ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:足尾鉱毒事件

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 今日は、昭和時代後期の1974年(昭和49)に、古河鉱業が被害者971人に補償金15億5,000万円を支払う調停案に双方が受諾し、足尾鉱毒事件が80年ぶりに決着した日です。
 足尾鉱毒事件(あしおこうどくじけん)は、明治時代前期から栃木県と群馬県の渡良瀬川周辺で起きた足尾銅山を原因とする公害事件です。銅山の開発により排煙、鉱毒ガス、鉱毒水などの有害物質が周辺環境に著しい影響をもたらし、1885年(明治18)には渡良瀬川における魚類の大量死が始まりました。
 1890年(明治23)7月1日の渡良瀬川での大洪水では、上流の足尾銅山から流出した鉱毒によって、稲が立ち枯れる現象が起きて、流域各地で騒ぎとなります。この頃より栃木の政治家であった田中正造が中心となり国に問題提起し、1896年(明治29)には、有志と共に雲龍寺に栃木群馬両県鉱毒事務所が設けられました。
 1900年(明治33)2月、鉱毒被害民が集結し、請願のため上京する途中、警官隊と衝突した川俣事件がおこり、農民67名が逮捕されましたが、この事件の2日後と4日後、正造は国会で事件に関する質問を行っています。1901年(明治34)に正造は衆議院議員を辞職し、明治天皇に足尾鉱毒事件について直訴も試みました。
 1902年(明治35)、時の政府は、鉱毒を沈殿させるという名目で、渡良瀬川下流に遊水池を作る計画を立て、紆余曲折を経て、谷中村に遊水地がつくられることになります。しかし、この村の将来に危機を感じた正造は、1904年(明治37)から実質的に谷中村に移り住み、村民と共に反対運動に取り組みました。
 1907年(明治40)に政府は「土地収用法」の適用を発表し、村に残れば犯罪者となり逮捕するという脅しをかけ、多くの村民が村外に出ることとなります。その後も、正造を含む一部村民が残って、抵抗を続けたものの、1913年(大正2)に正造は71歳で没し、運動は途切れることになりました。
 以後も足尾銅山は1973年(昭和48)の閉山まで、精錬所は1980年代まで稼働し続けます。その中で、1971年(昭和46)に、群馬県毛里田地区産出米からカドミウムを検出、1972年(昭和47)に、毛里田同盟会(第2代会長・板橋明治)が政府の中央公害審査会(のちに公害等調整委員会に改組)に、損害賠償を求める調停を申請しました。
 その結果、1974年(昭和49)5月11日には、毛里田同盟会と古河、第12回調定で農作物減収補償調停が成立して調印し、損害賠償額は15億5,000万円となります。それからも、2011年(平成23)に発生した東北地方太平洋沖地震の影響で渡良瀬川下流から基準値を超える鉛が検出されるなど、現在でも影響が残されてきました。

〇足尾銅山】(あしおどうざん)とは?

 栃木県上都賀郡足尾町(現在の日光市足尾地区)にあった銅山です。室町時代に発見されたと伝えられていますが、江戸時代に幕府直轄の鉱山として本格的に採掘が開始されることになりました。
 銅山は大いに繁栄し、江戸時代のピーク時には、年間1,200トンもの銅を産出していたとのことです。その後、採掘量が減少し、幕末から明治時代初期にかけては、ほぼ閉山状態となっていました。
 しかし、1877年(明治10)に古河市兵衛が足尾銅山の経営に着手し、数年後に有望鉱脈が発見され、生産量が増大します。1905年(明治38)に古河鉱業の経営となり、急速な発展を遂げ、20世紀初頭には日本の銅産出量の約40%の生産を上げるまでになりました。
 ところが、この鉱山開発と製錬事業の発展のために、周辺の山地から坑木・燃料用として、樹木が大量伐採され、製錬工場から排出される大気汚染による環境汚染が広がることになります。禿山となった山地を水源とする渡良瀬川は、度々洪水を起こし、製錬による有害廃棄物を流出し、下流域の平地に流れ込み、水質・土壌汚染をもたらし、足尾鉱毒事件を引き起こしました。
 1890年代より栃木の政治家であった田中正造が中心となり国に問題提起をして、鉱毒事件の闘いの先頭に立ったことは有名です。1973年(昭和48)2月28日で閉山しましたが、今でも銅山跡周辺に禿山が目立っています。
 その後、1980年(昭和55)に、坑道を使用した足尾町「足尾銅山観光」がオープンしました。尚、2007年(平成19)には、足尾銅山が日本の地質百選に選定され、経済産業省が取りまとめた近代化産業遺産群33に「足尾銅山関連遺産」としても認定されています。さらに、2008年(平成20)には、通洞坑と宇都野火薬庫跡が国の史跡に指定されました。

☆足尾鉱毒事件関係略年表

<1877年(明治10)> 
・古河市兵衛が足尾銅山製錬所を操業する

<1881年(明治14)> 
・足尾銅山、鷹の巣直利を発見する

<1884年(明治17)> 
・横間歩大直利を発見する

<1890年(明治23)>
・8月 渡良瀬川大洪水で、栃木・群馬両県に鉱毒被害が発生する

<1891年(明治24)>
・12月 田中正造が、第2回帝国議会で鉱業停止を要求する

<1892年(明治25)>
・この頃 被害農民と古河の示談契約が進展する

<1893年(明治26)
・第1回示談契約が完結する
・6月30日 足尾銅山、粉鉱採集器を設置、3年間をその試験期間とする

<1895年(明治28)>
・3月 鉱毒被害民と古河市兵衛との間に永久示談契約が進展する

<1896年(明治29)>
・3月25日 正造、第9帝国議会において永久示談の不当性を追及する
・7月~9月 渡良瀬川で、三たび大洪水が起こり、1府5県に鉱毒被害が及ぶ
・10月  正造、有志と雲竜寺に群馬栃木両県鉱毒事務所を設置する

