ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:足利尊氏

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 今日は、南北朝時代の1337年(延元2/建武4)に、金ヶ崎の戦いにおいて、越前国金ヶ崎城が落城し、恒良親王が捕われ尊良親王が自害、新田義貞が敗走した日ですが、新暦では4月7日となります。
 金ヶ崎の戦い(かねがさきのたたかい)は、南北朝時代の1336年(延元元/建武3)から翌年3月にかけて、越前国金ヶ崎城(現在の福井県敦賀市)に籠城する新田義貞率いる建武政権残党軍の軍勢と、それを攻撃する斯波高経率いる室町幕府・北朝方の軍勢との間で行われた戦いでした。金ヶ崎城は、中世の山城(標高86m)で、1336年(延元元/建武3)に、後醍醐天皇の命を受けた南朝方の新田義貞が皇太子恒良親王と皇子尊良親王を奉じて北陸路に向った際、気比氏治に迎えられて入城しましたが、北朝方の越前国守護斯波高経に包囲されます。
 しかし、日本海に突出した岬の山上にあった堅固な要害だったため、攻めあぐね、兵糧攻めを行いました。翌年に足利尊氏は、高師泰を大将に各国の守護を援軍として派遣し、厳しく攻め立てます。新田義貞らは援軍を求めるため、二人の皇子と新田義顕らを残し、兵糧の尽きたこの城を脱出し、杣山城で態勢を立て直そうとしました。
 その後、義貞は金ヶ崎城を救援しようとしますが途中で阻まれ、3月3日には北朝方が金ヶ崎城に攻め込みます。そのため、兵糧攻めによる飢餓と疲労で困憊していた城兵は次々と討ち取られて3月6日に落城、尊良親王は自害、新田一族の十余人、少納言一条行房ほかは殉死、恒良親王は脱出したものの、北朝方に捕らえられました。
 尚、現在は城跡に恒良、尊良両親王を祀る金崎宮があり、月見御殿(本丸)跡、木戸跡、曲輪跡、堀切りなどが残り、1934年(昭和9)に国の史跡に指定されました。
 金ヶ崎城落城の様子を『太平記』では以下のように描いています。

〇『太平記』金崎城落事(巻第十八)

 ・・・・・・・・
瓜生・宇都宮不斜悦て、今一度金崎へ向て、先度の恥を雪め城中の思を令蘇せと、様々思案を回しけれども、東風漸閑に成て山路の雪も村消ければ、国々の勢も寄手に加て兵十万騎に余れり。義貞の勢は僅に五百余人、心許は猛けれ共、馬・物具も墓々しからねば、兎やせまし角やせましと身を揉で、二十日余りを過しける程に、金崎には、早、馬共をも皆食尽して、食事を断つ事十日許に成にければ、軍勢共も今は手足もはたらかず成にけり。爰に大手の攻口に有ける兵共、高越後守が前に来て、「此城は如何様兵粮に迫りて馬をばし食候やらん。初め比は城中に馬の四五十疋あるらんと覚へて、常に湯洗をし水を蹴させなんどし候しが、近来は一疋も引出す事も候はず。哀一攻せめて見候はばや。」と申ければ、諸大将、「可然。」と同じて、三月六日の卯刻に、大手・搦手十万騎、同時に切岸の下、屏際にぞ付たりける。城中の兵共是を防ん為に、木戸の辺迄よろめき出たれ共、太刀を仕ふべき力もなく、弓を挽べき様も無れば、只徒に櫓の上に登り、屏の陰に集て、息つき居たる許也。寄手共此有様を見て、「さればこそ城は弱りてけれ。日の中に攻落さん。」とて、乱杭・逆木を引のけ屏を打破て、三重に拵たる二の木戸迄ぞ攻入ける。由良・長浜二人、新田越後守の前に参じて申けるは、「城中の兵共数日の疲れに依て、今は矢の一をも墓々敷仕得候はぬ間、敵既に一二の木戸を破て、攻近付て候也。如何思食共叶べからず。春宮をば小舟にめさせ進せ、何くの浦へも落し進せ候べし。自余の人々は一所に集て、御自害有べしとこそ存候へ。 ・・・・・・・・

