ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:近衛文麿

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 今日は、昭和時代前期の1940年(昭和15)に、新体制運動推進のために大政翼賛会が発足した日です。
 大政翼賛会(たいせいよくさんかい)は、近衛文麿とその側近によって、新体制運動推進のために創立された、官製の国民統制組織でした。総裁には首相が、各道府県支部長には知事が就任し、行政補助的役割を果たします。
 国防国家体制の政治的中心組織として位置づけられ、「大政翼賛の臣道実践」という観念的スローガンの下、衆議は尽くすが最終決定は総裁が下すという、ドイツナチス党の指導者原理を模倣した「衆議統裁」方式を運営原則としました。その後、太平洋戦争の進展とともに統制組織としての色彩を強め、1942年(昭和17)4月の翼賛選挙を実施して、翼賛政治体制の確立を図ります。
 それと共に、同年6月には従来各省の管轄下にあった「大日本産業報国会」、「農業報国連盟」、「商業報国会」、「日本海運報国団」、「大日本青少年団」、「大日本婦人会」の官製国民運動6団体をその傘下に収めました。さらに、同年8月町内会と部落会に翼賛会の世話役(町内会長・部落会長兼任、約21万人)を、隣組に世話人(隣組長兼任、約154万人)を置くことを決定します。
 このようにして、翼賛会体制=日本型ファシズムの国民支配組織が確立、国民生活はすべてにわたって統制されることになりました。しかし、鈴木貫太郎内閣のもとでの国民義勇隊創設に伴い、1945年(昭和20)6月13日に解散し、国民義勇隊へと発展的に解消しています。

 〇新体制運動(しんたいせいうんどう)とは?

 近衛文麿が中心となり、ドイツのナチ党やイタリアのファシスト党を模して、ファッショ的政治体制樹立のため、一国一党の国民組織を結成しようとした政治運動でした。
 日中戦争の泥沼化、1939年9月のドイツ軍によるポーランド侵攻による第2次世界大戦の突発、それに伴うインフレ、物資不足、労農争議の増加など、政治・経済上の危機の増大、国民の不満の鬱積等の中で、現状を打開する方策がいろいろと検討されます。近衛文麿の側近の後藤隆之助、有馬頼寧、風見章らは,官僚や学者等を集めた「昭和研究会」をつくり、新しい国民組織をつくり上げて国民を統合し、新しい社会体制を建設する構想をまとめました。
 それに基づいて、1940年(昭和15)6月24日に、近衛文麿が枢密院議長を辞任し、記者会見において声明を出して、「新体制運動」が開始されます。軍部も「米内内閣打倒、近衛内閣樹立」運動を行い、その結果、7月22日に発足した第2次近衛内閣は、これをうけて基本国策要綱で「国内体制の刷新」と「強力な新政治体制の確立」をうたい、新体制準備会が結成されました。
 そして、各政党、労働組合も自発的に解散し、10月12日には、「大政翼賛会」が発足して、日本型のファシズム体制の確立へと向かいます。この過程で、国民は隣組、部落会、町内会などの地方自治組織と官製国民運動団体という2つのルートを通じ、ファシズム体制に組織されていくことになりました。

☆「新体制運動」関係略年表(新体制運動開始~太平洋戦争開戦まで)

<1940年(昭和15)>
・6月24日 近衛文麿による新体制運動が開始される
・7月6日 「奢侈品等製造販売制限規則」(七・七禁令)が交布され、翌日施行される
・7月22日 第2次近衛内閣が発足する
・7月 日本労働総同盟が解散される
・8月1日 東京府が食堂・料理屋などでの米食使用を禁止し、販売時間制を実施する
・8月1日 東京に「ぜいたくは敵だ!」の立看板1,500本が立てられる
・8月15日 立憲民政党が解党、大日本農民組合が解散される
・8月19日 新協・新築地両劇団員100余人が検挙される
・8月30日 文部省が学生生徒の映画・演劇鑑賞を土曜・休日に限ると通達する
・9月 鉄道省によって駅構内の英語表記が全面撤廃される
・9月11日 内務省が「部落会町内会等整備要領」を通達し、隣組(隣保班)が制度化される
・9月27日 日独伊三国同盟が調印される
・10月6日 大阪で、女子モンペ部隊が、贅沢全廃強調大行進を行う
・10月10日 「牛乳および乳製品配給統制規則」が交布される
・10月12日 「大政翼賛会」が発足する
・10月24日 農林省令「米穀管理規則」が交布される
・10月31日 東京でダンスホールが完全閉鎖される
・10月31日 タバコの改名が発表される(ゴールデンバット→金鵄、チェリー→桜、カメリア→椿など)
・11月1日 砂糖・マッチ切符制の全国実施がされる
・11月2日 「国民服令」が公布施行され、男子の服装として国民服が定められる
・11月10日 紀元2600年祝賀行事が行われる(昼酒が許可されもち米が特配される)
・11月23日 大日本産業報国会が結成される

