「三日月の 水にうつろふ 影見えて」
・下句「きりたくもあり きりたくもなし」
 上句「盗人を とらへてみれば 我子なり」
・下句「霞の衣 裾はぬれけり」
 上句「佐保姫の 春立ちながら 尿をして」

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 今日は、室町時代の1502年(文亀2)に、連歌師・古典学者宗祇の亡くなった日ですが、新暦では9月1日となります。
 宗祇(そうぎ)は、1421年(応永28)に生まれたとされますが、生国は紀伊とも近江とも言われ、姓は飯尾とも言われるもののはっきりしません。若年より京都相国寺に入り、30歳のころより文芸を志したとされます。連歌を宗砌(そうぜい)、心敬、専順に師事し、和歌・古典を飛鳥井雅親、東常縁(とうのつねより)、一条兼良らに学び、神道の教を卜部兼倶に受けました。
 1461年(寛正2)独吟の『何人百韻』が現存する最初の連歌作品で、各地の連歌会に参加して、頭角を現します。1471年(文明3)、伊豆に出陣中の常縁より『古今集』の講釈を聴聞し、古今伝授を受けたとされてきました。
 1473年(文明5)以後、公家や将軍、管領の居住する上京(かみきょう)に種玉庵を結び、自撰句集『萱草(わすれぐさ)』を編み、先達7人の句を集めた『竹林抄』を撰します。1480年(文明12)大内政弘の招きにより山口に下り、その勢力下の北九州を回って、『筑紫道記』を著しました。
 三条西実隆、細川政元ら公家、幕府要人と親交を結び、1488年(長享2)に北野連歌所宗匠となり、名実ともに連歌界の第一人者となります。1495年(明応4)に猪苗代兼載、一条冬良らと『新撰菟玖波集』を撰集しました。
 また、『古今集』、『源氏物語』など多くの古典を講釈し、その注釈の書を残しています。大名高家に招かれ、各地を旅して連歌を普及、古典一般にも通じ、文化の地方伝播にも貢献しましたが、1502年(文亀2年7月30日)に、旅の途中の相模国箱根湯本において、82歳で亡くなりました。

<宗祇の代表的な句>
・「雪ながら 山もとかすむ 夕かな」(水無瀬三吟百韻)
・「松むしに さそはれそめし 宿出でて」(湯山三吟百韻)

〇宗祇の主要な著作

・『何人(なにひと)百韻』(1461年)
・連歌作法書『藻塩草』(1466年)
・連歌論書『吾妻問答』 (1467年?)
・紀行『白河紀行』(1468年)
・古典注釈書『古今集両度聞書』(1471年)
・連歌句集『萱草 (わすれぐさ) 』(1474年)
・連歌撰集『竹林抄』(1476年)
・連歌論書『老のすさみ』 (1479年)
・紀行『筑紫道記(つくしみちのき)』(1480年)
・連歌句集『老葉 (わくらば) 』(1481年頃)
・『水無瀬三吟百韻』肖柏、宗長らとの共著(1488年)
・『湯山三吟百韻』肖柏、宗長らとの共著(1491年)
・連歌句集『下草』(1493年)
・『新撰菟玖波集』兼載、一条冬良と共に編纂(1495年)
・連歌句集『宇良葉(うらば)』
・連歌論書『長六文(ちょうろくぶみ)』
・連歌論書『淀渡(よどのわたり)』
・連歌論書『分葉(ぶんよう)』
・歌集『宗祇法師集』
・古典注釈書『弄花抄』
・『葉守千句』
・古典注釈書『種玉編次抄』
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 今日は、1602年(慶長7)に、連歌師里村紹巴の亡くなった日ですが、新暦では6月2日となります。
 里村紹巴(さとむら じょうは)は、戦国時代の1525年(大永5)に、奈良において生まれましたが、父は奈良一乗院の御小者(湯屋を業とも)だった松井昌祐とも言われてきました。
 12歳で父を失って興福寺明王院の喝食(寺院に入って雑用をつとめる少年)となり、そのころから連歌を学んだとされ、19歳のとき奈良にきた連歌師周桂(しゅうけい)に師事して上京、周桂没後は里村昌休(しょうきゅう)に師事したとされます。また、三条西公条(きんえだ)に和歌、物語を学び、昌休の没後は、遺児昌叱(しょうしつ)を養育、里村姓を名乗るようになりました。
 1564年(永禄7)、40歳のとき谷宗養が没して、連歌界の第一人者となり、近衛稙家、三好長慶、細川幽斎らと交友を深めます。織田信長・豊臣秀吉らとも交渉があり、1582年(天正10)の本能寺の変直前の明智光秀の「愛宕百韻」に参加したことで知られてきました。
 秀吉の毛利攻めの戦勝祈願「羽柴千句」も有名で、連歌論『連歌至宝抄』を秀吉に進上、多くの百韻、千句を残し、式目書・式目辞典・古典注釈書なども著します。しかし、1595年(文禄4)に豊臣秀次の事件に連座して、三井寺に蟄居させられ、のち許されますが、失意のうち、1602年(慶長7)に、数え年79歳で亡くなりました。
 尚、紹巴の子孫が里村本家(北家)、娘婿の里村昌叱の子孫が里村南家と呼ばれて、代々江戸幕府の御連歌師として仕えています。

〇里村紹巴の主要な著作

・連歌論書『連歌教訓』
・連歌論書『連歌至宝抄』
・紀行『富士見道記(みちのき)』
・古典注釈書『狭衣下紐(さごろもしたひも)』
・古典注釈書『源氏二十巻抄』
・古典注釈書『百人一首紹巴抄』
・式目去嫌書『式目秘抄』(1587年)
・連歌作法書『出葉 (てには) 口伝抄』(1591年)
・歌詞注釈書『匠材集』
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