            流布本『太平記』より

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

803年(延暦22)征夷大将軍・坂上田村麻呂に志波城の築城が命令される(新暦4月1日)詳細
1297年(永仁5)鎌倉幕府により「永仁の徳政令」が出される(新暦3月30日)詳細
1945年(昭和20)「国民徴用令」等5勅令を廃止・統合し、新たに「国民勤労動員令」が公布される詳細
1946年(昭和21)憲法改正過程において、日本政府より「憲法改正草案要綱」 が発表される詳細
2005年(平成17)新交通システムの一つで、日本初の実用磁気浮上式鉄道である、愛知高速交通東部丘陵線が開業する詳細
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 今日は、南北朝時代の1342年(康永元)に、室町幕府初代将軍の足利尊氏が禅寺の寺格を制定(五山制度)した日ですが、新暦では5月28日となります。
 五山制度(ござんせいど)は、13世紀初頭の中国・南宋時代の制度をまねた禅宗(臨済宗)の寺格を定めたものでした。鎌倉幕府が鎌倉の臨済宗寺院において定めたのが、最初とされます。
 鎌倉幕府の滅亡後は、鎌倉中心の五山をやめ、京都中心の五山が定められましたが、室町幕府初代将軍となった足利尊氏は、天竜寺を建立し、これを五山に加えることを望みました。これに対して、北朝の光厳上皇は1341年(暦応4)に院宣を出して、尊氏に五山の決定を一任します。そして、翌年4月23日に尊氏は、五山を①建長寺・南禅寺、②円覚寺・天龍寺、③寿福寺、④建仁寺、⑤東福寺とし、凖五山を浄智寺と定めました。
 1358年(延文3)に、第二代将軍となった足利義詮は、①建長寺・南禅寺、②円覚寺・天龍寺、③寿福寺、④建仁寺、⑤東福寺・浄智寺・浄妙寺・万寿寺とします。さらに、第三代将軍足利義満は、1386年(至徳3年7月10日)に、五山の上に南禅寺をおき、京都五山は①天龍寺、②相国寺、③建仁寺、④東福寺、⑤万寿寺、鎌倉五山は①建長寺、②円覚寺、③寿福寺、④浄智寺、⑤浄妙寺とし、初めて京都五山優位の位次が決定されました。
 また、五山の下に十刹(じっせつ、じっさつ)が設けられ、その下に諸山を置いて、禅宗(臨済宗)の寺格制度とされます。これらの禅宗寺院を五山派と総称し、官寺の止住、幕府の文化・外交の顧問として機能しました。
 また、五山文学(禅僧による漢詩文学)、五山版(禅の経典・漢詩文集の出版)などが発展し、中世文化の中心として、宋学普及の温床となり、衣食住一般の文化にも多大な影響を与えています。

〇五山制度の変遷

<1342年(康永元年4月23日)> 初代将軍足利尊氏制定

①(鎌倉)建長寺・(京都)南禅寺、
②(鎌倉)円覚寺・(京都)天龍寺、
③(鎌倉)寿福寺
④        (京都)建仁寺
⑤        (京都)東福寺
凖(鎌倉)浄智寺

<1358年(延文3年9月)> 第二代将軍足利義詮制定

①(鎌倉)建長寺・(京都)南禅寺、
②(鎌倉)円覚寺・(京都)天龍寺、
③(鎌倉)寿福寺
④        (京都)建仁寺
⑤(鎌倉)浄智寺・(京都)東福寺
     浄妙寺     万寿寺

<1386年(至徳3年7月10日)> 第三代将軍足利義満制定

上(京都)南禅寺
①(京都)天龍寺・(鎌倉)建長寺
②(京都)相国寺・(鎌倉)円覚寺
③(京都)建仁寺・(鎌倉)寿福寺
④(京都)東福寺・(鎌倉)浄智寺
⑤(京都)万寿寺・(鎌倉)浄妙寺

