ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:豊臣秀吉

bunrokunoeki01
 今日は、安土桃山時代の1592年(文禄元)に、豊臣秀吉が、朝鮮を経て明へ出兵する為の出陣令(朝鮮出兵・文禄の役)を発布した日ですが、新暦では2月17日となります。
 文禄の役(ぶんろくのえき)は、安土桃山時代の豊臣秀吉による二度にわたる朝鮮への侵攻の最初の戦い(2度目は慶長の役)のことで、朝鮮では壬辰の倭乱(2度目は丁酉の倭乱)と呼んでいます。1587年(天正15)に、秀吉は、対馬の宗氏を通じて、朝鮮に対し入貢と明出兵の先導を求めるものの、朝鮮側は拒否をしました。
 そこで、1592年(天正20年1月5日)に、秀吉が、朝鮮を経て、明国への出兵指令を諸大名に下します。同年3月、肥前名護屋を本営として小西行長・加藤清正・小早川隆景ら15万余の大軍を渡海させ、漢城(現在のソウル)を陥落させ、さらに北上して、碧蹄館の戦で明軍を破りました。
 しかし、明の援軍と朝鮮義兵の抵抗により戦局は膠着し、同年4月に、竜山停戦協定の成立に伴い撤退します。秀吉は、同年6月に明帝の娘を后妃に迎えること、勘合船を復活すること、朝鮮を割譲することなどの「和議七か条」を講和条件として決定させましたが、遵守されないで終わりました。
 そこで、1597~98年(慶長2~3年)の慶長の役が起こることとなります。

〇朝鮮出兵(文禄・慶長の役)とは?
 
 安土桃山時代の豊臣秀吉による二度にわたる朝鮮への侵攻のことで、文祿・慶長の役とも呼ばれ、朝鮮では壬辰・丁酉の倭乱と呼んでいます。1592~93年(天正20/文禄元~2)と1597~98年(慶長2~3)の2度にわたる朝鮮侵略があり、前者を文禄の役、後者を慶長の役と分けて、呼ばれてきました。
 1587年(天正15)に、秀吉は、対馬の宗氏を通じて、朝鮮に対し入貢と明出兵の先導を求めるものの、朝鮮側は拒否をします。そこで、1592年(天正20年1月5日)に、秀吉が、朝鮮を経て、明国への出兵指令を諸大名に下しました。
 同年3月、肥前名護屋を本営として小西行長・加藤清正・小早川隆景ら15万余の大軍を渡海させ、漢城(現在のソウル)を陥落させ、さらに北上して、碧蹄館の戦で明軍を破ります。しかし、明の援軍と朝鮮義兵の抵抗により戦局は膠着し、同年4月に、竜山停戦協定の成立に伴い撤退しました。
 秀吉は、同年6月に明帝の娘を后妃に迎えること、勘合船を復活すること、朝鮮を割譲することなどの「和議七か条」を講和条件として決定させましたが、遵守されないで終わります。1596年(慶長元)に、大坂城に来た明使の書中に秀吉を日本国王に封じるという言があり、秀吉は大いに怒って、翌年に、和議を破って、再度の出兵を命じ、慶長の役が始まりました。
 14万の軍兵をもって再征しましたが、明軍の出動と朝鮮民衆の抵抗に苦しみ、水軍を率いた李舜臣の活躍などもあって苦戦が続きます。1598年(慶長3年8月)の秀吉の死により、停戦協定が結ばれ、同年11月の島津勢の撤退を最後に、7年間にわたる戦争は終結しました。
 これによって、戦場となった朝鮮では耕地が3分の1に減少し、人口の減少や文化財の略奪がみられ、朝鮮を援助した明の国力も衰え、明朝衰退の一因ともなります。日本では、豊臣政権の崩壊が進んだものの、文化的には、強制連行された多数の朝鮮人により印刷・陶業の新技術が発達し、多くの典籍ももたらされました。