<1941年(昭和16)>
・1月1日 全国の映画館で、ニュース映画の強制上映が実施される
・1月11日 「新聞紙等掲載制限令」が公布される
・1月16日 大日本青少年団が結成される
・1月23日 「人口政策要綱」が閣議決定される(「生めよ殖やせよ」の推進)
・1月25日 東京などの商店で午後9時閉店を実施する
・3月1日 「国民学校令」が交布され、尋常小学校(6年)・高等小学校(2年)が、国民学校(初等科6年・高等科2年)に変更される
・3月7日 「国防保安法」が交布される
・3月10日 「治安維持法」改正(予防拘禁制を追加)が交布される
・3月19日 時間外電報が廃止され、慶弔電報の取扱い中止される
・3月19日 厚生省が婦人標準服研究会を組織する
・3月31日 朝鮮総督府、朝鮮語を学習科目から外す
・4月1日 「生活必需物資統制令」が交布される
・4月1日 六大都市で米穀配給通帳制(1日1人2合3勺=約330g)実施、米の配給受け取りに必要となる
・4月上旬 中学校新入生の制服が男子は国民服に戦闘帽、女子は襟を右前にしたへちま型となる
・5月8日 初の「肉なしデー」が実施され、以後月2回とされる(肉屋・食堂で肉の不売実施)
・5月19日 東京市が夏季ビールの配給は1世帯8本と決定する
・6月7日 家庭用食用油の切符制が実施される
・7月1日 全国の隣組、いっせいに常会を開く(以後毎月1日実施)
・7月21日 文部省教学局から『臣民の道』が刊行される
・8月10日 鉄道省がガソリン節約のためガソリンカーの運転を削減する
・8月30日 「金属類回収令」が交布される
・8月30日 大学に教練担当現役将校が配属される
・9月1日 東京市で砂糖・マッチ・小麦粉・食用油の集成配給切符制が実施される
・9月1日 ガソリンを使用するタクシーが禁止される
・10月1日 一般家庭用ガスの使用制限が実施される
・10月4日 「臨時郵便取締令」が公布され、外国郵便を開封検閲するようになる
・10月10日 農林省が芋類の増産と桑園の整理を通牒する
・10月19日 婦人国民服が公募され、入選発表される
・11月 たばこが値上げされる(敷島35銭、朝日25銭、光18銭)
・11月22日 「国民勤労報国協力令」が交布され、14~40歳の男子と14~25歳の未婚女子の年30日以内の勤労奉仕が義務化される
・12月8日 米英両国に宣戦布告、太平洋戦争始まる
・12月8日 日米開戦により、新聞・ラジオの天気予報、気象報道が中止される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1694年(元禄7)俳聖松尾芭蕉の命日で、「芭蕉忌」とされる(新暦11月28日)詳細
1881年(明治14)「国会開設の勅諭」が出される詳細
1937年(昭和12)国民精神総動員中央連盟が発足し、国民精神総動員運動が始まる詳細
1943年(昭和18)東條内閣が「教育ニ関スル戦時非常措置方策」を閣議決定する詳細
1946年(昭和21)GHQが「日本史授業再開に関する覚書」(SCAPIN-1266)を出す詳細
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 今日は、昭和時代前期の1940年(昭和15)に、近衛文麿の東京の私邸(荻外荘)に於いて、荻窪会談が開催された日です。
 荻窪会談(おぎくぼかいだん)は、第二次近衛内閣の組閣を任された近衛文麿が、東京府東京市杉並区の私邸(荻外荘)で、大臣就任予定者を招いて開いた会談で、松岡洋右(外相)、吉田善吾(海相)、東條英機(陸相)の計4名が参加しました。ここにおいて、ドイツ・イタリアとの提携強化を含む第二次近衞内閣(7月22日発足)の基本方針が話し合われます。
 当時は、日中戦争が長期化・大規模化する中、ドイツ軍の電撃戦の成功によって、ドイツはベルギー、フランスを席巻し、さらにフランスを降伏させたことで日本の支配層の南進の野望が大きくなった時代背景の下にありました。その内容は、戦争路線の方針決定、日独伊枢軸の強化、日ソ不可侵協定の締結、英・仏・蘭・葡の植民地を東亜新秩序に包含せしめるための積極的処理の実施などとなります。
 この会談後、7月22日に第二次近衛内閣が発足し、その政策として、日独伊三国同盟の締結・全政党解散・大政翼賛会の発会などが行われ、日本型ファシズムの道へと邁進しました。しかし、日米開戦の回避を巡る政府部内で意見が対立し、近衛首相は東條陸相と何度も話し合いをしたものの、妥協点が見つからず、なお戦争回避を模索しつつ、1941年(昭和16)10月16日に総辞職します。
 その後、東條英機内閣が成立しましたが、同年12月8日に「米國及英國ニ對スル宣戰ノ詔書(宣戦詔勅)」が出され、米英両国に宣戦布告、太平洋戦争に突入することとなりました。
 以下に、「荻窪会談覚書」を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇「荻窪会談覚書」 1940年(昭和15)7月19日

一九四〇年七月十九日

一、 支那事變ノ處理及世界新情勢ニ對應スヘキ我方施策ヲ展開スルタメ我戰時經濟政策ノ强化確立ヲ以テ內外政策ノ根基トス之カタメ我經濟活動ハ作戰軍カ軍ノ生存上自ラ處理指導スルコトヲ絕對必要トスルモノヲ除キ一切政府ニ於テ一元的ニ指導シ極力之ヲ振作ス

二、 對世界政策
(一) 世界情勢ノ急變ニ對應シ且速ニ東亞新秩序ヲ建設スルタメ日獨伊樞軸ノ强化ヲ圖リ東亞諸國ハ互ニ策應シテ諸般ノ重要政策ヲ遂行ス但シ右樞軸强化ノ方法及ヒ之カ實現ノ時機等ニ就テハ世界情勢ニ卽應シテ機宜ヲ失ハサルコトヲ期ス
(二) 對ソ關係ハ之ト日滿蒙間國境不可侵協定(有効期間五年乃至十年)ヲ締結シ且懸案ノ急速解決ヲ圖ルト共ニ右不可侵協定有効期間內ニ對ソ不敗ノ軍備ヲ充實ス。
(三) 東亞及隣接島嶼ニ於ケル英佛蘭葡殖民地ヲ東亞新秩序ノ內容ニ包含セシムルタメ積極的ノ處理ヲ行フ但右ニ關シ列國會議ヲ排除スルニ努ム
(四) 米國ニ對シテハ無用ノ衝突ヲ避クルモ東亞新秩序ノ建設ニ關スル限リ彼ノ實力干涉ヲモ排除スルノ固キ決意ヲ以テ我方針ノ實現ヲ期ス