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

記念日「子供読書の日」です詳細
1265年(文永2)第92代の天皇とされる伏見天皇の誕生日(新暦5月10日)詳細
1875年(明治8)日本画家上村松園の誕生日詳細
1895年(明治28)露・独・仏3国による「露仏独三國の遼東半島遷付勧告」(いわゆる三国干渉)がなされる詳細
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 今日は、南北朝時代の建武2年に、箱根・竹ノ下の戦いが起き、建武新政府に叛旗を翻した足利尊氏が新田義貞軍を破って、南北朝動乱が始まった日ですが、新暦では1336年1月24日となります。
 箱根・竹ノ下の戦い(はこねたけのしたのたたかい)は、鎌倉で建武新政府に反旗を翻した足利尊氏・直義軍と後醍醐天皇の宣旨を受けて尊良親王を奉じた新田義貞軍との間の箱根・竹ノ下での戦いでした。
 1335年(建武2)8月に、北条高時の遺児時行が起こした中先代の乱を鎮圧した足利尊氏は、鎌倉を奪還しますが、この知らせを受けた後醍醐天皇は、尊氏を従二位に昇叙し、帰京命令を出します。しかし、尊氏はこれに従わずに鎌倉に留まり、建武新政府に叛旗を翻しました。
 そこで、同年11月に、後醍醐天皇の尊氏追討の宣旨を受けた新田義貞が尊良親王を奉じて京都を出立し、東進しながら各地で足利軍を破り、関東への出入口である駿豆国境付近に陣を取ります。ここに至って、ようやく尊氏も鎌倉から出陣し、義貞は、三島にて軍勢をニ手に分けて、自らは大友氏・菊池氏など7万騎を率いて箱根峠へ向かい、脇屋義助を副将軍にした別動隊は、尊良親王らと7千騎にて、足柄峠を目指しました。
 これに対し、足利勢は、直義が箱根に布陣し、尊氏は竹ノ下前面の足柄峠に布陣します。同年12月11日に両軍は激突。箱根方面では義貞軍が直義軍を押し気味に戦局が展開、尊氏と義助の主戦場は足柄峠のすぐ西にある竹ノ下となりました。
 ところが翌日には、新田勢の大友貞載と塩冶高貞が、尊氏軍に寝返えったため、脇屋義助らは総崩れとなり、新田勢は敗走します。13日には、伊豆国府を尊氏軍が奪回し、義貞軍は東海道を総崩れで京都に敗走、尊氏軍はこれを追って上洛しました。
 以下に、『太平記』巻第十四の「箱根竹下合戦事」を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇『太平記』巻第十四

