ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:連合国最高司令官総司令部

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 今日は、昭和時代中期の1950年(昭和25)‎に、連合国最高司令官総司令部(GHQ)が自衛隊の前身となる警察予備隊の創設及び海上保安庁の増員を求める吉田茂首相宛の「日本警察力増強に関する書簡」を送った日です。
 警察予備隊(けいさつよびたい)は、朝鮮戦争開始直後の1950年(昭和25)7月8日‎に、在日アメリカ軍が出動した空白を埋めるために、連合国軍最高司令官マッカーサー元帥が、吉田茂首相宛に発した「日本警察力増強に関する書簡」に基づき、同年8月10日に「警察予備隊令」(昭和25年政令第260号)を制定して設置された機関でした。首相に直属し、国内の秩序維持のため警察力を補うものとされ、全国で定員7万5千人の募集が行われましたが、実質的には小型陸軍の建設を目ざしたもので、再軍備の第一歩とされています。
 その後、1952年(昭和27)に、「保安庁法」により保安隊に改編され、1954年(昭和29)には、「自衛隊法」により自衛隊となりました。
 以下に、「警察予備隊令」(昭和25年政令第260号)を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇「警察予備隊令」(けいさつよびたいれい)とは?

 昭和時代中期の1950年(昭和25)8月10日に公布・施行された、連合国軍最高司令官マッカーサー元帥が発した日本警察力増強に関する書簡に基づいた、いわゆるポツダム政令の一つで、「旧警察法」に基づいて制定され、警察予備隊を設置するものです。1950年(昭和25)6月25日に勃発した朝鮮戦争において、アメリカ軍は日本駐留部隊を朝鮮半島に出動させることとなり、それをどう補うかが課題となり、日本政府に対し、日本警察力増強に関する書簡を送ることとなりました。
 それに基づいて制定されましたが、その目的は、「わが国の平和と秩序を維持し、公共の福祉を保障するのに必要な限度内で、国家地方警察及び自治体警察の警察力を補うため」(第1条)とされたものの、総理府に属して内閣総理大臣に直属し、装備・訓練は米軍に依存し、定員7万5,000名で実質的には小型陸軍の建設を目ざしたもので、再軍備の第一歩とされてきました。
 その後、1952年(昭和27)に、「保安庁法」により保安隊に改編され、1954年(昭和29)には、「自衛隊法」により自衛隊となっています。

☆「警察予備隊令」 (全文)  1950年(昭和25)8月10日公布・施行 

警察予備隊令 (政令第260号)

警察予備隊令をここに公布する。
 御名御璽

 昭和二十五年八月十日
              内閣総理大臣 吉田  茂

政令第二百六十号 
 警察予備隊令内閣は、ポツダム宣言の受諾に伴い発する命令に関する件(昭和二十年勅令第五百四十二号)に基き、この政令を制定する。

 (目的)
 第一條 この政令は、わが国の平和と秩序を維持し、公共の福祉を保障するのに必要な限度内で、国家地方警察及び自治体警察の警察力を補うため警察予備隊を設け、その組織等に関し規定することを目的とする。 

 (設置)
 第二條 総理府の機関として警察予備隊を置く。 

 (任務)
 第三條 警察予備隊は、治安維持のため特別の必要がある場合において、内閣総理大臣の命を受け行動するものとする。 
 2 警察予備隊の活動は、警察の任務の範囲に限られるべきものであつて、いやしくも日本国憲法の保障する個人の自由及び権利の干渉にわたる等その権能を濫用することとなつてはならない。 
 3 警察予備隊の警察官の任務に関し必要な事項は、政令で定める。 

 (定員)
 第四條 警察予備隊の職員の定員は、七万五千百人とし、うち七万五千人を警察予備隊の警察官とする。 

 (組織)
 第五條 警察予備隊に、本部及び部隊その他所要の機関を置く。 

 (本部の組織)
 第六條 本部に、長官官房[1]の外、警務局、人事局、裝備局、経理局及び医務局を置く。 

 (長官及び次長)
 第七條 本部に、長官及び次長各一人を置く。 
 2 長官は、内閣総理大臣が任命する。 
 3 長官の任免は、天皇が認証する。 
 4 長官は、内閣総理大臣の指揮監督を受け、警察予備隊の長として隊務を統轄する。 
 5 次長は、長官の職務を助ける。 

