ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:農芸化学者

yabutateijirou01
 今日は、昭和時代後期の1977年(昭和52)に、農芸化学者藪田貞治郎が亡くなった日です。
 藪田貞治郎(やぶた ていじろう)は、明治時代前期の1888年(明治21)12月16日に、滋賀県大津市において生まれ、滋賀県立第二中学校、第三高等学校を経て、1908年(明治41)に東京帝国大学農科大学に入学しました。1911年(明治44)に卒業し、同大学院に進み、1912~16年(明治45~大正5年)に「コウジ酸」の研究を行ない、その発見に係わる論文により、1917年(大正6)に農学博士号を授与され、東京帝国大学講師となります。
 1921年(大正10)に東京帝国大学助教授に昇任し、ヨーロッパに留学、1924年(大正13)に教授に昇任し、農産製造学講座を担当、1930年(昭和5)には、水産製造学講座を併せて担当し、「ジベレリン」の研究を始めました。1934年(昭和9)に植物の成長抑制物質「フザリン酸」を発表し、翌年には、植物徒長を起こさせる物質に「ジベレリン」と命名します。
 1943年(昭和18)に「糸状菌の代謝生産物に関する生化学的研究」で、帝国学士院賞を受賞、1944年(昭和19)には、ペニシリン研究委員会委員に就任しました。1945年(昭和20)に日本農芸化学会会長に就任(~1947年)、1946年(昭和21)には、日本ペニシリン学術協議会(現日本抗生物質学術協議会)理事に就任します。
 1947年(昭和22)に帝国学士院会員となり、1949年(昭和24)には、東京帝国大学(この年5月に東京大学に改名)を定年退職し、株式会社化学研究所(現在の理化学研究所)主任研究員に就任、ストレプトマイシン委員会委員長となりました。1950年(昭和25)に国産技術によりストレプトマイシンの生産を開始し、東京大学名誉教授に任じられ、第1回藤原賞を授賞、1957年(昭和32)には、科研化学(化学研究所の製薬部門として分離)会長に就任(~1969年)します。
 1964年(昭和39)に文化功労者となり、文化勲章を受章、1970年(昭和45)には、勲一等瑞宝章を授与されましたが、1977年(昭和52)7月20日に、東京において、88歳で亡くなりました。