箱根竹下合戦事

去程に同十二月十一日両陣の手分有て、左馬頭直義箱根路を支へ、将軍は竹下へ向べしと被定にけり。此間度々の合戦に打負たる兵共、未気を直さで不勇、昨日今日馳集たる勢は、大将を待て猶予しける間、敵已に伊豆の府を打立て、今夜野七里山七里を超ると聞しかば、足利尾張右馬頭高経・舎弟式部大夫・三浦因幡守・土岐弾正少弼頼遠・舎弟道謙・佐々木佐渡判官・赤松雅楽助貞則、「加様に目くらべして、鎌倉に集り居ては叶まじ、人の事はよし兎も角もあれ、いざや先竹下へ馳向て、後陣の勢の著ぬ先に、敵寄せば一合戦して討死せん。」とて、十一日まだ宵に竹下へ馳向ふ。其勢僅なりしかば、物冷しくぞ見へたりける。されども義を守る勇士共なれば、族に多少不可依とて、竹下へ打襄て敵の陣を遥に直下たれば、西は伊豆の府、東は野七里山七里に焼双べたる篝火の数幾千万とも不知けり。只晴天の星の影、滄海に移る如く也。さらば御方にも篝火を焼せんとて、雪の下草打払ひ、処々刈集めて幽に火を吹著たれば、夏山の茂みが下に夜を明す、照射の影に不異。されども武運強ければにや、敵今夜は寄来らず。夜已に明なんとしける時、将軍鎌倉を打立せ給へば、仁木・細河・高・上杉、是等を宗との兵として都合其勢十八万騎竹下へ著給へば、左馬頭直義六万余騎にて箱根峠へ著給ふ。去程に、明れば十二日辰刻に、京勢共伊豆の府にて手分して、竹下へは中務卿親王に卿相雲客十六人、副将軍には脇屋治部大輔義助・細屋右馬助・堤卿律師・大友左近将監・佐々木塩冶判官高貞を相副て、已上其勢七千余騎、搦手にて被向けり。箱根路へは又新田義貞宗徒の一族二十余人、千葉・宇都宮・大友千代松丸・菊池肥後守武重・松浦党を始として、国々の大名三十余人、都合其勢七万余騎、大手にてぞ被向ける。同日午刻に軍始まりしかば、大手搦手敵御方、互に時を作りつゝ、山川を傾け天地を動し、叫喚で責戦ふ。去程に、菊池肥後守武重、箱根軍の先懸して、敵三千余騎を遥の峯へ巻上げ、坂中に楯を突双て、一息継て怺へたり。是を見て、千葉・宇都宮・河越・高坂・愛曾・熱田の大宮司、一勢々々陣を取て曳声を出して責上々々、叫喚で戦たり。中にも道場坊助注記祐覚は、児十人同宿三十余人、紅下濃の鎧を一様に著て、児は紅梅の作り花を一枝づゝ甲の真額に挿たりけるが、楯に外れて一陣に進みけるを、武蔵・相摸の荒夷共、「児とも云はず只射よ。」とて、散々に指攻て射ける間、面に進みたる児八人矢庭に倒れて小篠の上にぞ臥たりける。党の者共是を見て、頚を取らんと抜連て打て下けるを、道場坊が同宿共児を討せて何か可怺。三十余人太刀・長刀の鋒を双べて手負の上を飛超々々、「坂本様の袈裟切に成仏せよ。」と云侭に、追攻々々切て廻りける間、武士散々に被切立て、北なる峯へ颯と引と、且し息をぞ継だりける。此隙に祐覚が同宿共、面々の手負を肩に引懸て、麓の陣へぞ下りける。義貞の兵の中に、杉原下総守・高田薩摩守義遠・葦堀七郎・藤田六郎左衛門・川波新左衛門・藤田三郎左衛門・同四郎左衛門・栗生左衛門・篠塚伊賀守・難波備前守・川越参河守・長浜六郎左衛門・高山遠江守・園田四郎左衛門・青木五郎左衛門・同七郎左衛門・山上六郎左衛門とて、党を結だる精兵の射手十六人あり。一様に笠験を付て、進にも同く進み、又引時も共に引ける間、世の人此を十六騎が党とぞ申ける。彼等が射ける矢には、楯も物具もたまらざりければ、向ふ方の敵を射すかさずと云事なし。執事舟田入道は、馳廻て士卒を諌め、大将軍義貞は、一段高き処に諸卒の振舞を被実検ける間、名を重じ命を軽ずる千葉・宇都宮・菊池・松浦の者共、勇進で戦ける間、鎌倉勢馬の足を立兼て、引退者数を不知けり。懸る処に竹下へ被向たる中書王の御勢・諸庭の侍・北面の輩五百余騎、憖武士に先を不被懸とや思けん。錦の御旌を先に進め竹下へ押寄て、敵未一矢も不射先に、「一天君に向奉て曳弓放矢者不蒙天罰哉。命惜くば脱甲降人に参れ。」と声々にぞ呼りける。