<1897年(明治30)>
・3月2日(~3月5日) 鉱毒被害民が、第1回大挙押出し
・3月20日 谷干城・津田仙・栗原彦三郎、被害地を視察する
・3月23日 農商務大臣榎本武揚、被害地を視察する
・3月23日(~3月30日) 鉱毒被害民、第2回大挙押出し、内閣に足尾銅山鉱毒事件調査委員会が設置される
・5月27日 東京鉱山監督署長、足尾銅山に対して鉱毒除防工事命令をする

<1898年(明治31)>
・4月30日 大蔵省、鉱毒被害民に対して地祖条例による普通荒地免租処分を通達、該当者は公民権を喪失する
・6月30日 大隅重信内閣設立(10月31日、崩壊)する
・9月6日 渡良瀬川の大洪水が起きる
・9月26日 鉱毒被害民、第3回大挙押出し
・9月28日 正造、東京府下南足立郡淵江村保木間において、総代50名を残して帰村するよう説得する

<1899年(明治32)> 
・12月22日 鉱毒議会が結成される

<1900年(明治33)>
・2月13日 未明に被害民が、第4回大挙押出しをし、川俣事件が発生する
・2月14日 正造、第14回議会において川俣事件に関連して政府を追及する
・7月9日 川俣事件で、前橋地方裁判所の予審終結、51名が起訴される
・11月28日 正造、川俣事件第15回公判で、検事論告に憤慨して欠伸をし、官吏侮辱罪に問われる
・12月22日 前橋地方裁判所、川俣事件に判決。被告51名中、有罪29名、無罪22名。検事・被告双方より控訴する

<1901年(明治34)>
・10月13日 川俣事件控訴審での、判事、検事、弁護士らによる被害地臨検が行われる
・10月23日 正造、衆議院議員を辞職する
・11月29日 神田基督教青年会館において鉱毒地救済婦人会発会式(会長・潮田千勢子)が行われる
・12月10日 正造、議会開院式より帰途の天皇に直訴状を提出しようとしてさえぎられ、麹町警察署にて取り調べ、夕刻釈放される
・12月27日 東京学生1100余名が、大挙鉱毒地視察を行う

<1902年(明治35)>
・内務省、秘密裡に栃木県谷中村、埼玉県利島・川辺両村の遊水池計画推進する
・1月 利島・川辺両村に遊水池反対運動起こる
・3月17日 内閣に鉱毒調査委員会が設置される
・6月16日 欠伸事件で有罪確定し、正造は巣鴨監獄に服役する
・9月28日 関東大洪水が起きる
・10月 埼玉県、利根川火打沼の決壊堤防を放置し、川辺・利島両村の買収を計画する
・10月16日 両村民は、自力修復して納税・兵役の義務拒絶を宣言する
・12月25日 川俣事件再審理公判、宮城控訴院にて控訴棄却・公訴不受理により消滅する
 
<1903年(明治36)>
・1月 栃木県議会、遊水池化のための谷中村買収案否決する
・6月3日 政府、鉱毒調査委員会の調査報告書を発表、谷中村瀦水池案浮上する

<1904年(明治37)>
・7月 正造、谷中村問題に専念のため、以後、同村川鍋岩五郎方に寄留する
・12月10日 災害復旧費名の谷中村買収案、栃木県会(秘密会)を通過する

<1905年(明治38)>
・3月24日 原敬、古河鉱業副社長に就任する

<1906年(明治39)>
・6月8日 正造、栃木県知事白仁武より予戒令を受ける
・7月1日 谷中村村長職務管掌鈴木豊三、村会決議を無視して同村を藤岡村に合併する

<1907年(明治40)>
・2月4日 (〜2月7日) 足尾銅山暴動事件が起きる
・6月29日 (〜7月5日) 栃木県、谷中堤内残留民家屋16戸を強制破壊する
・7月29日 谷中堤内地権者、東京救済会の勧告に従い土地収用補償金額裁決不服訴訟を提起する

<1909年(明治42)> 
・9月 渡良瀬川改修案、関係四県の県議会を通過する

<1911年(明治44)> 
・4月 谷中村民16戸137人、北海道サロマベツ原野に移住(第1次)する

<1913年(大正2)> 
・9月4日 田中正造が亡くなる

<1917年(大正6)>  
・2月 谷中残留民、渡良瀬川改修工事にともなう埋立地に移転する

<1921年(大正10)>   
・1月 萱刈り事件が起きる

<1937年(昭和12)>  
・4月 北海道移住した旧谷中村民、帰郷請願書を栃木県知事に提出する

<1947年(昭和22)> 
・9月 渡良瀬川大洪水(カスリン台風)で被害甚大となる

<1956年(昭和31)>  
・2月 足尾銅山、自溶製錬設備が完成する

<1958年(昭和33)> 
・5月 源五郎沢堆積場が決壊し、水田6,000haが鉱毒被害を受ける
・8月 群馬県の三市三郡による渡良瀬川鉱毒根絶期成同盟会(会長・恩田正一)が結成される

<1968年(昭和43)>  
・3月 経済企画庁が、渡良瀬川の流水の水質基準を銅0.06ppmと決定する

<1971年(昭和46)>
・2月 群馬県毛里田地区産出米からカドミウムを検出する

<1972年(昭和47)> 
・3月 毛里田同盟会(第2代会長・板橋明治)政府の中央公害審査会(のちに公害等調整委員会に改組)に、損害賠償を求める調停を申請する
・11月 足尾銅山が、閉山計画を発表する

