ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:連合国軍最高司令官総司令部

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 今日は、昭和時代前期の1945年(昭和20)に、 在京新聞5紙(朝日、毎日、読売、東京、日本産業)に対する、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)事前検閲が開始された日です。
 GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)事前検閲(じーえっちきゅーじぜんけんえつ)は、太平洋戦争敗戦後の連合国軍占領下において、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)によって実施された新聞等に対する検閲です。GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)は、1945年(昭和20)9月10日に、「言論及ビ新聞ノ自由ニ関スル覚書」(SCAPIN-16)を出して、報道範囲、進駐軍・連合国に関する報道規制に定めました。
 それにより、同年9月14日には覚書違反で同盟通信社が配信停止処分、同年9月18日には朝日新聞が発行停止処分を受けたます。 次いで、同年9月21日には「日本ノ新聞準則ニ関スル覚書(プレスコード)」(SCAPIN-33)などを出し、民間検閲支隊により日本のマスコミなどへの事前検閲や事後検閲を行い、反占領軍的と判断した記事にたいしては、全面的に書き換えさせました。
 そして、同年10月9日には、在京新聞5紙(朝日、毎日、読売、東京、日本産業)への事前検閲が開始されました。その中で、意思に沿わない記事を書いた新聞社には戦前から続く「新聞紙条例」を用いて発行停止命令が下されてもいます。
 以下に、「GHQ言論及び新聞の自由に関する覚書」(SCAPIN-16)、「日本に与うる新聞遵則(プレスコード)」(SCAPIN-33)、「新聞紙条例」を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇「GHQ言論及び新聞の自由に関する覚書」(じーえいちきゅーげんろんおよびしんぶんのじゆうにかんするおぼえがき)とは?

 昭和時代前期の太平洋戦争敗戦後の連合国軍占領下で、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)によって、1945年(昭和20)9月10日に発令された、連合国最高司令官指令第16号(SCAPIN-16)の「Memorandum to Japanese Government Concerning Freedom of Speech」のことです。占領下の日本のマス・メディアの一般的な行動基準を示し、その日から新聞や雑誌などの事後検閲を開始していますが、言論の自由はGHQ及び連合国批判にならずまた太平洋戦争の被害に言及しない制限付きで奨励されました。
 この後、9月19日にその行動基準を新聞、出版についてより具体的に示した「日本に与うる新聞遵則(プレスコード)」(SCAPIN-33)が出され、9月22日には、ほぼ同趣旨でラジオ放送向けに「日本放送遵則(ラジオコード)」(SCAPIN-43)が発せられています。10月9日からは主要新聞・雑誌がこれに基づく事前検閲を受けるようになりましたが、1947年(昭和22)11月から雑誌が、1948年(昭和23)7月から新聞が事後検閲に戻り、1949年(昭和24)からは事後検閲も表面上は廃止となり、1952年(昭和27)4月28日の「サンフランシスコ平和条約」発効により失効しました。

☆「言論及び新聞の自由に関する覚書」 (全文) 1945年(昭和20)9月10日にGHQ指令

OFFICE OF THE SUPREME COMMANDER
FOR THE ALLIED POWERS

10 September 1945 SCAPIN-16

MEMORANDUM FOR:THE IMPERIAL JAPANESE GOVERNMENT.
THROUGH:Central Liaison Office, TOKYO.
FROM:THE SUPREME COMMANDER FOR THE ALLIED POWERS.

1. The Japanese Imperial Government will issue the necessary orders to prevent dissemination of news, through newspapers, radio broadcasting or other means of publication, which fails to adhere to the truth or which disturbs public tranquillity.

2. The Supreme Commander for the Allied Powers has decreed that there shall be an absolute minimum of restrictions upon freedom of speech. Freedom of discussion of matters affecting the future of Japan is encouraged by the Allied Powers, unless such discussion is harmful to th efforts of Japan to emerge from defeat as a new nation entitled to a place among the peace-loving nations of the world.

3. Subjects which cannot be discussed include Allied troop movements which have not been officially released, false or destructive criticism of the Allied Powers, and rumors.

4. For the time being, radio broadcasts will be primarily of a news, musical and entertainment nature. News, commentation and informational broadcasts will be limited to those originating at Radio Tokyo Studios.

5. The Supreme Commander will suspend any publication or radio station which publishes information that fails to adhere to the truth or disturbs public tranquillity.

For the SUPREME COMMANDER:

      /s/ Harold Fair
      /t/ HAROLD FAIR
      Lt Col.,A.G.D.,
   Asst. Adjutant General

 「国立国会図書館デジタルコレクション」より

<日本語訳>

言諭及新聞ノ自由ニ關スル覺書

一九四五年九月一〇日

一、 日本帝國政府ハ新聞、ラジオ放送又ハ其ノ他ノ出版物等ニ依リ、眞實ニ符合セズ若ハ公安ヲ害スルニユ一スヲ頒布セザルヤウ必要ナル命令ヲ發スベシ。

二、 聯合國最高司令官ハ言論ノ自由ニ關シテハ最少限度ノ制限ヲ爲スベキ旨ヲ命ジタリ。日本ノ將來ニ關スル事項ノ討論ノ自由ハ日本ガ敗戰ヨリ世界ノ平和愛好國家ノ仲間入リスル資格ヲ有スル新ナル國家トシテ出發セントスル日本ノ努力ニ有害ナラザル限リ聯合國ニヨリ奬勵セラル。

三、 公式ニ發表セラレザル聯合國軍隊ノ動靜、聯合國ニ對スル虛僞又ハ破壞的批評及ビ風說ハ之ヲ論議スルコトヲ得ズ。

四、 當分ノ內ラジオ放送ハ主トシテニユース及音樂的娛樂的性質ノモノヲ取扱フベシ。ニユース、解說及ビ情報的放送ハ東京放送局ヨリ放送サルルモノニ限ル。

五、 最高司令官ハ眞實ニ符合セズ又ハ公安ヲ害スルガ如キ報道ヲ爲ス出版物若ハ放送局ニ對シテハ發行禁止又ハ業務停止ヲ命ズ。

 『日本管理法令研究』第2巻より

<現代語訳>

連合軍最高司令官官房

SCAPIN-16 1945年9月10日

日本帝国政府に対する指令
経由:横浜終戦連絡事務局
発:連合国最高司令官

1.日本帝国政府は、新聞、ラジオ放送等の報道機関が、真実に合致せずまた公共の安寧を妨げるべきニュースを伝播することを禁止する所要命令を発出すべきこと。

2.最高司令官は、今後言論の自由に対して絶対最小限の規制のみを加える旨告示している。 連合国は日本の将来に関する論議を奨励するが、世界の平和愛好国の一員として再出発しようとする新生日本の努力に悪影響をあたえるような論議は取締るものとする。

3.公表されざる連合国軍隊の動静、および連合国に対する虚偽の批判もしくは破壊的批判、流言蜚語は取締るものとする。

4.当分の間、ラジオ放送はニュース、音楽および娯楽番組に限定される。ニュース解説および情報番組は、東京中央放送局制作のものに限定される。

5.最高司令官は、真実に反しもしくは公共の安寧を妨げるが如き報道を行った新聞・出版・放送局の業務停止を命じることがある。

               最高司令官に代り

                     ハロルド・フェア (署名)
                     陸軍中佐 高級副官部
                     高級副官補佐官

 「日本ペンクラブ 電子文藝館」より

〇「GHQ日本に与うる新聞遵則」(じーえいちきゅーにほんにあたうるしんぶんじゅんそく)とは?

