ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:貴族院議員

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 今日は、昭和時代中期の1952年(昭和27)に、地球物理学者・航空学者・貴族院議員田中舘愛橘が亡くなった日です。
 田中舘愛橘(たなかだて あいきつ)は、江戸時代後期の1856年(安政3年9月18日)に、陸奥国二戸郡福岡村(現在の岩手県二戸市福岡)において、南部藩士の父・稲蔵(とうぞう)と母・喜勢(きせ・旧姓 小保内)の長男として生まれました。1862年(文久2)の6歳の時、母・喜勢を亡くし、1865年(慶応元)に下斗米軍七の武芸「実用流」に入門、翌年に福岡内に郷学校の令斉場が開校されるとそこで文武を修め、また、私学校の会輔社で学びます。
 1870年(明治3)に盛岡藩校修文所入学、和漢の学問を修め、1872年(明治5)には、一家で東京へ移住し、慶應義塾英語学校に入学しました。1876年(明治9)に東京開成学校へ入学、1878年(明治11)に東京大学理学部本科へ入学し、1882年(明治15)に卒業後、同校の準助教授となります。
 1888年(明治21)にイギリスのグラスゴー大学に留学、1890年(明治23)にドイツのベルリン大学へ転学し、1891年(明治24)に帰国後、帝国大学理科大学教授(理学博士)となり、同年10月28日に発生した濃尾大地震の調査で根尾谷大断層を発見しました。1894年(明治27)に万国測地協会委員、1902年(明治35)に勲四等旭日小綬章受章、1906年(明治39)に帝国学士院会員となり、勲二等旭日重光章を受章、1907年(明治40)には、万国度量衡会議常任委員となります。
 1910年(明治43)に航空事業視察のためヨーロッパへ派遣され、所沢飛行場建設に関わり、1914年(大正3)には、文部省測地学委員会委員長となりました。1916年(大正5)に勲一等瑞宝章を受章、帝国大学教授在職25年祝賀会の日に辞表を提出し、翌年に名誉教授となり、万国度量衡会議に出席します。
 1918年(大正7)に国際学術研究会議のため欧州各国へ出張、東京帝国大学航空研究所を創立し、顧問となり、1919年(大正8)には、地磁気・空中電気国際会議に出席し会長となりました。1921年(大正10)に小石川区雑司ヶ谷町へ転居、日本ローマ字会を創立、航空評議会評議員となり、1925年(大正14)には、文部省学術研究会議副議長、貴族院議員となります。
 1928年(昭和3)に航空事業に対しフランス政府よりレジオン・ドヌール勲章を受章、1930年(昭和5)には、文部省臨時ローマ字調査委員会委員となりました。1932年(昭和7)に貴族院議員に再選され、1933年(昭和8)の御講書始めに「航空発達史の概要」を御進講、1939年(昭和14)には、中央航空研究所施設委員会委員となり、貴族院議員に3選されます。
 1940年(昭和15)に帝国学士院第二部部長となり、1944年(昭和19)に文化勲章を受章し、朝日文化賞を受賞、1945年(昭和20)には、空襲の激化により、故郷の福岡町に疎開しました。太平洋戦争後の1948年(昭和23)に自著『時は移る』を発行(ローマ字、漢字かな書き併記)、1950年(昭和25)に日本物理学会名誉会員、1951年(昭和26)に福岡町名誉町民となったものの、1952年(昭和27年)5月21日に、東京の経堂の自宅において、95歳で亡くなり、勲一等旭日大綬章を追贈されています。
 尚、1999年(平成11)には、故郷の岩手県二戸市に「田中舘愛橘記念科学館」がオープンしました。

〇田中舘愛橘の主要な著作

・『電気ニ就テノ演説』(1899年)
・『航空機講話』(1915年)
・『羅馬字意見及び発音考』(1926年)
・『メートル法の歴史と現在の問題』(1934年)
・『ローマ字綴り方の外交及び国際関係の事項概要』(1936年)
・随筆・論文集『葛の根 田中館愛橘論文抜集』(1938年)
・『時は移る』(1948年)
・『田中館愛橘遺墨集』(1992年)
・『田中館愛橘博士歌集 地球を翔けた心の歌』(1997年)
・『献詠和歌集 田中舘愛橘博士墓前祭 昭和27年~平成18年』(2007年)

