ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:農民文学

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 今日は、明治時代後期の1912年(明治45)に、長塚節著の『土』が春陽堂から刊行された日です。
 『土』(つち)は、明治時代後期の1910年(明治43)6月13日~11月17日にかけて「東京朝日新聞」に151回にわたって連載された、長塚節著の長編小説でした。翌々年5月に春陽堂より、夏目漱石による序文『「土」に就て』が付され刊行されています。
 作者の郷里茨城県の鬼怒川沿いの農村を舞台に、貧農の勘次一家の生活を描いたものでした。農村の自然、風俗、土と闘う姿を写生的に精密に描写し、農民文学の傑作とされています。
 その後、1939年(昭和14)に日活映画として、内田吐夢監督によって映画化(主演は小杉勇)され、第1回文部大臣賞、第16回キネマ旬報ベスト・テン第1位に選ばれました。
 以下に、夏目漱石による序文『「土」に就て』を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇長塚 節(ながつか たかし)とは?

 明治時代後期から大正時代に活躍した歌人・小説家で、1879年(明治12)4月3日に、茨城県岡田郡国生村(現在の常総市国生)の豪農の家に生まれました。その後、茨城尋常中学校(現水戸一高)に進みましたが、病気のために4年で退学し、故郷に戻って健康回復をはかることになります。
 この頃から文学に親しみ短歌をつくり始め、雑誌に投稿してしばしば入選するようになりました。1900年(明治33)に、正岡子規を訪ねて入門し、子規没後はアララギ派の中心の一人となります。
 1907年(明治40) に写生文「佐渡が島」を『ホトトギス』に発表し、高浜虚子に評価されました。1910年(明治43)には、夏目漱石の勧めで、東京朝日新聞に小説「土」が連載され、その後農民文学の不朽の名作となります。
 その翌年に喉頭結核の診断を下され、療養しながらも歌は詠み続けました。しかし、治療の甲斐なく、1915年(大正3)2月8日には、九州帝国大学医科大学(現九州大学医学部)付属病院において、36歳の若さで没しています。

<代表的な歌>
・「馬追虫の 髭のそよろに 来る秋は まなこを閉ぢて 思い見るべし」
・「歌人の 竹の里人 おとなへば やまひの牀に 絵をかきてあり」

☆長塚節の主要な著作

<歌集>
・「青草集」 (1906年)
・「初秋の歌」 (1908年)
・「濃霧の歌」 (1909年)
・「鍼(はり)の如く」(1914~15年)

<写生文>
・「炭焼のむすめ」 (1906年)
・「佐渡ヶ島」(1907年)

<小説>
・短編「芋掘り」(1908年)
・短編「開業医」 (1909年)
・短編「おふさ」 (1909年)
・長編「土」(1910年)

