
津田仙(つだ せん)は、江戸時代後期の1837年(天保8年7月6日)に、下総国佐倉藩佐倉城内(現在の千葉県佐倉市)において、下総国佐倉藩の堀田氏家臣・小島良親(善右衛門)の三男として生まれましたが、幼名は千弥(せんや)と言いました。1851年(嘉永4年)に元服して、桜井家の養子になり、佐倉藩校・成徳書院に入り、藩命にてオランダ語・英語の他、洋学や砲術を学びます。
1855年(安政2年)に江戸幕府に出仕し、蘭学塾へ入門、森山栄之助に英語を学び、1861年(文久元年)には、幕臣津田大太郎の婿養子となり、外国奉行の通訳になりました。1864年(元治元年)に次女として梅子(むめ)が生まれ、1867年(慶応3年)には、江戸幕府の軍艦受取委員会随員(通訳)として、使節主席・小野友五郎と共に、福澤諭吉が同乗して渡米、ニューヨーク、フィラデルフィア、ワシントンD.C.を訪れ、帰国後、新潟奉行に転役、通弁・翻訳御用、英語教授方になります。
1868年(慶応4年) から戊辰戦争において、幕府軍として越後にて参戦。敗れて長崎へ、その後東京へ戻り、徳川一族から積立金を集めて保晃会設立、日光東照宮保存を図り、徳川家墓地管理と旧幕臣援助を定めた酬恩義会を設立しました。1869年(明治2年)に官職を辞し、築地の洋風旅館・築地ホテル館に勤め、サラダ用の西洋野菜の将来性に注目します。
1871年(明治4年)に北海道開拓使の嘱託になり、青山の北海道開拓使農事試験場を任され、農事研究をし、西洋野菜の栽培を手掛けるなど、日本の近代農業の先駆者になり、政府が派遣する岩倉使節団の女子留学生随行に、娘・梅子(後の津田塾大学の創設者)を応募、北海道開拓使を辞職し、民部省入省しました。1873年(明治6年)にウイーン万国博覧会の副総裁・佐野常民の書記官として随行、同地でオランダ人園芸家ダニエル・ホーイブレンから新農法を伝授され、翌年帰国後に、『農業三事』を出版します。
1875年(明治8年)に、農産物の栽培・販売・輸入、農産についての書籍・雑誌の出版など手掛ける学農社を設立、古川正雄らと共に盲聾唖者の教育のため楽善会を組織、翌年に東京麻布東町に学農社農学校を創立、「農業雑誌」、「開拓雑誌」など定期刊行物を出版しました。1878年(明治11年)にジュリアス・ソーパー宣教師による東京築地の耕教学舎(青山学院の源流)創立に協力し、第一回全国基督教徒大親睦会開催し議長となり、1880年(明治13年)には、「北海道開拓雑誌」を発刊、西洋農法の普及に努めます。
1884年(明治17年)に学農社農学校の学生数が半減し、閉校となり、1886年(明治19年)には、訓盲唖院が楽善会より文部省に移管され、官立の盲教育・聾唖教育機関になりました。1890年(明治23年)に東北を視察、りんご二十数種を東京に持ち帰り、当時珍しかったマスコミ向けの試食会を開催、足尾鉱毒事件では、田中正造を助け、農民救済運動に奔走します。
1897年(明治30年)に、事業を次男に譲り引退し、鎌倉で過ごしていましたが、1908年(明治41年)4月24日に、横須賀線の車中で脳溢血により、70歳で亡くなりました。尚、内村鑑三や新渡戸稲造らが追悼文を発表、生涯の事業を讃えて「大平民」と呼んでいます。
1855年(安政2年)に江戸幕府に出仕し、蘭学塾へ入門、森山栄之助に英語を学び、1861年(文久元年)には、幕臣津田大太郎の婿養子となり、外国奉行の通訳になりました。1864年(元治元年)に次女として梅子(むめ)が生まれ、1867年(慶応3年)には、江戸幕府の軍艦受取委員会随員(通訳)として、使節主席・小野友五郎と共に、福澤諭吉が同乗して渡米、ニューヨーク、フィラデルフィア、ワシントンD.C.を訪れ、帰国後、新潟奉行に転役、通弁・翻訳御用、英語教授方になります。