☆田中舘愛橘関係略年表(明治5年以前の日付は旧暦です)

・1856年(安政3年9月18日) 陸奥国二戸郡福岡村(現在の二戸市福岡)において、南部藩士の父・稲蔵(とうぞう)と母・喜勢(きせ・旧姓 小保内)の長男として生まれる
・1861年(文久元年) 母キセから文字の手習い、伯父小保内定身より和漢の書を学ぶ
・1862年(文久2年) 母・喜勢が病没する
・1865年(慶応元年) 下斗米軍七の武芸「実用流」に入門する
・1866年(慶応2年) 福岡内に郷学校の令斉場が開校されるとそこで文武を修め、また、私学校の会輔社で学ぶ
・1870年(明治3年) 盛岡藩校修文所入学、和漢の学問を修める  
・1872年(明治5年) 一家で東京へ移住、慶應義塾英語学校に入学する
・1876年(明治9年) 東京開成学校入学する
・1878年(明治11年) 東京大学理学部本科入学する
・1880年(明治13年) メンデンホールの指導の下で、東京や富士山の重力測定をする
・1882年(明治15年) 東京大学を卒業し、準助教授となる  
・1883年(明治16年) 東京大学助教授となる
・1888年(明治21年) イギリスのグラスゴー大学に留学する
・1890年(明治23年) ドイツのベルリン大学へ転学する
・1891年(明治24年) 帰国し帝国大学理科大学教授(理学博士)となり、濃尾大地震の調査で根尾谷大断層を発見する
・1893年(明治26年) 本宿キヨ子と結婚する  
・1894年(明治27年) 長女美稲誕生、産後の病により夫人が亡くなり、万国測地協会委員となる
・1898年(明治31年) 万国測地学協会総会に出席する
・1902年(明治35年) 勲四等旭日小綬章を受章する
・1904年(明治37年) 日露戦争、陸軍の気球の研究に従事する
・1906年(明治39年) 帝国学士院会員となり、勲二等旭日重光章を受章  
・1907年(明治40年) 万国度量衡会議常任委員となる
・1909年(明治42年) 臨時軍用気球研究会委員となる
・1910年(明治43年) 航空事業視察のためヨーロッパへ派遣、所沢飛行場建設に関わる
・1914年(大正3年) 文部省測地学委員会委員長となる
・1915年(大正4年) 貴族院有志に航空機の発達及び研究状況を講演『航空機講話』を発行する
・1916年(大正5年) 勲一等瑞宝章を受章、帝国大学教授在職25年祝賀会の日に辞表を提出する  
・1917年(大正6年) 東京帝国大学名誉教授となり、万国度量衡会議に出席する
・1918年(大正7年) 国際学術研究会議のため欧州各国へ出張、東京帝国大学航空研究所を創立し、顧問となる
・1919年(大正8年) 地磁気・空中電気国際会議に出席し会長となる
・1920年(大正9年) 東京帝国大学航空研究所嘱託、陸軍省航空機調査研究嘱託、外務省より航空条約事務嘱託、国際連盟協会会議、万国度量衡委員会議、万国学術研究会議出席する
・1921年(大正10年) 小石川区雑司ヶ谷町へ転居、日本ローマ字会を創立、航空評議会評議員となる
・1923年(大正12年) 万国度量衡常置委員会議及び物理学会に出席する
・1924年(大正13年) 測地学・地球物理学国際会議へ出席する
・1925年(大正14年) 文部省学術研究会議副議長、貴族院議員となる
・1926年(大正15年) 故郷の福岡町において古希の祝賀会、震災予防評議会評議員となる、太平洋学術会議副議長となる
・1927年(昭和2年) 国際航空委員会、測地学・地球物理学国際会議、度量衡会議総会へ出席する
・1928年(昭和3年) 航空事業に対しフランス政府よりレジオン・ドヌール勲章を受章する  
・1929年(昭和4年) 万国度量衡会議、国際航空連盟会議、国際気象学会へ出席する
・1930年(昭和5年) 文部省臨時ローマ字調査委員会委員となる  
・1931年(昭和6年) 万国度量衡常置委員を辞し同名誉委員となる、言語学国際会議へ出席する
・1932年(昭和7年) 貴族院議員に再選される
・1933年(昭和8年) 御講書始めに「航空発達史の概要」を御進講、測地学・地球物理学国際会議へ出席する
・1935年(昭和10年) 天文学会、国際音声学会、議員会議、気象学会、国際航空連盟会議へ出席する
・1938年(昭和13年) 随筆・論文集『葛の根』を発刊、科学振興調査会委員、航空機技術委員会委員となる  
・1939年(昭和14年) 中央航空研究所施設委員会委員となる、貴族院議員に3選される
・1940年(昭和15年) 帝国学士院第二部部長となる
・1944年(昭和19年) 文化勲章を受章し、朝日文化賞を受賞する  
・1945年(昭和20年) 故郷の福岡町に疎開する  
・1948年(昭和23年) 自著『時は移る』を発行(ローマ字、漢字かな書き併記)する
・1950年(昭和25年) 日本物理学会名誉会員となる
・1951年(昭和26年) 福岡町名誉町民となる  
・1952年(昭和27年)5月21日 東京の経堂の自宅において、95歳で亡くなり、勲一等旭日大綬章を追贈される
・1999年(平成11年) 故郷の二戸市に田中舘愛橘記念科学館がオープンする  
・2002年(平成14年) 没後50年記念事業が挙行される
・2015年(平成27年) 二戸市名誉市民となる 
・2016年(平成28年) 田中舘愛橘像が落成し、二戸市のシンボルとなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