☆朝鮮出兵(文禄・慶長の役)関係略年表

<1587年(天正15)>
・秀吉、対馬の宗氏を通じて、朝鮮に対し入貢と明出兵の先導を求めるものの、朝鮮側は拒否をする

<1592年(天正20/文禄元)>
・1月5日 豊臣秀吉が、朝鮮を経て、明国へ出兵指令を諸大名に下す
・4月中旬 日本軍のおびただしい日本の兵船が釜山に至り上陸する
・4月末 朝鮮国王宣祖が、明の援軍を仰ぐことにして首都ソウル(漢城)を脱出する
・5月初旬 第一軍の小西行長小西行長、第二軍の加藤清正加藤清正と共に漢城に入り、玉浦海戦では、李舜臣李舜臣と藤堂高虎藤堂高虎水軍が戦う
・5月下旬 泗川海戦:李舜臣、秘蔵の亀甲船で日本水軍を撃破する
・6月初旬 第一軍の行長・宗義智宗義智と第三軍の黒田長政黒田長政、平壌に侵入し、栗浦海戦で、李舜臣、来島兄弟水軍を撃破する
・6月中旬 第二軍の清正・鍋島直茂鍋島直茂、咸鏡道に侵入する
・7月初旬 錦山の戦いで、権慄・郭再祐・金誠一ら朝鮮連合軍、第六軍の小早川隆景小早川隆景の全羅道侵入を阻止、 閑山島海戦で、李舜臣と脇坂安治脇坂安治水軍が戦い、安骨浦海戦では、李舜臣が、九鬼嘉隆九鬼嘉隆・加藤嘉明加藤嘉明水軍を撃破する
・7月中旬 明の祖承訓が、行長籠る平壌城を攻めるが敗退する
・7月下旬 大政所(秀吉の母)が死去する
・9月 釜山浦海戦で、李舜臣が、日本軍本陣を襲撃し、明軍到来に危機を感じた小西行長、明の沈惟敬と交渉し50日間の停戦協定を締結する
・10月 第一次晋州城の戦いで、金時敏朝鮮軍と細川忠興細川忠興ら日本軍が戦う
・12月8日 文禄に改元される

<1593年(文禄2)>
・1月初旬 平壌の戦いで明の李如松と行長軍が戦い、これにより交渉が決裂する
・1月下旬 碧蹄館の戦いで、明の李如松と小早川隆景・立花宗茂立花宗茂ら日本軍が戦う
・2月 幸州山城の戦いで、朝鮮軍の権慄と宇喜多秀家宇喜多秀家ら日本軍が戦い、熊川の戦いではね李舜臣が、5回に渡り、脇坂・九鬼・加藤嘉明水軍ら襲撃する
・3月 日本軍、窮地に陥り撤退を決定し、小西行長と沈惟敬の交渉が再開される
・5月 明使節が初来日し、秀吉、明の皇女を日本の天皇の妃にするなどの「和議七ヶ条」を示す
・6月 第二次晋州城の戦いで、日本軍、城内の軍民六万を虐殺する
・7月 一時休戦に入る
・8月 日本軍の帰国が相次ぎ、李舜臣、慶尚・全羅・忠清三道水軍統制使となる
・10月 行長と沈惟敬、秀吉の「和議七か条」が理不尽な内容だったので秀吉の降伏文書を勝手に作成する

<1594年(文禄3)>
・3月 秀吉、大坂城を秀頼に与えるため、伏見(桃山)に城を築く
・12月 行長の家臣・内藤如安が、「秀吉の降伏文書」を携えて、北京で明皇帝に拝謁する

<1596年(文禄5/慶長元)>
・9月 大坂城に来た明使の書中に秀吉を日本国王に封じるという言があり、秀吉は大いに怒る
・10月27日 慶長に改元される

<1597年(慶長2)>
・1月 豊臣秀吉秀吉が、諸将に朝鮮再派兵を命ずる
・2月 明も朝鮮へ再派兵する
・7月 漆川梁海戦で、元均が、李舜臣なしで日本水軍に挑む、李舜臣、三道水軍統制使に復帰する
・8月 南原の戦いで、日本軍による、大量殺戮と鼻切りが行われる
・9月 稷山の戦いで、経略・楊鎬の指令により明軍が、首都ソウル(漢城)侵入を企む黒田長政黒田長政・毛利秀元らを迎え撃ち、鳴梁海戦で李舜臣率いる一三隻と藤堂高虎藤堂高虎・脇坂安治脇坂安治ら133隻の戦いが起きる
・12月 蔚山の戦いで、明・朝鮮軍が、蔚山倭城を包囲し、加藤清正加藤清正・浅野幸長ら籠城戦を展開する

<1598年(慶長3)>
・8月18日 秀吉が亡くなる
・10月1日 泗川の戦いで、明軍と島津義弘島津義弘軍が戦う
・10月15日 秀吉の死は秘匿されたまま、五大老による帰国命令が発令される
・11月10日 順天の戦いで、明の劉綖・陳璘と朝鮮の権慄・李舜臣連合軍、陸海から小西行長小西行長の順天倭城を囲み、帰国の退路を押さえる
・11月18日 露梁海戦で、李舜臣と陳璘と島津義弘・立花宗茂立花宗茂・宗義智宗義智水軍が戦う
・11月25日 島津勢の撤退を最後に、7年間にわたる戦争は終結する