<1973年(昭和48)>  
・2月 足尾銅山の採掘中止(閉山)、ただし製錬事業は拡大の方針となる

<1974年(昭和49)>  
・5月11日 毛里田同盟会と古河、第12回調定で農作物減収補償調停が成立して調印、損害賠償額は15億5,000万円となる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1183年(寿永2)倶利伽羅峠の戦いで源(木曽)義仲が平氏を破る(新暦6月2日)詳細
1333年(元弘3)小手指原の戦いで、新田義貞軍が鎌倉幕府軍を破る(新暦6月23日)詳細
1473年(文明5)武将・守護大名・室町幕府管領細川勝元の命日(新暦6月6日)詳細
1925年(大正14)有機化学者中西香爾の誕生日詳細
1942年(昭和17)詩人萩原朔太郎の命日(朔太郎忌)詳細
1955年(昭和30)宇高連絡船の紫雲丸と第3宇高丸が衝突し紫雲丸が沈没して死者167名を出す(紫雲丸事故)詳細
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 今日は、昭和時代後期の1973年(昭和48)に、古河鉱業が栃木県の足尾銅山を閉山し、363年の歴史に幕を下ろした日です。
 足尾銅山(あしおどうざん)は、栃木県上都賀郡足尾町(現在の日光市足尾地区)にあった銅山です。室町時代に発見されたと伝えられていますが、江戸時代に幕府直轄の鉱山として本格的に採掘が開始されることになりました。銅山は大いに繁栄し、江戸時代のピーク時には、年間1,200トンもの銅を産出していたとのことです。
 その後、採掘量が減少し、幕末から明治時代初期にかけては、ほぼ閉山状態となっていました。しかし、1877年(明治10)に古河市兵衛が足尾銅山の経営に着手し、数年後に有望鉱脈が発見され、生産量が増大します。
 1905年(明治38)に古河鉱業の経営となり、急速な発展を遂げ、20世紀初頭には日本の銅産出量の約40%の生産を上げるまでになりました。ところが、この鉱山開発と製錬事業の発展のために、周辺の山地から坑木・燃料用として、樹木が大量伐採され、製錬工場から排出される大気汚染による環境汚染が広がることになります。
 禿山となった山地を水源とする渡良瀬川は、度々洪水を起こし、製錬による有害廃棄物を流出し、下流域の平地に流れ込み、水質・土壌汚染をもたらし、足尾鉱毒事件を引き起こしました。1890年代より栃木の政治家であった田中正造が中心となり国に問題提起をして、鉱毒事件の闘いの先頭に立ったことは有名です。
 1973年(昭和48)2月28日で閉山しましたが、今でも銅山跡周辺に禿山が目立っています。その後、1980年(昭和55)に、坑道を使用した足尾町「足尾銅山観光」がオープンしました。
 尚、2007年(平成19)には、足尾銅山が日本の地質百選に選定され、経済産業省が取りまとめた近代化産業遺産群33に「足尾銅山関連遺産」としても認定されています。さらに、2008年(平成20)には、通洞坑と宇都野火薬庫跡が国の史跡に指定されました。

〇足尾鉱毒事件】(あしおこうどくじけん)とは?

 明治時代前期から栃木県と群馬県の渡良瀬川周辺で起きた足尾銅山を原因とする公害事件です。銅山の開発により排煙、鉱毒ガス、鉱毒水などの有害物質が周辺環境に著しい影響をもたらし、1885年(明治18)には渡良瀬川における魚類の大量死が始まりました。
 1890年(明治23)7月1日の渡良瀬川での大洪水では、上流の足尾銅山から流出した鉱毒によって、稲が立ち枯れる現象が起きて、流域各地で騒ぎとなります。この頃より栃木の政治家であった田中正造が中心となり国に問題提起し、1896年(明治29)には、有志と共に雲龍寺に栃木群馬両県鉱毒事務所が設けられました。
 1900年(明治33)2月、鉱毒被害民が集結し、請願のため上京する途中、警官隊と衝突した川俣事件がおこり、農民67名が逮捕されましたが、この事件の2日後と4日後、正造は国会で事件に関する質問を行っています。1901年(明治34)に正造は衆議院議員を辞職し、明治天皇に足尾鉱毒事件について直訴も試みました。
 1902年(明治35)、時の政府は、鉱毒を沈殿させるという名目で、渡良瀬川下流に遊水池を作る計画を立て、紆余曲折を経て、谷中村に遊水地がつくられることになります。しかし、この村の将来に危機を感じた正造は、1904年(明治37)から実質的に谷中村に移り住み、村民と共に反対運動に取り組みました。
 1907年(明治40)に政府は「土地収用法」の適用を発表し、村に残れば犯罪者となり逮捕するという脅しをかけ、多くの村民が村外に出ることとなります。その後も、正造を含む一部村民が残って、抵抗を続けたものの、1913年(大正2)に正造は71歳で没し、運動は途切れることになりました。
 以後も足尾銅山は1973年(昭和48)の閉山まで、精錬所は1980年代まで稼働し続けます。それからも、2011年(平成23)に発生した東北地方太平洋沖地震の影響で渡良瀬川下流から基準値を超える鉛が検出されるなど、現在でも影響が残っています。