是を見て尾張右馬頭・舎弟式部大夫・土岐弾正少弼頼遠・舎弟道謙・三浦因幡守・佐々木佐渡判官入道・赤松筑前守貞則、自宵一陣に有けるが、「敵の馬の立様、旌の紋、京家の人と覚るぞ、矢だうなに遠矢な射そ。只抜連れて懸れ。」とて三百余騎双轡、「弓馬の家に生れたる者は名をこそ惜め、命をば惜まぬ者を。云処虚事か実事か、戦て手並の程を見給へ。」とて一同に時を咄と挙げ、喚てこそ懸たりけれ。官軍は敵をかさに受て麓に引へたる勢なれば、何かは一怺も可怺、一戦にも不及して、捨鞭を打てぞ引たりける。是を見て土岐・佐々木一陣に進て、「言ばにも似ぬ人々哉、蓬し返せ。」と恥しめて、追立々々責ける間、後れて引兵五百余騎、或は生捕れ或被討、残少に成にけり。手合せの合戦をしちがへて官軍漂て見へければ、仁木・細河・高・上杉の人々勇進で、中書王の御陣へ会尺もなく打て懸る。されば引漂たる京勢にて、可叶様無りけるを、中書王の副将軍脇屋右衛門佐、「云甲斐なき者共が憖に一陣に進て御方の力を失こそ遺恨なれ。こゝを散さでは叶まじ。」とて、七千余騎を一手になして、馬の頭を雁行に連ねて、旌の足を龍装に進めて、横合に閑々と懸られける。勝誇たる敵なれば何かは少しも疼むべき。十字に合て八字に破る。大中黒と二つ引両と二の旌を入替々々、東西に靡き南北に分れ、万卒に面を進め一挙に死をぞ争ひける。誠に両方名を被知たる兵共なれば誰かは独も可遁。互に討つ討れつ、馬の蹄を浸す血は混々として洪河の流るゝが如く也。死骸を積める地は、累々として屠所の肉の如く也。無慙と云も疎也。爰に脇屋右衛門佐子息式部大夫とて、今年十三に成けるが、敵御方引分れける時、如何して紛れたりけん、郎等三騎相共に敵の中にぞ残りける。此人幼稚なれども心早き人にて、笠符引切て投捨、髪を乱し顔に振懸て、敵に不被見知とさはがぬ体にてぞ御坐ける。父義助是をば不知、「義治が見へぬは誅れぬるか、又生捕れぬるか、二の間をば離れじ。彼死生を見ずば、片時の命生ても何かはすべき。勇士の戦場に命を捨る事只是子孫の後栄を思ふ故也。されば未幼なき身なれども、片時の別を悲んで此戦場にも伴ひつる也。其死生を知らでは、如何さて有べき。」とて、鎧の袖に泪をかけ、大勢の中へ懸入り給けるが、「誠に父の子を思ふ志、今に初ぬ事なれども、哀なる御事哉。いざや御伴仕らん。」とて義助の兵共轡を双べ三百余騎、主を討せじと懸入ける。義助の二度の懸に、指もの大勢戦疲れて、一度にばつとぞ引たりける。是に理を得て、義助尚追北進まれける処に、式部大夫義治、我が父と見成して馬を引返し、主従四騎にて脇屋殿に馳加はらんと馬を進められけるを、誰とは不知、片引両の笠符著たる兵二騎、御方が返すぞと心得て、「やさしくこそ見へさせ給候へ。御供申て討死し候。」とて、連て是も返しけり。式部大夫義治は父の義助の勢の中へつと懸入り様に、若党にきつと目くはせゝられければ義治の郎従よせ合せて、つゞいて返しつる二騎の兵を切落し、頚を取てぞ指挙たる。義助是を見給て死たる人の蘇生したる様に悦て、今一涯の勇みを成し、「且く人馬を休めよ。」とて、又元の陣へは引返されける。一陣余に闘ひくたびれしかば、荒手を入替て戦しめんとしける処に、大友左近将監・佐々木塩冶判官が、千余騎にて後に引へたるが、如何思けん一矢射て後、旗を巻て将軍方に馳加り、却て官軍を散々に射る。中書王の御勢は、初度の合戦に若干討れて、又も戦はず。右衛門佐の兵は両度の懸合に人馬疲れて無勢也。是ぞ荒手にて一軍もしつべき者と憑れつる大友・塩冶は、忽に翻て、親王に向奉て弓を引、右衛門佐に懸合せて戦しかば、官軍争か堪ふべき。「敵の後ろを遮らぬ前に、大手の勢と成合ん。」とて、佐野原へ引退く。仁木・細川・今川・荒川・高・上杉・武蔵・相摸の兵共、三万余騎にて追懸たり。是にて中書王の股肱の臣下と憑み思食たりける二条中将為冬討れ給ければ、右衛門佐の兵共返合々々、三百騎所々にて討死す。是をも顧ず引立たる官軍共、我先にと落行ける程に、佐野原にもたまり得ず、伊豆の府にも支へずして、搦手の寄手三百余騎は、海道を西へ落て行く。