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1348年(正平3)楠木正成の子・楠木正行が高師直軍との四条畷の戦いに敗れ自刃(新暦2月4日)詳細
1593年(文禄2)第106代の天皇とされる正親町天皇の命日(新暦2月6日)詳細
1914年(大正3)駿河湾汽船「愛鷹丸」が、強風と波浪により沈没し、死者・行方不明者121人を出す(愛鷹丸沈没事故)詳細
1927年(昭和2)有機化学者向山光昭が誕生日詳細
1963年(昭和38)「三八豪雪」が始まり、日本海側に記録的大雪をもたらす詳細
1974年(昭和49)中国の北京において、「日中貿易協定」が締結(同年6月22日発効)される詳細
1978年(昭和53)陶芸家・人間国宝濱田庄司の命日詳細
1995年(平成7)地球物理学者・歌人和達清夫(筆名:西須諸次)の命日詳細

このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

yoshinonohanami01

 今日は、安土桃山時代の1594年(文禄3)に、豊臣秀吉による吉野の花見が開宴された日ですが、新暦では4月17日となります。
 吉野の花見(よしののはなみ)は、豊臣秀吉により、大和国吉野郡吉野山村(現在の奈良県吉野郡吉野町)で、旧暦2月27日より5日間に、お能の会、歌会、お茶会、仮装行列などが開催された総勢5千人とされる花見の宴でした。太閤秀吉は、1590年(天正18)に全国統一を果たし、1592年(文禄元)には最初の朝鮮出兵、翌年には実子秀頼が誕生して絶頂期にあり、1594年(文禄3)に吉野で大花見会を行うため、4月25日に大坂を出発します。
 武将では、関白秀次、徳川家康、細川幽斎、織田常真(信雄)、宇喜多秀家、小早川秀秋、前田利家、伊達政宗ら、公家では、右大臣・菊亭晴季、大納言・日野輝資ら、そして連歌師の里村紹巴・昌叱ら、茶人たちを伴い、総勢5千人を引き連れてのこととなりました。27日に紀伊六田橋を渡り、市の坂に至り、千本桜や花園、桜田、ぬたの山、かくれがの松などを鑑賞して歌を詠み、正室ねねと共に、「義経千本桜」の舞台となった吉水城(吉水神社)を本陣として滞在します。
 29日には、歌会が催され、詠五首和歌として各人がそれぞれ、「花の願」、「不散花風」、「瀧の上の花」、「神の前の花」、「花の祝」という、五つの題で歌を詠みました。この時の逸話として、「折悪しく、吉野は雨続きで、秀吉が入山してからも三日間雨が降り続いていましたが、苛立った秀吉は、吉野山に火をつけて下山すると言い出し、吉野の全山の僧侶たちが晴天祈願をしたところ雨がやみ、晴れあがり、盛大な花見が行われた。」と伝えられています。
 花見を終えて、太閤秀吉は、3月3日にお供の人々と共に高野山に登り、青巌寺を参拝、一山衆僧を集めて大法要を催し、5日には連歌興行をし、能興行などもした後、7日に下山して、大阪への帰途に就きました。

〇吉野の花見での短歌

<2月27日>
・「吉野山 梢のはなの いろいろに おどろかれぬる 雪のあけぼの」(豊臣秀吉)
・「芳野山 誰とむるとは なけれども こよひもはなの かげにやどらん」(豊臣秀吉)

<2月29日の歌会>
・(花の歌)「いつしかと 思ひをくりし 芳野山の 花をけふしも 見そめぬ哉」(豊臣秀吉)
・(不散花風)「春風の 吹とも花は 且さきて しつ心にし なかめけるかな」(豊臣秀吉)
・(瀧の上の花)「瀧津波 下すいかたの よしのやま 梢の花の さかりなるかな」(豊臣秀吉)
・(神の前の花)「春はなを 神のめくみの 桜はな まふでゝみるや 御芳野の山」(豊臣秀吉)
・(花の祝)「乙女子が 袖ふる山に 千年へて なかめにあかし 花の色香を」(豊臣秀吉)
・「とし月を 心にかけし 吉野山 花の盛りを 今日見つるかな」(豊臣秀吉)
・「いつかはと 思ひ入りにし み吉野の 吉野の花を 今日こそは見れ」(豊臣秀次)
・「君が代は 千年の春も 吉野山 花にちぎりの 限りあらじな」(徳川家康)
・「千早振る 神の恵みに かなひてぞ 今日み吉野の 花を見るかな」(前田利家)
・「君がため 吉野の山の まきの葉の 常磐に花も 色やそはまし」(伊達政宗)