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 今日は、明治時代中頃の1889年(明治22)に、政治学者・貴族院議員で東京帝国大学の総長を務めた南原繁の生まれた日です。
 南原繁(なんばら しげる)は、香川県大川郡南野村(現在の東かがわ市南野)において、製糖業(屋号岸野屋)を営む、婿養子の父・三好貞吉、母・南原きくの次男として生まれましたが、幼少時に最初の婿養子であった実父が出奔し戸主となりました。1895年(明治28)に広瀬藤太郎が、養父としてきくと結婚、1901年(明治34)に香川県大川郡教員養成所に入所、1907年(明治40)には、香川県立大川中学(現在の香川県立三本松高等学校)を卒業します。
 その後、第一高等学校へ進み、1910年(明治43)に同校卒業後、東京帝国大学法学部政治学科に入学し、内村鑑三の弟子となり、生涯を通じて無教会主義キリスト教の熱心な信者となりました。1914年(大正3)に同大学を卒業後、内務省に入省し、1917年(大正6)に富山県射水郡郡長に任ぜられ、灌漑排水事業計画の取り組みや農業公民学校(現・富山県立小杉高等学校)の設立に関わります。
 1919年(大正8)に内務省警保局事務官に任じられ、労働組合法の草案作成などを手がけましたが、1921年(大正10)には、内務省を辞め、東京帝国大学法学部助教授に就任、ヨーロッパに留学しました。1924年(大正13)にヨーロッパ留学から帰国、翌年には、教授に昇進し、政治学史を担当し、ドイツ観念論の独創的研究を中心に政治の哲学的研究を進めます。
 1942年(昭和17)に『国家と宗教』を刊行し、鋭いナチズム批判を行ない、1945年(昭和20)には、法学部長となり、法学部教授と共に終戦工作を試みました。太平洋戦争敗戦後、東京帝国大学総長に就任、翌年には、日本学士院会員ともなり、1946年(昭和21)には、貴族院勅選議員に任じられ、日本国憲法草案審議に加わります。
 1947年(昭和22)に教育刷新委員会委員長となり、教育制度改革に尽力する一方で、東京六大学応援団連盟が結成され、初代会長に就任しました。1948年(昭和23)に歌集『形相(けいそう)』を刊行、日本政治学会初代理事長となり、1949年(昭和24)には、大学教授から共産主義者を排除すべきであるとのイールズ声明に、学問の自由の立場から反対を表明します。
 1950年(昭和25)の「サンフランシスコ講和条約」の締結に際しては、全面講和を唱えて政府と対立、吉田茂首相から“曲学阿世の徒”と非難されました。1951年(昭和26)に東京大学総長を退任し、翌年には、東京大学名誉教授となりましたが、以後は学問研究に没頭し、著作活動に専念します。
 1959年(昭和34)に『フィヒテの政治哲学』を刊行、1960年(昭和35)に日本政治学会理事長を辞め、1964年(昭和39)には、勲一等瑞宝章を受章しました。1967年(昭和42)に宮中歌会始召人を務め、1970年(昭和45)に日本学士院院長となり、1973年(昭和48)には、「南原繁著作集」全10巻が完結します。
 1974年(昭和49)には、勲一等旭日大綬章を受章しましたが、同年5月19日に、東京において、84歳で亡くなりました。