1868年(慶応4年) から戊辰戦争において、幕府軍として越後にて参戦。敗れて長崎へ、その後東京へ戻り、徳川一族から積立金を集めて保晃会設立、日光東照宮保存を図り、徳川家墓地管理と旧幕臣援助を定めた酬恩義会を設立しました。1869年(明治2年)に官職を辞し、築地の洋風旅館・築地ホテル館に勤め、サラダ用の西洋野菜の将来性に注目します。
1871年(明治4年)に北海道開拓使の嘱託になり、青山の北海道開拓使農事試験場を任され、農事研究をし、西洋野菜の栽培を手掛けるなど、日本の近代農業の先駆者になり、政府が派遣する岩倉使節団の女子留学生随行に、娘・梅子(後の津田塾大学の創設者)を応募、北海道開拓使を辞職し、民部省入省しました。1873年(明治6年)にウイーン万国博覧会の副総裁・佐野常民の書記官として随行、同地でオランダ人園芸家ダニエル・ホーイブレンから新農法を伝授され、翌年帰国後に、『農業三事』を出版します。
1875年(明治8年)に、農産物の栽培・販売・輸入、農産についての書籍・雑誌の出版など手掛ける学農社を設立、古川正雄らと共に盲聾唖者の教育のため楽善会を組織、翌年に東京麻布東町に学農社農学校を創立、「農業雑誌」、「開拓雑誌」など定期刊行物を出版しました。1878年(明治11年)にジュリアス・ソーパー宣教師による東京築地の耕教学舎(青山学院の源流)創立に協力し、第一回全国基督教徒大親睦会開催し議長となり、1880年(明治13年)には、「北海道開拓雑誌」を発刊、西洋農法の普及に努めます。
1884年(明治17年)に学農社農学校の学生数が半減し、閉校となり、1886年(明治19年)には、訓盲唖院が楽善会より文部省に移管され、官立の盲教育・聾唖教育機関になりました。1890年(明治23年)に東北を視察、りんご二十数種を東京に持ち帰り、当時珍しかったマスコミ向けの試食会を開催、足尾鉱毒事件では、田中正造を助け、農民救済運動に奔走します。
1897年(明治30年)に、事業を次男に譲り引退し、鎌倉で過ごしていましたが、1908年(明治41年)4月24日に、横須賀線の車中で脳溢血により、70歳で亡くなりました。尚、内村鑑三や新渡戸稲造らが追悼文を発表、生涯の事業を讃えて「大平民」と呼んでいます。
〇津田仙の主要な著作
・『荷衣伯連氏法農業三事』(1874年)
・『酒の害』(1887年)
・『桑樹談話会報告』(1888年)
・『玉川上水改良并ニ石造導水管ノ効用』(1892年)
・『朝鮮地名案内』(1894年)
☆津田仙関係略年表(明治5年以前の日付は旧暦です)
・1837年(天保8年7月6日) 下総国佐倉藩佐倉城内に下総国佐倉藩の堀田氏家臣・小島良親(善右衛門)の三男として生まれる
・1851年(嘉永4年) 15歳の時、元服、桜井家の養子になり、佐倉藩校・成徳書院に入り、藩命にてオランダ語・英語の他、洋学や砲術を学ぶ
・1855年(安政2年) 19歳の時、江戸幕府に出仕し、蘭学塾へ入門、森山栄之助に英語を学ぶ
・1861年(万延2/文久元年) 25歳の時、幕臣津田大太郎の婿養子となり、外国奉行の通訳になる
・1864年(文久4/元治元年) 28歳の時、次女として津田梅子(むめ)が生まれる
・1867年(慶応3年) 31歳の時、江戸幕府の軍艦受取委員会随員(通訳)として、使節主席・小野友五郎と共に、福澤諭吉が同乗して渡米、ニューヨーク、フィラデルフィア、ワシントンD.C.を訪れ、帰国後、新潟奉行に転役、通弁・翻訳御用、英語教授方になる