 昭和時代前期の太平洋戦争敗戦後の連合国軍占領下で、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)によって、1945年(昭和20)9月19日に発令(9月21日発布)された、連合国最高司令官指令第33号(SCAPIN-33)のことで、「プレスコード」とも呼ばれています。これに先立って9月10日に、GHQによって、「言論及ビ新聞ノ自由ニ関スル覚書」(SCAPIN-16)が発せられ、占領下の日本のマス・メディアの一般的な行動基準を示し、事後検閲を開始していますが、言論の自由はGHQ及び連合国批判にならずまた太平洋戦争の被害に言及しない制限付きで奨励されました。
 「日本に与うる新聞遵則(プレスコード)」はその行動基準を新聞、出版についてより具体的に示したもので、10ヶ条からなり、報道は絶対に真実に即すること、直接又は間接に公安を害するようなものを掲載してはならないこと、連合国に関し虚偽的又は破壊的批評を加えてはならないこと、報道記事は宣伝目的の色を着けてはならないことなどを禁止しています。10月9日からは主要新聞・雑誌がこれに基づく事前検閲を受けるようになりましたが、1947年(昭和22)11月から雑誌が、1948年(昭和23)7月から新聞が事後検閲に戻り、1949年(昭和24)からは事後検閲も表面上は廃止となり、1952年(昭和27)4月28日の「サンフランシスコ平和条約」発効により失効しました。
 尚、1945年(昭和20)9月22日には、ほぼ同趣旨の「日本に与うる放送遵則(ラジオコード)」が連合国最高司令官指令第43号(SCAPIN-43)として発せられています。検閲で処分された報道記事は、占領初期は連合国・占領軍に「有害」なものが大部分でしたが、1946年(昭和21)中期以後、米ソの対立が深まってくると、アメリカの反ソ政策が対日占領政策にも影響し、検閲にも共産主義排除が導入されるようになりました。
 プレスコード違反は占領軍命令違反として軍事裁判に付され、例えば、1948年(昭和23)5月27日付け『日刊スポーツ』の「米国の裸体ショー」の記事では、編集長が重労働1年(執行猶予付き)、罰金75,000円の刑を受けるなどしています。

☆日本に与うる新聞遵則[プレスコード] (全文) 1945年(昭和20)9月19日指示

OFFICE OF THE SUPREME COMMANDER
   FOR THE ALLIED POWERS
    19 September 1945

AG 000.73 (18 Sep 45) CI
  (SCAPIN-33)

MEMORANDUM FOR: IMPERIAL JAPANESE GOVERNMENT
THROUGH : Central Liaison Office, Tokyo .
SUBJECT : Press Code For Japan.

1. News must adhere strictly to the truth.

2. Nothing shall be printed which might, directly or by inference, disturb the public tranquility.

3. There shall be no false of destructive criticism of the Allied Powers.

4. There shall be no destructive criticism of the Allied Forces of Occupation and nothing which might invite mistrust or resentment of those troops.

5. There shall be no mention or discussion of Allied troops movements unless such movements have been officially released.

6. News stories must be factually written and completely deveid of editorial opinion.

7. News stories shall not be colored to conform with any propaganda line.

8. Minor details of a new story must not be overemphasized to stress of develop any propaganda line.

9. No news story shall be distorted by the omission of pertinent facts or details. 10. In the make-up of the newspaper no news story shall be given undue prominence for the purpose of ostablishing of developing any propaganda line.

   For the SUPREME COMMANDER:
     /s/ Harold Fair
    /t/ HAROLD FAIR,
    Lt Col, A,G.D.,
    Asst Adjutant General.  

 「国立国会図書館デジタルコレクション」より

<日本語訳>

連合国最高司令官官房
1945年9月19日

AG 000.73(1945年9月18日)CI
 (SCAPIN-33)

日本帝国政府への指令
経由:中央連絡事務所、東京。
件名:日本放送遵則

1. 報道は厳に真実に則するを旨とすべし。

2. 直接又は間接に公安を害するが如きものは之を掲載すべからず。

3. 連合国に関し虚偽的又は破壊的批評を加ふべからず。

4. 連合国進駐軍に関し破壊的批評を為し又は軍に対し不信又は憤激を招来するが如き記事は一切之を掲載すべからず。

5. 連合国軍隊の動向に関し、公式に記事解禁とならざる限り之を掲載し又は論議すべからず。

6. 報道記事は事実に則して之を掲載し、何等筆者の意見を加ふべからず。

7. 報道記事は宣伝の目的を以て之に色彩を施すべからず。

8. 宣伝を強化拡大せんが為に報道記事中の些末的事項を過当に強調すべからず。

9. 報道記事は関係事項又は細目の省略に依つて之を歪曲すべからず。

10. 新聞の編集に当り、何等かの宣伝方針を確立し、若しくは発展せしめんが為の目的を以て記事を不当に顕著ならしむべからず。

  最高司令官に代り、
     / S /ハロルド・フェア
    陸軍中佐 高級副官邸
    高級副補佐官

 『日本管理法令研究』第2巻より

〇「新聞紙条例」(しんぶんしじょうれい)とは?

 明治時代前期の1875年(明治8)6月28日に、太政官布告された言論・出版の自由を規制した法令で、讒謗律と共に制定されています。自由民権運動の抑圧を意図したものでしたが、全16条からなり、新聞発行許可制をとり(1887年より届出制)、外国人が新聞の持主・社主・編集人になることを禁じ、犯罪の教唆扇動、政府変壊ね国家転覆、成法誹毀などには初めて厳しい刑罰規定が設けられ、上書・建白書の掲載も許可制としました。
 その後何度か改正され、発行保証金制度、行政権による発行禁止・停止権、新聞紙差押え権などの新設・拡大によって新聞弾圧の意図をますます深めたのです。しかし、新聞界の反対もあり、一定の自由化を示す改正も行なわれたものの、根本的改正をみないまま、1909年(明治42)に新聞紙法に引き継がれ、この条例は廃止となりました。

☆「新聞紙条例」 (全文) 1875年(明治8)6月28日公布 全16条

 第一条
凡ソ新聞紙及時々ニ刷出スル雑誌・雑報ヲ発行セントスル者ハ、持主若クハ社主ヨリ其ノ府県庁ヲ経由シテ願書ヲ内務省ニ捧ケ允准ヲ得ヘシ、允准ヲ得ズシテ発行スル者ハ法司ニ付シ罪ヲ論シ〈凡ソ条例ニ違フ者ハ府県庁ヨリ地方ノ法司ニ付シ罪ヲ論ス〉、発行ヲ禁止シ、持主若クハ社主及編輯人・印刷人各々罰金百円ヲ科ス、其ノ詐テ官准ノ名ヲ冒ス者ハ各々罰金百円以上二百円以下ヲ科シ、更ニ印刷器ヲ没入ス

 第二条
願書ニ挙クヘキノ目左ノ如シ
 一 紙若クハ書ノ題号
 二 刷行ノ定期〈毎日・毎週・毎月或ハ無定期ノ類〉
 三 持主ノ姓名・住所、○会社ナレハ差金人ヲ除クノ外社主一人若クハ数人ノ姓名・住所
 四 編輯人ノ姓名・住所、○編輯人数人アル者ハ編輯人長一人ノ姓名・住所
 五 印刷人ノ姓名・住所、○編輯人自ラ印刷人ヲ兼ル者ハ其由ヲ著ス
右ノ五目中、詐謬アル者ハ発行ヲ禁止若クハ停止シ〈時日ヲ限リ発行ヲ止ムル者ヲ停止トス〉、仍ホ願人ニ向テ十円以上百円以下ノ罰金ヲ科ス