  「日本外交年表竝主要文書 下巻」外務省編より

☆荻窪会談から太平洋戦争開戦に至る略年表

<1940年(昭和15)>

・7月19日 荻窪会議が開催される
・7月21日 第二次近衛内閣が発足、日本労働総同盟が自主解散を決議し、産業報国会に合流する
・7月26日 第二次近衛内閣によって国家の政策の基本方針である「基本国策要綱」が閣議決定される
・7月27日 大本營政府連絡会議において「世界情勢ノ推移ニ伴フ時局処理要綱」が決定される
・8月1日 東京府が食堂・料理屋などでの米食使用を禁止し、販売時間制を実施、東京に「ぜいたくは敵だ!」の立看板1,500本が立てられる
・8月15日 立憲民政党が解党され、日本の全政党が解散、大日本農民組合も解散される
・8月19日 新協・新築地両劇団員100余人が検挙される
・8月30日 文部省が学生生徒の映画・演劇鑑賞を土曜・休日に限ると通達する
・9月 鉄道省によって駅構内の英語表記撤廃検討される
・9月11日 内務省が「部落会町内会等整備要領」を通達、隣組(隣保班)が制度化される
・9月27日 日独伊三国同盟が締結される
・10月6日 大阪で、女子モンペ部隊が、贅沢全廃強調大行進を行う
・10月10日 「牛乳および乳製品配給統制規則」が交布される
・10月12日 大政翼賛会が発足する
・10月24日 農林省令「米穀管理規則」が交布される
・10月31日 東京でダンスホールが完全閉鎖され、タバコの改名が発表される(ゴールデンバット→金鵄、チェリー→桜、カメリア→椿など)
・11月1日 砂糖・マッチ切符制の全国実施がされる
・11月2日 「国民服令」が公布・施行、男子の服装として国民服が定められる
・11月10日 紀元2600年祝賀行事が行われる(昼酒が許可されもち米が特配される)
・11月23日 大日本産業報国会が結成される

<1941年(昭和16)>

・1月1日 全国の映画館で、ニュース映画の強制上映が実施される
・1月11日 「新聞紙等掲載制限令」が公布される
・1月16日 大日本青少年団が結成される
・1月22日 「人口政策確立要綱」が閣議決定される(生めよ殖やせよ)
・1月25日 東京などの商店で午後9時閉店を実施する
・3月1日 「国民学校令」が交布され、尋常小学校(6年)・高等小学校(2年)が、国民学校(初等科6年・高等科2年)に変更される
・3月7日 「国防保安法」が交布される
・3月10日 「治安維持法」改正(予防拘禁制を追加)が交布される
・3月19日 時間外電報が廃止され、慶弔電報の取扱いが中止され、厚生省が婦人標準服研究会を組織する
・3月31日 朝鮮総督府、朝鮮語を学習科目から外す
・4月1日 「生活必需物資統制令」が交布され、六大都市で米穀配給通帳制(1日1人2合3勺=約330g)が実施、米の配給受け取りに必要となる
・4月上旬 中学校新入生の制服が男子は国民服に戦闘帽、女子は襟を右前にしたへちま型となる
・5月8日 初の「肉なしデー」実施、以後月2回とされる(肉屋・食堂で肉の不売実施)
・5月19日 東京市が夏季ビールの配給は1世帯8本と決定する
・6月7日 家庭用食用油の切符制が実施される
・6月10日 「新婦人団体結成要綱」が閣議決定される
・7月1日 全国の隣組、いっせいに常会を開く(以後毎月1日実施)
・7月2日 第5回御前会議において「情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱」が決定される
・7月18日 第三次近衛内閣が発足する
・7月21日 文部省教学局から『臣民の道』が刊行される
・7月28日 日本軍が南部仏印進駐を開始する
・8月10日 鉄道省がガソリン節約のためガソリンカーの運転を削減する
・8月30日 「金属類回収令」が交布され、大学に教練担当現役将校が配属される
・9月1日 東京市で砂糖・マッチ・小麦粉・食用油の集成配給切符制が実施され、ガソリンを使用するタクシーが禁止される
・9月6日 第6回御前会議において「帝国国策遂行要綱」が決定される
・9月19日 内閣情報局の指示で、映画制作会社10社が松竹・東宝・大映の三社に統合される
・10月1日 一般家庭用ガスの使用制限が実施される
・10月4日 「臨時郵便取締令」が公布され、外国郵便を開封検閲するようになる
・10月10日 農林省が芋類の増産と桑園の整理を通牒する
・10月16日 第三次近衛内閣が総辞職し、東条英機内閣が誕生する
・10月19日 婦人国民服が公募され、入選発表される
・11月 たばこが値上げされる(敷島35銭、朝日25銭、光18銭)
・11月5日 第7回御前会議において「帝国国策遂行要綱」が決定される
・11月22日 「国民勤労報国協力令」が交布され、14~40歳の男子と14~25歳の未婚女子の年30日以内の勤労奉仕が義務化される
・12月8日 「米國及英國ニ對スル宣戰ノ詔書(宣戦詔勅)」が出され、米英両国に宣戦布告、太平洋戦争が始まる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

931年(承平元)第59代の天皇とされる宇多天皇の命日(新暦9月3日)詳細
1829年(文政12)国学者・旅行家菅江真澄の命日(新暦8月18日)詳細
1864年(元治元)京都で蛤御門の変(禁門の変)が起きる(新暦8月20日)詳細
1888年(明治21)剣術家・政治家山岡鉄舟の命日詳細


