ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:財団法人

meijijinguukokuminrenseitai
 今日は、昭和時代前期の太平洋戦争下、1942年(昭和17年)に、政府の外郭団体としての財団法人「大日本体育会」が発足した日です。
 「大日本体育会」(だいにっぽんたいいくかい)は、明治時代後期の1911年(明治44)7月に創設された、「大日本体育協会」を母体として、太平洋戦争下に政府の外郭団体として、発足した財団法人でした。この日に、東京の丸の内大東亜会館において発会式が開催され、体育会の関係官庁及び関係団体などの役員や地方学務部長、地方体育主事など約300名が出席しています。
 会長は東條英機内閣総理大臣で式辞を述べ、副会長は小泉親彦厚生大臣及び橋本邦彦文部大臣でそれぞれ告辞が行われ、関係各所からの祝辞が続きました。東條英機内閣総理大臣の式辞では、「大東亜戦下の現在に於ては素より将来に亘り全国民をして男子と言はず女子と言はず将又幼少年も青壮年も其の職域の別なく総て完全に其の任務を遂行するに足る体力を錬成せしむることが実に本会の使命」としています。
 そして、1942年度事業計画として、①国民体力錬成要綱ノ策定並ニ建議、②各種健民運動ニ対スル協力、③第十三回明治神宮国民錬成大会ニ協力、④政府主催ノ各種体育指導者修練会ニ協力、⑤講演会、映画会等ノ開催、講師派遣及機関誌ノ発行、⑥国民体育指導者資格検定制度ノ策定ニ体育指導者代表者代表団ノ派遣、⑦各種体育講習会ノ開催及指導、⑧体育功労者等ノ表彰、⑨各種主要体育大会ノ主催などを掲げました。組織として、体育会部会が置かれ、体操、相撲、行軍山岳、陸上戦技、水泳、漕艇(ボート)、帆艇(ヨット)、スキー、氷上(スケート)、自転車、重技(重量挙)、闘球(ラグビー)、蹴球(サッカー)、枝球(ホッケー)、送球(ハンドボール)、野球(ベースボール)、軟式野球(軟式ベースボール)、排球(バレーボール)、籠球(バスケット)、庭球(テニス)、軟式庭球(軟式テニス)、卓球(ピンポン)、打球(ゴルフ)の23部会とされています。
 尚、武道関係(柔道、剣道、弓道など)は別組織の政府の外郭団体として「大日本武徳会」が設立されました。太平洋戦争後は、1946年(昭和21)1月に民間団体に戻され、1948年(昭和23)に「日本体育協会」と改称され、1960年(昭和35)に都道府県体育協会を加盟団体に加えた現行組織となったものの、2018年(平成30)には、「日本スポーツ協会」へ再改称されています。

〇大日本体育会発会式次第 

日付:1942年(昭和17)4月8日
会場:丸の内大東亜会館

 1.開式の辞 (吉江体錬課長) 
 2.宮城遥拝 
 3.君々代奉唱 
 4.黙祷 
 5.経過報告 (後藤副会長) 
 6.会長式辞 (東條総理大臣) 
 7.告辞 
 (1)厚生大臣(小泉厚生大臣) 
 (2)文部大臣(橋田文部大臣) 
 8.祝辞 
 (1)陸海軍大臣(島田海軍大臣)
 (2)内務大臣(湯澤内務大臣)
 (3)体育関係者(下村宏)
 (4)大日本武徳会(藤沼理事長)
 (5)大政翼賛会(草間総裁秘書)
 (6)祝電披露
  ① 朝鮮体育振興会長
  ② 台湾体育協会長
  ③ 樺太体育協会長
  ④ 大満洲帝国体育連盟名誉総裁
 9.万歳奉唱
 10.閉会の辞 (吉江体錬課長)

☆会長(東條英機内閣総理大臣)式辞(抜粋)