〇南原繁の主要な著作

・『国家と宗教』(1942年)
・歌集『形相(けいそう)』(1948年)
・『人間と政治』(1953年)
・『フィヒテの政治哲学』(1959年)
・『政治理論史』(1962年)
・『政治哲学序説』(1971年)

☆南原繁関係略年表

・1889年(明治22)9月5日 香川県大川郡南野村(現在の東かがわ市南野)において、製糖業(屋号岸野屋)を営む、婿養子の父・三好貞吉、母・南原きくの次男として生まれる
・1895年(明治28) 広瀬藤太郎が、養父としてきくと結婚する
・1901年(明治34) 香川県大川郡教員養成所に入所する
・1907年(明治40) 香川県立大川中学(現在の香川県立三本松高等学校)を卒業する
・1910年(明治43) 第一高等学校を卒業、東京帝国大学法学部政治学科に入学する。入学後、内村鑑三 (英語版)の弟子となり、生涯を通じて無教会主義キリスト教の熱心な信者となる
・1914年(大正3) 東京帝国大学法学部政治学科を卒業、内務省に入省する
・1917年(大正6) 富山県射水郡郡長に任ぜられ、灌漑排水事業計画の取り組みや農業公民学校(現・富山県立小杉高等学校)の設立に関わる
・1919年(大正8) 内務省警保局事務官に任じられ、労働組合法の草案作成などを手がける
・1921年(大正10) 内務省を辞め、東京帝国大学法学部助教授に就任、ヨーロッパに留学する
・1924年(大正13) ヨーロッパ留学から帰国する
・1925年(大正14) 東京帝国大学法学部教授となり、政治学史を担当する
・1942年(昭和17) 『国家と宗教』を刊行し、鋭いナチズム批判を行なう
・1945年(昭和20) 東京帝国大学法学部長に就任、東京帝国大学総長に就任する
・1946年(昭和21) 日本学士院会員となり、貴族院勅選議員に任じられ、日本国憲法草案審議に加わる
・1947年(昭和22) 教育刷新委員会委員長となり、東京六大学応援団連盟が結成され、初代会長に就任する
・1948年(昭和23) 歌集『形相(けいそう)』を刊行、日本政治学会初代理事長となる
・1949年(昭和24) 大学教授から共産主義者を排除すべきであるとのイールズ声明に、学問の自由の立場から反対を表明する
・1950年(昭和25) 「サンフランシスコ講和条約」の締結に際しては、全面講和を唱えて政府と対立、吉田茂首相から“曲学阿世の徒”と非難される
・1951年(昭和26) 東京大学総長を退任する
・1952年(昭和27) 東京大学名誉教授となる
・1959年(昭和34) 『フィヒテの政治哲学』を刊行する
・1960年(昭和35) 日本政治学会理事長を辞める
・1964年(昭和39) 勲一等瑞宝章を受章する
・1967年(昭和42) 宮中歌会始召人を務める
・1970年(昭和45) 日本学士院院長となる
・1973年(昭和48) 「南原繁著作集」全10巻が完結する
・1974年(昭和49)4月 勲一等旭日大綬章を受章する
・1974年(昭和49)5月19日 東京において、84歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1905年(明治38)「日露講和条約(ポーツマス条約)」が調印され、日露戦争が終結する詳細
日露戦争の講和条約「ポーツマス条約」を巡って、東京で日比谷焼打事件が起きる詳細
1933年(昭和8)小説家・児童文学者・俳人巖谷小波の命日詳細