☆足尾銅山関係略年表

・1610年(慶長15) 足尾銅山開山
・1816年(文化13) 銅量低下による資金の行き詰まりに見舞われ、戸谷半兵衛光寿ら6人衆が5,000両を幕府に上納し、困窮者の救済にあたる
・1877年(明治10) 古河市兵衛が足尾銅山の経営に携わる
・1884年(明治17) 足尾銅山の銅生産量が日本一となる
・1885年(明治18) 『朝野新聞』が鉱毒被害を報道する
・1890年(明治23) 渡良瀬川の大洪水で鉱毒の被害が拡大する
・1891年(明治24) 田中正造が第2回帝国議会で鉱業停止を要求する
・1896年(明治29) 通洞が貫通、田中正造が第9議会において永久示談の不当性を追及し、有志と雲竜寺に群馬栃木両県鉱毒事務所を設置する
・1897年(明治30) 鉱毒被害民、大挙押出し、東京鉱山監督署長、足尾銅山に対して鉱毒除防工事を命令、第1回鉱毒調査会を組織(会長は農相の榎本武揚)する。
・1898年(明治31) 大蔵省、鉱毒被害民に対して地租条例による普通荒地免租処分を通達。該当者は公民権喪失。
・1900年(明治33) 川俣事件が発生する
・1901年(明治34) 田中正造、議会開院式より帰途の明治天皇に直訴状を提出しようとして遮られる。麹町警察署にて取り調べ、夕刻釈放される
・1903年(明治36) 古河市兵衛死去、養子の古河潤吉(実父陸奥宗光)が足尾銅山の経営を担うようになる
・1905年(明治38) 経営会社を古河鉱業と改称。古河潤吉死去、古河市兵衛の実子である古河虎之助が後継者となる
・1906年(明治39) 谷中村が廃村となり、日光精銅所が操業開始する
・1907年(明治40) 足尾暴動事件が起き、銅山施設の大部分が焼失する
・1912年(大正3) 足尾鉄道桐生駅~間藤駅間(現在のわたらせ渓谷鐵道わたらせ渓谷線)が開通する
・1913年(大正4) 田中正造が亡くなる
・1921年(大正10) 古河商事が破綻し、古河鉱業に合併される
・1934年(昭和9) 沈殿池が溢れて渡良瀬川沿岸で鉱毒被害が発生する
・1944年(昭和19) 太平洋戦争下で、足尾銅山が軍需会社に指定される
・1950年(昭和25) 三栗谷用水、鉱毒沈砂池を設置する
・1954年(昭和29) 小滝坑が廃止される
・1956年(昭和31) 自溶製錬設備が完成し、亜硫酸ガスの排出が減少する
・1958年(昭和33) 源五郎沢堆積場が決壊し、待矢場両堰に鉱毒が流入、毛里田村鉱毒根絶期成同盟会成立する
・1961年(昭和36) 銅・鉛・亜鉛の貿易自由化決定 これ以降、国内鉱山は次第に経営難となる
・1966年(昭和41) 天狗沢堆積場が決壊、毛里田村鉱毒根絶期成同盟会が古河鉱業に抗議する
・1970年(昭和45) 桐生市水道局、渡良瀬川から基準値を超える砒素を検出する
・1971年(昭和46) 太田市毛里田地区の米からカドミウムが検出される
・1972年(昭和47) 太田市毛里田地区の米、土壌のカドミウム汚染は、足尾銅山が原因と群馬県が断定(古河鉱業は否認)する
・1973年(昭和48) 足尾銅山が閉山、製錬事業は継続される
・1974年(昭和49) 毛里田鉱毒根絶期成同盟会と15億5,000万円で和解が成立する
・1976年(昭和51) 草木ダムが竣工する
・1980年(昭和55) 足尾町「足尾銅山観光」がオープンする
・1989年(平成元) 足尾での製錬事業が事実上休止状態になる
・2002年(平成14) 環境基準の強化により、本山製錬所での廃棄物焼却事業を休止する
・2007年(平成19) 足尾銅山が日本の地質百選に選定され、経済産業省が取りまとめた近代化産業遺産群33に「足尾銅山関連遺産」としても認定される
・2008年(平成20) 通洞坑と宇都野火薬庫跡が国の史跡に指定される
・2010年(平成22) 製錬場が一部の施設を残して解体される
・2011年(平成23)3月11日、源五郎沢堆積場が東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)により再び決壊、鉱毒汚染物質が渡良瀬川に流下し、下流の農業用水取水地点で基準値を超える鉛が検出される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1591年(天正19)商人・茶人千利休の命日(新暦4月21日)詳細
1633年(寛永10)江戸幕府により「寛永十年二月令」(第一次鎖国令)が出される詳細
1638年(寛永15)島原・原城が落城し、島原の乱が終結、蘢城していた一揆勢が皆殺しなる(新暦4月12日)詳細
1864年(元治元)小説家二葉亭四迷の誕生日(新暦4月4日)詳細
1947年(昭和22)第1次吉田茂内閣で、「供米促進対策要綱」が閣議決定される詳細
1952年(昭和27)「日米安全保障条約(旧)」に関わり、日米両国の政府間で、「日米行政協定」が調印される詳細
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 今日は、明治時代後期の1901年(明治34)に、田中正造が足尾鉱毒事件で衆議院議員を辞職した日です。
 足尾鉱毒事件(あしおこうどくじけん)は、明治時代前期から栃木県と群馬県の渡良瀬川周辺で起きた足尾銅山を原因とする公害事件です。銅山の開発により排煙、鉱毒ガス、鉱毒水などの有害物質が周辺環境に著しい影響をもたらし、1885年(明治18)には渡良瀬川における魚類の大量死が始まりました。
 1890年(明治23)7月1日の渡良瀬川での大洪水では、上流の足尾銅山から流出した鉱毒によって、稲が立ち枯れる現象が起きて、流域各地で騒ぎとなります。この頃より栃木の政治家であった田中正造が中心となり国に問題提起し、1896年(明治29)には、有志と共に雲龍寺に栃木群馬両県鉱毒事務所が設けられました。
 1900年(明治33)2月、鉱毒被害民が集結し、請願のため上京する途中、警官隊と衝突した川俣事件がおこり、農民67名が逮捕されましたが、この事件の2日後と4日後、正造は国会で事件に関する質問を行っています。1901年(明治34)に正造は衆議院議員を辞職し、明治天皇に足尾鉱毒事件について直訴も試みました。
 1902年(明治35)、時の政府は、鉱毒を沈殿させるという名目で、渡良瀬川下流に遊水池を作る計画を立て、紆余曲折を経て、谷中村に遊水地がつくられることになります。しかし、この村の将来に危機を感じた正造は、1904年(明治37)から実質的に谷中村に移り住み、村民と共に反対運動に取り組みました。
 1907年(明治40)に政府は「土地収用法」の適用を発表し、村に残れば犯罪者となり逮捕するという脅しをかけ、多くの村民が村外に出ることとなります。その後も、正造を含む一部村民が残って、抵抗を続けたものの、1913年(大正2)に正造は71歳で没し、運動は途切れることになりました。
 以後も足尾銅山は1973年(昭和48)の閉山まで、精錬所は1980年代まで稼働し続けます。それからも、2011年(平成23)に発生した東北地方太平洋沖地震の影響で渡良瀬川下流から基準値を超える鉛が検出されるなど、現在でも影響が残っています。