☆『「土」に就て』 夏目漱石

 「土」が「東京朝日」に連載されたのは一昨年の事である。さうして其責任者は余であつた。所が不幸にも余は「土」の完結を見ないうちに病氣に罹つて、新聞を手にする自由を失つたぎり、又「土」の作者を思ひ出す機會を有たなかつた。
 當初五六十囘の豫定であつた「土」は、同時に意外の長篇として發達してゐた。途中で話の緒口を忘れた余は、再びそれを取り上げて、矢鱈な區切から改めて讀み出す勇氣を鼓舞しにくかつたので、つい夫限ぎりに打ち遣やつたやうなものゝ、腹のなかでは私かに作者の根氣と精力に驚ろいてゐた。「土」は何でも百五六十囘に至つて漸く結末に達したのである。
 冷淡な世間と多忙な余は其後久しく「土」の事を忘れてゐた。所がある時此間亡くなつた池邊君に會つて偶然話頭が小説に及んだ折、池邊君は何故「土」は出版にならないのだらうと云つて、大分長塚君の作を褒めてゐた。池邊君は其當時「朝日」の主筆だつたので「土」は始から仕舞迄眼を通したのである。其上池邊君は自分で文學を知らないと云ひながら、其實摯實な批評眼をもつて「土」を根氣よく讀み通したのである。余は出版界の不景氣のために「土」の單行本が出る時機がまだ來ないのだらうと答へて置いた。其時心のうちでは、隨分「土」に比べると詰らないものも公けにされる今日だから、出來るなら何時か書物に纏めて置いたら作者の爲に好からうと思つたが、不親切な余は其日が過ぎると、又「土」の事を丸で忘れて仕舞つた。
 すると此春になつて長塚君が突然尋ねて來て、漸く本屋が「土」を引受ける事になつたから、序を書いて呉れまいかといふ依頼である。余は其時自分の小説を毎日一囘づゝ書いてゐたので、「土」を讀み返す暇がなかつた。已を得ず自分の仕事が濟む迄待つてくれと答へた。すると長塚君は池邊君の序も欲しいから序でに紹介して貰ひたいと云ふので、余はすぐ承知した。余の名刺を持つて「土」の作者が池邊君の玄關に立つたのは、池邊君の母堂が死んで丁度三十五日に相當する日とかで、長塚君はたゞ立ちながら用事丈を頼んで歸つたさうであるが、それから三日して肝心の池邊君も突然亡くなつて仕舞つたから、同君の序はとう/\手に入らなかつたのである。
 余は「彼岸過迄」を片付けるや否や前約を踏んで「土」の校正刷を讀み出した。思つたよりも長篇なので、前後半日と中一日を丸潰しにして漸く業を卒へて考へて見ると、中々骨の折れた作物である。余は元來が安價な人間であるから、大抵の人のものを見ると、すぐ感心したがる癖があるが、此「土」に於ても全くさうであつた。先づ何よりも先に、是は到底余に書けるものでないと思つた。次に今の文壇で長塚君を除いたら誰が書けるだらうと物色して見た。すると矢張誰にも書けさうにないといふ結論に達した。
 尤も誰にも書けないと云ふのは、文を遣る技倆の點や、人間を活躍させる天賦の力を指すのではない。もし夫れ丈の意味で誰も長塚君に及ばないといふなら、一方では他の作家を侮辱した言葉にもなり、又一方では長塚君を擔ぎ過ぎる策略とも取れて、何方にしても作者の迷惑になる計である。余の誰も及ばないといふのは、作物中に書いてある事件なり天然なりが、まだ長塚君以外の人の研究に上つてゐないといふ意味なのである。
 「土」の中に出て來る人物は、最も貧しい百姓である。教育もなければ品格もなければ、たゞ土の上に生み付けられて、土と共に生長した蛆同樣に憐れな百姓の生活である。先祖以來茨城の結城郡に居を移した地方の豪族として、多數の小作人を使用する長塚君は、彼等の獸類に近き、恐るべく困憊を極めた生活状態を、一から十迄誠實に此「土」の中に收め盡したのである。彼等の下卑で、淺薄で、迷信が強くて、無邪氣で、狡猾で、無欲で、強欲で、殆んど余等(今の文壇の作家を悉く含む)の想像にさへ上りがたい所を、あり/\と眼に映るやうに描寫したのが「土」である。さうして「土」は長塚君以外に何人も手を著けられ得ない、苦しい百姓生活の、最も獸類に接近した部分を、精細に直叙したものであるから、誰も及ばないと云ふのである。
 人事を離れた天然に就いても、前同樣の批評を如何な讀者も容易に肯はなければ濟まぬ程、作者は鬼怒川沿岸の景色や、空や、春や、秋や、雪や風を綿密に研究してゐる。畠のもの、畔に立つ榛の木、蛙の聲、鳥の音、苟くも彼の郷土に存在する自然なら、一點一畫の微に至る迄悉く其地方の特色を具へて叙述の筆に上つてゐる。だから何處に何う出て來ても必ず獨特ユニークである。其獨特ユニークな點を、普通の作家の手に成つた自然の描寫の平凡なのに比べて、余は誰も及ばないといふのである。余は彼の獨特ユニークなのに敬服しながら、そのあまりに精細過ぎて、話の筋を往々にして殺して仕舞ふ失敗を歎じた位、彼は精緻な自然の觀察者である。