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1754年(宝暦4)江戸幕府の命で薩摩藩が木曾川の治水工事(宝暦治水)に着手(新暦3月20日)詳細
1875年(明治8)日本初の近代的植物園小石川植物園が開園する詳細
1946年(昭和21)GHQより「社会救済に関する覚書」(SCAPIN-775)が出される詳細


このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

baterentsuihourei0

 今日は、安土桃山時代の1587年(天正15)に、豊臣秀吉によって、「バテレン追放令」が出されたとされる日ですが、新暦では7月24日となります。
 「バテレン追放令(ばてれんついほえれい)」は、豊臣秀吉が九州平定後、筑前箱崎(現在の福岡県福岡市東区)で発令した、キリスト教宣教師(バテレン)の国外追放令でした。『松浦家文書』によると、全5ヶ条からなり、日本は神国・仏教国なのでキリスト教が説かれることは不適当であり、宣教師は改宗を強制して仏法を破壊するものであるとして、キリスト教宣教師(バテレン)の20日以内の国外への退去を命じています。
 しかし、貿易は認めたため、当初はあまり励行されなかったとされますが、1596年(慶長元)の宣教師・信者26人の処刑後は厳しくなりました。また、これに関連して、伊勢神宮の神宮文庫所蔵の『御朱印師職古格』の中に6月18日付の11ヶ条の覚書が残されています。
 この追放令によって各地の教会などは没収または破壊されましたが、宣教師は九州各地に潜伏し、布教が続いたとされてきました。1603年(慶長8)の江戸幕府成立後も、徳川政権の禁教令に受け継がれていくこととなります。
 以下に、『松浦家文書』と『御朱印師職古格』の「バテレン追放令」を全文掲載しておきますので、ご参照ください。

〇『伴天連追放令』(松浦家文書)

<原文>​

一、日本ハ神國たる處、きりしたん國より邪法を授候儀、太以不可然候事。
一、其國郡之者を近附、門徒になし、神社佛閣を打破らせ、前代未聞候。國郡在所知行等給人に被下候儀者、當座之事候。天下よりの御法度を相守諸事可得其意處、下々として猥義曲事事。
一、伴天連其智恵之法を以、心さし次第二檀那を持候と被思召候ヘバ、如右日域之佛法を相破事前事候條、伴天連儀日本之地ニハおかせられ間敷候間、今日より廿日之間二用意仕可歸國候。其中に下々伴天連儀に不謂族申懸もの在之ハ、曲事たるへき事。
一、黑船之儀ハ商買之事候間、各別に候之條、年月を經諸事賣買いたすへき事。
一、自今以後佛法のさまたけを不成輩ハ、商人之儀ハ不及申、いつれにてもきりしたん國より往還くるしからす候條、可成其意事。
  已上
   天正十五年六月十九日     朱印

      『松浦家文書』より

<読み下し文>

一、日本ハ神国たる処、きりしたん国[1]より邪法[2]を授け候儀、太だ以て然るべからず候事、
一、其の国郡の者を近付け門徒[3]になし、神社仏閣を打破るの由、前代未聞に候。国郡在所[4]知行等給人に下され候儀者、当座の事[6]に候。天下[7]よりの御法度[8]を相守り、諸事其の意を得べき処[9]、下下として猥の義[10]曲事[11]の事。
一、伴天連[12]、其知恵の法[13]を以て心ざし次第に檀那[14]を持ち候と思し召され候ヘば、右の如く日域の仏法を相破る事曲事[11]に候条、伴天連[12]の儀、日本の地にはおかせられ間敷く候間、今日より廿日の間に用意仕り帰国すべく候。その中に下々伴天連[12]にいわれざる族申し懸くるものこれあらば、曲事[11]たるべき事。
一、黒船[16]の儀は商売の事に候間、各別に候の条、年月を経、諸事売買いたすべき事。
一、自今[17]以後、仏法のさまたげを成さざる輩ハ、商人の儀ハ申すに及ばず、いづれにてもきりしたん国[1]より往還くるしからず候条、其意を成すべき事。
   已上
   天正十五年六月十九日        朱印