 申す迄もなく大日本体育会は全国民を対象として其の心身を錬成せしむることを使命と致すものであります。即ち大東亜戦下の現在に於ては素より将来に亘り全国民をして男子と言はず女子と言はず将又幼少年も青壮年も其の職域の別なく総て完全に其の任務を遂行するに足る体力を錬成せしむることが実に本会の使命でありまして本会が此の使命を果し得るか否かは真に皇国の将来を左右する重大問題と謂ふも過言でないのであります。

☆下村宏祝辞(抜粋)

 思ふに本会の設立と共に今後老若男女の別をとはず、都鄙にあまねく本土及び外地に通じ全国民をあげ規制ある指導の下に時局の一線に沿へる体育の強化錬成を見るに至るべくさらに満蒙、中華民国はもとより大東亜の諸民族より広く全世界にわたり体育を通じて相互の理解を深め親善を増すべく大いに貢献するところあるべき事を確信いたします。

☆1942年度事業計画

1.国民体力錬成要綱ノ策定並ニ建議 
2.各種健民運動ニ対スル協力 
3.第十三回明治神宮国民錬成大会ニ協力 
4.政府主催ノ各種体育指導者修練会ニ協力 
5.講演会、映画会等ノ開催、講師派遣及機関誌ノ発行 
6.国民体育指導者資格検定制度ノ策定ニ体育指導者代表者代表団ノ派遣
7.各種体育講習会ノ開催及指導 
8.体育功労者等ノ表彰 
9.各種主要体育大会ノ主催 
10.各種体育大会ノ指導 
11.体育行事整備統制計画ノ策定並ニ建議
12.国民体力錬成組織ノ整備拡充
13.満州国建国十周年慶祝競技大会ニ我国選手派遣ニ関スル協力
14.満洲国建国十周年慶祝競技大会並ニ日満交歓武道大会
15.体育資材ノ統制、需給調査並ニ需給斡旋
16.体育運動施設ノ指導統制
17.体力科学研究機関ノ整備及研究ノ実施
18.地方支部ノ事業助成

〇役員一覧 1943年(昭和18)3月

<会長>
・内閣総理大臣 東條英機 

<副会長>
・厚生大臣 小泉親彦 
・文部大臣 橋田邦彦
・大政翼賛会事務総長 後藤文夫○

<名誉副会長> 
・貴族院議員 下村宏○

<理事長> 
・郷隆○

<常務理事> 
・文部省体育局長 小笠原道生
・厚生省人口局長 中村敬之進
・日本出版文化協会専務理 久富達夫○
・東京帝国大学教授 末弘厳太郎○
・海軍省教育局長 矢野志加三
・貴族院議員 唐澤俊樹○
・陸軍省兵務局長 那須義雄

<理事>
・狭間茂
・貴族院議員 山川建○
・大日本武徳会理事長 藤沼庄平
・大政翼賛会実践局長 相川勝六
・貴族院議員 二荒芳徳○
・衆議院議員 勝田永吉○
・東京帝国大学教授 小島三郎○
・貴族院議員 丸山鶴吉

注:「○」は体協関係者

〇体育会部会(23部会)

・体操
・相撲
・行軍山岳
・陸上戦技
・水泳
・漕艇(ボート)
・帆艇(ヨット)
・スキー
・氷上(スケート)
・自転車
・重技(重量挙)
・闘球(ラグビー)
・蹴球(サッカー)
・枝球(ホッケー)
・送球(ハンドボール)
・野球(ベースボール)
・軟式野球(軟式ベースボール)
・排球(バレーボール) 
・籠球(バスケット)
・庭球(テニス) 
・軟式庭球(軟式テニス) 
・卓球(ピンポン)
・打球(ゴルフ)