〇足尾銅山(あしおどうざん)とは?

 この銅山は、室町時代に発見されたと伝えられていますが、江戸時代に幕府直轄の鉱山として本格的に採掘が開始されることになりました。銅山は大いに繁栄し、江戸時代のピーク時には、年間1,200トンもの銅を産出していたとのことです。
 その後、採掘量が減少し、幕末から明治時代初期にかけては、ほぼ閉山状態となっていました。しかし、1877年(明治10)に古河市兵衛が足尾銅山の経営に着手し、数年後に有望鉱脈が発見され、生産量が増大しました。
 1905年(明治38)に古河鉱業の経営となり、急速な発展を遂げ、20世紀初頭には日本の銅産出量の約40%の生産を上げるまでになりました。ところが、この鉱山開発と製錬事業の発展のために、周辺の山地から坑木・燃料用として、樹木が大量伐採され、製錬工場から排出される大気汚染による環境汚染が広がることになります。
 禿山となった山地を水源とする渡良瀬川は、度々洪水を起こし、製錬による有害廃棄物を流出し、下流域の平地に流れ込み、水質・土壌汚染をもたらし、足尾鉱毒事件を引き起こしました。1890年代より栃木の政治家であった田中正造が中心となり国に問題提起をして、鉱毒事件の闘いの先頭に立ったことは有名です。
 1973年(昭和48)に閉山しましたが、今でも銅山跡周辺に禿山が目立っています。また、2007年(平成19)11月30日には、経済産業省から「近代化産業遺産」にも認定されました。尚、現在は足尾銅山観光などの観光地となっています。

〇田中 正造(たなか しょうぞう)とは?

 明治時代に活躍した政治家で、1841年(天保12)に、小中村(現在の栃木県佐野市)名主の家に生まれました。 その後、父の跡を継いで小中村名主となりましたが、領主に村民と共に政治的要求を突き付けたことが元になって、投獄されています。
 1870年(明治3)、江刺県花輪支庁(現在の秋田県鹿角市)の官吏となったものの、翌年、上司殺害の容疑者として逮捕、投獄されました。冤罪に終わりましたが、その後小中村に戻り、再び政治に関わるようになります。
 1880年(明治13)に、栃木県議会議員になり、1890年(明治23)、第1回衆議院議員総選挙に出馬し、初当選(以後6回当選)しました。この年に渡良瀬川で大洪水があり、上流の足尾銅山から流出した鉱毒によって、稲が立ち枯れる現象が起きて、流域各地で騒ぎとなります。
 そして、この足尾銅山鉱毒事件に深くかかわっていくことになりました。1901年(明治34)には、明治天皇に足尾銅山鉱毒事件について直訴を行なおうとしています。
 1902年(明治35)、時の政府は、鉱毒を沈殿させるという名目で、渡良瀬川下流に遊水池を作る計画を立てたのです。紆余曲折を経て、谷中村に遊水地がつくられることになり、この村の将来に危機を感じた田中正造は、1904年(明治37)から実質的に谷中村に移り住みました。
 そして、村民と共に反対運動に取り組みましたが、1907年(明治40)、政府は土地収用法の適用を発表し、村に残れば犯罪者となり逮捕するという脅しをかけ、多くの村民が村外に出ることとなったのです。その後も、田中正造を含む一部村民が残って、抵抗を続けたものの、1913年(大正2)9月4日に71歳で没しました。
 尚、「佐野市郷土博物館」には、田中正造展示室があり、関係資料約1万点を収蔵しています。

☆足尾鉱毒事件関係略年表

・1877年(明治10) 古河市兵衛が足尾銅山の経営に着手、足尾銅山製錬所が操業する
・1885年(明治18) 渡良瀬川における魚類の大量死が始まる
・1890年(明治23) 渡良瀬川での大洪水では、上流の足尾銅山から流出した鉱毒によって、稲が立ち枯れる現象が起きて、流域各地で騒ぎとなる
・1891年(明治24) 田中正造が第2回帝国議会で鉱業停止を要求する
・1895年(明治28) 鉱毒被害民と古河市兵衛との間に永久示談契約が進展する
・1896年(明治29) 田中正造が第9帝国議会において永久示談の不当性を追及、有志と共に雲龍寺に栃木群馬両県鉱毒事務所を設ける
・1897年(明治30) 鉱毒被害民が第1回大挙押出しを行う
・1900年(明治33) 鉱毒被害民が集結し、請願のため上京する途中、警官隊と衝突した川俣事件がおこり、農民67名が逮捕され、2日後と4日後、田中正造は国会で事件に関する質問を行なう
・1901年(明治34) 田中正造は衆議院議員を辞職し、明治天皇に足尾鉱毒事件について直訴も試みる
・1902年(明治35) 時の政府は、鉱毒を沈殿させるという名目で、渡良瀬川下流に遊水池を作る計画を立て
・1903年(明治36) 政府は鉱毒調査委員会の調査報告書を発表、谷中村瀦水池案が浮上する
・1904年(明治37) 田中正造は、実質的に谷中村に移り住み、村民と共に反対運動に取り組む
・1906年(明治39) 谷中村村長職務管掌鈴木豊三が、村会決議を無視して同村を藤岡村に合併する
・1907年(明治40) 政府は「土地収用法」の適用を発表し、村に残れば犯罪者となり逮捕するという脅しをかける
・1911年(明治44) 谷中村民16戸137人が北海道サロマベツ原野に移住する
・1913年(大正2) 田中正造は71歳で没し、運動は途切れることになる
・1973年(昭和48) 足尾銅山が閉山する
・2011年(平成23) 発生した東北地方太平洋沖地震の影響で渡良瀬川下流から基準値を超える鉛が検出される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