 第三条
編輯人若クハ編輯人長退任シ若クハ死去スル時ハ仮ニ編輯人若クハ編輯人長ヲ定メ刷行スルコトヲ得、但シ遅クトモ十五日内ニ〈退任ノ翌日ヨリ起算ス〉新定セル編輯人若クハ編輯人長ノ姓名・住所ヲ持主若クハ社主ヨリ其府県庁ニ届ケ出ヘシ、若シ期内届ケ出サル時ハ発行ヲ停止シ、持主若クハ社主罰金百円ヲ科ス 其他第二条願書ニ載スヘキノ目ニ於テ一ノ変更アル時ハ、遅クトモ十五日内ニ持主若クハ社主及編輯人若クハ編輯人長ノ連名ヲ以テ届ケ出ヘシ、若シ期内ニ届ケ出サル時ハ、持主若クハ社主及編輯人若クハ編輯人長各々罰金百円ヲ科ス

 第四条
持主若クハ社主及編輯人若クハ仮ノ編輯人タル者ハ内国人ニ限ルヘシ

 第五条
持主若クハ社主自ヲ編輯人若クハ編輯人長タルコトヲ得

 第六条
編輯人二人以上アル者ハ、其一人ヲ撰テ編輯人長トスベシ 毎紙・毎巻ノ尾ニ、編輯人、印刷人名ヲ署シ、編輯人数人アル者ハ、編輯人長、名ヲ署シ編輯人若クハ編輯人長、疾病事故アル時ハ、代理人ヲ定メ其名署スヘシ、若シ名ヲ署セザル時ハ、編輯人若クハ編輯人長、若クハ代理人罰金百円以上五百円以下ヲ料シ、印刷人罰金百円ヲ料ス 紙中若クハ巻中載スル所ノ事ニ付テハ、紙尾署名ノ編輯人若クハ編輯人長一切責ニ任スベシ

 第七条
紙中若クハ巻中載スル所、第十二条以下ノ禁ヲ犯シ若クハ讒謗律ヲ犯シタル時ハ、編輯人、首ヲ以テ論シ、筆者ハ従ヲ以テ論ス、持主若クハ社主情ヲ知ル者ハ、編輯署名ノ人ト同ク論ス

 第八条
新聞紙及雑誌・雑報ノ筆者ハ〈投書者ハ筆者ヲ以テ例ス〉尋常ノ瑣事ヲ除クノ外凡ソ内外国事、理財、人情、時態、学術、法教、議論、及事、官民ノ権利ニ係ル者ハ皆其ノ姓名・住所ヲ著スヘシ 筆者、変名ヲ用ヒタル時ハ、禁獄三十日罰金十円ヲ料ス、他人ノ名ヲ仮托スル者ハ、禁獄七十日罰金二十円ヲ料ス〈二罰并セ料シ或ハ偏ヘニ一罰ヲ料ス以下之ニ倣へ〉

 第九条
外国新聞紙及雑誌・雑報ヲ翻訳シテ記入スル者ハ、尋常ノ瑣事ヲ除クノ外訳者名ヲ署シ、其事第十二条以下ノ禁ヲ犯シ若クハ新タニ編輯人ヲ定メテ仍ホ発行スル¬ヲ得、其ノ編輯人ヲ定メスシテ発行スル者ハ、発行ヲ停止スヘシ

 第十条
事犯、編輯人ニ止リ、禁獄ヲ命シタル時ハ、特ニ発行ヲ停止シタル時ヲ除クノ外、持主若クハ社主ヨリ、仮ニ編輯人ヲ定メ、若クハ新タニ編輯人ヲ定メテ仍ホ発行スルコトヲ得、其ノ編輯人ヲ定メスシテ発行スル者ハ、発行ヲ停止スヘシ

 第十一条
新聞紙若クハ雑誌・雑報ニ指名サレタル官署・会社、人民ヨリ弁白書、若クハ改正ヲ求ムルノ書ヲ寄スルトキハ、其書ヲ受取リシヨリ直チニ其次号ニ刷出スヘシ、違フ者ハ編輯人罰金十円以上百円以下ヲ科ス

 第十二条 
新聞紙若クハ雑誌・雑報ニ於テ人ヲ教唆シテ罪ヲ犯サシメタル者ハ、犯ス者ト同罪、其教唆ニ止マル者ハ、禁獄五日以上三年以下、罰金十円以上五百円以下ヲ科ス 其教唆シテ兇衆ヲ煽起シ或ハ官ニ強逼セシメタル者ハ、犯ス者ノ首ト同ク論ス、其教唆ニ止マル者ハ罪前ニ同シ

 第十三条 
政府ヲ変壊シ国家ヲ顛覆すスルノ論ヲ載セ騒乱ヲ煽起セントスル者ハ、禁獄一年以上三年ニ至ル迄ヲ科ス、其実犯ニ至ル者ハ首犯ト同ク論ス

 第十四条 
成法ヲ誹毀シテ国民法ニ遵フノ義ヲ乱リ及顕ハニ刑律ニ触レタルノ罪犯ヲ曲庇スルノ論ヲ為ス者ハ、禁獄一月以上一年以下、罰金五円以上百円以下ヲ科ス

 第十五条
裁判所ノ断獄、下調ニ係リ未タ公判ニ付セザル者を載スルコトヲ得ズ、及裁判官審判ノ議事ヲ載スルコトヲ得ス、犯ス者ハ禁獄一月以上一年以下罰金百円以上五百円以下ヲ科ス

 第十六条
院省使庁ノ許可ヲ経ズシテ上書建白ヲ載スルコトヲ得ス、犯ス者ハ罰前条ニ同シ

 附則
此ノ条例布告ノ前ニ己ニ允准ヲ得テ発行セル新聞紙・雑誌・雑報ハ、新タニ願書ヲ捧クルニ及ハス、但シ府県庁ヲ経由シテ内務省ニ届クル爲ニ此ノ布告ヲ承ルヨリ第十日迄ニ〈布告ヲ承ルノ翌日ヨリ起算ス〉府県庁ニ向テ第二条五目ノ届書ヲ捧クヘシ、第十日ヲ過テ届書ヲ捧ケザル者ハ府県庁ヨリ発行ヲ止ムベシ、其ノ更ニ願ヒ出ル者ハ第一条ニ依ルヘシ 従前編輯人数人アリテ編輯人長ナキ者ハ、条例布告ヲ承ルヨリ第二日迄ニ〈布告ヲ承ルノ翌日ヨリ起算ス〉編輯人長ヲ定メ若クハ仮ニ定ムヘシ、第二日ヲ過テ刷行シタル紙若クハ書ニ、編輯人長ノ署名ナキトキハ、府県庁ヨリ発行ヲ止ムベシ、其ノ更ニ願ヒ出ル者ハ前ニ同シ

「法令全書」より

 *縦書きの原文を横書きに改め、旧字を新字に直し、句読点を付してあります。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