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1896年(明治29)「移民保護規則」にかわり、「移民保護法」が公布(施行は6月1日)される詳細
1940年(昭和15)「国民体力法」が公布(施行は同年9月25日)される詳細
1948年(昭和23)東宝争議(第3次)が勃発する詳細
1959年(昭和34)俳人・小説家高浜虚子の命日(椿寿忌)詳細
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

shyoukokuminbunka01
 今日は、昭和時代前期の1942年(昭和17)に、東条英機首相臨席のもと、日本少国民文化協会の発会式が、東京の情報局講堂で行われた日です。
 日本少国民文化協会(にほんしょうこくみんぶんかきょうかい)は、児童文化を統制・指導し、その分野での国策協力を進めるために、少年文化団体を一元化したものでした。その目的は、「皇国ノ道ニ則リ国民文化ノ基礎タル日本少国民文化ヲ確立シ以テ皇国民ノ錬成ニ資ス」とされ、同年1月の大日本青年団の設立、4月からの国民学校開始と深く関係しています。
 1937年(昭和12)に日中戦争が勃発するなかで、翌年4月1日に「国家総動員法」が公布され、同年10月には、児童文学、心理児童学、教育学等の分野を代表する専門家たちの協力のもと、内務省警保局図書課が「児童読物改善ニ関スル指示要綱」を通達しました。1940年(昭和15)9月30日に、官民合同発起による「児童文化新体制懇談会」が開かれ、文学、演劇、紙芝居、出版、映画など、少国民文化各分野の関係者30数名が官民合同の強力な指導機関の設置を熱心に要望し、12月24日には、大政翼賛会文化部の斡旋による官民合同の児童文化懇談会である「日本児童文化協会(仮称)設立準備懇談会」が開催されます。
 1941年(昭和16)6月に「日本児童文化協会要綱」が最終的に決定されましたが、創立準備委員会の中で「児童」という言葉から「小国民」に変更されました。同年12月23日に九段の軍人会館で「日本少国民文化協会」の設立総会が行われ、創立発起人等の官民関係者300数名が靖国の神前で少国民文化の改善、向上、確立のために挺身することを誓い、12月30日には社団法人設立の認可を受けます。
 そして、翌年2月11日の建国記念日に東条英機首相や谷正政之情報局総裁隣席のもと、情報局講堂において発会式が行われ、文学、舞踊、音楽、レコードの四部会共同作なる『日本のあしおと』が京橋区昭和国民学校児童の唱歌、石川漠門下の舞踊で発表されました。山本有三、城戸幡太郎、小川未明、百田宗治、波多野完治、阪本越郎、佐伯郁郎、北原白秋など著名な児童文化関係者が300名以上集まり、文学部会 (詩、童謡、童話文学、少年文学、科学読物、歴史、地理読物、翻訳文学、評論)。絵画部会(挿絵、動画、漫画、特殊研究会)、童話部会、玩具部会(玩具、人形類、節句品)、生活用品部会、紙芝居部会 (街頭紙芝居、教育紙芝居)、舞踊部会、音楽部会、出版部会、演劇部会(専門劇、学校劇、人形劇)、映画部会、畜音器、レコード部会の12部会に分かれて活動を展開します。
 東京・銀座三越6階に構えた事務所を拠点に、6月より機関誌『少国民文化』を発刊、11月より月刊の「協会報」が出されました。1943年(昭和18)6月に、「必勝18年の新方針、新事業」が講じられ、母の錬成、作家の錬成、海事思想の普及、航空思想、科学技術思想、健兵、強兵思想普及、愛国子守歌の制定が行われ、9月8日には、「協会が真に決戦に即応する少国民文化の士気高揚指導に目的事業の方向を凝集せしめる」ため、定款の変更が行われています。
 しかし、戦局の悪化に伴って活動も停滞気味となり、1944年(昭和19)3月に月刊の「協会報」が、12月には機関誌『少国民文化』が終刊となり、銀座の事務所も空襲で焼け、1945年(昭和20)2月以降は本郷の民家に移転しました。そして、太平洋戦争後の1945年(昭和20)10月頃に一片の声明も出さずに解散、12月には新聞に解散公告が掲載されて幕を閉じます。