 (職員の人事管理)
 第八條 警察予備隊の職員の職は、特別職とする。 
 2 国家公務員法(昭和二十二年法律第百二十号)第三章第六節(第三款を除く。)及び第七節の規定並びにこれらの規定に関する罰則の規定は、前項の職員に準用する。この場合において、これらの規定中「人事院」とあるのは「内閣総理大臣」と、「人事院規則」とあるのは「総理府令」と読み替えるものとする。 
 3 警察予備隊の職員に対する恩給法(大正十二年法律第四十八号)、国家公務員共済組合法(昭和二十三年法律第六十九号)及び国家公務員等に対する退職手当の臨時措置に関する法律(昭和二十五年法律第百四十二号)の適用については、政令で特別の定をすることができる。 
 4 前三項に定めるものを除くの外、警察予備隊の職員の階級、任免、昇任、給與、服制その他人事に関する事項については、政令で定める。 

 (内閣総理大臣の権限の代行)
 第九條 内閣総理大臣は、特に必要があると認める場合においては、この政令に基きその権限に属する事務を、他の国務大臣に行わせることができる。 

 (組織編成等の細目)
 第十條 この政令に定めるものを除くの外、警察予備隊の組織編成その他必要な事項については、総理府令で定める。 

 附 則
 1 この政令は、公布の日から施行する。 
 2 昭和二十五年度に限り、内閣は、一般会計予算における国債費の金額のうち二百億円を、警察予備隊に必要な経費に移用する。 
 3 昭和二十五年度内における契約等に因り支出の義務を生じ、当該年度内に支出を終らなかつた経費の金額は、翌年度に繰り越して使用することができる。 
 4 内閣総理大臣は、当分の間、国家地方警察の機関をして、警察予備隊の事務の一部を取り扱わせることができる。 
 5 総理府設置法(昭和二十四年法律第百二十七号)の一部を次のように改正する。 
 第十六條の二の次に、次の一條を加える。第十六條の三 総理府の機関として警察予備隊を置く。2 警察予備隊は、わが国の平和と秩序を維持し、公共の福祉を保障するため、国家地方警察及び自治体警察の警察力を補うものとして設置される機関とする。3 警察予備隊の組織及び所掌事務については、警察予備隊令(昭和二十五年政令第二百六十号)の定めるところによる。
 6 労働組合法(昭和二十四年法律第百七十四号)、労働関係調整法(昭和二十一年法律第二十五号)及び労働基準法(昭和二十二年法律第四十九号)並びにこれらの法律に基いて発せられる命令は、警察予備隊の職員には適用しない。 

               内閣総理大臣 吉田  茂
               法務総裁   大橋 武夫
               大蔵大臣   池田 勇人

  「ウイキソース」より

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1588年(天正16)豊臣秀吉が「刀狩り令」を布告する(新暦8月29日)詳細
1783年(天明3)浅間山天明大噴火が起きる(新暦8月5日)詳細
1908年(明治41)日本画家・著述家東山魁夷の誕生日詳細
1912年(明治45)日本とロシアとの間で、「第三次日露協約」が締結される詳細
1939年(昭和14)「国民徴用令」(勅令第451号)が公布される詳細
1955年(昭和30)日本住宅公団を設立するための「日本住宅公団法」(昭和30年法律第53号)が公布される詳細
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 今日は、昭和時代中期の1948年(昭和23)に、連合国最高司令官総司令部(GHQ)が日本政府に対して、「経済安定十原則」を提示した日です。
 「経済安定十原則」(けいざいあんていじゅうげんそく)は、連合国最高司令官総司令部(GHQ)が、日本経済の自立のためには財政の健全化等について、示したもので、正式には、Essentials of Economic Stabilization Programと言いました。日本側の中間安定路線を黙認するもので、7月20日に、政府は全く同内容の「経済安定十原則」を閣議決定しています。
 その後、9月から従来のガリオア援助に加えて、エロアによる原材料輸入が開始されることになり、日本政府は,11月25日に「新経済政策大綱案」を、12月10日には「総合施策大綱案」を発表しました。しかし、これが実行に移される前の12月に、アメリカ政府は日本の激しいインフレを収束させ、単一為替レートが設定できるような条件を整えることが必要と判断し、連合国最高司令官総司令部(GHQ)を通して、強力なインフレ収束策である「経済安定九原則」(Nine-Part Interim Directive on Stabilization)が、日本政府 (吉田茂内閣) に指令されることとなります。