〇藪田貞治郎関係略年表

・1888年(明治21)12月16日 滋賀県大津市において、生まれる
・1900年(明治33) 滋賀県立第二中学校に入学する
・1905年(明治38) 滋賀県立第二中学校を卒業し、第三高等学校に入学する
・1908年(明治41) 第三高等学校を卒業し、東京帝国大学農科大学に入学する
・1911年(明治44) 東京帝国大学を卒業し、同大学院に進む
・1912~16年(明治45~大正5年) 「コウジ酸」の研究を行う
・1917年(大正6) 「コウジ酸」発見に係わる論文により、農学博士学位を授与され、東京帝国大学講師に昇任する
・1921年(大正10) 東京帝国大学助教授に昇任し、ヨーロッパに留学する
・1924年(大正13) 東京帝国大学教授に昇任し、農産製造学講座を担当する
・1930年(昭和5) 水産製造学講座を併せて担当し、「ジベレリン」の研究を始める
・1934年(昭和9) 植物の成長抑制物質「フザリン酸」を発表する
・1935年(昭和10) 植物徒長を起こさせる物質に「ジベレリン」と命名する
・1936年(昭和11) ヨーロッパに出張する
・1938年(昭和13) 「ジベレリン」を結晶状に分離することに成功し、分離した物質を確認し「ジベレリンA」と命名する
・1943年(昭和18) 「糸状菌の代謝生産物に関する生化学的研究」で、帝国学士院賞を受賞する
・1944年(昭和19) ペニシリン研究委員会委員に就任する
・1945年(昭和20) 日本農芸化学会会長に就任する(~1947年)
・1946年(昭和21) 日本ペニシリン学術協議会(現日本抗生物質学術協議会)理事に就任する
・1947年(昭和22) 帝国学士院会員となる
・1949年(昭和24) 東京帝国大学(この年5月に東京大学に改名)を定年退職し、株式会社化学研究所(現在の理化学研究所)主任研究員に就任、ストレプトマイシン委員会委員長となる
・1950年(昭和25) 国産技術によりストレプトマイシンの生産を開始し、東京大学名誉教授に任じられ、第1回藤原賞を授賞する。
・1957年(昭和32) 科研化学(化学研究所の製薬部門として分離)会長に就任する(~1969年)
・1964年(昭和39) 文化功労者となり、文化勲章を受章する
・1970年(昭和45) 勲一等瑞宝章を授与される
・1977年(昭和52)7月20日 東京において、88歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1866年(慶応2)江戸幕府第14代将軍徳川家茂の命日(新暦8月29日)詳細
1883年(明治16)公卿・政治家岩倉具視の命日詳細
1907年(明治40)豊国炭鉱(福岡県)で炭塵爆発事故により死者365人を出す詳細
1944年(昭和19)文部省が集団的な学童疎開の範囲を東京のほか12都市に拡大する詳細
1948年(昭和23年)「国民の祝日に関する法律」(祝日法)が公布・施行され9つの祝日が誕生する詳細
1975年(昭和50)沖縄国際海洋博覧会(沖縄海洋博)が開幕詳細
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tamurasaburou01
 今日は、大正時代の1917年(大正6)に、農芸化学者・富山県立技術短大学長田村三郎が生まれた日です。
 田村三郎(たむら さぶろう)は、群馬県において、四万温泉田村旅館を経営していた両親の9人兄弟姉妹の三男として生まれました。1929年(昭和4)に武蔵高等学校尋常科に入学、1936年(昭和11)に卒業後、東京帝国大学農学部農芸化学科に入学し、生物有機化学を専攻します。
 1939年(昭和14)に卒業後、鈴木梅太郎院長の大陸科学院に入所したものの、8ヶ月で兵役に就き、1944年(昭和19)には、榛名山麓にある陸軍士官学校の教官を務めました。太平洋戦争後の1945年(昭和20)に復員し、東京帝国大学農学部副手に採用され、1949年(昭和24)には、農学部農産製造学講座の助教授に昇任します。
 1954年(昭和29)に、「油脂の酸化防止に関する研究」で、東京大学より農学博士を得て、1962年(昭和37)には、東京大学教授に昇任しました。1965年(昭和40)に植物化学調節研究会(現在の植物化学調節学会)を設立、1968年(昭和43)に日本農学賞・読売農学賞を受賞、1970年(昭和45)には、理化学研究所農薬合成第三研究室の主任を兼任します。
 1976年(昭和51)に生理活性物質に関する化学的研究で、日本学士院賞を受賞、1977年(昭和52)には、東京大学教授を辞め、名誉教授となりました。1978年(昭和53)に富山県立技術短大学長(~1990年)となり、1981年(昭和56)には、東京農業大学教授(~1987年)ともなります。
 1982年(昭和57)に中国科学院との交流を始め、1983年(昭和58)に日本農芸化学会長(~1985年)となり、1985年(昭和60)に国際植物成長物質学会賞を受賞、1989年(平成元)には、日本学士院会員となりました。1990年(平成2)に勲二等瑞宝章を受章、文部科学省の創成的基礎研究で「地球環境変動研究(略称)」を展開(~1995年)し、1992年(平成4)には、文化功労者となります。
 1995年(平成7)に中国政府から友誼奨を得、1999年(平成11)には、文化勲章を受章しましたが、2015年(平成27)12月4日に、98歳で亡くなり、従三位を追贈されました。

〇田村三郎の主要な著作

・『現象の追跡─生理活性物質化学を拓く』(学会出版センター)
・『地球環境再生への試み─劣悪環境の現地に立って』(研成社)