1946年(昭和21)太平洋戦争後初の国民学校用国史教科書『くにのあゆみ』が文部省より発行される詳細
1966年(昭和41)第2宮古島台風により宮古島で日本最高の最大瞬間風速(85.3m/s)を観測詳細
1975年(昭和50)日本画家堂本印象の命日詳細
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 今日は、明治時代後期の1902年(明治35)に、啓蒙思想家・教育者・官僚・貴族院議員西村茂樹が亡くなった日です。
 西村茂樹(にしむら しげき)は、江戸時代後期の1828年(文政11年3月13日)に、江戸の佐野藩邸において、佐倉藩の支藩・佐野藩堀田家に仕える側用人・西村芳郁の子として生まれましたが、幼名は平八郎(へいはちろう)と言いました。10歳の時に佐倉藩校「成徳書院」に入学、佐倉藩が招いたた安井息軒より儒学を学び、1850年(嘉永3)に大塚同庵に師事、砲術を学び、翌年には、佐久間象山について砲術修業をします。
 1853年​(嘉永6)のペリー艦隊来航に衝撃を受け、佐倉藩主・堀田正睦に意見書を提出、老中・阿部正弘にも海防策を献じ、翌​年には、佐野藩年寄役となりました。1856年​(安政3)に佐倉藩主・堀田正睦が老中首座・外国事務取扱、貿易取調御用掛に任じられ、外交上の機密文書を担当、1868年(慶応4)には、佐倉藩年寄役となって、藩政改革を行ないます。
 1871年(明治4)に印旛県権参事となりましたが、翌年には辞し、上京して深川に家塾を開きました。1873年(明治6)に森有礼の働きかけにより、福澤諭吉・加藤弘之・中村正直・西周・西村茂樹・津田真道・箕作秋坪・杉亨二・箕作麟祥らと共に、日本初の近代的啓蒙学術団体となる「明六社」を結成、初代社長に就任、文部省に勤務し、教科書の編纂に携わります。
 1874年(明治7)に漢字廃止論者として、『開化ノ度ニ因テ改文字ヲ発スベキノ論』発表、1875年(明治8)には、大槻磐渓、依田學海、平野重久らと、漢学者の集まり「洋々社」を結成、『明六雑誌』に「修身治国非二途論」を発表、文部省に出仕し、天皇・皇后への進講(~1885年)を始めました。1876年(明治9)に坂谷素らとともに道徳の振興を目的とする「東京修身学社(後の社団法人日本弘道会)」を創設、1879年(明治12)には、自身発案により、日本最大にして唯一の官撰百科事典『古事類苑』の編纂を開始します。
 1880年(明治13)に文部省編集局長となって儒教的な教科書『小学修身訓』を刊行、1882年(明治15)には、勲四等旭日小綬章を受章しました。1884年(明治17)に、「東京修身学社」を「日本講道会」と改めて会長に就任、宮内省勤務となり、正五位となり、翌年には、勲三等旭日中綬章を受章します。
 1886年(明治19)に宮中顧問官、従四位となり、1887年(明治20)には、「日本講道会」を「日本弘道会」と改称、『日本道徳論』を刊行し、儒教的倫理思想に基づく国民道徳確立を唱えてその普及に努め、銀製黄綬褒章を受章しました。1888年(明治21)に「華族女学校」第三代校長に就任、翌年に宮内省に皇室が徳育を管理するように明倫院を設置するよう建議、1890年(明治23)には、貴族院勅選議員(~1892年)となります。
 1902年(明治35)に正三位となり、勲一等瑞宝章を受章しましたが、同年8月18日に東京において、74歳で亡くなりました。

