ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:足利義澄

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 今日は、室町時代の1505年(永正2)に、室町幕府より「撰銭令」が出された日ですが、新暦では11月5日となります。
 撰銭令(えりぜにれい)は、悪銭の内、特に粗悪銭の流通禁止、及びその他の銭についても撰銭を禁止するなどの銭貨流通に関して出された法令でした。平安時代末期に始まった銭の流通は、室町・戦国時代に経済が発展すると共に、輸入中国銭の不足をきたし、私鋳銭の大量鋳造が行われるようになります。
 この中で、高利貸営業、商取引、年貢公事・反銭の銭納等で、撰銭行為による諸問題が発生するようになりました。これを回避し、銭貨流通を円滑化する為に、室町幕府、戦国大名、社寺などによって、何度もこの法令が出されています。
 その内容は、標準貨幣(中国銭)の設定、選択してよい銭とだめな銭の種別、良悪貨幣の混用の限度、良貨に対する悪貨の割引通用率などとなっていますが、なかなか効果が上がらずに推移しています。このような事態は、江戸時代に銅銭が豊富に鋳造・通用するまで続きました。
 以下に、1505年(永正2)に室町幕府発令の「撰銭令」を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇「撰銭令」 1505年(永正2年10月10日)室町幕府発令

 定む  撰銭[1]の事(京銭[2]・打平[3]等を限る)  
右、唐銭[4]に於ては、善悪をいとはず、少瑕[5]を求めず悉く以て諸人相互いに取り用ふべし。次に悪銭売買[6]の事同じく停止の上は、彼といひ、これといひ[7]、若し違犯の輩有らば、其の身を死罪に行ひ、私宅に至りては結封[8]せらるべきの由、仰せ下さるゝ所也。よって下知くだんの如し。

 永正弐年[9]十月十日  散位 三善朝臣
            豊前守 平朝臣

   『蜷川家文書』より

【注釈】

[1]撰銭:えりぜに=貨幣を授受するとき、良貨を撰(えら)び、悪貨を排除すること。
[2]京銭:きょうせん=南京銭の略。室町時代に明から流入した粗悪銭のこと。
[3]打平:うちひらめ=品質の劣った小型の銭を槌で打って大きくた悪銭。
[4]唐銭:とうせん=中国(宋・元・明)からの渡来銭。
[5]少瑕:しょうか=わずかの傷。小さな欠点。
[6]悪銭売買:あくせんばいばい=粗悪銭を表示した以外の値段で売買する。
[7]彼といひ、これといひ:かれといい、これといい=どちらも。
[8]結封:けっぷう=封をして差し押さえる。
[9]永正弐年:えいしょうにねん=1505年。室町幕府第11代将軍足利義澄の時代。

<現代語訳>

 定む 撰銭について(京銭・打平等に限って)
右のことについて、中国(宋・元・明)からの渡来銭については、良し悪しに関係なく、わずかな傷を気にせず、すべて誰もがお互いに流通するようにせよ。次に、悪銭売買が禁止された以上、(撰銭・悪銭売買)どちらも、もし違反するものがあれば、その者は死刑とし、その私宅においては、封をして差し押さえるよう、将軍(第11代足利義澄)の命令であるので、以上のように通達する。

 永正2年(1505年)10月10日  散位 三善朝臣
               豊前守 平朝臣

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1877年(明治10)北海道石狩町で開拓使石狩缶詰所が創業、本格的な缶詰生産が始まる(缶詰の日)詳細
1934年(昭和9)彫刻家高村光雲の命日詳細
1945年(昭和20)日本政府が日本共産党を合法化、徳田球一ら政治犯439人を釈放、自由戦士出獄歓迎人民大会が開催される詳細
東京都の学童集団疎開引揚げ第一陣が東京へ着く詳細
1964年(昭和39)第18回オリンピック・東京大会が開幕する詳細
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 今日は、1511年(永生8)に、室町幕府第11代将軍足利義澄(あしかが よしずみ)の亡くなった日ですが、新暦では9月6日となります。
 足利義澄は、1481年1月15日(文明12年12月15日)に、堀越公方・足利政知の次男(母は武者小路隆光の娘)として伊豆に生まれました。
 元々将軍位継承の地位にはなく、1491年(延徳3)に上洛して天竜寺塔頭香厳院の喝食(かつしき)となり、法名を清晃と名乗ります。
 1493年(明応2)3月に、室町幕府第10代将軍足利義稙が親裁権の強化を目指して河内出陣を強行したことから、管領細川政元がクーデタによって義稙を廃立する事件(明応の政変)が起きました。その後、細川政元に擁立されて清晃が足利家督になり、還俗して義遐と改名します。
 1494年(明応3)12月27日 征夷大将軍に任じられ、室町幕府第11代将軍となりました。しかし、実権は細川政元が掌握し、典型的な傀儡で、実質的な支配は畿内近国にしか及ばないことになります。
 1502年(文亀2)7月21日に義澄と改名し、翌年には従三位に叙されました。1507年(永正4)6月23日に、永正の錯乱によって、細川政元が家臣に暗殺されると幕政は混乱します。
 翌年に周防に亡命していた前将軍・義稙が大内義興に擁せられて上洛したため、義澄は近江国へ逃れて将軍職を廃されました。
 そして復帰できないまま、1511年(永正8)8月14日に、近江国水茎岡山城(現在の滋賀県近江八幡市)において、数え年32歳で病死します。

〇足利義澄関係略年表(日付は旧暦です)

・1480年(文明12)12月15日 堀越公方・足利政知の次男として伊豆に生まれる
・1491年(延徳3)上洛して天竜寺塔頭香厳院の喝食(かつしき)となる
・1493年(明応2)3月 明応の政変が起き第10代将軍足利義稙が廃立される
・1493年(明応2)4月28日 従五位下に叙され、元服して義遐と名乗る
・1493年(明応2)6月19日 義高と改名する
・1494年(明応3)11月24日 正五位下に叙され、左馬頭となる
・1494年(明応3)12月27日 征夷大将軍に任じられ、室町幕府第11代将軍となる
・1502年(文亀2)7月12日 従四位下に叙され、参議となり、左近衛中将を兼ねる
・1502年(文亀2)7月21日 義澄と改名する
・1503年(文亀3)1月14日 従三位に叙される
・1507年(永正4)6月23日 永正の錯乱によって、細川政元が家臣に暗殺される
・1508年(永正5)4月16日 前将軍義稙が大内義興に擁せられて上洛したため、征夷大将軍・参議・左近衛中将を解官される
・1511年(永正8)8月14日 近江国水茎岡山城(現在の滋賀県近江八幡市)において、数え年32歳で病死する
・1521年(永正18)8月12日 従一位・左大臣を追贈される
・1533年(天文2)9月12日 太政大臣を追贈される
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