 作としての「土」は、寧ろ苦しい讀みものである。決して面白いから讀めとは云ひ惡い。第一に作中の人物の使ふ言葉が余等には餘り縁の遠い方言から成り立つてゐる。第二に結構が大きい割に、年代が前後數年にわたる割に、周圍に平たく發達したがる話が、筋をくつきりと描いて深くなりつゝ前へ進んで行かない。だから全體として讀者に加速度アクセレレーシヨンの興味を與へない。だから事件が錯綜纏綿して縺れながら讀者をぐい/\引込んで行くよりも、其地方の年中行事を怠りなく丹念に平叙して行くうちに、作者の拵らへた人物が斷續的に活躍すると云つた方が適當になつて來る。其所に聊か人を魅する牽引力を失ふ恐が潛んでゐるといふ意味でも讀みづらい。然し是等は單に皮相の意味に於て讀みづらいので、余の所謂讀みづらいといふ本意は、篇中の人物の心なり行なりが、たゞ壓迫と不安と苦痛を讀者に與へる丈で、毫も神の作つてくれた幸福な人間であるといふ刺戟と安慰を與へ得ないからである。悲劇は恐しいに違ない。けれども普通の悲劇のうちには悲しい以外に何かの償ひがあるので、讀者は涙の犧牲を喜こぶのである。が、「土」に至つては涙さへ出されない苦しさである。雨の降らない代りに生涯照りつこない天氣と同じ苦痛である。たゞ土の下したへ心が沈む丈で、人情から云つても道義心から云つても、殆んど此壓迫の賠償として何物も與へられてゐない。たゞ土を掘り下げて暗い中へ落ちて行く丈である。
 「土」を讀むものは、屹度自分も泥の中を引き摺られるやうな氣がするだらう。余もさう云ふ感じがした。或者は何故長塚君はこんな讀みづらいものを書いたのだと疑がふかも知れない。そんな人に對して余はたゞ一言、斯樣な生活をして居る人間が、我々と同時代に、しかも帝都を去る程遠からぬ田舍に住んで居るといふ悲慘な事實を、ひしと一度は胸の底に抱き締めて見たら、公等の是から先の人生觀の上に、又公等の日常の行動の上に、何かの參考として利益を與へはしまいかと聞きたい。余はとくに歡樂に憧憬する若い男や若い女が、讀み苦しいのを我慢して、此「土」を讀む勇氣を鼓舞する事を希望するのである。余の娘が年頃になつて、音樂會がどうだの、帝國座がどうだのと云ひ募る時分になつたら、余は是非此「土」を讀ましたいと思つて居る。娘は屹度厭だといふに違ない。より多くの興味を感ずる戀愛小説と取り換へて呉れといふに違ない。けれども余は其時娘に向つて、面白いから讀めといふのではない。苦しいから讀めといふのだと告げたいと思つて居る。參考の爲だから、世間を知る爲だから、知つて己れの人格の上に暗い恐ろしい影を反射させる爲だから我慢して讀めと忠告したいと思つて居る。何も考へずに暖かく生長した若い女(男でも同じである)の起す菩提心や宗教心は、皆此暗い影の奧から射さして來るのだと余は固く信じて居るからである。
 長塚君の書き方は何處迄も沈着である。其人物は皆有の儘である。話の筋は全く自然である。余が「土」を「朝日」に載せ始めた時、北の方のSといふ人がわざ/″\書を余のもとに寄せて、長塚君が旅行して彼と面會した折の議論を報じた事がある。長塚君は余の「朝日」に書いた「滿韓ところ/″\」といふものをSの所で一囘讀んで、漱石といふ男は人を馬鹿にして居るといつて大いに憤慨したさうである。漱石に限らず一體「朝日」新聞の記者の書き振りは皆人を馬鹿にして居ると云つて罵つたさうである。成程眞面目に老成した、殆んど嚴肅といふ文字を以て形容して然るべき「土」を書いた、長塚君としては尤もの事である。「滿韓所々ところ/″\」抔が君の氣色を害したのは左もあるべきだと思ふ。然し君から輕佻の疑を受けた余にも、眞面目な「土」を讀む眼はあるのである。だから此序を書くのである。長塚君はたまたま「滿韓ところ/″\」の一囘を見て余の浮薄を憤つたのだらうが、同じ余の手になつた外のものに偶然眼を觸れたら、或は反對の感を起すかも知れない。もし余が徹頭徹尾「滿韓ところ/″\」のうちで、長塚君の氣に入らない一囘を以て終始するならば、到底長塚君の「土」の爲に是程言辭を費やす事は出來ない理窟だからである。
 長塚君は不幸にして喉頭結核にかゝつて、此間迄東京で入院生活をして居たが、今は養生旁旅行の途にある。先達てかねて紹介して置いた福岡大學の久保博士からの來書に、長塚君が診察を依頼に見えたとあるから、今頃は九州に居るだらう。余は出版の時機に後れないで、病中の君の爲に、「土」に就いて是丈の事を云ひ得たのを喜こぶのである。余がかつて「土」を「朝日」に載せ出した時、ある文士が、我々は「土」などを讀む義務はないと云つたと、わざ/\余に報知して來たものがあつた。其時余は此文士は何の爲に罪もない「土」の作家を侮辱するのだらうと思つて苦々しい不愉快を感じた。理窟から云つて、讀まねばならない義務のある小説といふものは、其小説の校正者か、内務省の檢閲官以外にさうあらう筈がない。わざ/\斷わらんでも厭なら厭で默つて讀まずに居れば夫迄である。もし又名の知れない人の書いたものだから讀む義務はないと云ふなら、其人は唯名前丈で小説を讀む、内容などには頓着しない、門外漢と一般である。文士ならば同業の人に對して、たとひ無名氏にせよ、今少しの同情と尊敬があつて然るべきだと思ふ。余は「土」の作者が病氣だから、此場合には猶ほ更らさう云ひたいのである。