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 今日は、太平洋戦争末期の1945年(昭和20)に、近衛文麿が昭和天皇に対して、上奏文(近衛上奏文)を出した日です。
 近衛上奏文(このえじょうそうぶん)は、太平洋戦争の状況が悪化し、1945年(昭和20)になり、アメリカ軍がフィリピン・ルソン島上陸の準備をしているとの報を受けて、昭和天皇が内大臣木戸幸一に重臣の意見を聞くことを求めた中で、かつての首相だった近衛文麿が2月14日に奉伺するに際しての上奏文でした。その内容は、国体護持の立場より、憂うべきは敗戦よりもこれに伴う共産革命だとして、早期終戦を提案したもので、陸軍は主流派である統制派を中心に共産主義革命を目指しており、日本の戦争突入や戦局悪化は、ソビエトなど国際共産主義勢力と結託した陸軍による、日本共産化の陰謀であるとする陰謀論も主張しています。
 これに対して、昭和天皇から「もう一度戦果を挙げてからでないと中々話は難しいと思ふ。 」との御下問があり、近衛は、「そう云う戦果が挙がれば誠に結構と思はれますが、そう云う時期が御座いませうか。之も近き将来ならざるべからず。半年、一年先では役に立つまいと思ひます。」と返答したとされてきました。その後、戦況はさらに悪化し、4月13日の東京大空襲、6月23日の沖縄陥落、8月6日の広島原子爆弾投下、8月9日の長崎原子爆弾投下、そして、ポツダム宣言の受諾により、8月15日に「大東亜戦争終結ノ詔書」(玉音放送)が流されて連合国への無条件降伏が国民に伝えられます。
 以下に、「近衛上奏文」を全文掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇「近衛上奏文」 1945年(昭和20)2月14日