〇西村茂樹の主要な著作

・『心学講義』(1885~86年)
・編書『万国史略』(1873年)
・編書『婦女鑑』(1887年)
・『日本道徳論』(1887年)
・『国家道徳論』(1894年)
・『徳学講義』(1895~1901年)
・『自識録』(1899年)

☆西村茂樹関係略年表

・1828年(文政11年3月13日) 江戸の佐野藩邸において、佐倉藩の支藩・佐野藩堀田家に仕える側用人・西村芳郁の子として生まれる
・1838年(天保9年) 10歳の時、佐倉藩校「成徳書院」に入学、佐倉藩が招いたた安井息軒より儒学を学ぶ
・1850年(嘉永3年) 大塚同庵に師事、砲術を学ぶ
・1851年(嘉永4年​) 佐久間象山に砲術を学ぶ
・1853年​(嘉永6年) ペリー艦隊来航に衝撃を受け、佐倉藩主・堀田正睦に意見書を提出、老中・阿部正弘にも海防策を献じる
・1854​年(安政元年) 佐野藩年寄役となる
・1856年​(安政3年) 佐倉藩主・堀田正睦が老中首座・外国事務取扱、貿易取調御用掛に任じられ、外交上の機密文書を担当する
・1868年(慶応4年) 佐倉藩年寄役となって、藩政改革を行なう
・1871年(明治4年) 印旛県権参事となる(~1872年)
・1872年(明治5年) 45歳で上京し、深川に家塾を開き、学制頒布に際し、もっぱら生をおさめ産をおこすことのみを説いて、ひとつも仁義・忠孝を教えた語のないのを遺憾とし、独力で国民の道徳を維持しようと志す
・1873年(明治6年) 森有礼の働きかけにより、福澤諭吉・加藤弘之・中村正直・西周・西村茂樹・津田真道・箕作秋坪・杉亨二・箕作麟祥らと共に、日本初の近代的啓蒙学術団体となる「明六社」を結成、初代社長に就任、文部省に勤務し、教科書の編纂に携わる
・1874年(明治7年) 漢字廃止論者として、『開化ノ度ニ因テ改文字ヲ発スベキノ論』発表する
・1875年(明治8年) 大槻磐渓、依田學海、平野重久らと、漢学者の集まり「洋々社」を結成、『明六雑誌』に「修身治国非二途論」を発表、文部省に出仕し、天皇・皇后への進講を始める(~1885年)
・1876年(明治9年) 坂谷素らとともに道徳の振興を目的とする「東京修身学社(後の社団法人日本弘道会)」を創設する
・1879年(明治12年) 自身発案により、日本最大にして唯一の官撰百科事典『古事類苑』の編纂を開始する
・1880年(明治13年) 文部省編集局長となって儒教的な教科書『小学修身訓』を刊行する
・1882年(明治15年) 勲四等旭日小綬章を受章する
・1884年(明治17年) 「東京修身学社」を「日本講道会」と改めて会長に就任、宮内省勤務となり、正五位となる
・1885年(明治18年) 勲三等旭日中綬章を受章する
・1886年(明治19年) 宮中顧問官、従四位となる
・1887年(明治20年) 「日本講道会」を「日本弘道会」と改称、『日本道徳論』を刊行、銀製黄綬褒章を受章する
・1888年(明治21年) 「華族女学校」第三代校長に就任する
・1889年(明治22年) 宮内省に皇室が徳育を管理するように明倫院を設置するよう建議、大日本帝国憲法発布記念章を受章する
・1890年(明治23年) 貴族院勅選議員となる(~1892年)
・1891年(明治24年) 正四位となる
・1893年(明治26年) 勲二等瑞宝章を受章する
・1900年(明治33年) 従三位となる
・1902年(明治35年) 正三位となり、勲一等瑞宝章を受章する
・1902年(明治35年)8月18日 東京において、74歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

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1863年(文久3)公武合体派が尊皇攘夷過激派を追放した八月十八日の政変が勃発(新暦9月30日)詳細
1876年(明治9)日本画家松林桂月の誕生日詳細
1888年(明治21)官営事業(官営模範工場)の一つ三池炭鉱(福岡県)が競争入札の結果、三井財閥に払い下げが決まる詳細
1925年(大正14)小説家細井和喜蔵の命日詳細
1968年(昭和43)飛騨川バス転落事故が起き、死者104人を出す詳細
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iwanamishigeo01
 今日は、昭和時代中期の1946年(昭和21)に、出版人・岩波書店創業者・貴族院議員岩波茂雄が亡くなった日です。
 岩波茂雄(いわなみ しげお)は、明治時代前期の1881年(明治14)8月27日に、長野県諏訪郡中洲村(現在の諏訪市)の農家で、村の助役だった父・岩波義質の子として生まれました。1895年(明治28)に旧制諏訪実科中学校(現在の諏訪清陵高校)へ入学しましたが、1899年(明治32)に上京し、杉浦重剛を慕い、日本中学に入学し、翌年に卒業、1901年(明治34)には、旧制第一高等学校に入学します。
 しかし、1904年(明治37)に、試験放棄のため落第して中退し、翌年には、東京帝国大学哲学科選科に入学しました。1908年(明治41)に卒業し、1909年(明治42)には、神田高等女学校に勤め、教頭になります。
 ところが、教師としての自信をなくして退職し、1913年(大正2)には、神田神保町に古書店・岩波書店を創業し、正価販売を実行しました。1914年(大正3)に夏目漱石の『こころ』を出版(岩波書店の処女出版)し、ついで「哲学叢書」(1929~19年)、「漱石全集」(1917~19年)を刊行するなど、着々と出版界に地歩を固めます。
 その後、1921年(大正8)に「思想」、1927年(昭和2)に岩波文庫、1931年(昭和6)に「科学」、1933年(昭和8)に岩波全書、1934年(昭和9)に「文化」、1938年(昭和13)に岩波新書を創刊するなど、「岩波文化」とよばれる独自の出版文化を築きました。しかし、戦時下の言論統制の中で、1940年(昭和15)に津田左右吉の『日本古代史研究』の出版により、「出版法」違反で起訴され、1942年(昭和17)に禁錮2年執行猶予2年の判決を受けたものの、1944年(昭和19)の上告中に免訴となります。
 1945年(昭和20)に多額納税者として貴族院議員となり、1946年(昭和21)に総合雑誌「世界」を創刊、日本放送協会(NHK)の民主化のために設置された放送委員会の委員となりました。同年に、文化勲章を受章しましたが、4月25日に静岡県熱海市において、64歳で亡くなっています。