  ※漢字を新字に直してあります。

【注釈】

[1]きりしたん国:きりしたんこく=キリスト教国。ここでは、ポルトガルとスペインを指す。
[2]邪法:じゃほう=邪悪な教え。ここでは、キリスト教の教えを指す。
[3]門徒:もんと=信者。
[4]在所:ざいしょ=村。
[5]給人:きゅうにん=主君から知行地を与えられた者。ここでは、大名を指す。
[6]当座の事:とうざのこと=しばらくの間。一時的なこと。
[7]天下:てんか=一国を支配する者。ここでは、豊臣秀吉を指す。
[8]御法度:ごはっと=「法度」を敬っていう語。法令により禁止されている事柄。御禁制。
[9]得べき処:うべきところ=承知しておくこと。
[10]猥の義:みだりのぎ=勝手気ままなさま。ほしいまま。ここでは、大名が勝手に教会へ寄進することなどを指す。
[11]曲事:くせごと=けしからぬこと。
[12]伴天連:ばてれん=キリスト教宣教師の内で、司祭職にあるもの。
[13]其知恵の法:そのちえのほう=教義や科学・医学等の知識。
[14]檀那:だんな=信者。
[15]日域:にちいき=日本国内のこと。
[16]黒船:くろふね=ポルトガルやスペインなどの南蛮船のこと。
[17]自今:じこん=今からのち。以後。今後。

<現代語訳>

一、日本は神国であるから、キリスト教国(ポルトガル・スペイン)より邪法を布教するということは、まったくもってけしからぬこと。
一、その国郡の者を近付けて信者とし、神社仏閣を破却しているとのこと、前代未聞のことである。国郡や村を知行地等として大名に与えているのは、一時的なことである。秀吉公からの法令を守り、諸事その趣旨を承知しておくこと、臣下として勝手に教会へ寄進することなどけしからぬこと。
一、キリスト教宣教師は、その教義や科学・医学等の知識をもって、その心ざし次第で信者を増やしていると思われていたが、右のように国内の仏教を破壊している事はけしからぬこと、キリスト教宣教師については、日本の地には滞在させておくことはできないことであるから、今日より20日の間に用意をして帰国せよ。その中に臣下でキリスト教宣教師ではないと言い張る者がいれば、けしからぬこと。
一、南蛮船については商売の事であるから、特別扱いであり、年月がかかっても、諸々の物を売買するべきこと。
一、今より以後も、仏法の妨害をしない者は、商人については言うに及ばず、誰でもキリスト教国(ポルトガル・スペイン)より往来しても構わない、その趣旨を理解すること。
   以上
   天正15年(1587年)6月19日        朱印

〇『天正十五年六月十八日付覚』(御朱印師職古格)

<原文>

一、伴天連門徒之儀ハ、其者之可為心次第事。
一、国郡在所を御扶持に被遣候を、其知行中之寺庵百姓已下を心ざしも無之所、押而給人伴天連門徒可成由申、理不尽成候段曲事候事。
一、其国郡知行之義、給人被下候事ハ当座之義ニ候、給人ハかはり候といへ共、百姓ハ不替ものニ候條、理不尽之義何かに付て於有之ハ、給人を曲事可被仰出候間、可成其意候事。
一、弐百町ニ三千貫より上之者、伴天連ニ成候に於いてハ、奉得公儀御意次第ニ成可申候事。
一、右の知行より下を取候者ハ、八宗九宗之義候條、其主一人宛ハ心次第可成事。
一、伴天連門徒之儀ハ一向宗よりも外ニ申合候由、被聞召候、一向宗其国郡ニ寺内をして給人へ年貢を不成並加賀一国門徒ニ成候而国主之富樫を追出、一向衆之坊主もとへ令知行、其上越前迄取候而、天下之さはりニ成候儀、無其隠候事。
一、本願寺門徒其坊主、天満ニ寺を立させ、雖免置候、寺内ニ如前々ニは不被仰付事。
一、国郡又ハ在所を持候大名、其家中之者共を伴天連門徒押付成候事ハ、本願寺門徒之寺内を立て候よりも不可然義候間、天下之さわり可成候條、其分別無之者ハ可被加御成敗候事。
一、伴天連門徒心ざし次第ニ下々成候義ハ、八宗九宗之儀候間不苦事。
一、大唐、南蛮、高麗江日本仁を売遣侯事曲事、付、日本ニおゐて人の売買停止の事。
一、牛馬ヲ売買、ころし食事、是又可為曲事事。