    「ウィキソース」より

〇南北朝関係略年表(日付は旧暦です)

・1333年(正慶2/元弘3年5月22日) 鎌倉を落とし、得宗北条高時以下を自殺させて、鎌倉幕府が滅亡する
・1334年(建武元年1月) 建武の新政が行われる
・1335年(建武2年7月) 関東で北条時行の反乱(中先代の乱)を平定する
・1335年(建武2年10月) 足利尊氏が後醍醐天皇に叛いて挙兵する
 ※南北朝の対立が始まる
・1336年(建武2年12月11日) 箱根・竹ノ下の戦い(○足利軍×●新田軍)が起き、南北朝動乱が始まる
・1336年(延元元/建武3年5月25日) 湊川の戦い(○足利軍×●新田・楠木軍)で、楠木正成が戦死する
・1336年(延元元/建武3年5月29日) 尊氏方に京都が占領される
・1336年(延元元/建武3年8月) 光明天皇が擁立される
・1336年(延元元/建武3年10月13日) 恒良・尊良両親王を奉じて越前金ケ崎城に立て籠る
・1336年(延元元/建武3年11月) 足利尊氏により「建武式目」が制定される
・1337年(延元元/建武3年12月) 後醍醐天皇が吉野へ逃れる
・1337年(延元2/建武4年3月) 足利尊氏が高師泰に越前金ヶ崎城を攻略させる
・1338年(延元3/暦応元年3月6日) 越前金ヶ崎城が陥落する
・1338年(延元3/暦応元年5月) 足利尊氏が北畠顕家を堺の石津浜に敗死さる
・1338年(延元3/暦応元年閏7月2日) 足利尊氏が新田義貞を越前藤島の戦いにおいて戦死させる
・1338年(延元3/暦応元年8月) 足利尊氏が征夷大将軍に任ぜられ、京都に室町幕府を開く
・1339年(延元4/暦応2年8月16日) 後醍醐天皇が亡くなる
・1341年(延元6/興国2年) 足利尊氏が天竜寺船を元に送る
・1348年(正平3/貞和4年1月) 四条畷の戦い(○高軍×●楠木軍)
・1349年(正平4/貞和5年9月) 足利尊氏が関東管領をおき、足利基氏をこれに任じる
 ※このころ倭寇が中国の沿岸を荒らす
・1350年(正平5/観応元年10月) 足利直義・直冬が足利尊氏に叛旗を翻す(観応の擾乱(~52))
・1351年(正平6/観応2年8月) 足利尊氏が直義派に対抗するために、子の義詮と共に南朝に降伏する(正平一統)
・1352年(正平7/観応3年2月) 南朝軍は約束を破って京都に侵入する
・1352年(正平7/観応3年2月26日) 足利尊氏が鎌倉へ入り、直義を殺害する
・1352年(正平7/観応3年7月) 観応半済令が出される
・1353年(正平8/観応4年6月) 足利直冬や山名時氏らの攻勢により、足利尊氏らが一時的に京都を奪われる
・1355年(正平10/観応6年1月) 再び、足利尊氏らが一時的に京都を奪われる
・1356年(正平11/延文元年8月23日) 足利義詮が従三位に昇叙する
・1358年(正平13/延文3年4月) 足利尊氏が亡くなる
・1359年(正平13/延文3年12月18日) 足利義詮が征夷大将軍に宣下され、室町幕府第2代将軍となる 
・1361年(正平16/延文6年) 細川清氏・畠山国清と対立した仁木義長が南朝へ降り、さらに執事(管領)の清氏までもが佐々木道誉の讒言のために離反して南朝へ降る
・1361年(正平16/康安元年) 南朝軍が入京する
・1362年(正平17/康安2年) 幕府・北朝側が京都を奪還する
・1362年(正平17/貞治元年7月) 清氏の失脚以来空席となっていた管領職に斯波義将が任命される
・1363年(正平18/貞治2年) 大内氏、山名氏が幕府に帰参して政権は安定化しはじめる
・1363年(正平18/貞治2年1月28日) 足利義詮が権大納言に転任する
・1363年(正平18/貞治2年) 大内弘世、山名時氏を帰服させて中国地方を統一する
・1363年(正平18/貞治2年7月29日) 足利義詮が従二位に昇叙、権大納言如元
・1365年(正平20/貞治4年2月) 三条坊門万里小路の新邸に移る
・1366年(正平21/貞治5年8月) 斯波氏が一時失脚すると細川頼之を管領に任命する(貞治の変)
・1367年(正平22/貞治6年1月5日) 足利義詮が正二位に昇叙する
・1367年(正平22/貞治6年11月) 足利義詮は死に臨み、側室紀良子との間に生まれた10歳の嫡男・義満に家督を譲り、細川頼之を管領に任じて後を託す
・1367年(正平22/貞治6年12月7日) 足利義詮が京都において、数え年38歳で亡くなる
・1368年(正平23/応安元年3月11日) 南朝の後村上天皇が亡くなる 
・1368年(正平23/応安元年6月17日) 「応安半済令」が出される
・1369年(正平23/応安元年12月30日) 足利義満が室町幕府第3代将軍に就任する
・1371年(建徳2/応安4年)以降 足利義満が今川了俊に九州を統一させる
・1372年(応安5/建徳3年) 足利義満が判始の式を行なう
・1378年(天授4/永和4年) 室町に新邸(花の御所)を造営して移住する
・1379年(天授5/康暦元年閏4月14日) 細川頼之に帰国が命じられ(康暦の政変)、斯波義将が管領となる
・1382年(弘和2/永徳2年1月26日) 足利義満が左大臣となる
・1382年(弘和2/永徳2年) 足利義満が開基として相国寺の建立を開始する
・1383年(弘和3/永徳3年1月14日) 足利義満が准三后宣下を受ける
・1386年(元中3/至徳3年) 足利義満が五山制度の大改革を断行、南禅寺を「五山の上」とする
・1388年(元中5/嘉慶2年) 足利義満が東国の景勝遊覧に出かける
・1390年(元中7/明徳元年閏3月) 美濃の乱で土岐康行が鎮圧される
・1391年(元中8/明徳2年12月) 明徳の乱で山名氏清が鎮圧される
・1392年(元中9/明徳3年10月27日) 足利義満が南北朝の合一(明徳の和約)を実現する