〇岩波茂雄関係略年表

・1881年(明治14)8月27日 長野県諏訪郡中洲村(現在の諏訪市)の農家で、村の助役だった父・岩波義質の子として生まれる
・1895年(明治28) 旧制諏訪実科中学校(現在の諏訪清陵高校)へ入学する
・1899年(明治32) 上京し、杉浦重剛を慕い、日本中学に入学する
・1899年(明治33) 日本中学を卒業する
・1901年(明治34) 旧制第一高等学校に入学する
・1904年(明治37) 試験放棄のため落第し、高校を中退する
・1905年(明治38) 東京帝国大学哲学科選科に入学する
・1906年(明治39) 結婚する
・1908年(明治41) 東京帝大文科大学哲学科選科を卒業する
・1909年(明治42) 神田高等女学校に勤め、教頭になる
・1913年(大正2) 神田神保町に古書店・岩波書店を創業する
・1914年(大正3) 夏目漱石の『こころ』を出版(岩波書店の処女出版)する
・1915年(大正4) 『哲学叢書』の刊行を開始する
・1917年(大正6) 『漱石全集』を刊行を開始する
・1921年(大正8) 「思想」を創刊する
・1927年(昭和2) 岩波文庫を創刊する
・1931年(昭和6) 「科学」を創刊する
・1933年(昭和8) 岩波全書創刊する
・1934年(昭和9) 「文化」を創刊する
・1938年(昭和13) 岩波新書を創刊する
・1940年(昭和15) 学徒及び篤学の学者、研究者を援助する目的で財団法人「風樹会」を設立、津田左右吉の『日本古代史研究』の出版により、「出版法」違反で起訴される
・1942年(昭和17) 禁錮2年執行猶予2年の判決をうける
・1944年(昭和19) 上告中に免訴となる
・1945年(昭和20) 多額納税者として貴族院議員となる
・1946年(昭和21) 総合雑誌「世界」を創刊、日本放送協会(NHK)の民主化のために設置された放送委員会の委員となり、文化勲章を受章する
・1946年(昭和21)4月25日 静岡県熱海市において、64歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