            (明治四十五年五月)

    「青空文庫」より

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1333年(元弘3)幕府方の北条泰家軍と反幕府方の新田義貞軍とで、分倍河原の戦いが始まる(新暦6月27日)詳細
1615年(慶長20)武将・安土桃山時代の大名長宗我部盛親が斬首される(新暦6月11日)詳細
1884年(明治17)群馬県陣場ヶ原に農民と自由党員が集結、警察分署と高利貸しを襲撃したが挫折する(群馬事件)詳細
1889年(明治22)大槻文彦が編纂した日本初の近代的国語辞典『言海』第一冊が発刊される詳細
1891年(明治25)建築家村野藤吾の誕生日詳細
1932年(昭和7)五・一五事件が起こり、犬養首相が暗殺される詳細
1972年(昭和47) 「沖縄返還協定」が発効する(沖縄復帰記念日)詳細
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 今日は、明治時代後期の1910年(明治43)に、長塚節著の小説『土』が「東京朝日新聞」に連載開始された日です。
 『土』(つち)は、明治時代後期の1910年(明治43)6月13日~11月17日にかけて「東京朝日新聞」に151回にわたって連載された、長塚節著の長編小説でした。翌々年5月に春陽堂より、夏目漱石による序文『「土」に就て』が付され刊行されています。
 作者の郷里茨城県の鬼怒川沿いの農村を舞台に、貧農の勘次一家の生活を描いたものでした。農村の自然、風俗、土と闘う姿を写生的に精密に描写し、農民文学の傑作とされています。
 その後、1939年(昭和14)に日活映画として、内田吐夢監督によって映画化(主演は小杉勇)され、第1回文部大臣賞、第16回キネマ旬報ベスト・テン第1位に選ばれました。

〇長塚 節(ながつか たかし)とは?