711年(和銅4)「蓄銭叙位令」が出される (新暦12月7日)詳細
765年(天平神護元)第47代天皇とされる淳仁天皇が、配流先の淡路島で亡くなる(新暦11月10日)詳細
1669年(寛文9)日高アイヌの総酋長シャクシャインの命日 (新暦11月16日)詳細
1871年(明治4)詩人・英文学者土井晩翠の誕生日(新暦12月5日)詳細
1873年(明治6)明治六年政変が起き、西郷隆盛が参議などを含む官職からの辞表を提出し、帰郷の途に就く詳細
2004年(平成16)新潟県中越地震(マグニチュード6.8)が起こり、死者68人、重軽傷者4,805人が出る詳細
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 今日は、昭和時代前期の1927年(昭和2)に、社会運動家・女性解放運動の先駆者福田英子の亡くなった日です。
 福田英子(ふくだ ひでこ)は、幕末の1865年(慶応元年10月5日)に、備前国野田屋町(現在の岡山県岡山市)で、岡山藩の下級武士だった父・景山確と母・楳子(うめこ)の次女としてとして生まれました。幼時より利発で、母の勧めで漢学を学び、1880年(明治13)に小学校卒業後、母校の助教員に任じられます。
 1882年(明治15)に岡山で開催された演説会で岸田(中村)俊子の演説を聞き、触発されて女権拡張に目覚め、岡山女子懇親会を結成して、自由民権運動に参加、翌年に民権闘士小林樟雄と婚約し、母と共に私塾「蒸紅(じょうこう)学舎」を設立しました。しかし、1884年(明治17)に「集会条例」によって「蒸紅学舎」が閉鎖されて上京し、1885年(明治18)には、大井憲太郎らと朝鮮改革のクーデターを計画、失敗し投獄(大阪事件)されます。
 1889年(明治22)の帝国憲法発布の大赦令で出獄、翌年に大井との間で男子(憲邦)を出生したものの、離別しました。1892年(明治25)にアメリカ帰りの自由主義者・福田友作と結婚、3子を設けましたが貧窮生活が続き、1900年(明治33)に夫と死別、キリスト教に入信します。
 1901年(明治34)に角筈女子工芸学校と日本女子恒産会を設立し、実業教育を通して女性解放のために尽力、1903年(明治36)には、石川三四郎と親交を結び、「平民社」に出入りするようになりました。自伝『妾の半生涯』(1904年)、小説『わらはの思出』(1905年)を出版、1906年(明治39)には、「平民社」の婦人を中心に「社会主義同志婦人会」を設立します。
 1907年(明治40)に雑誌『世界婦人』を発刊、主筆として「婦人解放」の論陣を張り、その第6号に「内村先生に上(たてまつ)る書」を書くなどしました。1908年(明治41)に石川三四郎と同棲、翌年に『世界婦人』は弾圧を受け、罰金と発禁に遭い、編集発行の石川三四郎は入獄、1913年(大正2)に石川は英子を置いて一人ベルギーに亡命します。
 同年に『青踏』に「婦人問題の解決」を寄稿、婦選獲得、足尾鉱毒事件の谷中村民支援を続けました。晩年は不遇で呉服行商で生活を支えましたが、1927年(昭和2)5月2日に、東京において63歳で亡くなっています。

〇福田英子の主要な著作

・自伝『妾の半生涯』(1904年) 
・小説『わらはの思出』(1905年)
・『婦人問題の解決』(1913年)

☆福田英子関係略年表(明治5年以前の日付は旧暦です)