〇「経済安定十原則」 1948年(昭和23)7月15日提示

 以下のような事柄から成り立っていた。
 ①重要国内資源を開発し、生産を増強する。
 ②統制物資の割当配給制度に計画性を持たせ、これを強力に実施するとともに、闇市場の徹底的撲滅を図る。
 ③食糧供給制度を改善して、割当を増加する。
 ④公的価格の厳守を図り、違反者は即時処罰する。
 ⑤弾力性ある賃金安定策を早急に実施する。
 ⑥税収増加の計画を促進し、脱税者に対し戦後インフレーションとドッジ安定化政策-戦後期物価変動の計量分析ては、刑法上の訴追をもって厳重に取り締まる。
 ⑦公平の原則によって租税の再配分を行う。
 ⑧特別会計の赤字を組織的に減少させる。
 ⑨外国貿易の管理と行政事務を改善し、日本政府の適当な機関のもとに、外国為替管理を確立する。
 ⑩現在の資金統制を強化する。

〇経済安定九原則(けいざいあんていきゅうげんそく)とは?

 昭和時代中期の1948年(昭和23)12月に、日本経済安定のために、アメリカ政府から連合国最高司令官総司令部(GHQ)を通して、日本政府 (吉田茂内閣) に指令された強力なインフレ収束策です。その内容は、①)総予算の均衡、②徴税強化、③信用膨張制限、④賃銀安定、⑤物価統制強化、⑥貿易統制改善と外為統制強化、⑦輸出増加のため資材割当改善、⑧重要国産品増産、⑨食料集荷改善を定めており、これらは単一為替レート設定の早期実現の不可欠の前提だとされました。
 この当時の日本は、復興金融債の大半を日本銀行が引き受け、日本銀行券の増発によって蓄積された資金を重要産業に供給していましたので、生産回復より通貨の増発が優先し、相当のインフレを助長していたのです。そこで、政府はアメリカからの外資導入によって、なし崩し的にインフレ収束を図りましたが、うまくいかない状況となりました。
 しかし、冷戦の激化によって、アメリカが対日占領政策を転換し、日本の経済復興に強い関心を示すに至ったことと、日本の激しいインフレを収束させ、単一為替レートが設定できるような条件を整えることが必要と判断し、この「経済安定9原則」の発表に至ったものです。これらの原則は、翌年のドッジ・ライン、シャウプ勧告に基づく税制改革に引継がれ、物価は急速に安定化の方向をたどり、1ドル=360円の単一為替レートが設定されるに至ったものの、重税や金詰りから不況の嵐が吹きまくり、大企業の合理化、中小企業の倒産が相次ぎ、庶民の暮らしは困窮が続くこととなりました。 

☆「経済安定九原則」 1948年(昭和23)12月付

 (前文省略)
  今回の経済復興計画がとくにめざすところは、
一、極力経費の節減をはかり、また必要であり、かつ適当なりと考えられる手 段を最大限度に講じてただちに総予算の均衡をはかること。
二、徴税計画を促進強化し、脱税者に対する刑事訴追を迅速広範にまた強力に 行うこと
三、信用の拡張は日本の経済復興に寄与するための計画に対するほかは厳重に 制限されていることを保障すること。
四、賃金安定実現のため効果的な計画を立てること。
五、現在の物価統制を強化し必要な場合はその範囲を拡張すること。
六、外国貿易統制事務を改善し、また現在の外国為替統制を強化し、これらの 機能を日本側期間に引継いで差支えなきにいたるように意を用いること。
七、とくに出来るだけ輸出を増加する見地より現在の資財割当配給制度を一そ う効果的に行うこと。
八、一切の重要国産原料、および製品の増産をはかること。
九、食糧集荷計画を一そう効果的に行うこと。
 以上の計画は単一為替レートの設定に実現させる途を開くためにぜひとも実施されねばならぬものである。