右條々堅被停止畢、若違犯之族有之は忽可被処厳科者也、

天正十五年六月十八日     朱印

      『御朱印師職古格』(神宮文庫所蔵文書)より

<読み下し文>

一、伴天連[1]門徒[2]の儀は、其者の心次第[3]たるべき事。
一、国郡在所[4]を御扶持に被遣候を、其知行中之寺庵百姓已下を心ざしも無之所、押而給人伴天連[1]門徒[2]可成由申、理不尽成候段曲事[5]候事。
一、其国郡知行之義、給人[6]ニ下され候事ハ当座之義[7]ニ候、給人[6]ハかはり候といへ共、百姓ハ不替ものニ候條、理不尽之義何かに付てこれ有るに於てハ、給人[6]を曲事[5]に仰出され候べく間、其の意を成さるべく候事。
一、弐百町二三千貫[8]より上の者、伴天連[1]ニ成候に於ゐてハ、公儀の御意[9]を得奉り次第ニ成申すべき事。
一、右の知行より下を取候ハバ、八宗九宗の儀[10]候間、其主一人宛ハ心次第[3]成るべき事。
一、伴天連[1]門徒[2]之儀ハ一向宗[11]よりも外ニ申合候由、聞召され候、一向宗[11]其国郡ニ寺内をして給人[5]へ年貢を成さず並加賀一国門徒[2]ニ成候而国主の富樫[12]を追出、一向衆之坊主もとへ知行を令す、其上越前迄取候而、天下之さはり[13]ニ成候儀、其隠し無され候事。
一、本願寺門徒其坊主、天満ニ寺を立させ[14]、雖免置候、寺内ニ如前々ニは仰付ざる事
一、国郡又は在所[4]を持候大名、其家中の者共、伴天連[1]門徒[2]ニ押付成候事ハ、本願寺門徒の寺内を立し[15]より太然るべからざる義に候間、天下のさわり[13]ニ成るべく候条、其分別[16]これ無き者ハ御成敗[17]を加へらるべく候事。
一、伴天連[1]門徒[2]心ざし次第ニ下々成候義ハ、八宗九宗の儀[10]ニ候間苦しからざる事。
一、大唐[18]、南蛮[19]、高麗[20]え日本仁を売遣候[21]事曲事[7]。付、日本ニおゐて人の売買停止の事。
一、牛馬を売買しころし食事、是又曲事[7]たるべき事。

右の条々、堅く停止せられ畢、若違犯の族これ有らば、忽厳科[22]に処せらるべき者也。

天正十五年六月十八日     朱印

【注釈】

[1]伴天連:ばてれん=キリスト教宣教師の内で、司祭職にあるもの。
[2]門徒:もんと=信者。
[3]心次第:こころしだい=心のまま。自由。
[4]在所:ざいしょ=村。
[5]曲事:くせごと=けしからぬこと。
[6]給人:きゅうにん=主君から知行地を与えられた者。ここでは、大名を指す。
[7]当座之義:とうざのぎ=しばらくの間。一時的なこと。
[8]弐百町二三千貫:にひゃくちょうにさんぜんがん=当時、行地二百町は貫高(銭納換算年貢額)二三千貫に相当した。
[9]公儀の御意:こうざのぎょい=豊臣秀吉の許可。
[10]八宗九宗の儀:はっしゅうきゅうしゅうのぎ=八宗とは南都六宗と天台宗・真言宗、九宗はこれに禅宗を加える。
[11]一向宗:いっこうしゅう=他宗よりつけられた浄土真宗の別称。
[12]国主の富樫:こくしゅのとがし=加賀国の守護大名だった富樫氏のこと。
[13]さわり=障害。
[14]天満ニ寺を立させ:てんまんにてらをたてさせ=現在の大阪府大阪市北区天満にあった浄土真宗の天満本願寺のこと。
[15]本願寺門徒の寺内を立し:ほんがんじもんとのじないをりっし=一向宗徒が寺内町を作ること。
[16]分別:ふんべつ=道理をよくわきまえていること。また、物事の善悪・損得などをよく考えること。
[17]成敗:せいばい=処罰すること。こらしめること。
[18]大唐:だいとう=中国のこと。この場合は、明国。
[19]南蛮:なんばん=ポルトガルとスペインのこと。
[20]高麗:こうらい=朝鮮のこと。
[21]日本仁を売遣候:にほんじんをうりつかわしそうろう=日本人を奴隷として海外に輸出する。
[22]厳科:げんか=きびしい処罰。厳罰。

