足利義晴は、1511年(永正8年3月5日)に、室町幕府第11代将軍の父・足利義澄、母・日野永俊の娘の長男として、近江岡山城(現在の滋賀県近江八幡市)に生まれましたが、幼名は亀王丸といいました。
生後すぐ父を失い、播磨国(現在の兵庫県)守護赤松義村の庇護の下に育ちます。1521年(大永元)末、将軍足利義稙が執政細川高国と対立して出奔後に、高国の擁立によって、将軍に就きました。
当時は細川氏家督が幕府を壟断し、将軍にはほとんど実権がなかったとされています。しかも、1527年(大永7)に、高国が細川晴元軍に大敗したので近江に亡命し、武佐、桑実寺、朽木谷と同国の各所を転々と流寓しました。
1532年(天文元)6月に、晴元と和睦し将軍の権限を回復したものの、一向一揆、法華一揆の戦闘と町衆の自治によって京都に入れない状態が続きます。
やっと、1536年(天文5)に至って京都の御所に戻りましたが、1538年(天文7)以降は、再び京都と近江とを往復し安住できませんでした。
1546年(天文15)嗣子の義藤(義輝)に将軍職を譲りますが、1549年(天文18)に三好長慶に京を追われます。そして、1550年(天文19年5月4日)に、近江国穴太(現在の滋賀県大津市)において、39歳で客死しました。
〇足利義晴関係略年表(日付は旧暦です)
・1511年(永正8)3月5日 室町幕府第11代将軍足利義澄の長男として、近江岡山城に生まれる
・1511年(永正8)8月14日 父が帰京を果たせずに同地で死去する
・1521年(大永元) 将軍足利義稙出奔後に、細川高国に擁立され、室町幕府第12第将軍に就く
・1523年(大永3) 寧波の乱が起こる
・1525年(大永5) 北室町柳原に幕府を造営する
・1526年(大永6) 細川氏の内紛が起こり、丹波の柳本賢治らが反旗を翻す
・1527年(大永7) 細川高国が細川晴元軍に大敗したので近江に亡命する
・1530年(享禄3) 従三位大納言となる
・1531年(享禄4) 細川高国は中嶋の戦い及び大物崩れで敗れて自害する
・1532年(天文元)6月 細川晴元と和睦し将軍の権限を回復する
・1536年(天文5) 京都の御所に戻る
・1543年(天文12) ポルトガル人が九州の種子島に鉄砲を伝える(鉄砲伝来)
・1546年(天文15) 嗣子の義藤(義輝)に将軍職を譲る
・1549年(天文18) 三好長慶に京を追われる
・1549年(天文18) フランシスコ・ザビエルが鹿児島に来る(キリスト教伝来)
・1550年(天文19)5月4日 近江国穴太(現在の滋賀県大津市)において、39歳で客死する