641年(舒明天皇13)第34代の天皇とされる舒明天皇の命日(新暦11月17日)詳細
1874年(明治7)万国郵便連合(最初は一般郵便連合)が発足する(世界郵便デー)詳細
1885年(明治18)日本が「メートル条約」に加盟する詳細
1897年(明治32)小説家大佛次郎の誕生日詳細
1905年(明治38)平民社が最初に解散する詳細
1945年(昭和20)GHQが「必需物資の輸入に関する覚書」(SCAPIN-110)を出す詳細
1952年(昭和27)黒澤明監督の映画『生きる』が封切りされる詳細
1989年(平成元)千葉県千葉市の幕張新都心に幕張メッセ(千葉県日本コンベンションセンター国際展示場)が開業する詳細
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dainittponsangyouhoukokukai
 今日は、昭和時代前期の1945年(昭和20)に、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の指令により、産業報国会の全国連合組織としての大日本産業報国会が解散した日です。
 大日本産業報国会(だいにっぽんさんぎょうほうこくかい)は、戦時下において、労働者を戦争協力に動員することを目的として設けられた官民共同の勤労者統制組織でした。日中戦争が全面化する中で、1938年(昭和13)7月30日に、協調会時局対策委員会第二専門委員会が作成した「労資関係調整方策」の建議に基づいて産業報国連盟が発足、自主的運動をたてまえに産業報国運動が全国的に始まります。
 連盟は「労資一体」、「産業報国」の理念を普及しますが、実際の指導は官憲が担うことになり、1939年(昭和14)4月28日、内務・厚生両省は知事ないしは警視総監を会長とする道府県産業報国連合会の設置を指示、警察の指導下で事業所単位に単位産業報国会(会長は社長、各役員はおおむね職制が任命される)が続々と結成され、その各府県連合会の会長に道府県知事、支部長には各管区の警察署長が就きました。その結果会員数は、同年中に299万人、翌年には、482万人(推定組織率66%)に達します。
 1940年(昭和15)11月4日に第二次近衛文麿内閣は、「勤労新体制確立要綱」を閣議決定し、これに基づいて産業報国連盟は解散、同年11月23日の大日本産業報国会設立へと至りました。同会の会長には平尾釟三郎、理事長には湯沢三千男が就き、産業報国精神の高揚、職場規律の確立、生産力増強達成などを目指します。
 また、労務管理、特配物資配給機関としても機能し、機関紙誌として「産業報国新聞」、「産報」、「職場の光」、「ちから」を発行しました。1942年(昭和17)6月23日には、農業報国連盟、商業報国会、日本海運報国団、大日本青少年団、大日本婦人会と共に大政翼賛会に加わり、以後労働強化・戦争協力を労働者に強制していきます。
 しかし、太平洋戦争敗戦後の1945年(昭和20)9月30日に連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の指令により解散しました。
 以下に、大日本産業報国会の創立宣言と綱領を掲載しておきますので、ご参照下さい。 

〇大日本産業報国会創立宣言

 今や世界は未曽有の転換期に際会す。皇国亦東亜新秩序建設に任じ、世界新秩序完成に邁進せんとす。その使命洵に宏大なり。
 然れども高度国防国家体制とその根幹たる新産業労働体制を確立するに非ざれば、何んぞその使命を果し得べけん。
 凡そ皇国産業の真姿は、肇国の精神に基づき、全産業一体、事業一家、以て職分に奉公し皇運を扶翼し奉るにあり。全産業人は、資本経営労務の有機的一体を具現し、皇民勤労の真諦を発揮し、以て国力の増強に邁進せざるべからず。皇国躍進の基調竝に存す。我等皇国産業に与る者、夙に念ひをここに致し、洽く職場に産業報国会を組織し、産業報国精神の高揚実践に挺身し来れり。為に全産業人協心戮力の実漸く挙り、勤労の創意、能力亦大に伸暢し、産業労働界はその面目を一新せんとす。この成果と組織を総括して一大国民運動たらしむるの要今や極めて切なるものあり。
 皇紀二千六百年の秋、新嘗祭の佳き日をトし、我等ここに大日本産業報国会を結成し、光輝ある新任務に就かんとす。我等の使命は、実に愛国の至情を産業報国運動に結集して曠古の国難を克服し、以て永遠不動の皇国産業道を樹立せんとするにあり。責務の重きを念ひ、決意更に新たなり。勇躍、我等行かんとす!
 職場は我等にとって臣道実践の道場なり。勤労は我等にとって奉仕なり、歓喜なり、栄誉なり。手段に非ずして目的なり。艱苦欠乏何かあらん。剛健なる意志、不屈の気概、範を垂れ衆を化し、塵烟の下、響音の裡分を尽し職に生き、以て皇国の弥栄を効さむ。
 右宣言す。

 紀元二千六百年十一月二十三日

〇大日本産業報国会綱領

一、我等ハ国体ノ本義ニ徹シ全産業一体報告ノ実ヲアゲ以テ皇運ヲ扶翼シ奉ラムコトヲ期ス
一、我等ハ産業ノ使命ヲ体シ事業一家職分奉公ノ誠ヲ徹シ以テ皇国産業ノ興隆ニ総力ヲ竭サムコトヲ期ス
一、我等ハ勤労ノ真義ニ生キ剛健明朗ナル生活ヲ建設シ以テ国力ノ根抵ニ培ハムコトヲ期ス

   国立国会図書館デジタルコレクション「大日本産業報国会要覧」より

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

894年(寛平6)菅原道眞の建白により遣唐使の廃止が決定する(新暦11月1日)詳細
1351年(観応2)臨済宗の僧夢窓疎石(夢窓國師)の命日(新暦10月20日)詳細
1921年(大正10)「婦人及児童ノ売買禁止ニ関スル国際条約」が国際連盟で採択・署名される詳細
1943年(昭和18)御前会議で「今後採ルヘキ戦争指導ノ大綱」を決定が決定され、「絶対国防圏」が定められる詳細
1961年(昭和36)木曽川から知多半島に水を引く愛知用水が完成する詳細
1978年(昭和53)小説家山岡荘八の命日詳細
1992年(平成4)「世界遺産条約」が日本国内で発効する詳細
2006年(平成18)国産旅客機YS-11(日本航空機製造製)が日本エアコミューター(JAC)により、最後の旅客飛行を行う詳細

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Shoupkankoku01
 今日は、昭和時代中期の1949年(昭和24)に、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)が、「シャウプ使節団日本税制報告書(シャウプ勧告)」(第一次)の全文を発表した日です。
 シャウプ勧告(しゃうぷかんこく)は、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の要請によって来日したコロンビア大学教授 C.シャウプを団長とする使節団(7名)が日本の租税制度に関して行なった勧告で、正式名称は、「Reporton Japanese Taxation by the Shoup Misson」(シャウプ使節団日本税制報告書)といいます。この使節団は、昭和時代中期の1949年(昭和24)4月7日~6月19日に来日し、4ヶ月弱に及ぶ、政府、地方自治体の財政担当者、学者との懇談や全国各地の視察など各種調査後、同年8月27日付で、第一次報告書(概要)が出され、9月15日にGHQが第一次報告書(全文)を発表しました。
 翌年8月に、シャウプ使節団(第二次)が再来日し、9月21日付で、第二次の正式報告書(全文)が出されています。その内容は、税制の抜本的改革を示し、直接税中心主義の徹底(所得税は徹底した総合課税とし、富裕税・再評価税の新設等)、地方財政の強化(地方税の独立税化等)、申告納税制の採用(青色申告・予定申告等)などを内容とし、一貫した租税体系として提案されました。
 この背景には、ドッジ・ラインによる日本経済の安定化に対応して、恒久的な租税制度の確立を目指すことがあり、その後の日本の税制の原点となります。1950年(昭和25)の税制改革で、国税・地方税などに採用されましたが、その過程で大資本家の意向や政治家の介入などにより、勧告と異なる内容になったものもありました。
 以下に、「シャウプ使節団日本税制報告書」(第一次)序文の英語原文と日本語訳を掲載しておきますので、ご参照ください。

〇シヤウプ使節団(しゃうぷしせつだん)とは?