上奏文

敗戰ハ遺憾ナカラ最早必至ナリト存候、以下此ノ前提ノ下ニ申述候。

敗戰ハ我カ國體ノ瑕瑾タルヘキモ、英米ノ輿論ハ今日マテノ所國體ノ變革トマテハ進ミ居ラス(勿論一部ニハ過激論アリ、又將來如何ニ變化スルヤハ測知シ難シ)隨テ敗戰タケナラハ國體上ハサマテ憂フル要ナシト存候。國體ノ護持ノ建前ヨリ最モ憂フルヘキハ敗戰ヨリモ敗戰ニ伴フテ起ルコトアルヘキ共產革命ニ御座候。ツラツラ思フニ我カ國內外ノ情勢ハ今ヤ共產革命ニ向ツテ急速度ニ進行シツツアリト存候。卽チ國外ニ於テハソ聯ノ異常ナル進出ニ御座候。我カ國民ハソ聯ノ意圖ハ的確ニ把握シ居ラス、カノ一九三五年人民戰線戰術卽チ二段革命戰術ノ採用以來、殊ニ最近コミンテルン解散以來、赤化ノ危険ヲ輕視スル傾向顯著ナルカ、コレハ皮相且安易ナル見方ト存候。ソ聯ハ究極ニ於テ世界赤化政策ヲ捨テサルハ最近歐洲諸國ニ對スル露骨ナル策動ニヨリ明瞭トナリツツアル次第ニ御座候。
ソ聯ハ歐洲ニ於テ其周邊諸國ニハソヴィエット的政權ヲ爾餘ノ諸國ニハ少クトモ親ソ容共政權ヲ樹立セントシ、着々其ノ工作ヲ進メ、現ニ大部分成功ヲ見ツツアル現狀ニ有之候。
ユーゴーノチトー政權ハ其ノ最典型的ナル具體表現ニ御座候。波蘭ニ對シテハ豫メソ聯內ニ準備セル波蘭出國者聯盟ヲ中心ニ新政權ヲ樹立シ、在英亡命政權ヲ問題トセス押切申候。
羅馬尼、勃牙利、芬蘭ニ對スル休戰條件ヲ見ルニ內政不干涉ノ原則ニ立チツツモ、ヒツトラー支持團體ノ解散ヲ要求シ、實際上ソヴイエツト政權ニ非サレハ存在シ得サル如ク致シ候。
イランニ對シテハ石油利權ノ要求ニ應セサル故ヲ以ツテ、內閣總辭職ヲ强要致シ候。瑞西カソ聯トノ國交開始ヲ提議セルニ對シソ聯ハ瑞西政府ヲ以テ親樞軸的ナリトシテ一蹴シ、之カ爲外相ノ辭職ヲ餘儀ナクセシメ候。
英米占領下ノ佛蘭西、白耳義、和蘭ニ於テハ對獨戰ニ利用セル武裝蜂起團ト政府トノ間ニ深刻ナル鬪爭續ケラレ、且之等諸國ハ何レモ政治的危機ニ見舞ハレツツアリ、而シテ是等武裝團ヲ指揮シツツアルモノハ主トシテ共產系ニ御座候。獨逸ニ對シテハ波蘭ニ於ケルト同シク已ニ準備セル自由獨逸委員會ヲ中心ニ新政權ヲ樹立セントスル意圖ナルヘク、コレハ英米ニ取リ今日頭痛ノ種ナリト存候。
ソ聯ハカクノ如ク歐洲諸國ニ對シ表面ハ、內政不干涉ノ立場ヲ取ルモ事實ニ於テハ極度ノ內政干涉ヲナシ、國內政治ヲ親ソ的方向ニ引スラント致シ居候。
ソ聯ノ此意圖ハ東亞ニ對シテモ亦同樣ニシテ、現ニ延安ニハモスコーヨリ來レル岡野ヲ中心ニ日本解放聯盟組織セラレ朝鮮獨立同盟、朝鮮義勇軍、臺灣先鋒隊等ト連絡、日本ニ呼ヒカケ居リ候。カクノ如キ形勢ヨリ押シテ考フルニ、ソ連ハヤカテ日本ノ內政ニ干涉シ來ル危険十分アリト存セラレ候(卽チ共產黨公認、ドゴール政府、バドリオ政府ニ要求セシ如ク共產主義者ノ入閣、治安維持法及防共協定ノ廢止等々)飜テ國內ヲ見ルニ、共產革命達成ノアラユル條件日々具備セラレユク觀有之候。卽生活ノ窮乏、勞働者發言度ノ增大、英米ニ對スル敵慨心ノ昂揚ノ反面タル親ソ氣分、軍部內一味ノ革新運動、之ニ便乘スル新謂新官僚ノ運動、及之ヲ背後ヨリ操リツツアル左翼分子ノ暗躍等ニ御座候。右ノ內特ニ憂慮スヘキハ軍部內一味ノ革新運動ニ有之候。
少壯軍人ノ多數ハ我國體ト共產主義ハ兩立スルモノナリト信シ居ルモノノ如ク、軍部內革新論ノ基調モ亦ココニアリト存シ候。職業軍人ノ大部分ハ中流以下ノ家庭出身者ニシテ、其ノ多クハ共產的主張ヲ受ケ入レ易キ境遇ニアリ、又彼等ハ軍隊敎育ニ於テ國體觀念タケハ徹底的ニ叩キ込マレ居ルヲ以テ、共產分子ハ國體ト共產主義ノ兩立論ヲ以テ彼等ヲ引キスラントシツツアルモノニ御座候。
抑々滿洲事變、支那事變ヲ起シ、之ヲ擴大シテ遂ニ大東亞戰爭ニマテ導キ來レルハ是等軍部內ノ意織的計畫ナリシコト今ヤ明瞭ナリト存候。滿洲事變當時、彼等カ事變ノ目的ハ國內革新ニアリト公言セルハ、有名ナル事實ニ御座候。支那事變當時モ「事變永引クカヨロシク事變解決セハ國內革新カ出來ナクナル」ト公言セシハ此ノ一味ノ中心人物ニ御座候。
是等軍部內一味ノ革新論ノ狙ヒハ必スシモ共產革命ニ非ストスルモ、コレヲ取巻ク一部官僚及民間有志(之ヲ右翼トイフモ可、左翼トイフモ可ナリ、所謂右翼ハ國體ノ衣ヲ着ケタル共產主義ナリ)ハ意識的ニ共產革命ニマテ引キスラントスル意圖ヲ包藏シ居リ、無智單純ナル軍人之ニ躍ラサレタリト見テ大過ナシト存候。此事ハ過去十年間軍部、官僚、右翼、左翼ノ多方面ニ亘リ交友ヲ有セシ不肖カ最近靜カニ反省シテ到達シタル結論ニシテ此結論ノ鏡ニカケテ過去十年間ノ動キヲ照ラシ見ル時、ソコニ思ヒ當ル節々頗ル多キヲ感スル次第ニ御座候。
不肖ハ此間二度マテ組閣ノ大命ヲ拜シタルカ國內ノ相剋摩擦ヲ避ケンカ爲出來ルタケ是等革新論者ノ主張ヲ容レテ擧國一體ノ實ヲ擧ケント焦慮セルノ結果、彼等ノ主張ノ背後ニ潜メル意圖ヲ十分看取スル能ハサリシハ、全ク不明ノ致ス所ニシテ何トモ申譯無之深ク責任ヲ感スル次第ニ御座候。
昨今戰局ノ危急ヲ吿クルト共ニ一億玉碎ヲ叫フ聲次第ニ勢ヲ加ヘツツアリト存候。カカル主張ヲナス者ハ所謂右翼者流ナルモ背後ヨリ之ヲ煽動シツツアルハ、之ニヨリテ國內ヲ混亂ニ陷レ遂ニ革命ノ目的ヲ達セントスル共產分子ナリト睨ミ居リ候。
一方ニ於テ徹底的ニ米英擊滅ヲ唱フル反面、親ソ的空氣ハ次第ニ濃厚ニナリツツアル樣ニ御座候。軍部ノ一部ハイカナル犧牲ヲ拂ヒテモソ聯ト手ヲ握ルヘシトサヘ論スルモノモアリ、又延安トノ提携ヲ考ヘ居ル者モアリトノ事ニ御座候。
以上ノ如ク國ノ內外ヲ通シ共產革命ニ進ムヘキアラユル好條件カ日一日ト成長致シツツアリ、今後戰局益々不利トモナラハ此形勢ハ急速ニ進展致スヘクト存候。
戰局ノ前途ニ付キ何等カ一縷テモ打開ノ望ミアリト云フナラハ格別ナレト、敗戰必至ノ前提ノ下ニ論スレハ勝利ノ見込ナキ戰爭ヲ之以上繼續スルハ、全ク共產黨ノ手ニ乘ルモノト存シ、隨テ國體護持ノ立場ヨリスレハ、一日モ速ニ戰爭終結ヲ講スヘキモノナリト確信仕リ候。
戰爭終結ニ對スル最大ノ障害ハ滿洲事變以來今日ノ事態ニマテ時局ヲ推進シ來タリシ軍部內ノカノ一味ノ存在ナリト存候。彼等ハ已ニ戰爭遂行ノ自信ヲ失ヒ居ルモ、今迄ノ面目上飽クマテ抵抗可致者ト存セラレ候。
モシ此ノ一味ヲ一掃セスシテ早急ニ戰爭終結ノ手ヲ打ツ時ハ右翼、左翼ノ民官有志、此ノ一味ト對應シテ、國內ニ一大混亂ヲ惹起シ所期ノ目的ヲ達成シ難キ恐有之候。從テ戰爭ヲ終結セントスレハ先ツ其前提トシテ此一味ノ一掃カ肝要ニ御座候。
此ノ一味サヘ一掃セラルレハ、便乘ノ官僚並ニ右翼、左翼ノ民間分子モ影ヲ潜ムヘク候。蓋シ彼等ハ未タ大ナル勢力ヲ結成シ居ラス、軍部ヲ利用シテ野望ヲ達セントスル者ニ外ナラサルカ故ニソノ本ヲ絕テハ枝葉ハ自ラ枯ルルモノナリト存候。
尙コレハ少々希望的觀測カハ知レス候ヘ共モシ是等一味カ一掃セラルルトキハ、軍部ノ相貌ハ一變シ、米英及重慶ノ空氣或ハ緩和スルニ非サルカ。元來米英及重慶ノ目標ハ日本軍閥ノ打倒ニアリト申シ居ルモ、軍部ノ性格カ變リソノ政策カ改マラハ、彼等トシテモ、戰爭ノ繼續ニ付キ考慮スル樣ニナリハセスヤト思ハレ候。ソレハトモ角トシテ、此ノ一味ヲ一掃シ軍部ノ建直シヲ實行スルコトハ、共產革命ヨリ日本ヲ救フ前提、先決條件ナレハ、非常ノ御勇斷ヲコソ願ハシク奉存候。