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1645年(正保元)臨済宗の僧沢庵宗彭の命日で「沢庵忌」とされる(新暦1646年1月27日)詳細
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 今日は、室町時代の1338年(建武5/延元3)に、南北朝が対立する中で、足利尊氏が北朝から征夷大将軍に任ぜられ、名実共に室町幕府が整った日ですが、新暦では9月24日となります。
 室町幕府(むろまちばくふ)は、1336年 (建武3年/延元元年11月7日) に、足利尊氏が建武政府を打倒し、「建武式目」を定めたところから実質的に始まり、主要政務機関である引付方、侍所、政所、問注所などが翌年にかけて稼働しはじめ、1338年(建武5年/延元3年8月11日)に尊氏が北朝から征夷大将軍に任ぜられ、名実共に整ったとされてきました。最初の頃は、尊氏は北朝の光明天皇を擁し、吉野の南朝と対立しましたが、3代将軍義満に至って、南北朝の統一を果たし、全国政権となります。
 義満は、1378年(永和4年/天授4年)に京都室町に花の御所と呼ばれる邸宅を造ったので、一般にこの名で呼ばれるようになります。職制はだいたい鎌倉幕府を継承し、三管四職を中心とする有力守護大名の連合政権的性格が強いもので、統制力に欠け、大名の勢力争いが絶えず起こりました。
 また、土一揆などが相つぎ、応仁の乱(1467年~77年)以降著しく弱体化し、群雄割拠の戦国時代にはまったく有名無実の状態に陥ります。そして、1573年(元亀4年7月18日)に、15代将軍義昭が織田信長によって追放されて滅亡しました。
 尚、文化的には3代将軍義満の頃の北山文化、8代将軍義政の頃の東山文化と呼ばれる武家文化が展開し、対明貿易は中国の文物をもたらしたとされます。

〇室町幕府の歴代将軍(足利家)一覧

・初代 尊氏(たかうじ) 1338年(建武5/延元元)~1358年(延文3)
・2代 義詮(よしあきら) 1358年(延文3)~1367年(貞治6)
・3代 義満(よしみつ) 1368年(応安元)~1394年(応永元)
・4代 義持(よしもち) 1394年(応永元)~1423年(応永30)
・5代 義量(よしかず) 1423年(応永30)~1425年(応永32)
・空白 4代義持が代理 1425年(応永32)~1428年(応永35)
・6代 義教(よしのり) 1429年(正長2)~1441年(嘉吉元)
・7代 義勝(よしかつ) 1442年(嘉吉2)~1443年(嘉吉3)
・8代 義政(よしまさ) 1449年(文安6)~1473年(文明5)
・9代 義尚(よしひさ) 1473年(文明5)~1489年(長享3)
・空白 8代義政が代理 1489年(長享3)~1490年(延徳2)
・10代 義稙(よしたね) 1490年(延徳2)~1493年(明応2)
・11代 義澄(よしずみ) 1494年(明応3)~1508年(永正5)
・(再) 義稙(よしたね) 1508年(永正5)~1521年(大永元)
・12代 義晴(よしはる) 1521年(大永元)~1546年(天文15)
・13代 義輝(よしてる) 1546年(天文15)~1565年(永禄8)
・14代 義栄(よしひで) 1568年(永禄11)~1568年(永禄11)
・15代 義昭(よしあき) 1568年(永禄11)~1573年(天正16)

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 今日は、南北朝時代の1352年(観応3)に、室町幕府が「観応の半済令」を発布した日ですが、新暦では9月3日となります。
 「観応の半済令(かんおうのはんぜいれい)」は、室町幕府が近江・美濃・尾張三ヶ国において、一年に限って、荘園・公領の年貢半分の徴収権を守護に認めたものでした。当時は、観応の擾乱と呼ばれる全国的な争乱が続いており、軍費・兵糧の調達のために、主戦場となっていた近江・美濃・尾張三ヶ国の一年分に限って発令されたものでしたが、同年8月には和泉なども加えた八ヶ国に拡大します。
 さらに全国的・永年的に拡大していき、1368年(応安元)6月17日の「応安の半済令」を発布して、皇族・寺社・摂関領などを例外として、全ての荘園年貢について、本所側と守護側武士との間で均分することを永続的に認めるものとなりました。その結果、守護の権益が拡大していくこととなり、守護領国制、守護大名形成へと向かっていくこととなります。
 以下に、「観応の半済令」の全文を現代語訳・注釈付きで掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇「観応の半済令」 観応3年(1352年)7月24日発布