  『資料戦後二十年史』より

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

842年(承和9)第52代の天皇とされる嵯峨天皇の命日(新暦8月24日)詳細
1878年(明治11)箱根の富士屋ホテルが外国人専用ホテルとして開業する詳細
1888年(明治21)会津の磐梯山が大噴火(磐梯山1888年噴火)し、死者444人の被害が出る詳細
1948年(昭和23)「教育委員会法」(昭和23年法律170号)が公布・施行される詳細
1955年(昭和30)西ドイツのマイナウにおいて、核兵器の使用に反対する「マイナウ宣言」が発表される詳細

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 今日は、昭和時代中期の1948年(昭和23)に、連合国最高司令官総司令部(GHQ)が日本経済自立復興の為の「経済安定9原則」を指令した日です。
 経済安定9原則(けいざいあんていきゅうげんそく)は、日本経済安定のために、アメリカ政府から連合国最高司令官総司令部(GHQ)を通して、日本政府 (吉田茂内閣) に指令された強力なインフレ収束策でした。その内容は、①)総予算の均衡、②徴税強化、③信用膨張制限、④賃銀安定、⑤物価統制強化、⑥貿易統制改善と外為統制強化、⑦輸出増加のため資材割当改善、⑧重要国産品増産、⑨食料集荷改善を定めており、これらは単一為替レート設定の早期実現の不可欠の前提だとされています。
 この当時の日本は、復興金融債の大半を日本銀行が引き受け、日本銀行券の増発によって蓄積された資金を重要産業に供給していましたので、生産回復より通貨の増発が優先し、相当のインフレを助長していました。そこで、政府はアメリカからの外資導入によって、なし崩し的にインフレ収束を図りましたが、うまくいかない状況となります。
 しかし、冷戦の激化によって、アメリカが対日占領政策を転換し、日本の経済復興に強い関心を示すに至ったことと、日本の激しいインフレを収束させ、単一為替レートが設定できるような条件を整えることが必要と判断し、この「経済安定9原則」の発表に至ったものでした。これらの原則は、翌年のドッジ・ライン、シャウプ勧告に基づく税制改革に引継がれ、物価は急速に安定化の方向をたどり、1ドル=360円の単一為替レートが設定されるに至ったものの、重税や金詰りから不況の嵐が吹きまくり、大企業の合理化、中小企業の倒産が相次ぎ、庶民の暮らしは困窮が続くこととなります。
 以下に、GHQが日本政府に示した「経済安定9原則」の日本語訳を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇「経済安定9原則」1948年(昭和23)12月18日指令され翌日発表

 昭和二十三年十二月付

  (前文省略)

   今回の経済復興計画がとくにめざすところは、
一、極力経費の節減をはかり、また必要であり、かつ適当なりと考えられる手 段を最大限度に講じてただちに総予算の均衡をはかること。
二、徴税計画を促進強化し、脱税者に対する刑事訴追を迅速広範にまた強力に 行うこと
三、信用の拡張は日本の経済復興に寄与するための計画に対するほかは厳重に 制限されていることを保障すること。
四、賃金安定実現のため効果的な計画を立てること。
五、現在の物価統制を強化し必要な場合はその範囲を拡張すること。
六、外国貿易統制事務を改善し、また現在の外国為替統制を強化し、これらの 機能を日本側期間に引継いで差支えなきにいたるように意を用いること。
七、とくに出来るだけ輸出を増加する見地より現在の資財割当配給制度を一そ う効果的に行うこと。
八、一切の重要国産原料、および製品の増産をはかること。
九、食糧集荷計画を一そう効果的に行うこと。
 以上の計画は単一為替レートの設定に実現させる途を開くためにぜひとも実施されねばならぬものである。

            『資料戦後二十年史』より

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1914年(大正3)東京駅の開業式が行われる(東京駅完成記念日)詳細
1947年(昭和22)過度経済力集中排除法」が公布施行される詳細


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