〇日本少国民文化協会関係略年表

<1937年(昭和12)>
・7月 日中戦争が勃発する
・9月 国民精神総動員運動が開始される

<1938年(昭和13)>
・4月1日 「国家総動員法」が公布される
・10月 児童文学、心理児童学、教育学等の分野を代表する専門家たちの協力のもと、内務省警保局図書課が「児童読物改善ニ関スル指示要綱」を通達する

<1940年(昭和15)>
・2月 有光社の季刊の綜合理論誌『新児童文化』が創刊される
・9月30日 官民合同発起による「児童文化新体制懇談会」が開かれ、文学、演劇、紙芝居、出版、映画など、少国民文化各分野の関係者30数名が官民合同の強力な指導機関の設置を熱心に要望する
・12月24日 大政翼賛会文化部の斡旋による官民合同の児童文化懇談会である「日本児童文化協会(仮称)設立準備懇談会」が開催される

<1941年(昭和16)>
・3月 日本児童文化協会設立の仕事の一切が情報局に移される
・6月 「日本児童文化協会要綱」の最終的な決定を見る
・8月1日 情報局講堂で日本児童文化協会設立連絡会が開催され、500数名の出席者が見守る中、事実上、協会が誕生する
・8月18日 第一回の創立準備委員会で児童という言葉が一般社会の通用語となっておらず、協会の性格を規定する上からも上田課長は「児童」の名称に異を唱え、協会の名称として他に適当のものを選定したいとする
・12月23日 九段の軍人会館で「日本少国民文化協会」の設立総会が行われ、創立発起人等の官民関係者300数名が靖国の神前で少国民文化の改善、向上、確立のために挺身することを誓う
・12月30日 社団法人設立の認可を受ける

<1942年(昭和17)>
・2月11日 建国記念日に東条英機首相や谷正政之情報局総裁隣席のもと、情報局講堂にて発会式が行われる
・2月17日 銀座三越6階に構えた事務所を拠点に、本格的に活動を始動する
・6月  少文協の機関誌『少国民文化』が発刊される
・11月 月刊の「協会報」が発刊される

<1943年(昭和18)>
・5月 少文協文学部会の機関誌『少国民文学』が創刊される
・5月7日 この日付けの一文で、理事長小野俊一は、協会が必ずしも所期の目的達成のために円滑に運営されていない現実を受け止め、協会の本質が文化統制機関、国民運動的翼賛団体、あるいはその両者を兼ねるものなのか再確認することが必要との所感を示す
・6月 「必勝18年の新方針、新事業」が講じられ、母の錬成、作家の錬成、海事思想の普及、航空思想、科学技術思想、健兵、強兵思想普及、愛国子守歌の制定が行われる
・9月8日 「協会が真に決戦に即応する少国民文化の士気高揚指導に目的事業の方向を凝集せしめる」ため、定款の変更が行われる

<1944年(昭和19)>
・3月 月刊の「協会報」が終刊となる
・空襲が激しくなると、少文協は学童集団疎開の慰問派遣センターとしての役割を担うようになる
・12月 少文協の機関誌『少国民文化』が終刊となる

<1945年(昭和20)>
・2月以降 事務所が爆撃で焼け、持ち主が空き家になっていた本郷の民家に移転する
・10月頃 一片の声明も出さずに解散する
・12月 新聞に解散公告が掲載され、少文協は3年の歴史に幕を閉じる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1856年(安政3) 江戸幕府が洋学所を「蕃書調所」と改称する(新暦3月17日) 詳細
1883年(明治16) 日本画家小林古径の誕生日 詳細
1889年(明治22) 陸羯南を社長兼主筆として東京で日刊新聞「日本」が創刊される 詳細
1945年(昭和20) ヤルタ会談で協議の上、米・英・ソ3ヶ国政府首脳によってヤルタ協定が結ばれる 詳細
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

↑このページのトップヘ