   「日本外交年表竝主要文書 下巻」外務省編より

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1967年(昭和42)小説家山本周五郎の命日詳細
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 今日は、昭和時代前期の1938年(昭和13)に、御前会議において、「日支新関係調整方針」が決定された日です。
 「日支新関係調整方針(にっししんかんけいちょうせいほうしん)」は、1937年(昭和12)から始まった日中戦争の中で、今後の日中関係調整のため準拠すべき大綱として、日中間に締結すべき事項、対中施策の根底となる事項などを取りまとめたもので、東亜新秩序建設の具体的目標を示すものでした。その内容は、①善隣友好の原則に関する事項、②共同防衛の原則に関する事項、③経済提携の原則に関する事項からなり、これに基づいて、12月22日に近衛文麿首相は、「善隣友好、共同防共、経済提携」の根本方針を明らかにした「日支国交調整方針に関する声明」(第三次近衛声明)を発します。
 これに呼応して、12月29日に汪兆銘ら中国国民政府投降派は、脱出先のハノイで、国民党へ対日和平の決断を促す通電を公表しましたが、国民政府内で汪に呼応するものは少数で、国民政府の分裂、屈服を期待した汪兆銘工作は失敗し、日中戦争はさらに泥沼化していきました。
 以下に、「日支新関係調整方針」と「日支国交調整方針に関する声明」(第三次近衛声明)を全文掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇「日支新関係調整方針」 1938年(昭和13)11月30日御前会議決定

日満支三国は東亜に於ける新秩序建設の理想の下に相互に善隣として結合し東洋平和の枢軸たることを共同の目標と為す之が為基礎たるべき事項左の如し

一、互恵を基調とする日満支一般提携就中善隣友好、防共共同防衛、経済提携原則の設定
二、北支及び蒙彊に於ける国防上竝経済上(特に資源の開発利用)日支強度結合地帯の設定
  蒙彊地方は前項の外特に防共の為軍事上竝政治上特殊地位の設定
三、揚子江下流地域に於ける経済上日支強度結合地帯の設定
四、南支沿岸特定島嶼に於ける特殊地位の設定
  之が具体的事項に関しては別紙要項に準拠す

別紙

 日支新関係調整要項

 第一 善隣友好の原則に関する事項

日満支三国は相互に本然の特質を尊重し渾然相提携して東洋の平和を確保し善隣友好の実を挙ぐる為各般に亘り互助連環有効促進の手段を講ずること

一、支那は満洲帝国を承認し日本及び満洲は支那の領土及び主権を尊重し日満支三国は新国交を修復す
二、日満支三国は政治、外交、教育、宣伝、交易等諸般に亙り相互に好誼を破壊するが如き措置及び原因を撤廃し且将来に亙り之を禁絶す
三、日満支三国は相互提携を基調とする外交を行い之に反するが如き一切の措置を第三国との関係に於いて執らざるものとす
四、日満支三国は文化の融合、創造及び発展に協力す
五、新支那の政治形態は分治合作主義に則り施策す
  蒙彊は高度の防共自治区域とす
  上海、青島、厦門は各々既定方針に基づく特別行政区域とす
六、日本は新中央政府に少数の顧問を派遣し新建設に協力す特に強度結合地帯其の他特定の地域に在りては所要の機関に顧問を配置す
七、日満支善隣関係の具現に伴い日本は漸次租界、治外法権等の返還を考慮す

 第二 共同防衛の原則に関する事項

日満支三国は協同して防共に当たると共に共通の治安安寧の維持に関し協力すること

一、日満支三国は各々其の領域内に於ける共産分子及び組織を芟除すると共に防共に関する情報宣伝等に関し提携協力す
二、日支協同して防共を実行す
  之が為日本は所要の軍隊を北支及び蒙彊の要地に駐屯す
三、別に日支防共軍事同盟を締結す
四、第二項以外の日本軍隊は全般竝局地の情勢に即応し成るべく早急に之を撤収す
  但し保障の為北支及び南京、上海、杭州三角地帯に於けるものは治安の確立する迄之を駐屯せしむ
  共通の治安安寧維持の為揚子江沿岸特定の地点及び南支沿岸特定の島嶼及び之に関連する地点に若干の艦船部隊を駐屯す尚揚子江及び支那沿岸に於ける艦船の航泊は自由とす
五、支那は前項治安協力のための日本の駐兵に対し財政的協力の義務を負う
六、日本は概ね駐兵地域に存在する鉄道、航空、通信竝主要港湾水路に対し軍事上の要求権及び監督権を保留す
七、支那は警察隊及び軍隊を改善整理すると共に之が日本軍駐屯地域の配置竝軍事施設は当分治安及び国防上必要の最小限とす
  日本は支那の軍隊警察隊建設に関し顧問の派遣、武器の供給等に依り協力す

 第三 経済提携の原則に関する事項

日満支三国は互助連環及び共同防衛の実を挙ぐるため産業経済等に関し長短相補有無相通の趣旨に基づき共同互恵を旨とすること

一、日満支三国は資源の開発、関税、交易、航空、交通、通信、気象、測量等に関し前記主旨竝以下各項の要旨を具現する如く所要の協定を締結す
二、資源の開発利用に関しては北支蒙彊に於いて日満の不足資源就中埋蔵資源を求むるを以て施策の重点とし支那は共同防衛竝経済的結合の見地より之に特別の便益を供与し其の他の地域に於いても特定資源の開発に関し経済的結合の見地より必要なる便益を供与す
三、一般産業に就ては努めて支那側の事業を尊重し日本は之に必要なる援助を与う
  農業に関しては所要原料資源の培養を図る
四、支那の財政経済政策の確立に関し日本は所要の援助をなす
五、交易に関しては妥当なる関税竝海関制度を採用し日満支間の一般通商を振興すると共に日満支就中北支間の物資需給を便宜且合理的ならしむ
六、支那に於ける交通、通信、気象竝測量の発達に関しては日本は所要の援助乃至協力を与う
  全支に於ける航空の発達、北支に於ける鉄道(隴海線を含む)、日支間及び支那沿岸に於ける主要海運、揚子江に於ける水運竝北支及び揚子江下流に於ける通信は日支交通協力の重点とす
七、日支協力に依り新上海を建設す