 明治時代後期から大正時代に活躍した歌人・小説家で、1879年(明治12)4月3日に、茨城県岡田郡国生村(現在の常総市国生)の豪農の家に生まれました。その後、茨城尋常中学校(現水戸一高)に進みましたが、病気のために4年で退学し、故郷に戻って健康回復をはかることになります。
 この頃から文学に親しみ短歌をつくり始め、雑誌に投稿してしばしば入選するようになりました。1900年(明治33)に、正岡子規を訪ねて入門し、子規没後はアララギ派の中心の一人となります。
 1907年(明治40) に写生文「佐渡が島」を『ホトトギス』に発表し、高浜虚子に評価されました。1910年(明治43)には、夏目漱石の勧めで、東京朝日新聞に小説「土」が連載され、その後農民文学の不朽の名作となります。
 その翌年に喉頭結核の診断を下され、療養しながらも歌は詠み続けました。しかし、治療の甲斐なく、1915年(大正3)2月8日には、九州帝国大学医科大学(現九州大学医学部)付属病院において、36歳の若さで没しています。

<代表的な歌
「馬追虫の 髭のそよろに 来る秋は まなこを閉ぢて 思い見るべし」
「歌人の 竹の里人 おとなへば やまひの牀に 絵をかきてあり」

☆長塚節の主要な著作

<歌集>
・「青草集」 (1906年)
・「初秋の歌」 (1908年)
・「濃霧の歌」 (1909年)
・「鍼(はり)の如く」(1914~15年)

<写生文>
・「炭焼のむすめ」 (1906年)
・「佐渡ヶ島」(1907年)

<小説>
・短編「芋掘り」(1908年)
・短編「開業医」 (1909年)
・短編「おふさ」 (1909年)
・長編「土」(1910年)

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1582年(天正10)山崎の戦いで明智光秀が羽柴秀吉に敗れ、敗走中土民に殺される(新暦7月2日)詳細
1615年(慶長20)江戸幕府により「一国一城令」が出される(新暦8月7日)詳細
1798年(寛政10)本居宣長が約35年を費した『古事記伝』全44巻が完成する(新暦7月26日)詳細
1924年(大正13)土方与志・小山内薫らが築地小劇場を開場する詳細
1931年(昭和6)医学者・細菌学者・教育者北里柴三郎の命日詳細
1998年(平成10)北海道室蘭市に白鳥大橋が開通する詳細
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 今日は、明治時代後期の1903年(明治36)に、小説家伊藤永之介の生まれた日です。
 伊藤永之介(いとう えいのすけ)は、秋田県秋田市において、父・伊藤祐義、母・ムメの五男(二人は夭折)としてに生まれましたが、本名は栄之助と言いました。1918年(大正7)に秋田県中通尋常小学校を卒業、日本銀行秋田支店の行員見習いとなったものの、1920年(大正9)に辞めて、翌年には新秋田新聞社に入社、『酒』が「国民新聞」懸賞小説一等に入選します。
 1922年(大正11)に同人誌「詩星」、「金砂(かなさ)」、「ボーフラ」に文芸評論などを発表し始め、1924年(大正13)には、同郷の金子洋文を頼って上京し、やまと新聞社に入社しました。1925年(大正14)に雑誌「潮流」に加入、1928年(昭和3)には、労農芸術家連盟(労芸)に参加、「文芸戦線」に小説『見えない鉱山』を発表して、プロレタリア文学の新進作家として注目を浴びます。
 1931年(昭和6)に雑誌「改造」に小説『万宝山』を発表、翌年に労農芸術家連盟(労芸)が解散すると、青野季吉、金子洋文らと労農文化連盟を結成しました。プロレタリア文学衰退とともに数年間沈黙し、1936年(昭和11)に『梟』が芥川賞候補となり、1938年(昭和13)の『鶯』で新潮文芸賞を受賞します。
 鳥類ものと称される以降の作品群は東北農民の無知や悲惨さを共感を込めて描き、独自の農民文学を開拓しました。太平洋戦争後は、1947年(昭和22)に日本人民文学会に参加、1951年(昭和26)に文戦作家クラブを結成、1952年(昭和27)に『警察日記』を刊行(1955年に映画化)します。
 1953年(昭和28)に『五郎ぎつね』で第2回小学館児童文化賞奨励賞を受賞、翌年に和田伝らと日本農民文学会を結成、1956年(昭和31)には会長に就任しました。戦後の農民文学再建に意を注ぎましたが、1959年(昭和34)7月26日に、東京都渋谷区上原の自宅において、脳溢血のため55歳で亡くなっています。