 太平洋戦争敗戦後の占領下において、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の要請によって1949年(昭和24年)に結成されたカール・シャウプを団長とする日本税制使節団でした。カール・S・シャウプ:コロンビア大学商学部教授兼政治学部大学院教授(税制使節団長)、ウィリアム・ヴィックリー:コロンビア大学経済学部大学院教授(1996年ノーベル経済学賞受賞者)、ウィリアム・C・ウォレン:コロンビア大学法科大学院教授、ハワード・R・ボーエン:イリノイ大学商業・経営経済学部長、スタンレー・S・サリー:カリフォルニア大学法学部教授、ジェローム・B・コーエン:ニューヨーク市立単科大学経済学部教授、ローランド・F・ハットフィールド:セント・ポール収税庁、税制調査局長の7名がメンバーです。
 1949年(昭和24)4月7日~6月19日に来日し、4ヶ月弱に及ぶ、政府、地方自治体の財政担当者、学者との懇談や全国各地の視察など各種調査後、同年8月27日付で、第一次報告書(概要)が出され、9月15日にGHQが第一次報告書(全文)を発表しました。翌年8月に、シャウプ使節団(第二次)が再来日し、9月21日付で、第二次の正式報告書(全文)が出されています。
 その内容は、税制の抜本的改革を示し、直接税中心主義の徹底(所得税は徹底した総合課税とし、富裕税・再評価税の新設等)、地方財政の強化(地方税の独立税化等)、申告納税制の採用(青色申告・予定申告等)などを内容とし、一貫した租税体系として提案されました。この背景には、ドッジ・ラインによる日本経済の安定化に対応して、恒久的な租税制度の確立を目指すことがあり、その後の日本の税制の原点となります。
 1950年(昭和25)の税制改革で、国税・地方税などに採用されましたが、その過程で大資本家の意向や政治家の介入などにより、勧告と異なる内容になったものもありました。

☆シャウプ使節団(第一次・第二次)関係略年表

<1949年(昭和24)>

・4月1日 GHQが5月初旬にシャウプ博士ほか6名からなる税制使節団(第一次)来日を発表する
・4月7日 使節団員ジェローム・B・コーエンが来日する
・4月28日 農林省農業改良局、NRSに対し、農民負担に関する諸資料を提出する
・5月10日 シャウプ博士、ヴィックリ一博士、ハットフィールド氏が来日する
・5月29日 農家の税負担の軽減につき、来週早々、森農相、片桐次官、シャウプ使節団と会見のうえ、要望書を手渡す予定と、「東京新聞」が報道する
・6月初旬 農林省、農林漁業の課税負担の現状とその改正に関する要望を、シャウプ使節団へ提出する
・6月11日 日本農民組合総本部、シャウプ使節団に対し、税制改革に関する意見書を作成、スタンレー・S・サリー氏が来日する
・6月12日 ハワード・R・ボーエン氏が来日する
・6月19日 ウイリアム・C・ウオーレン氏が来日する
・6月25日 農業復興会議現行税制改革に関する意見を表明、近くシャウプ使節団に提出する予定と、「東京新聞」、「日本経済新聞」が報道する
・7月14日 過重と不均衡にあえいでいる農村課税に対するシャウプ使節団の考え方(源泉課税方式の採用等)を、農林省へ示唆する
・7月15日 農林省関係者、シャウプ税制使節団に対し、源泉課税・徴収に対する意見等を要望する
・7月16日 GHQ/NRS、農林省に対し供出代金につき源泉課税徴収案内示ありたることを「時事新報」が報道する
・7月21日 大蔵省主税局、NRS提案にかかる農業所得税の賦課徴収計画概要に対し、意見を表明する
・7月22日 農林省、源泉徴収は回避、農家所得課税につき、第1案、第2案を呈示のうえ折衝と「毎日新聞」報道用
・8月26日 シャウプが内外記者団と会見、その概要を発表して、帰国する
・8月27日 第一次報告書(概要)が出される
・9月15日 GHQが第一次報告書(全文)を発表する

<1950年(昭和254)>

・8月 シャウプ使節団(第二次)が再来日する
・9月21日 第二次の正式報告書(全文)が出される
・税制改革で、シャウプ勧告が国税・地方税などに採用される

☆「シャウプ使節団日本税制報告書」(第一次)序文 1949年(昭和24)8月27日付

REPORT ON JAPANESE TAXATION BY THE SHOUP MISSION

FOREWORD

The present report on the Japanese tax system is submitted to the Supreme Commander for the Allied Powers, at whose request the Tax Mission was formed.

The chief aim of our mission has been to draw up a plan of a permanent tax system for Japan. Emphasis has therefore been placed on considerations that go beyond the financing problems of the present and the coming fiscal year. Nevertheless, we have found it necessary to specify in some detail how our recommendations affect the 1949-50 and 1950-51 budgets. The long-term program must be of a kind that can be put into force without endangering the stabilization recently achieved with the aid of the recommendations made in the spring of 1949 by the Dodge Mission.

The long-term program itself could have been either of two kinds. We could have recommended a rather primitive type of tax system, one which would depend on external signs of income and wealth and business activity, not on carefully kept records and intelligent analysis of difficult problems. Such a system could raise the required revenue, but it would perpetuate gross inequities among taxpayers, dull the sense of civic responsibility, keep the local governmental units in uneasy financial dependence on the national government, and give rise to undesired economic effects on production and distribution. Moreover, we soon became convinced that the current difficulties in obtaining fair and efficient administration of the tax laws, and a high degree of compliance by the taxpayer in Japan need not be taken as inevitable. Our aim therefore has been to recommend a modern system, which depends upon the willingness of business men and all taxpayers of substantial means to keep books and to reason carefully about some fairly complicated issues of equity. For the small taxpayer, at the same time, the task of filing returns and paying the tax should be kept a simple one. Under this approach, we see no reason why Japan may not within a few years, if she so desires, have what would be the best tax system in the world. In any event, the consistent aim of this report has been to keep open the road that may lead to that goal.

What we are recommending here is a tax system, not a number of isolated measures having no connection with one another. All of the major recommendations, and many of the minor ones, are interconnected. If any of the major recommendations are eliminated, some of the others will thereby become of less value, or even harmful. Consequently, we disclaim responsibility for the results that may follow the adoption of only part of our recommendations. For example, we have devised a tax system that avoids the double taxation of corporate income under the national income taxes, and at the same time blocks permanent tax avoidance. Among the essential parts of this system are the full inclusion of capital gains and the full deduction of capital losses, with permission to spread the gain over a series of years, and with exemption of large capital gains that are due merely to a change in the value of money. If capital gains and losses were to be included not in full but under some percentage plan like that now in effect, our set of recommendations for corporation and individual income taxes would have to revised extensively.

Members of our group arrived in and departed from Japan at different dates from April to September, 1949, devoting as much time to this task as their previous commitments in the United States allowed. In general, the mission spent about four months on the study. May and June were occupied largely in discussions with taxpayers, tax officials (national, prefectural and municipal) and others. Much of the information was obtained outside of Tokyo, on field trips throughout Japan from Hokkaido to Kyushu. Lack of space forbids specific acknowledgement to the scores of individuals who have so generously given us information and suggestions in the course of these discussions. However, we wish to note our special indebtedness to Major General William F. Marquat, Chief, Economic and Scientific Section, GHQ; Mr. Harold Moss, Chief, Internal Revenue Division, Economic and Scientific Section; the Minister of Finance, Mr. Hayato Ikeda, and his staff, particularly Mr. Keiichiro Hirata and Mr. Sumio Hara; the professors of public finance who served as official advisers to the mission, Professor Hanya Ito, of Tokyo University, Professor Saburo Shiomi, of Kyoto University, and Professor Shigeto Tsuru, of Tokyo Commercial University; and Mr. Genichi Akatani, of the Foreign Office, Japanese Government. We also extend our thanks to all the others who assisted us, including the many taxpayers whose letters were helpful in listing defects in the tax system.

The recommendations in this report are those of the tax mission, and no one in GHQ or the Eighth Army, or in the Japanese Government, is in any way responsible for them. We have attempted to adapt the recommendations to the needs of the various sections and divisions in GHQ, the officials of each of which have their own set of difficult problems to face, and who have nevertheless gone to considerable lengths to find a solution acceptable from all points of view. But the responsibility for this report attaches to us alone.