一、支那は事変勃発以来支那に於いて日本国民の蒙りたる権利利益の損害を補償す
二、第三国の支那に於ける経済活動乃至権益が日満支経済提携強化の為自然に制限せらるるは当然なるも右強化は主として国防及び国家存立の必要に立脚せる範囲のものたるべく右目的の範囲を超えて第三国の活動乃至権益を不当に排除制限せんとするものに非ず

   アジア歴史センター「日支新関係調整方針」より

〇日支国交調整方針に関する声明(第三次近衛声明) (全文) 1938年(昭和13)12月22日

日支国交調整方針に関する声明

(昭和十三年十二月二十二日内閣総理大臣談)

 政府は本年再度の声明に於て明かにしたる如く、終始一貫、抗日国民政府の徹底的武力掃蕩を期すると共に、支那に於ける同憂具眼の士と相携へて東亜新秩序の建設に向つて邁進せんとするものである。今や支那各地に於ては更生の勢澎湃として起り、建設の気運愈々高まれるを感得せしむるものがある。是に於て政府は、更生新支那との関係を調整すべき根本方針を中外に闡明し、以て帝国の真意徹底を期するものである。
 日満支三国は東亜新秩序の建設を共同の目的として結合し、相互に善隣友好、共同防共、経済提携の実を挙げんとするものである。之が為には支那は先づ何よりも旧来の偏狭なる観念を清算して抗日の愚と満洲国に対する拘泥の情とを一擲することが必要である。即ち日本は支那が進んで満洲国と完全なる国交を修めんことを率直に要望するものである。
 次に東亜の天地にはコミンテルン勢力の存在を許すべからざるが故に、日本は日独伊防共協定の精神に則り、日支防共協定の締結を以て日支国交調整上喫緊の要件とするものである。而して支那に現存する実情に鑑み、この防共の目的に対する十分なる保障を挙ぐる為には、同協定継続期間中、特定地点に日本軍の防共駐屯を認むること及び内蒙地方を特殊防共地域とすべきことを要求するものである。
 日支経済関係に就いては、日本は何等支那に於て経済的独占を行はんとするものに非ず、又新しき東亜を理解しこれに即応して行動せんとする善意の第三国の利益を制限するが如きことを支那に求むるものにも非ず、唯飽く迄日支の提携と合作とをして実効あらしめんことを期するものである。即ち日支平等の原則に立つて、支那は帝国臣民に支那内地に於ける居住営業の自由を容認して日支両国民の経済的利益を促進し、且つ日支間の歴史的経済的関係に鑑み、特に北支及内蒙地域に於てはその資源の開発利用上、日本に対し積極的に便宜を与ふることを要求するものである。
 日本の支那に求むるものが区々たる領土に非ず、又戦費の賠償に非ざることは自ら明かである。日本は実に支那が新秩序建設の分担者としての職能を実行するに必要なる最小限度の保障を要求せんとするものである。日本は支那の主権を尊重するは固より、進んで支那の独立完成の為に必要とする治外法権を撤廃し且つ租界の返還に対して積極的なる考慮を払ふに吝ならざるものである。    

   『外務大臣(其ノ他)ノ演説及声明集 第三巻』より

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 今日は、昭和時代前期の1940年(昭和15)に、第4回御前会議において「支那事変処理要綱」を決定した日です。
 「支那事変処理要綱(しなじへんしょりようこう)」は、期限附きで重慶国民政府(重慶政権)との和平交渉を行うことを決めたもので、「日満華共同宣言」、「日華基本条約」締結についての最終的な意思確認と共に行われました。その内容は、同年7月決定の「世界情勢の推移に伴う時局処理要綱」に準拠し、武力戦を続行するほか、英米援蒋行為の禁絶を強化と日独伊三国同盟を活用し日ソ国交調整を尽くし、重慶国民政府(重慶政権)を屈服させるとしたものです。
 具体的には、「新中央政府」(汪兆銘政権)との条約締結の目標を同年11月末に設定した上で、ここまでに重慶国民政府(重慶政権)との間に和平が成立しない場合、「長期戦方略ヘノ転移ヲ敢行シ飽ク迄モ重慶政権屈服ヲ期ス」としました。その一方で、「新中央政府ニ対シテハ一意帝国綜合戦力ノ強化ニ必要ナル諸施策ニ協力セシムルコトヲ主眼」としています。
 以下に、「支那事変処理要綱」を全文掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇第4回御前会議の出席者と議事進行 1940年(昭和15)11月13日

<出席者>
 昭和天皇、近衛文麿首相、松岡洋右外相、河田烈蔵相、東條英機陸相、及川古志郎海相、企画院総裁、参謀総長、軍令部総長
<勅旨での出席者>
 枢密院議長、興亜院総務長官、興亜院政務部長、参謀次長、参謀本部第一部長、軍令部次長、軍令部第一部長
<幹事>
 内閣書記官長、陸軍省軍務局長、海軍省軍務局長
<議事進行要領>
・昭和天皇入室
・近衛文麿首相による議事内容の説明
・松岡洋右外務大臣による経過説明
・質疑応答
・統帥部(軍営部総長・参謀総長)よりの所見・説明
・質疑応答
・近衛文麿首相が原案可決を言う
・近衛文麿首相の会議終了の言上
・昭和天皇退出
・議題参列者の花押、上奏手続き