<現代語訳>

一、キリスト教徒については、その者の心のままであるべきこと。
一、国郡や村を知行地として与えられているのを、その知行地の中の寺庵や百姓以下を心ざしもない中で、大名が無理やりキリスト教徒と成していると聞く、理不尽なことでけしからぬこと。
一、その国郡知行地について、大名に与えられたのは一時的なことであり、大名は交代になると言っても、百姓は代わらないものであるから、理不尽なことが何かに付て有るについては、大名がけしからぬことを仰せ出している間に、その趣旨をくみ取らせてしまうべきこと。
一、弐百町二三千貫より知行地が上の者は、キリスト教徒になるにあたっては、豊臣秀吉の許可を得次第とするべきこと。
一、右の知行地より下の者は、南都六宗と天台宗・真言宗・禅宗と同様に、その主一人ずつの心のままであるべきこと。
一、キリスト教徒については、一向宗以上に申し合わせている旨、聞いてはいるが、一向宗はその国郡に寺内町を形成し、大名へ年貢を出さず、並びに加賀国一向宗徒に至っては、国主の富樫氏を追い出し、一向宗の僧侶の下で知行し、その上越前国まで奪って、豊臣秀吉の支配の障害となっているにつき、それは隠しようがないこと。
一、本願寺門徒その僧侶には、天満本願寺を立てさせ、許しを設けていると言っても、寺内については以前のようには仰せ付けていないこと。
一、国郡や村を知行地とされている大名は、その家中の者達にキリスト教徒としてキリスト教への入信を強制することは、一向宗徒が寺内町を作ることより、はなはだふさわしくないことであり、豊臣秀吉の支配の障害になることであるから、その道理がわきまえられない者は、処罰を加へられるべきこと。
一、キリスト教徒はその者の心のままであるべきこと、臣下については、南都六宗と天台宗・真言宗・禅宗と同様で、かまわないこと。
一、明国、ポルトガル・スぺイン、朝鮮へ日本人を奴隷として海外に輸出することは、けしからぬこと。付属、日本において人の売買は差し止めること。
一、牛馬を売買し、殺して食すること、これまたけしからぬことであること。

右の条項、堅く差し止めさせること、もし違犯するものがあれば、たちまち厳罰に処せらるべきものである。

天正15年(1587年)6月18日   朱印

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1666年(寛文6)伊万里焼の陶工初代酒井田柿右衛門の命日(新暦7月20日)詳細
1909年(明治42)小説家太宰治の誕生日ならびに遺体の発見された日(桜桃忌)詳細
1954年(昭和29)名古屋テレビ塔が竣工する詳細
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

26seijin2

 今日は、安土桃山時代の慶長元年に、豊臣秀吉の命で26人のカトリック信者が長崎で磔刑に処された日(日本二十六聖人の殉教の日)ですが、新暦では1597年2月5日となります。
 日本二十六聖人(にほんにじゅうろくせいじん)は、豊臣秀吉の命令によって長崎で磔の刑に処された宣教師6人と日本人信者20人のカトリック信者のことでした。日本でキリスト教の信仰を理由に最高権力者の指令による処刑が行われたのはこれが初めてです。
 豊臣秀吉は、1587年(天正15)に「バテレン追放令」を出し、多くの宣教師、信徒が捕えられました。そして、1596年(慶長元)に土佐国浦戸(現在の高知県高知市)に漂着したスペイン船サン・フェリペ号の事件が直接の契機となり、西ヨーロッパ諸国の侵略を疑った豊臣秀吉が京都や大坂でキリシタンを逮捕します。
 その中で、フランチェスコ会宣教師6人と日本人信徒17人、日本人イエズス会士3人の計26人を長崎に送り、同年12月19日に十字架上に処刑しました。この出来事を「二十六聖人の殉教」といい、26人は後にカトリック教会によって聖人の列に加えられたため、彼らは「日本二十六聖人」と呼ばれることになります。
 尚、1962年(昭和37)に日本二十六聖人の列聖100周年を記念して、この長崎の地に「日本二十六聖人記念館」がカトリック教会によって設立されました。記念館の前には日本二十六聖人記念碑が建っていて、舟越保武による二十六聖人のレリーフが制作されています。