All the members of the tax mission are in substantial agreement on the main conclusion of this report, but, owing to the necessarily differing times of departure form Japan, the report in its final form was seen only by Shoup, Vickrey, and Warren; the other members should therefore not be held to the same degree of responsibility for all of the recommendations. The members of the tax mission, and their professional connections, are as follows: Dean Howard R. Bowen, College of Commerce and Business Administration, University of Illinois; Professor Jerome B. Cohen, Department of Economies, College of the City of New York; Mr. Rolland F. Hatfield, Director of Tax Research, Department of Taxation, St. Paul, Minnesota; Professor Carl S. Shoup, School of Business and Graduate Faculty of Political Science, Columbia University, (Director of the Tax Mission); Professor Stanley S. Surrey, School of Jurisprudence, University of California, Berkeley, California; Professor William Vickrey, Graduate Faculty of Political Science, Columbia University; and Professor William C. Warren, School of Law, Columbia University.

The Japanese translation was made under severe limitations of time, while the English text was undergoing some last-minute revisions. In the event that any discrepancy is found, the English text should be the one used.

Carl S. Shoup
Tokyo
August 27,1949.

「国立国会図書館デジタルコレクション」より

<日本語訳>

 税制使節団は、連合国最高司令官の要請によって編成されたものであるが、日本の租税制度に関する本報告書を右連合国最高司令官に提出するものである。

 本使節団は、日本における恒久的な租税制度を立案することをその主要な目的としている。従って、本年度および明年度における財政的な問題を超えて考慮されるべき諸問題に重点がおかれている。 しかしながら、われわれの勧告が1949-50会計年度および1950-51会計年度の予算にどのような影響をおよぼすかについては、細部にわたってこれを具体的に論ずる必要があった。長期の計画は1949年の春、ドッジ使節団の勧告の助成によって最近達せられた経済安定を阻害することなく、実施され得るようなものでなければならない。

 この長期の計画自体は、二者の中のいずれかのものになりうるものであった。すなわち、われわれは、周到に保存された資料および困難な問題の聡明な分析によらないで、所得、富、および事業活動の外形標準に依存する多少幼稚な租税制度を勧告することもできたのであるが、かかる租税制度によって必要な収入は確保することができるとしても、それは納税者間の甚しい不公平を永続せしめ、公民の責任観を鈍化し、地方団体をして不安な国家財政依存を継続せしめ、ひいては生産および分配に好ましからざる経済的影響をもたらすものである。加えるに、われわれは、租税法規の公平且つ能率的な施行および日本の納税者の高度な納税に対する協力を得るための困難は必ずしも不可避なものでないとの確信を得たのである。従って、われわれの目的は、商工業者および相当な生計を営むすべての納税者が記帳を励行し、公平に関連するかなり複雑な問題を慎重に論究することを辞さないということに依存する近代的な制度を勧告するにある。同時に、また、小さな納税者には、申告および納税の手続を簡単なものにしておくべきである。このような方向で問題を検討すれば、日本が今後数年のうちに、もしそれを欲するならば、恐らく世界で最もすぐれた租税制度をもてないという理由はなんら認められないのである。いずれにせよ、本報告の一貫した狙いは、かかる目標に通ずる途を開放しておくことにある。

 ここにわれわれが勧告しているのは、租税制度であって、相互に関連のない多くの別個の措置ではない。一切の重要な勧告事項および細かい勧告事項の多くは、相互に関連をもっている。もし重要な勧告事項の一部が排除されるとすれば、他の部分は、その結果価値を減じ、場合によっては有害のものともなろう。従って、われわれは、勧告の一部のみを取入れることに伴う結果については責任を負わない。例えば、われわれは、所得税において法人税との二重課税を避け、同時に常習の脱税を防止するような租税制度を立案した。このような制度のうちでも重要な部分とされているのは、譲渡所得を全額課税し、譲渡損失を全額控除することである。但し、その所得を数年にわたって繰越し、単に貨幣価値の変動に基く尨大な譲渡所得を控除することは認められる。もし現在実施されているように譲渡所得と損失が全額ではなく、何%しか算入されないものとすれば、われわれの勧告による法人税および所得税は大巾な改正を要するであろう。

 われわれ使節団の構成員は、米国における先約の許す範囲でこの仕事に多大の時間を捧げ、1949年4月から9月の間に随時日本に到着し日本から立ち去った。全体として使節団はこの研究に四カ月間を費した。5月と6月の大部分は、納税者、税務職員(国、都道府県および市町村)または他の者との談合に充てられた。北海道から九州までの日本全土にまたがる実地調査によって、東京以外の多くの情報を入手した。限られた紙面はこれらの談合でわれわれに資料や思いつきを惜しみなく提供した多数の人々に謝意を表すること許さない。しかし、ここに、G・H・Q経済科学局局長ウィリアム・F・マーカット少将、経済科学局歳入課長ハロルト・モス氏、大蔵大臣池田勇人氏および同氏の補佐官、特に、平田敬一郎氏と原純夫氏、また財政学の教授であり本使節団の公式の顧問を勤めた東京商科大学の井藤半弥教授、京都大学の汐見三郎教授および東京商科大学の都留重人教授ならびに日本政府外務省の赤谷源一氏等の多大の恩恵に浴したことを特に記しておきたい。更にわれわれは、租税制度の欠点を記入するのに役立つ手紙を送られた多くの納税者を含めて、われわれを援助した他のすべての方々に感謝するものである。

 本報告における勧告は本使節団のものであって総司令部、第八軍または日本政府はこれに対していかなる責任をも負わない。われわれは、この勧告が、総司令部の各局各課の担当官があらゆる点において妥当と見られる解決策を探求するにあたって重ねてきた幾多の努力にもかかわらず、なお、かれらが直面している特定の困難な諸問題から生ずる諸要請に適応するよう努力した。しかしこの報告に対する責任はわれわれのみが負うべきところのものである。
税制使節団の各構成員は、本報告の主要な結論においては大体意見は一致している。しかし、日本を立ち去る時期が各自異っていたため、報告の最終的なものはシャウプ、ヴィツクリー、ウオレンだけが眼を通した、従って勧告の全文に対して他の構成員は同じ程度の責任を負うべきではない。

 税制使節団の各委員の氏名および職名は左のとおりである。
ハワード・R・ボーエン=イリノイ大学、商業および経営経済学部長
ヂェローム・B・コーエン=ニューヨーク市立単科大学、経済学部教授
ローランド・F・ハットフィールド=ミネソタ州、セント・ポール収税庁、税制調査局長
カール・S・シャウプ=コロムビヤ大学、商学部教授兼政治学部大学院教授(税制使節団長)
スタンレー・S・サリー=カリホルニヤ洲、バークレー市、カリホルニヤ大学法学部教授
ウィリアム・C・ヴィツクリー=コロムビヤ大学、政治学部、大学院教授
ウィリアム・C・ウオレン=コロムビヤ大学、法学部教授

 日本語の訳文は、原文の最終的修正が行われている最中に、極端な時間の制限のもとになされたものである。対照上相違が生じた場合は、英文によるべきである。

                  東京において
                    C S シャウプ

                         1949年8月27日 

 「シヤウプ使節団日本税制報告書」連合国最高司令官本部1949年刊行 総合司令部民間情報教育局訳より

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 今日は、昭和時代中期の1947年(昭和22)に、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の指令等により、内務省が廃止された日です。
 内務省(ないむしょう)は、太平洋戦争以前に、警察・地方行政・土木などの内務行政を統轄した中央官庁です。明治時代前期の1873年(明治6)11月10日に、征韓論が契機となった政変(明治六年政変)を機に大久保利通が主導して太政官の下に新設し、自ら内務卿となりました。
 当初は、勧業・警保・戸籍・駅逓・土木・地理の六寮と測量司が置かれましたが、1881年(明治14)に農商務省の設置により殖産興業の部門を分離、1885年(明治18)には、内閣制度の確立により内閣の一省となるなど度々機構の変遷があります。その後、1887年(明治20)に造神宮使庁を設置して国家神道政策を強化し、1928年(昭和3)には、特別高等警察(特高)制度を全国に実施し、「治安維持法」を利用して、労働運動・言論を弾圧しました。国民生活全般にわたり、保護と統制を行い、太平洋戦争下には、戦時体制形成の中核となります。
 1945年(昭和20)の敗戦を機に、特高警察廃止に始まる占領軍の民主化政策で機構を縮小し、1947年(昭和22)5月3日の「日本国憲法」の施行後、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)は日本の民主化、分権化のために内務省の解体を命じ、同年12月31日には廃省となり、74年の歴史を閉じました。その機能は、国家公安委員会(警察庁)、建設省、総理府、地方財政委員会、全国選挙管理委員会等に分割されました。