☆「支那事変処理要綱」1940年(昭和15)11月13日御前会議決定

  方針

支那事變ノ處理ハ昭和十五年七月決定「世界情勢ノ推移ニ伴フ時局處理要綱」ニ準據シ

一、武力戰ヲ續行スルノ外英米援蔣行爲ノ禁絕ヲ强化シ且日蘇國交ヲ調整スル等政戰兩略ノ凡有手段ヲ盡シテ極力重慶政權ノ抗戰意志ヲ衰滅セシメ速カニ之カ屈伏ヲ圖ル

二、適時內外ノ態勢ヲ積極的ニ改善シテ長期大持久戰ノ遂行ニ適應セシメ且大東亞新秩序建設ノ爲必要トスル帝國國防力ノ彈撥性ヲ恢復增强ス

三、以上ノ爲特ニ日獨伊三國同盟ヲ活用ス

  要領

一、重慶政權ノ屈伏ヲ促進シ之ヲ對手トスル熄戰和平ヲ圖ル爲ノ諸工作次ノ如シ
 本工作ハ新中央政府承認迄ニ其ノ實效ヲ收ムルコトヲ目途トシテ之ヲ行フ
(一)和平工作ハ帝國政府ニ於テ之ヲ行ヒ關係各機關之ニ協力スルモノトス
 註 從來軍民ニ依リテ行ハレタル和平ノ爲ノ工作ハ一切之ヲ中止ス
 右工作ノ實施ニ方リテハ兩國交涉從來ノ經緯ニ鑑ミ特ニ帝國ノ眞意ヲ明カニシ信義ヲ恪守スル如ク善處スルモノトス
(二)和平條件ハ新中央政府トノ間ニ成立ヲ見ントスル基本條約(之ト一體ヲナスヘキ艦船部隊ノ駐留及海南島ノ經濟開發ニ關スル秘密協約ヲ含ム)ニ準據スルモノトシ日本側要求基礎條件別紙ノ如シ
(三)右和平交涉ハ汪蔣合作ヲ立前トシ日支間ノ直接交涉ニ依リ之ヲ行フヲ以テ本則トスルモ之ヲ容易ナラシムル爲獨逸ヲシテ仲介セシムルト共ニ對蘇國交調整ヲモ利用ス
 支那側ノ實施スル南京及重慶ノ合作工作ハ之ヲ促進セシムルモノトシ帝國政府ハ之ニ對シ側面的援助ヲ爲ス
(四)新中央政府ニ對スル條約締結ハ遲クモ昭和十五年十一月末迄ニ完了スルモノトス

二、昭和十五年末ニ至ルモ重慶政權トノ間ニ和平成立セサルニ於テハ情勢ノ如何ニ拘ラス槪ネ左記要領ニ依リ長期戰方略ヘノ轉移ヲ敢行シ飽ク迄モ重慶政權ノ屈伏ヲ期ス
 長期戰態勢轉移後重慶政權屈伏スル場合ニ於ケル條件ハ當時ノ情勢ニ依リ定ム
(一)一般情勢ヲ指導シツツ適時長期武力戰態勢ニ轉移ス
 長期武力戰態勢ハ一般情勢大ナル變化ナキ限リ蒙疆北支ノ要域及漢口附近ヨリ下流揚子江流域ノ要域並廣東ノ一角及南支沿岸要點ヲ確保シ常ニ用兵的彈撥力ヲ保持シツツ占領地域內ノ治安ヲ徹底的ニ肅正スルト共ニ封鎖並航空作戰ヲ續行ス。
(二)新中央政府ニ對シテハ一意帝國綜合戰力ノ强化ニ必要ナル諸施策ニ協力セシムルコトヲ主眼トシ主トシテ我占據地域內ヘノ政治力ノ滲透ニ努力セシムル如ク指導ス
 重慶側ハ究極ニ於テ新中央政府ニ合流セシムルモ新中央政府ヲシテ之カ急速ナル成功ニ焦慮スルカ如キ措置ハ採ラシメサルモノトス
(三)支那ニ於ケル經濟建設ハ日滿兩國ノ事情ト關連シ國防資源ノ開發取得ニ徹底スルト共ニ占領地域ノ民心ノ安定ニ資スルヲ以テ根本方針トス
(四)長期大持久ノ新事態ニ卽應スル爲速カニ國內體制ヲ積極的ニ改善ス
 在支帝國諸機關ノ改善改廢ヲ斷行シ施策ノ統制ヲ强化ス

  別紙

日本側要求基礎條件

一、支那ハ滿洲國ヲ承認スルコト
 (本項具現ノ方式並ニ時期ニ付テハ別途考慮スルコトヲ得)

二、支那ハ抗日政策ヲ放棄シ日支善隣友好關係ヲ樹立シ世界ノ新情勢ニ對應スル爲日本ト共同シテ東亞ノ防衛ニ當ルコト

三、東亞共同防衛ノ見地ヨリ必要ト認ムル期間支那ハ日本カ左記駐兵ヲ行フコトヲ認ムルコト
(一)蒙疆及北支三省ニ軍隊ヲ駐屯ス
(二)海南島及南支沿岸特定地點ニ艦船部隊ヲ駐留ス

四、支那ハ日本カ前項地域ニ於テ國防上必要ナル資源ヲ開發利用スルコトヲ認ムルコト

五、支那ハ日本カ揚子江下流三角地帶ニ一定期間保障駐兵ヲナスコトヲ認ムルコト(狀況ニ依リ機宜取捨ス)
 註 右條件ノ外左記我方要求ハ實質的ニ之ヲ貫徹スルニ努ムルヲ要ス

一、汪蔣兩政權ノ合作ハ日本ノ立場ヲ尊重シツツ國內問題トシテ處理スルコト

二、日支ノ緊密ナル經濟提携ヲ具現スルコト
 經濟合作ノ方法ニ關シテハ從來ノ方法ヲ固執セス平等主義ニヨリ形式的ニハ努メテ支那側ノ面子ヲ尊重スルモノトス

三、經濟ニ關スル現狀ノ調整ハ日支双方ニ混亂ヲ生セシメサル樣充分ナル考慮ヲ以テ處理スルコト

   「日本外交年表竝主要文書下巻」外務省編より

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