神をうやまふべき事、佛法をたとぶべき事、諸國の守護たる人廉直を先とすべき事、訴訟の奉行人其仁を選ばるべき事、近習者をえらばるべき事、足がるといふ者長く停止せらるべき事、簾中より政務ををこなはるゝ事、天下主領の人かならず威勢有べき事の8ヶ条からなっています。当時の政治・社会の実情や貴族の世相観がうかがえる好史料とされてきました。
以下に、『樵談治要』の原文を掲載しておきますので、ご参照下さい。
1412年(応永19)に元服して正五位下に叙位、翌年従三位に叙せられて公卿に列し、翌々年に正三位・権中納言となり、1416年(応永23)に権大納言となって家督を継ぎます。その後も昇進を重ね、1429年(永享元)に従一位左大臣、1432年(永享4)には摂政へと昇りつめました。
しかし、実権は従兄弟の二条持基に握られ、一端辞任に追い込まれたものの、1444年(文安元)に、足利義政が室町幕府第8代将軍になると、1446年(文安3)に太政大臣、翌年には関白へと返り咲きます。その後、1450年(宝徳2)に太政大臣を辞し、1453年(享徳2)に関白も辞任、同年准三宮に叙せられました。
学者としての名声は高まり、将軍家の歌道などに参与、歴史・有職故実・文学等に通じ、当代随一の学者と言われるようになります。1467年(応仁元)に関白に還補しましたが、同年に応仁の乱が勃発し、一条室町の邸宅と書庫「桃花坊文庫」を焼失、奈良興福寺大乗院門跡に疎開することになりました。
ここでは講書、著作の生活を送ったものの、1470年(文明2)に再び関白を辞して、1473年(文明5)に美濃(現在の岐阜県)に下向し、奈良に戻ってまもなく大乗院で出家します。1477年(文明9)に、応仁の乱が終息し、京都に戻って、室町幕府第9代将軍足利義尚や生母日野富子の庇護をうけるようになりました。
1480年(文明12)には、足利義尚に治政論書『樵談治要』を呈上しています。古典を研究し、源氏物語注釈書『花鳥余情』、『日本書紀纂疎』などを著し、有職故実や歌学書、紀行等、多くの著作を残し、1481年(文明13年4月2日)に、京都において、数え年80歳で亡くなりました。
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
1873年(明治6) | 「太政官布告第272号(地租改正)」と付属の「地租改正条例」が公布される | 詳細 |
1883年(明治16) | 日本初の私設鉄道として、日本鉄道会社の上野駅~熊谷駅間(現在の東北本線・高崎線)が開業する | 詳細 |
1907年(明治41) | ロシアのサンクトペテルブルクにおいて、「日露漁業協約」が調印される | 詳細 |
1941年(昭和16) | 日本軍が南部仏印進駐を開始する | 詳細 |
1945年(昭和20) | 青森大空襲において、焼失家屋18,045戸、被災者70,166人、死者1,018人、重軽傷者は255人を出す | 詳細 |
1965年(昭和40) | 推理小説家江戸川乱歩の命日(乱歩忌) | 詳細 |
1989年(平成元) | 「緑の文明学会」・「社団法人日本公園緑地協会」が日本の都市公園100選を選ぶ | 詳細 |