・1865年(慶応元年10月5日) 備前国野田屋町(現在の岡山県岡山市)で岡山藩の下級武士だった父・景山確と母・楳子(うめこ)の次女としてとして生まれる
・1868年(慶応4年) 4歳の時、明治維新の大変革が遂行され、父確は、武士階級の解体に伴って巡査となる
・1876年(明治9年) 岡山県立研智小学校に入学する
・1880年(明治13年) 小学校卒業後、母校の助教員に任じられる
・1882年(明治15年)5月 岡山で開催された演説会で岸田(中村)俊子の演説を聞く
・1883年(明治16年) 19歳で民権闘士小林樟雄と婚約する
・1883年(明治16年) 母と共に、私塾「蒸紅(じょうこう)学舎」を設立する
・1884年(明治17年) 「集会条例」によって「蒸紅学舎」が閉鎖され、上京する
・1885年(明治18年) 大井憲太郎らと朝鮮改革のクーデターを計画、失敗し大阪事件に連座、投獄される
・1889年(明治22年) 帝国憲法発布の大赦令で出獄する
・1890年(明治23年)3月 大井との間で男子(憲邦)を出生する
・1892年(明治25年) アメリカ帰りの自由主義者・福田友作と結婚する
・1900年(明治33年) 夫と死別、キリスト教に入信する
・1901年(明治34年) 角筈女子工芸学校と日本女子恒産会を設立する
・1903年(明治36年) 石川三四郎と親交を結び、「平民社」に出入りする
・1904年(明治37年) 自伝『妾の半生涯』を出す
・1905年(明治38年) 小説『わらはの思出』を出す
・1906年(明治39年) 平民社の婦人を中心に「社会主義同志婦人会」を設立する
・1907年(明治40年) 雑誌『世界婦人』を発刊する
・1907年(明治40年)3月15日 『世界婦人』6号に「内村先生に上(たてまつ)る書」を書く
・1908年(明治41年) 石川三四郎と同棲する
・1909年(明治42年) 『世界婦人』は弾圧を受け、罰金と発禁に遭い、編集発行の石川三四郎は入獄する
・1913年(大正2年) 石川は英子を置いて一人ベルギーに亡命する
・1913年(大正2年)2月 『青踏』に「婦人問題の解決」を寄稿するが、発禁となる
・1914年(大正3年) この頃から、雑誌発刊と生活費のため、呉服の行商をはじめる
・1914年(大正3年)2月 東京府下滝野川へ転居する
・1914年(大正3年)7月7日 『読売新聞』婦人附録に英子の訪問記がのる
・1927年(昭和2年) 『婦選』に往年の活動の思い出「自由民権時代の婦人の政治運動」を寄稿する
・1927年(昭和2年)4月初旬 風邪がもとで、生来の心臓病を併発する
・1927年(昭和2年)5月2日 東京において63歳で亡くなる
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

713年(和銅6)元明天皇が諸国に『風土記』の編纂を命じる(新暦5月30日)詳細
756年(天平勝宝8)聖武天皇の命日(新暦6月4日)詳細


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 今日は、足尾鉱毒事件に関わって、被害民二千余名が請願のため上京する途中、二百余名の警官隊・憲兵と衝突した川俣事件がおこり、農民67名が逮捕された日です。
 川俣事件(かわまたじけん)は、1900年(明治33)2月13日、群馬県邑楽郡渡瀬村(現在の館林市下早川田町)の雲龍寺に集結した鉱毒被害民二千余名が、未明に出発して請願のため上京する途中、利根川を渡ろうとして群馬県邑楽郡佐貫村川俣(現在の明和町)で、待ち構えていた二百余名の警官隊・憲兵と衝突した事件でした。これにより、多くが負傷、農民67名が逮捕され、その内、51名が兇徒聚集罪などで起訴されます。
 しかし、1902年(明治35)に仙台控訴審で起訴無効という判決が下り、実質的に全員不起訴という形で決着しました。
 その後、1999年(平成11)に、歴史的事件である「川俣事件」の風化を防ごうと、当時の事件の発生場所を「川俣事件衝突の地」として明和町指定史跡に指定し、碑が建てられます。また、事件発生100年後の2000年(平成12)に、事件発生現場に、川俣事件記念碑が建立されました。

〇足尾鉱毒事件とは?

 明治時代前期から栃木県と群馬県の渡良瀬川周辺で起きた足尾銅山を原因とする公害事件です。銅山の開発により排煙、鉱毒ガス、鉱毒水などの有害物質が周辺環境に著しい影響をもたらし、1885年(明治18)には渡良瀬川における魚類の大量死が始まりました。
 1890年(明治23)7月1日の渡良瀬川で大洪水では、上流の足尾銅山から流出した鉱毒によって、稲が立ち枯れる現象が起きて、流域各地で騒ぎとなります。この頃より栃木の政治家であった田中正造が中心となり国に問題提起し、1896年(明治29)には、有志と共に雲龍寺に栃木群馬両県鉱毒事務所が設けられました。
 1900年(明治33)2月、鉱毒被害民が集結し、請願のため上京する途中、警官隊と衝突した川俣事件がおこり、農民67名が逮捕されましたが、この事件の2日後と4日後、正造は国会で事件に関する質問を行っています。1901年(明治34)に正造は衆議院議員を辞職し、明治天皇に足尾鉱毒事件について直訴も試みました。
 1902年(明治35)、時の政府は、鉱毒を沈殿させるという名目で、渡良瀬川下流に遊水池を作る計画を立て、紆余曲折を経て、谷中村に遊水地がつくられることになります。しかし、この村の将来に危機を感じた正造は、1904年(明治37)から実質的に谷中村に移り住み、村民と共に反対運動に取り組みました。
 1907年(明治40)に政府は「土地収用法」の適用を発表し、村に残れば犯罪者となり逮捕するという脅しをかけ、多くの村民が村外に出ることとなります。その後も、正造を含む一部村民が残って、抵抗を続けたものの、1913年(大正2)に正造は71歳で没し、運動は途切れることになりました。
 以後も足尾銅山は1973年(昭和48)の閉山まで、精錬所は1980年代まで稼働し続けます。それからも、2011年(平成23)に発生した東北地方太平洋沖地震の影響で渡良瀬川下流から基準値を超える鉛が検出されるなど、現在でも影響が残っています。

〇足尾銅山とは?

