
1914年(大正3)に、神近市子らの雑誌『番紅花』(さふらん)にカーペンターの翻訳を寄稿、1915年(大正4)には、堺利彦、幸徳秋水らの金曜講演会、大杉栄らの平民講演会に神近市子の誘いで参加しました。1916年(大正5)に、平民講演会の散会後に拘束検挙され、一夜拘留、この会で山川均と知り合い、山川均編集の『新社会』へ寄稿し、その後、結婚します。
1919年(大正8)に『女の立場から』を刊行、合衆国労働省婦人局の統計調査資料を入手開始し、1921年(大正10)には、山川均とともに、『社会主義研究』の主筆となり、日本初の社会主義を標榜する女性団体「赤瀾会」を堺真柄、九津美房子らの発起で結成、同年メーデーに初参加しました。1922年(大正11)に、ロシア飢饉救済運動を提唱し、七日会メンバーとともに募金活動など成果をあげ、『女性の叛逆』を刊行します。
1923年(大正12)に、雑誌『種蒔く人』3月号の特集「無産婦人号ー国際婦人デー記念」を実質的に企画し、巻頭論文「プロレタリアと婦人問題」を執筆、1925年(大正14)には、日本労働組合評議会設立に際し、「婦人部テーゼ」を執筆しました。1928年(昭和3)に、『労農』婦人版の編集を1号から7号まで行い、山川均との共著『無産者運動と婦人の問題』を刊行します。
1936年(昭和11)に、鎌倉郡村岡村弥勒寺にて「湘南うづら園」を開業し、鶉の卵を販売して生計をたて、1937年(昭和12)には、第一次人民戦線事件で夫・山川均が検挙されました。1940年(昭和15)に『女は働いている』を刊行、1943年(昭和18)には、柳田国男の企画による女性叢書として、『武家の女性』(三国書房)と『わが住む村』を刊行します。
大平洋戦争後の1946年(昭和21)に新歴史協会創立し、雑誌『新歴史』に水戸藩生瀬事件を執筆、1947年(昭和22)には、神近市子、平林たい子らとともに民主婦人協会(のちの民主婦人同盟)結成に参加、日本社会党に入党、片山内閣のもとで労働省の初代婦人少年局長に就任、『明日の女性のために』(鱒書房)を刊行しました。1951年(昭和26)に、労働省を退職、渡英し、イギリス労働党を中心とした労働運動を調査研究、欧州視察ののちインド経由で帰国、1952年(昭和27)には、各地の労働組合会合で講演、日本社会党左派婦人部の準機関誌『婦人のこえ』発刊、主宰します。
1954年(昭和29)に『平和と革命の国―イギリス』を刊行、1958年(昭和33)には、夫・山川均が亡くなりました。1959年(昭和34)に、建国10周年にあたる中華人民共和国を招聘訪問、1962年(昭和37)には、「婦人問題懇話会」(後の日本婦人問題懇話会)を設立します。
1974年(昭和49)に『覚書 幕末の水戸藩』を刊行し、翌年に第2回大佛次郎賞を受賞、1977年(昭和52)にまは、『女性解放へ』を刊行しました。1978年(昭和53)に「日本婦人問題懇話会」代表となり、『二十世紀をあゆむ』を刊行、1979年(昭和54)には、『日本婦人運動小史』を刊行しましたが、1980年(昭和55)11月2日に、東京都において、脳梗塞により、90歳で亡くなっています。
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
| 1288年(正応元) | 第96代天皇とされる後醍醐天皇の誕生日(新暦11月26日) | 詳細 |
| 1714年(正徳4) | 江戸幕府5代将軍徳川綱吉の寵臣・譜代大名柳沢吉保の命日(新暦12月8日) | 詳細 |
| 1917年(大正6) | 中国に関する「石井・ランシング協定」が調印される | 詳細 |
| 1931年(昭和6) | 東京科学博物館の上野新館(現在の国立科学博物館日本館)が完成し、開館披露が行われる | 詳細 |
| 1940年(昭和15) | 「国民服令」が公布・施行され、男子の服装として国民服が定められる | 詳細 |
| 1942年(昭和17) | 詩人・歌人北原白秋の命日 | 詳細 |
| 1948年(昭和23) | 女性として初めて、日本画家の上村松園が文化勲章を受章する | 詳細 |
| 1957年(昭和32) | ジャーナリスト・思想家・歴史家・評論家徳富蘇峰の命日 | 詳細 |