〇内務省関係略年表

・1873年(明治6)、征韓論がきっかけとなった政変(明治六年政変)を機に大久保利通が主導して太政官の下に「内務省」を新設(11月10日)し、自ら内務卿となる
・1874年(明治7) 郵政事務が内務省の管轄となったが、1885年に農商務省へ移管、川路利良主導による警察制度の整備の一環として警視庁創設、川路は初代大警視(後に警視総監)に就任する
・1877年(明治10) 廃止された教部省の所管を引き継ぎ、社寺局を設置、宗教政策も管轄する
・1878年(明治11) 大久保利通の死後伊藤博文が内務卿に就任する
・1884年(明治17) 地理局が所管していた大三角測量業務を参謀本部の管轄に移管、以後地理局は地誌編纂を主な業務とすることとなる
・1885年(明治18) 内閣制実施で内閣に属するようになり、山縣有朋が初代大臣となり、全国の府県知事などの高官の任免権を握り、地方行政の中核を担った
・1886年(明治19)2月27日 勅令により、衛生局を設置し、衛生・医務の2課を設ける
・1890年(明治23) 鉄道庁が外局となるが、1892年に逓信省に移管される
・1900年(明治33) 社寺局を、神社局と宗教局に分割。前者は、国家神道政策を司ることとなる
・1911年(明治44) 「大逆事件(幸徳事件)」を機に内務省警保局保安課の下の警視庁に特別高等警察、いわゆる「特高警察」を置く
・1913年(大正2) 宗教局を文部省へ移管する
・1920年(大正9) 労働運動、農民運動の高まりを受け、社会局を新設する
・1924年(大正13) 前年の関東大震災を受けて内閣に設置された帝都復興院を縮小し、内務省に復興局を設置する
・1925年(大正14) 「治安維持法」が公布される
・1933年(昭和8) ゴーストップ事件が起きる
・1937年(昭和12) 内閣情報局と内務・文部両省を計画主務庁として、国民精神総動員運動を開始する
・1938年(昭和13) 衛生局と社会局が厚生省として分離独立、「国家総動員法」が制定される
・1940年(昭和15) 大政翼賛会が発足、地方長官は翼賛会の地方支部長を兼ね、地方自治体の末端組織・翼賛体制の下部組織として部落会・町内会の組織化が進む
・1941年(昭和16) 土木局・計画局(大臣官房都市計画課の後身)を国土局・防空局に改組する
・1942年(昭和17) 拓務省廃止により、外地に関する事務が内務省に移管される
・1943年(昭和18) 港湾事務を運輸通信省に移管。東京都制が施行される
・1945年(昭和20) 防空事務・政府による検閲・特別高等警察などを廃止する
・1946年(昭和21) 連合国軍総司令部(GHQ)によって内務省幹部や警察・特高警察関係者などの公職追放が命じられ、神祇院(神社局の後身)を廃止、都道府県知事は公選制となる
・1947年(昭和22)12月31日 GHQの指導もあり、地方自治の要請と従来中央集権的官僚行政の中枢であったことなどの理由で廃止され、その機能は、国家公安委員会(警察庁)、建設省、総理府、地方財政委員会、全国選挙管理委員会等に分割される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1924年(大正13)文人画家・儒学者富岡鉄斎の命日詳細
1929年(昭和4)小説家・脚本家生田直親の誕生日詳細
1945年(昭和20)GHQが「修身、日本歴史及び地理停止に関する件」(SCAPIN-519)を指令する詳細
1946年(昭和21)俳人中塚一碧楼の命日詳細
1953年(昭和28)NHK紅白歌合戦が初の公開放送となり、この年から大晦日の放送となる詳細
1963年(昭和38)NHK紅白歌合戦でテレビの最高視聴率81.4%を記録する詳細
1994年(平成6)小説家・推理作家多岐川恭の命日詳細
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 今日は、昭和時代前期の1945年(昭和20)に、アメリカ軍の先遣隊が厚木基地に上陸し、横浜に連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)本部を置いた日です。
 連合国軍最高司令官総司令部(れんごうこくぐんさいこうしれいかんそうしれいぶ)は、太平洋戦争後の1945年(昭和20)に、連合国軍が日本を占領・管理するための最高司令部として設置したるので、英語名をGeneral Headquarters, the Supreme Commander for the Allied Powersと言い、GHQと略称で呼ばれました。
 8月14日に、日本が「ポツダム宣言」を受諾して降伏すると同時に、連合国の同意の下にアメリカのマッカーサー元帥が連合国軍最高司令官に任命され、8月28日にアメリカ軍の先遣隊が厚木基地に上陸し、横浜に連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)本部が設置されます。8月30日に、マッカーサーが厚木基地に到着し、9月2日には、東京湾上の戦艦ミズーリ号で降伏文書の調印が行われ、連合軍による日本占領が急展開しました。
 10月には、東京日比谷の第一相互ビル(現在の第一生命ビル)にGHQが移動、幕僚各局や民政局(GS)・経済科学局(ESS)・民間情報教育局(CIE)・天然資源局(NRS)などが設置され、これに極東国際軍事裁判所・国際検事局などが付設されます。日本政府は、9月20日に緊急勅令「ポツダム宣言の受諾に伴い発する命令に関する件」を公布し、占領行政に関して法律に代わる勅令(いわゆるポツダム勅令)を出してGHQの指令を実施しました。
 1946年(昭和21)に政策決定機関として極東委員会、司令官の諮問機関として対日理事会が設置され、極東委員会の下にGHQがあり、米・英・ソ・中からなる対日理事会に諮問することが定められたものの、実質的には、GHQはアメリカ単独で組織され、アメリカの意向に添った政策が実施され、絶大な権限を行使します。1951年(昭和26)、朝鮮戦争に関して、マッカーサーがトルーマン米大統領と衝突して解任され、M・B・リッジウェーリッジウェーにひき継がれました。
 しかし、1952年(昭和27)4月28日の「サンフランシスコ講和条約」の発効と同時に廃止されています。