一 寺社本所領の事、観応三年七月廿四日の御沙汰
 諸国擾乱[1]に依り、寺社の荒廃、本所の牢籠[2]、近年倍増せり。而してたまたま静謐[3]の国々も、武士の濫吹[4]未だ休まずと云云。仍って守護人に仰せ、国の遠近に依り日限を差し[5]、施行[6]すべし。承引[7]せざる輩に於ては、所領の三分一を分ち召す可し。所帯無くば、流刑に処すべし。若し遵行[8]の後立帰り、違乱[9]致さば、上裁[10]を経ず国中の地頭御家人を相催し、不日[11]に在所に馳せ向ひ、治罰を加へ、元の如く沙汰[12]し雑掌[13]を下地[14]に居え、子細[15]を注申す可し。将又[16]守護人緩怠[17]の儀有らば、其の職を改易[18]す可し。次に近江・美濃・尾張三箇国、本所領半分[19]の事、兵粮料所[20]として、当年一作[21]、軍勢に預け置く可きの由、守護人等に相触れおはんぬ[22]。半分に於ては、宜しく本所に分渡すべし。若し預人[23]事を左右に寄せ[24]、去渡さざれば、一円[25]本所に返付す可す。

    『建武以来追加』より

【注釈】

[1]擾乱:じょうらん=乱すこと。騒乱。
[2]牢籠:ろうろう=苦しみこまること。困窮すること。
[3]静謐:せいひつ=世の中が穏やかに治まっていること。また、そのさま。
[4]濫吹:らんすい=秩序を乱すこと。狼藉。不法行為。
[5]日限を差し:にちげんをさし=あらかじめ期限を定めること。
[6]施行:せぎょう=命令を実施すること。
[7]承引:しょういん=受け入れる。承認する。
[8]遵行:じゅんぎょう=将軍の命を守護が下達すること。
[9]違乱:いらん=法に違反し秩序を乱すこと。
[10]上裁:じょうさい=上奏されたものに対する将軍の裁可。
[11]不日:ふじつ=多くの日を経ないこと。すぐ。ただちに。
[12]沙汰:さた=命令・指示。下知。
[13]雑掌:ざっしょう=本所・領家のもとで荘園に関する訴訟や年貢・公事の徴収などの任にあたった荘官。
[14]下地:したじ=年貢、雑税など、領主の収益の対象となる荘園、所領をいう。田畑だけでなく、山林、塩浜なども含めたもの。
[15]子細:しさい=詳しい事情。一部始終。
[16]将又:はたまた=もしくは。また。
[17]緩怠:かんたい=なまけ怠る。
[18]改易:かいえき=罪科などによって所領・所職・役職を取り上げること。
[19]本所領半分:ほんじょりょうはんぶん=近江・美濃・尾張三ヶ国にある荘園の半分の意味だが、実際は年貢の半分のこと。
[20]兵粮料所:ひょうりょうりょうしょ=兵糧米にあてる所領。
[21]当年一作:とうねんいっさく=今年一年の収穫(実際は年貢)。
[22]相触れおはんぬ:あいふれおはんぬ=通知する。
[23]預人:あずかりにん=本所領半分を預けられた足利尊氏方の武士。
[24]事を左右に寄せ:ことをそうによせ=あれこれ言い逃れをして。
[25]一円:いちえん=ことごとく。すべて。

<現代語訳>

一 寺院・神社。公家などの荘園領主の所領について、観応3年(1352年)7月24日の御命令
 諸国が騒乱により、寺社の荒廃、本所の困窮は、近年倍増してきた。そしてたまたま穏やかに治まっている国々も、武士の狼藉がいまだなくならないという。よって守護人に命じて、任国の都からの遠近によりあらかじめ期限を定めて、命令を実施せよ。承認しない連中については、その者の所領の三分一を割譲させて召し上げよ。所領のない者は、流刑に処せよ。もし将軍の命を守護が下達した後に立帰り、法に違反し秩序を乱したならば、将軍の裁可を経るまでもく国中の地頭・御家人を動員し、すぐに現地に駆けつけ、処罰を加え、元のように命令し荘官に荘園を委ね、一部始終を報告せよ。また、守護人がなまけ怠るようなことが有れば、その職を取り上げること。次に近江・美濃・尾張の三ヶ国、荘園領の年貢の半分については、兵糧米にあてる所領として、今年一年の収穫(実際は年貢)に限り、(足利尊氏方の)軍勢に与えるべきこと、守護人等に通知する。残りの半分については、必ず本所に渡すこと。もし預けられた足利尊氏方の武士があれこれ言い逃れをして、渡さない場合には、すべて本所に返還させることとする。

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