
1921年(大正10)に東京帝国大学助教授に昇任し、ヨーロッパに留学、1924年(大正13)に教授に昇任し、農産製造学講座を担当、1930年(昭和5)には、水産製造学講座を併せて担当し、「ジベレリン」の研究を始めました。1934年(昭和9)に植物の成長抑制物質「フザリン酸」を発表し、翌年には、植物徒長を起こさせる物質に「ジベレリン」と命名します。
1943年(昭和18)に「糸状菌の代謝生産物に関する生化学的研究」で、帝国学士院賞を受賞、1944年(昭和19)には、ペニシリン研究委員会委員に就任しました。1945年(昭和20)に日本農芸化学会会長に就任(~1947年)、1946年(昭和21)には、日本ペニシリン学術協議会(現日本抗生物質学術協議会)理事に就任します。
1947年(昭和22)に帝国学士院会員となり、1949年(昭和24)には、東京帝国大学(この年5月に東京大学に改名)を定年退職し、株式会社化学研究所(現在の理化学研究所)主任研究員に就任、ストレプトマイシン委員会委員長となりました。1950年(昭和25)に国産技術によりストレプトマイシンの生産を開始し、東京大学名誉教授に任じられ、第1回藤原賞を授賞、1957年(昭和32)には、科研化学(化学研究所の製薬部門として分離)会長に就任(~1969年)します。
1964年(昭和39)に文化功労者となり、文化勲章を受章、1970年(昭和45)には、勲一等瑞宝章を授与されましたが、1977年(昭和52)7月20日に、東京において、88歳で亡くなりました。