〇連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)関係略年表

<1945年(昭和20)>
・7月26日:連合国が連名で「ポツダム宣言」を発表する
・8月14日:日本政府が「ポツダム宣言」の受諾を通告し、昭和天皇が終戦の詔書を出す
・8月15日:昭和天皇が国民に向けて「ポツダム宣言」の受諾を発表(玉音放送)し、鈴木貫太郎内閣総辞職する
・8月17日:東久邇宮稔彦王内閣成立する
・8月28日:テンチアメリカ陸軍大佐以下150名が横浜に初上陸し、連合国軍本部を設置する
・8月30日:マッカーサー厚木飛行場に降り立ち、横浜税関の建物を接収して太平洋陸軍総司令部(AFPAC)を設置する
・9月2日:日本政府が戦艦ミズーリで降伏文書調印、GHQ指令第一号(陸海軍解体、軍需生産の全面停止等)が出る
・9月8日:連合国軍が、東京を占領後、都内の建物600箇所以上を接収する
・9月10日:「言論及ビ新聞ノ自由ニ関スル覚書」(SCAPIN-16)発令、連合国軍が検閲を開始する
・9月15日:東京・日比谷の第一生命館を接収する
・9月16日:連合国軍本部が横浜から第一生命館に移転する
・9月17日:マッカーサー、東京の本部に入る
・9月18日:朝日新聞への二日間の発行停止を命令(SCAPIN-34)する
・9月19日:言論統制のためのプレスコードが出される
・9月20日:連合国軍最高司令官の法的根拠を定めたポツダム緊急勅令が公布、同日から施行される
・9月22日:放送に対する検閲、ラジオコード(SCAPIN-43)を指令する
・9月27日:昭和天皇、GHQ本部へ行幸。密談が行われる
・10月2日:連合国軍最高司令官総本部(GHQ/SCAP)設置、一般命令第4号により「民間情報教育局」が米太平洋陸軍総司令部(GHQ/USAFPAC)より移行する
・10月4日:自由の指令(「政治的、公民的及び宗教的自由に対する制限の除去の件(覚書)」、「政治警察廃止に関する覚書」)発令する
・10月9日:東久邇宮内閣総辞職し、幣原内閣が成立する
・10月11日:女性の解放と参政権の授与、労働組合組織化の奨励と児童労働の廃止、学校教育の自由化、秘密警察制度と思想統制の廃止、経済の集中排除と経済制度の民主化を指示する
・10月15日:治安維持法の廃止。国内の日本軍、武装解除を完了する
・11月18日:皇族資産凍結の指令する
・12月6日:近衛文麿や木戸幸一など民間人9人の逮捕を命令する
・12月7日:いわゆる農地解放指令(農地の小作人への分配)する
・12月8日:太平洋戰爭史を全国の新聞へ掲載させる
・12月9日:農地改革を指示。眞相はかうだの放送を開始する
・12月15日:神道指令を指示(政教分離等)する
・12月31日:「修身、日本歴史及ビ地理停止ニ関スル件」(覚書)(SCAPIN-519)を発令、修身、国史、地理の授業は中止、教科書は蒐集される

<1946年(昭和21)>
・1月4日:軍人・戦犯・軍国主義者及び同傾向政治家などの公職追放を指示する
・2月:イギリス連邦占領軍が本格的な日本進駐を開始。直ちに中国地方および四国地方の占領任務を、1945年9月より同地に進駐していたアメリカ軍から引き継ぐ
・2月3日:マッカーサー、民政局長コートニー・ホイットニーに自作の憲法案のメモを渡し、憲法モデルを作成するよう命じる
・2月13日:ホイットニー局長、新憲法モデル文章を吉田茂らに見せる
・3月6日:日本政府が、「憲法改正草案要綱」(戦争の放棄、象徴天皇、主権在民)を公表する
・5月3日:極東国際軍事裁判(東京裁判)開廷する
・11月3日:「日本国憲法」が公布される
・12月18日:ワシントンの極東委員会、日本の労働運動16原則を決定(占領目的を阻害する労働運動の禁止)する

<1947年(昭和22)>
・1月31日:マッカーサー、二・一ゼネスト中止命令、伊井、NHKでスト中止を発表(後に占領政策違反で逮捕)する
・5月:総司令部内に賠償局を設置する
・5月:GHQ、日本政府に対し「帝国」の語の使用を禁じる
・5月3日:「日本国憲法」が施行される
・7月11日:マッカーサーの進言により、米国政府が連合国に対し、対日講和会議の開催を提案する
・7月22日:ソ連が米国提案の対日講和会議に反対する

<1948年(昭和23)>
・6月30日:福井地震の被災地救援活動を発表。上空から支援物資の投下、救援列車の編成などが行われる
・11月12日:東京裁判がA級戦犯25人に有罪判決、うち板垣征四郎、木村兵太郎、土肥原賢二、東條英機、広田弘毅、武藤章、松井石根に死刑判決が出る
・11月30日:政令201を受け「国家公務員法」を改正、公務員の団体行動権を否定(労働基本権#日本の公務員の労働基本権)する
・12月8日:民政局次長チャールズ・ケーディス大佐が対日政策転換を阻止するため帰国(昭電事件の余波から逃れる為と噂される)する
・12月18日:GHQ/SCAP、対日自立復興の9原則を発表(対日政策転換。逆コースの始まり)する
・12月23日:東条英機ら旧指導者7人に死刑執行される

<1949年(昭和24)>
・3月1日:GHQ/SCAP経済顧問ジョゼフ・ドッジ、超均衡予算、補助金全廃、復興金融金庫の貸出禁止など、収支均衡予算の編成を指示(ドッジ・ライン)する
・5月3日:帰国中のチャールズ・ケーディス大佐が民政局次長を辞任する
・5月10日:浦和事件の判決の刑期は不当であるという旨のGHQの指摘により行われた国政調査権調査は越権行為であるとして最高裁判所が抗議を申入れる(参議院は裁判官会議によるの申入れが越権行為であると回答)
・9月15日:シャウプ税制使節団、税制の抜本的改編を発表する
・11月1日:米国務省、「対日講和条約について検討中」と声明、講和案に賠償・領土割譲が無いことが報道される。これ以降、国内では西側との「単独講和論」と東側を含めた「全面講和論」が対立(世論調査では全面講和が優位)する

<1950年(昭和25)>
・6月6日:マッカーサー、日本共産党中央委員24名を公職追放する
・6月25日:朝鮮戦争勃発(- 1953年)。アメリカ合衆国軍とイギリス連邦占領軍が大韓民国を支援するため出動し、日本が前線基地となる
・7月8日:マッカーサー、吉田首相に警察力強化(警察予備隊7万5000名の創設と海上保安庁8,000名増員)を求める書簡を送る
・7月24日:GHQ/SCAP、日本共産党幹部逮捕と日本新聞協会代表に共産党員の追放を勧告(レッドパージ)する
・8月10日:警察予備隊令を公布。総理府の機関として、警察予備隊が置かれる
・8月27日:第2次アメリカ教育使節団来日する
・9月14日:米トルーマン大統領、対日講和と日米安全保障条約締結交渉の開始を指令する
・11月24日:米国政府、「対日講和7原則」を発表。日本への請求権放棄と、日本防衛を日米共同で行う旨を明記する

<1951年(昭和26)>
・1月:マッカーサー、日本政府に再軍備の必要性を説く
・4月11日:マッカーサー、朝鮮戦争で中国東北部空爆を巡りトルーマン大統領と対立し更迭(英語版)される
・4月16日:マッカーサーとホイットニーら、アメリカへ帰国。マシュー・リッジウェイ中将が第二代最高司令官に就任(就任後に大将へ昇進)する
・9月8日:サンフランシスコ講和会議で「日本国との平和条約(サンフランシスコ条約)」を調印(ソ連は未署名)、続いて日米安全保障条約に調印する

<1952年(昭和27)>
・2月28日:「日米行政協定」が締結される
・4月28日:「日本国との平和条約(サンフランシスコ条約)」が発効、日本の主権回復に伴い、GHQが解体され、SCAPが廃止される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

718年(養老2)貴族・歌人大伴家持の命日(新暦10月5日)詳細
1253年(建長5)日本の曹洞宗開祖道元の命日(新暦9月22日)詳細
1597年(慶長2)室町幕府第15代将軍だった足利義昭の命日(新暦10月9日)詳細
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1899年(明治32)台風による別子大水害が起き、別子銅山で死者513人を出し、大量の鉱毒水が流出する詳細
1923年(大正12)「盲学校及聾唖学校令」(大正12年勅令第375号)が公布(施行は翌年4月1日)される詳細
1967年(昭和42)新潟県、山形県を襲った羽越豪雨(羽越水害)において大きな被害が出る詳細
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