☆田村三郎関係略年表

・1917年(大正6)1月8日 群馬県において、四万温泉田村旅館を経営していた両親の9人兄弟姉妹の三男として生まれる
・1929年(昭和4) 武蔵高等学校尋常科に入学する
・1936年(昭和11) 武蔵高等学校を卒業し、東京帝国大学農学部農芸化学科に入学する
・1939年(昭和14) 東京帝国大学農学部を卒業、鈴木梅太郎院長の大陸科学院に入所するも兵役に就く
・1944年(昭和19) 榛名山麓にある陸軍士官学校の教官を務める
・1945年(昭和20) 復員し、東京帝国大学農学部副手に採用される
・1949年(昭和24) 東京大学農学部農産製造学講座の助教授に昇任する
・1954年(昭和29) 「油脂の酸化防止に関する研究」で、東京大学より農学博士を得る
・1956年(昭和31) 東京大学運動会ア式蹴球部の監督を務める
・1962年(昭和37) 東京大学教授に昇任する
・1965年(昭和40) 植物化学調節研究会(現在の植物化学調節学会)を設立する
・1968年(昭和43) 日本農学賞・読売農学賞を受賞する
・1970年(昭和45) 理化学研究所農薬合成第三研究室の主任を兼任する
・1976年(昭和51) 生理活性物質に関する化学的研究で、日本学士院賞を受賞する
・1977年(昭和52) 東京大学教授を辞め、名誉教授となる
・1978年(昭和53) 富山県立技術短大学長となる(~1990年)
・1981年(昭和56) 東京農業大学教授となる(~1987年)
・1982年(昭和57) 中国科学院との交流を始める
・1983年(昭和58) 日本農芸化学会長となる(~1985年)
・1985年(昭和60) 国際植物成長物質学会賞を受賞する
・1989年(平成元) 日本学士院会員となる
・1990年(平成2) 勲二等瑞宝章を受章、文部科学省の創成的基礎研究で「地球環境変動研究(略称)」を展開する(~1995年)
・1992年(平成4) 文化功労者となる
・1995年(平成7) 中国政府から友誼奨を得る
・1999年(平成11) 文化勲章を受章する
・2015年(平成27)12月4日 98歳で亡くなり、従三位を追贈される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1173年(承安3)華厳宗の学僧明恵の誕生日(新暦2月21日)詳細
1646年(正保3)江戸幕府5代将軍徳川綱吉の誕生日(新暦2月23日)詳細
1892年(明治25)詩人・歌人・フランス文学者・翻訳家堀口大学の誕生日詳細
1912年(明治45)映画監督今井正の誕生日詳細
1941年(昭和16)陸軍大臣東條英機によって、陸訓第一号「戦陣訓」が発表される詳細
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suzukiumetarou01

 今日は、昭和時代前期の1943年(昭和18)に、農芸化学者・栄養化学者鈴木梅太郎の亡くなった日です。
 鈴木 梅太郎(すずき うめたろう)は、1874年(明治7)4月7日に、静岡県榛原郡堀野新田村(現:牧之原市堀野新田)で農業を営む鈴木庄蔵の次男として生まれました。幼い頃より学問を好み、1888年(明治21)に単身上京し、東京農林学校(翌年帝国大学農科大学と改称)へ入学、J. Liebig(リービッヒ)の弟子O. Loebなどに農芸化学を学び、1896年(明治29)に卒業し、大学院に入ります。
 桑の萎縮病の原因を研究、1900年(明治33)に農科大学助教授に任ぜられ、1901年(明治34)には、農学博士の学位を授与されました。同年に文部省留学生として渡欧、スイス、ドイツに遊学、特にベルリンのE.フィッシャーについてタンパク質の研究にあたります。
 1906年(明治39)に帰国し、盛岡高等農林学校教授に任ぜられ、東京帝国大学助教授も兼任しました。翌年東京帝国大学農科大学教授となり、1910年(明治43)に、米ぬかから抗脚気の有効成分ビタミンB1の抽出に成功、オリザニンと命名し、ビタミン発見の先駆をなします。
 1917年(大正6)に理化学研究所設立と共に同研究委員となり、栄養化学および合成酒、サリチル酸、乳酸などの研究・製造に従事しました。1924年(大正13)に「副栄養素の研究」により学士院賞受賞、日本農芸化学会を創立し、初代会長となり、翌年に帝国学士院会員、1926年(大正15)には、帝国発明協会よりオリザニンの発見に対し、恩賜記念賞および大賞を受賞します。
 1943年(昭和18)には、文化勲章を受章しましたが、同年9月20日に東京の慶應義塾大学病院において腸閉塞症のため、69歳で亡くなりました。