722年(養老6)百万町歩開墾計画が出される(新暦6月13日)詳細
1613年(慶長18)武将大久保長安の命日(新暦6月13日)詳細
1881年(明治14)『交詢雑誌』第45号に、交詢社の「私擬憲法案」が発表される詳細
1957年(昭和32)「高速自動車国道法」(昭和32年法律第79号)が公布・施行される詳細
1978年(昭和53)洋画家東郷青児の命日詳細
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 今日は、昭和時代後期の1970年(昭和45)に、刑法学者牧野英一が亡くなった日です。
 牧野英一(まきの えいいち)は、明治時代前期の1878年(明治11)3月20日に、岐阜県大野郡高山向町(現在の高山市)で郷宿「玉屋」を営む、父・牧野伊平の長男として生まれました。岐阜県立斐太中学校(現岐阜県立斐太高等学校)、旧制第一高等学校を経て、1900年(明治33)に、東京帝国大学法学部フランス法科に入学し、穂積陳重から法律進化論を、梅謙次郎から自然法を、富井政章から比較法を学びます。
 1903年(明治36)に卒業して、同大学講師に就任、1907年(明治40)には、助教授に昇任しました。1910年(明治43)に、ドイツ、イギリス、イタリアに留学し、ベルリン大学ではリスト、フェリに師事、1913年(大正2)に帰国し、教授に昇任、翌年には、法学博士となります。
 フェッリやリストの新派刑法学を日本に導入、教育刑論、主観主義刑法理論を唱え、刑法学界に大きな影響を与えました。1936年(昭和11)に帝国学士院会員、1938年(昭和13)には、東京帝国大学を定年退官し、名誉教授となり、翌年には、海軍経理学校講師に就任します。
 太平洋戦争後は、1946年(昭和21)に貴族院議員となり、第90帝国議会貴族院小委員会にて、「日本国憲法」前文を起草し、司法法制審議会委員として「民法」改正に取り組みました。1950年(昭和25)に文化勲章を受章、1951年(昭和26)に文化功労者となり、1952年(昭和27)には、東京家庭学園(白梅学園短期大学の前身)学長に就任します。
 1958年(昭和33)に高山市名誉市民、1965年(昭和40)に勲一等瑞宝章を受章、1966年(昭和41)に茅ヶ崎市名誉市民など数々の栄誉を受けましたが、1970年(昭和45)4月18日に、92歳で亡くなり、叙従二位、賜銀杯一組を追贈されました。

〇牧野英一の主要な著作

・『刑事学の新思潮と新刑法』(1909年) 
・『日本刑法』(1916年)
・『罪刑法定主義と犯罪徴表説』(1918年)
・『刑法研究』20巻(1918~67年)
・『法理学』(1949~52年)
・『刑法総論』(1958、59年)
・『刑法各論』

☆牧野英一関係略年表

・1878年(明治11)3月20日 岐阜県大野郡高山向町(現在の高山市)で郷宿「玉屋」を営む、父・牧野伊平の長男として生まれる
・1895年(明治28) 岐阜県立斐太中学校(現岐阜県立斐太高等学校)を卒業する
・1899年(明治32) 旧制第一高等学校を卒業する
・1900年(明治33) 東京帝国大学法学部フランス法科に入学し、穂積陳重から法律進化論を、梅謙次郎から自然法を、富井政章から比較法を学ぶ
・1903年(明治36) 銀時計受領して東京帝国大学法科大学を卒業、同大学講師に就任する
・1907年(明治40) 東京帝国大法科大学刑法講座助教授となる
・1910年(明治43)ドイツ、イギリス、イタリアに留学し、ベルリン大学ではリスト、フェリに師事する
・1913年(大正2) 帰国し、教授に昇任する
・1914年(大正3) 法学博士となる
・1921年(大正10) 第一回国勢調査記念章を受章する
・1927年(昭和2) 九州帝国大学法文学部講師となる
・1931年(昭和6) 九州帝国大学法文学部講師を辞め、法政大学法学部長兼専門部第一部長となる
・1934年(昭和9) 東北帝国大学講師を兼務する
・1936年(昭和11) 帝国学士院会員となる
・1938年(昭和13) 東京帝国大学を定年退官し、名誉教授となる
・1939年(昭和14) 海軍経理学校講師となる
・1945年(昭和20) 海軍経理学校講師を辞める
・1946年(昭和21) 貴族院議員となり、「日本国憲法」制定や「刑法」改正に関わる
・1950年(昭和25) 文化勲章を受章する
・1951年(昭和26) 文化功労者となる
・1952年(昭和27) 東京家庭学園(白梅学園短期大学の前身)学長となる
・1958年(昭和33) 高山市名誉市民となる
・1965年(昭和40) 勲一等瑞宝章を受章する
・1966年(昭和41) 茅ヶ崎市名誉市民となる
・1970年(昭和45)4月18日 92歳で亡くなり、叙従二位、賜銀杯一組を追贈される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1849年(嘉永2)浮世絵師葛飾北斎の命日(新暦5月10日)詳細
1885年(明治18)日清両国間で「天津条約」(李・伊藤条約)が締結される詳細
「専売特許条例」が公布(施行は同年7月1日)される(発明の日)詳細
1900年(明治33)福井「橋南大火」で、死者11名、負傷者131名、全焼1891軒、半焼3軒の被害を出す詳細
1964年(昭和39)彫刻家朝倉文夫の命日詳細
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