〇伊藤永之介の主要な著作

・『酒』(1921年)「国民新聞」懸賞小説一等入選
・『見えない鉱山 (やま) 』(1928年)
・『恐慌』(1929年)
・『暴動』(1930年)
・『総督府模範竹林』(1930年)
・『万宝山』(1931年)
・『梟(ふくろう)』(1936年)第4回・第6回芥川賞候補
・『鴉 (からす) 』(1938年)第7回芥川賞候補
・『鶯(うぐいす)』(1938年)第2回新潮文芸賞受賞
・『湖畔の村』(1939年)
・『雪代とその一家』(1949年)
・『警察日記』(1952年)
・『五郎ぎつね』(1953年)小学館児童文化賞奨励賞受賞
・『なつかしい山河』(1954年)
・『続警察日記』(1955年)

☆伊藤永之介関係略年表

・1903年(明治36)11月21日 秋田県秋田市において、父・伊藤祐義、母・ムメの五男(二人は夭折)としてに生まれる
・1910年(明治43) 秋田県中通尋常小学校へ入学する
・1918年(大正7) 秋田県中通尋常小学校を卒業、日本銀行秋田支店の行員見習いとなる
・1920年(大正9) 日本銀行秋田支店の行員見習いを辞める
・1921年(大正10) 新秋田新聞社に入社、『酒』が「国民新聞」懸賞小説一等に入選する
・1922年(大正11) 同人誌「詩星」、「金砂(かなさ)」、「ボーフラ」に文芸評論などを発表し始める
・1924年(大正13) 同郷の金子洋文を頼って上京し、やまと新聞社に入社する
・1925年(大正14) 雑誌「潮流」に加入する
・1927年(昭和2) 輝子と結婚し、渋谷区代々木上原の一軒家に所帯を持つ
・1928年(昭和3) 労農芸術家連盟(労芸)に参加、「文芸戦線」に小説『見えない鉱山』を発表、プロレタリア文学の新進作家として注目を浴びる
・1931年(昭和6) 「改造」に小説『万宝山』を発表する
・1932年(昭和7) 労農芸術家連盟(労芸)が解散、青野季吉、金子洋文らと労農文化連盟を結成する
・1936年(昭和11) 『梟(ふくろう)』が芥川賞候補となる
・1938年(昭和13) 『鶯(うぐいす)』で新潮文芸賞を受賞する
・1947年(昭和22) 日本人民文学会に参加する
・1951年(昭和26) 文戦作家クラブを結成する
・1952年(昭和27) 『警察日記』を刊行する
・1953年(昭和28) 『五郎ぎつね』で第2回小学館児童文化賞奨励賞を受賞する
・1954年(昭和29) 和田伝(つとう)らと日本農民文学会を結成する
・1955年(昭和30) 『警察日記』が日活製作・配給、久松静児監督、森繁久彌主演で映画化される
・1956年(昭和31) 日本農民文学会の会長に就任する
・1959年(昭和34)7月26日 東京都渋谷区上原の自宅において、脳溢血のため55歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1956年(昭和31)歌人・美術史家・書道家会津八一の命日(八一忌・秋艸忌)詳細
1969年(昭和44)俳人石田波郷の命日詳細
1978年(昭和53)第20回ユネスコ総会で「体育およびスポーツに関する国際憲章」が採択される詳細


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