〇鈴木梅太郎関係略年表

・1874年(明治7)4月7日 榛原郡堀野新田村、鈴木庄蔵・次男として生まれる
・1879年(明治12) 5歳の時、鈴木利七先生に学問を習う
・1880年(明治13) 6歳の時、地頭方学校(現:牧之原市立地頭方小学校)へ入学する
・1886年(明治19) 12歳の時、地頭方学校を卒業する
・1887年(明治20) 13歳の時、県公認東遠義塾が開講し入塾する
・1888年(明治21)5月15日 14歳の時、単身徒歩にて東京に向かって出発、上京する
・1888年(明治21) 東京神田の日本英学館に入り、のち東京農林学校予備校に入学する
・1889年(明治22) 15歳の時、東京農林学校入学する
・1890年(明治23) 東京農林学校は帝国大学農科大学と改称され、農商務省より文部省に移管される
・1893年(明治26) 19歳の時、 帝国大学農科大学予科を卒業する
・1894年(明治27) 20歳の時、遠江学生奨学会より、同学1年級優等として賞品を授与する
・1896年(明治29) 22歳の時、農科大学農芸化学科を卒業し、卒業式において東京帝国大学各文科大学全卒業生を代表して答辞を朗読、大学院に入る
・1897年(明治30) 23歳の時、桑の萎縮病の対策費として政府から数千円を支出され、その研究に着手する
・1900年(明治33) 26歳の時、農科大学助教授に任ぜられる
・1901年(明治34) 27歳の時、農学博士の学位を授与され、辰野須磨子嬢と結婚、文部省留学生を命ぜられ、欧州に向け出発、ベルリン大学に留学、エミール・フィッシャーの下で、ペプチド合成の研究に従事する
・1906年(明治39) 32歳の時、帰国し、盛岡高等農林学校教授に任ぜられ、東京帝国大学助教授も兼任する
・1907年(明治40) 33歳の時、東京帝国大学農科大学教授に任ぜられ、盛岡高等農林学校教授を兼任、米糖らフィチンを分離する
・1909年(明治42) 35歳の時、東京渋谷区宇田川町に転居、東京肥料分析講習所長を兼務する
・1910年(明治43)12月13日 36歳の時、東京化学会例会席上、米糖の有効成分が燐タングステン酸と結合して沈殿せしめ分離できること、およびそれが新栄養素であることを発表する
・1911年(明治44) 37歳の時、東京化学会誌に米糠の有効成分の分離についての報告が掲載される
・1912年(明治45) 38歳の時、蛋白化学の研究に対し、東京化学会より桜井賞が授与される
・1913年(大正2) 39歳の時、東京農業大学教授(兼農芸化学講習部長)となり、植物栄養論の講義を担当する
・1915年(大正4) 41歳の時、サルバルサン、サルチル酸の工業的製造に成功する
・1917年(大正6) 43歳の時、理化学研究所主任研究員となる
・1919年(大正8) 45歳の時、香川県藍同業組合の招聘に応じ、小松島町(現:小松島市)に藍工場を建設する
・1923年(大正12) 49歳の時、私立東京農業大学農芸化学講習部は農芸化学部と改称し、2年制となる
・1924年(大正13) 50歳の時、副栄養素の研究に対し帝国学士院賞を授与、日本農芸化学会を創立し、初代会長となる
・1925年(大正14) 51歳の時、帝国学士院会員となる
・1926年(大正15) 52歳の時、帝国発明協会よりオリザニンの発見に対し、恩賜記念賞および大賞を受賞、東京帝国大学農学部長(1928年まで)に就く
・1927年(昭和2) 53歳の時、自宅において夫婦銀婚式を行い、郷里の地頭方小学校に奨学資金1万円を寄付する
・1928年(昭和3) 54歳の時、帝国発明協会より合成酒の発明に対し、特等賞牌を受ける
・1929年(昭和4) 55歳の時、大日本農会より名誉賞を受ける、東京帝国大学農学部へ実験室一棟寄付の件に対して紺綬褒章を受ける
・1930年(昭和5) 56歳の時、発明家の一人として宮中賜餐の栄に浴する
・1931年(昭和6) 57歳の時、御講書始の儀において「エミール・フィッシャーの業績と生化学の発達について」御進講する
・1932年(昭和7) 58歳の時、ドイツ学士院会員に推される
・1933年(昭和8) 59歳の時、東京帝国大学へ奨学資金10万円寄付の件により、紺綬褒章を受ける
・1934年(昭和9) 60歳の時、願いにより東京帝国大学教授を辞する
・1936年(昭和11) 62歳の時、満州国大陸科学院長となる
・1937年(昭和12) 63歳の時、パリ万国博覧会にてビタミンB1の結晶を出品し名誉賞を受賞する
・1938年(昭和13) 64歳の時、理研酒工業株式会社(1955年、協和発酵キリンに吸収合併)を創設する
・1941年(昭和16) 67歳の時、理研酒の造石高40余万石に達する
・1943年(昭和18)4月29日 69歳の時、文化勲章を受章する
・1943年(昭和18)9月20日 慶應義塾大学病院において腸閉塞症のため、69歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1806年(文化3)浮世絵師喜多川歌麿の命日(新暦10月31日)詳細
1852年(嘉永5)囲碁名人・17世および19世本因坊秀栄の誕生日(新暦11月1日)詳細
1903年(明治36)京都市の堀川中立売~七条~祇園で日本初の乗合自動車(バス)が運行される(バスの日)詳細
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