・1868年(慶応4/明治元)年 - 1869(明治2)年 津田仙(32-33歳)、戊辰戦争、幕府軍として越後へ。敗れて長崎へ、東京へ戻り、徳川一族から積立金を集めて保晃会設立、日光東照宮保存を図り、徳川家墓地管理と旧幕臣援助を定めた酬恩義会を設立する
・1869年(明治2年) 33歳の時、官職を辞し、築地の洋風旅館・築地ホテル館に勤め、サラダ用の西洋野菜の将来性に注目する
・1871年(明治4年) 35歳の時、明治政府が設立した北海道開拓使の嘱託になり、青山の北海道開拓使農事試験場を任され、農事研究をし、西洋野菜の栽培を手掛けるなど、日本の近代農業の先駆者になり、政府が派遣する岩倉使節団の女子留学生随行に、娘・梅子を応募、北海道開拓使を辞職し、民部省入省する
・1873年(明治6年) 37歳の時、ウイーン万国博覧会の副総裁・佐野常民の書記官として、随行、同地でオランダ人園芸家ダニエル・ホーイブレンから新農法を伝授される
・1874年(明治7年) 38歳の時、帰国後、『農業三事』出版する
・1875年(明治8年) 39歳の時、東京麻布にて、農産物の栽培・販売・輸入、農産についての書籍・雑誌の出版など手掛ける学農社を設立、古川正雄らと共に盲聾唖者の教育のため楽善会を組織する
・1876年(明治9年) 40歳の時、東京麻布東町に学農社農学校を創立、「農業雑誌」「開拓雑誌」など定期刊行物を出版する
・1878年(明治11年) 42歳の時、ジュリアス・ソーパー宣教師による東京築地の耕教学舎(青山学院の源流)創立に協力し、第一回全国基督教徒大親睦会開催し議長となる
・1880年(明治13年) 44歳の時、『北海道開拓雑誌』を発刊、西洋農法の普及に努める
・1883年(明治16年) 47歳の時、第三回全国基督教信徒大親睦会開催され、幹部になる
・1884年(明治17年) 48歳の時、学農社農学校の学生数が半減し、閉校となる
・1886年(明治19年) 50歳の時、訓盲唖院、楽善会より文部省に移管、官立の盲教育・聾唖教育機関になる
・1890年(明治23年) 54歳の時、東北を視察、りんご二十数種を東京に持ち帰り、当時珍しかったマスコミ向けの試食会を開催、足尾鉱毒事件で田中正造を助け、農民救済運動に奔走する
・1897年(明治30年) 61歳の時、事業を次男に譲り引退し、鎌倉で過ごす
・1908年(明治41年)4月24日 横須賀線の車中で脳溢血により、70歳で亡くなり、内村鑑三や新渡戸稲造らが追悼文を発表、生涯の事業を讃えて「大平民」と呼ぶ
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
1875年(明治8) | 飛騨高山明治8年の大火で、死者1名、焼失1,032戸を出す | 詳細 |
1921年(大正10) | 日本初の女性による社会主義団体「赤瀾会」が発足する | 詳細 |
1934年(昭和9) | 目黒競馬場で第1回日本ダービーが開催される | 詳細 |
1940年(昭和15) | 価格形成中央委員会で、日用必需品10品目に配給切符制導入が発表(6月1日以降順次実施)される | 詳細 |
1951年(昭和26) | 国鉄で桜木町事故が起こり、電車火災により死者106人・重軽傷92人を出す | 詳細 |
1955年(昭和30) | 第1回アジア・アフリカ会議最終日、「アジア・アフリカ会議最終コミュニケ」が採択される | 詳細 |