 この銅山は、室町時代に発見されたと伝えられていますが、江戸時代に幕府直轄の鉱山として本格的に採掘が開始されることになりました。銅山は大いに繁栄し、江戸時代のピーク時には、年間1,200トンもの銅を産出していたとのことです。
 その後、採掘量が減少し、幕末から明治時代初期にかけては、ほぼ閉山状態となっていました。しかし、1877年(明治10)に古河市兵衛が足尾銅山の経営に着手し、数年後に有望鉱脈が発見され、生産量が増大します。
 1905年(明治38)に古河鉱業の経営となり、急速な発展を遂げ、20世紀初頭には日本の銅産出量の約40%の生産を上げるまでになりました。ところが、この鉱山開発と製錬事業の発展のために、周辺の山地から坑木・燃料用として、樹木が大量伐採され、製錬工場から排出される大気汚染による環境汚染が広がることになります。
 禿山となった山地を水源とする渡良瀬川は、度々洪水を起こし、製錬による有害廃棄物を流出し、下流域の平地に流れ込み、水質・土壌汚染をもたらし、鉱毒問題を引き起こしました。1890年代より栃木の政治家であった田中正造が中心となり国に問題提起をして、鉱毒事件の闘いの先頭に立ったことは有名です。
 1973年(昭和48)に閉山しましたが、今でも銅山跡周辺に禿山が目立っています。また、2007年(平成19)11月30日には、経済産業省から「近代化産業遺産」にも認定されました。
 尚、現在は足尾銅山観光などの観光地となっています。

〇田中正造とは?

 明治時代に活躍した政治家で、1841年(天保12)に、小中村(現在の栃木県佐野市)名主の家に生まれました。 その後、父の跡を継いで小中村名主となりましたが、領主に村民と共に政治的要求を突き付けたことが元になって、投獄されています。
 1870年(明治3)、江刺県花輪支庁(現在の秋田県鹿角市)の官吏となったものの、翌年、上司殺害の容疑者として逮捕、投獄されました。冤罪に終わりましたが、その後小中村に戻り、再び政治に関わるようになります。
 1880年(明治13)に、栃木県議会議員になり、1890年(明治23)、第1回衆議院議員総選挙に出馬し、初当選(以後6回当選)しました。この年に渡良瀬川で大洪水があり、上流の足尾銅山から流出した鉱毒によって、稲が立ち枯れる現象が起きて、流域各地で騒ぎとなります。
 そして、この足尾銅山鉱毒事件に深くかかわっていくことになりました。1901年(明治34)には、明治天皇に足尾銅山鉱毒事件について直訴を行なおうとしています。
 1902年(明治35)、時の政府は、鉱毒を沈殿させるという名目で、渡良瀬川下流に遊水池を作る計画を立てました。紆余曲折を経て、谷中村に遊水地がつくられることになり、この村の将来に危機を感じた田中正造は、1904年(明治37)から実質的に谷中村に移り住みます。
 そして、村民と共に反対運動に取り組みましたが、1907年(明治40)、政府は土地収用法の適用を発表し、村に残れば犯罪者となり逮捕するという脅しをかけ、多くの村民が村外に出ることとなりました。その後も、田中正造を含む一部村民が残って、抵抗を続けたものの、1913年(大正2)9月4日に71歳で没しています。
 尚、「佐野市郷土博物館」には、田中正造展示室があり、関係資料約1万点を収蔵してきました。

〇「川俣事件記念碑」碑文 2000年(平成12)建立

川俣事件は足尾鉱毒問題の中で最も大きな事件である
明治の中頃 渡良瀬川の上流足尾銅山から流出する鉱毒によって中下流域は農作物や魚類に甚大な被害を受けた 生活を脅かされた農民たちは 銅山の鉱業停止や補償を求めて再度にわたり大挙上京請願(押出し)を決行したがその成果は少なかった
一八九八(明治三十一)年九月大暴風雨による洪水は銅山の沈澱池が決壊し渡良瀬川流域の田畑は深刻な被害をうけた 耐えかねた被害民は足尾銅山の鉱業停止を求めて第三回東京押出しを決行した その数一万余人 薄着姿の老人も見られたという
時の栃木県選出代議士田中正造は この報に接し 急ぎ上京途中の一行に会い 多くの犠牲者を出さないために総代を残して帰村するよう説得した その演説は 被害民を動かし 警備の憲兵・警察官にも深い感銘を与えたという
この後田中正造は足尾鉱毒問題解決に献身し 議会に於いても
再三再四政府を追求したが 政府の答弁は終始曖昧に終わった
一九〇〇(明治三十三)年二月十三日足尾銅山の鉱業に関わる諸問題を解決するために 被害民たちは決死の覚悟で第四回目の東京押出しを決行した
前夜から邑楽郡渡瀬村(現館林市)の雲龍寺に集結した二千五百余名の被害民は翌朝九時頃大挙上京請願のために同寺を出発 途中警察官と小競り合いを演じながら正午頃佐貫村大佐貫(現明和町)に到着 ここで馬舟各一隻を積んだ二台の大八車を先頭に利根川に向かったが その手前同村川俣地内の上宿橋(現邑楽用水架橋)にさしかかったところで待ちうけた三百余名の警官隊に阻まれ 多くの犠牲者を出して四散した これが川俣事件である
この事件で負傷し 現場及び付近で捕縛された被害民十五名は 近くの真如院(お寺)に連行された(翌日以降の捜査で総数百余名が逮捕され うち五十一名が兇徒聚衆罪等で起訴された)
この事態を重くみた佐貫村の塩谷村長をはじめ郡・村会議員区長らの有志は 村医を呼び負傷者に応急手当を施し 炊き出しを行いにぎり飯を差し入れるなど被害民の救恤につとめた この手厚い扱いに被害民関係者は深く感銘し
これを後世に伝えている
この後 政府の措置に失望した田中正造は 衆議院議員を辞職し天皇に鉱毒問題を直訴 以後谷中村遊水池化反対闘争へと戦いを続ける
この地で川俣事件が発生してから百年が経過し いま足尾鉱毒事件は公害の原点として新たな脚光を浴び 環境問題にも強く訴え続けている
この史実を永遠に風化させないために ここに川俣事件発生百年にあたり 記念碑を建立し 後世に伝えるものである

    「明和町」ボムページより

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

797年(延暦16)六国史二番目の『続日本紀』が完成・奏上される(新暦3月15日)詳細
2006年(平成18)財団法人日本城郭協会が「日本100名城」を発表する詳細
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