〇日本二十六聖人の一覧

・フランシスコ吉(日本人)フランシスコ会員の世話をするため、一行に付き添い、道中で捕縛された。
・コスメ竹屋(日本人・38歳)大坂で捕縛される。
・ペトロ助四郎(日本人)イエズス会員の世話をするため一行に付き添い、道中で捕縛された。
・ミカエル小崎(日本人・46歳)京都で捕縛。トマス小崎の父。
・ディエゴ喜斎(日本人・64歳)大坂で捕縛。
・パウロ三木(日本人・33歳)大坂で捕縛。イエズス会員。
・パウロ茨木(日本人・54歳)京都で捕縛。レオ烏丸の兄。
・五島のヨハネ草庵(日本人・19歳)大坂で捕縛、イエズス会員。
・ルドビコ茨木(日本人・12歳)最年少。京都で捕縛。
・長崎のアントニオ(日本人・13歳)京都で捕縛。父は中国人、母は日本人。
・ペトロ・バウチスタ(スペイン人・48歳)京都で捕縛。フランシスコ会司祭。
・マルチノ・デ・ラ・アセンシオン(スペイン人・30歳)大坂で捕縛。フランシスコ会司祭。
・フェリペ・デ・ヘスス(メキシコ人・24歳)京都で捕縛。フランシスコ会修道士。メキシコの初聖人(列聖順)。
・ゴンザロ・ガルシア(ポルトガル人・40歳)京都で捕縛。フランシスコ会修道士。
・フランシスコ・ブランコ(スペイン人・28歳)京都で捕縛。フランシスコ会司祭。
・フランシスコ・デ・サン・ミゲル(スペイン人・53歳)京都で捕縛。フランシスコ会修道士。
・マチアス(日本人)京都で捕縛。
・レオ烏丸(日本人・48歳)京都で捕縛。パウロ茨木の弟。ルドビコ茨木のおじ。
・ボナベントゥラ(日本人)京都で捕縛。
・トマス小崎(日本人・14歳)大坂で捕縛。ミカエル小崎の子。
・ヨアキム榊原(日本人・40歳)大坂で捕縛。
・医者のフランシスコ(日本人・46歳)京都で捕縛。
・トマス談義者(日本人・36歳)京都で捕縛。
・絹屋のヨハネ(日本人・28歳)京都で捕縛。
・ガブリエル(日本人・19歳)京都で捕縛。
・パウロ鈴木(日本人・49歳)京都で捕縛。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1876年(明治9)三重県飯野郡の農民が一揆(伊勢暴動)を起こす詳細
1941年(昭和16)言論・出版・集会・結社等臨時取締法」が公布される詳細
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

イメージ 1

 今日は、安土桃山時代の1598年(慶長3)に、武将・大名・天下人豊臣秀吉が亡くなった日ですが、新暦では9月18日となります。
 豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)は、1537年(天文6)に、尾張国愛知郡中村(現在の名古屋市中村区)の百姓で織田信秀の足軽だった父・木下弥右衛門、母・なか(天瑞院)の子として生まれましたが、幼名は日吉丸と言いました。7歳のときに父を亡くし、母は秀吉と姉ひとりを抱え信秀の同朋衆竹阿弥と再婚します。
 1551年(天文20)元服に当たり父の遺産永楽銭1貫文をもって家出、行商ののち、今川氏の家臣松下之綱、次いで1554年(天文23)18歳のとき、尾張清洲城主であった織田信長に小者として仕えました。1561年(永禄4)に浅野長勝の養女おね(杉原定利の女)と結婚し、木下藤吉郎秀吉と名乗るようになります。
 清洲城普請、墨俣築城、京都警備などで活躍し、1570年(元亀元)の姉川の戦い、小谷城の攻略などで戦功を上げました。1573年(天正元)には、羽柴藤吉郎秀吉と名のり、浅井氏の居城・旧領北近江3郡を与えられ、12万石の大名となって、近江長浜に築城します。
 1577年(天正5)に中国征伐の将として毛利氏と対戦しますが、1582年(天正10)に信長が明智光秀のために本能寺の変で横死すると、山崎の戦いで明智光秀を破り、次いで柴田勝家を倒して、信長の後継者としての地位を獲得しました。1583年(天正11)に大坂城を築城、四国・九州を征し、徳川家康を臣従させ、1590年(天正18)には小田原北条氏を滅ぼして天下統一を完成します。
 この間、1585年(天正13)に関白、翌年に太政大臣となり、豊臣の姓を賜りました。1591年(天正19)には関白を養子秀次に譲り太閤と称し、1592年(文禄元)と1597年(慶長2)の2度朝鮮に出兵しますが失敗します。
 貨幣統一、兵農分離、太閤検地、石高制等の施行によって幕藩体制の基礎をつくったとされますが、1598年(慶長3年8月18日)に伏見城において、数え年63歳で亡くなりました。

〇豊臣秀吉関係略年表(日付は旧暦です)

・1537年(天文6年正月元日?) 尾張国愛知郡中村で織田信長の足軽木下弥右衛門の子として生まれる
・1543年(天文12年) 秀吉7歳のとき、父弥右衛門が病死する
・1551年(天文20年) 元服に当たり父の遺産永楽銭1貫文をもって家出する
・1554年(天文23年) 18歳のとき、尾張清洲の城主であった織田信長に小者として仕えた
・1561年(永禄4年) 弓の衆浅野長勝の養女おね(杉原定利の女)と結婚し、木下藤吉郎秀吉と名乗る
・1566年(永禄9年) 濃尾国境に位置する墨俣(岐阜県大垣市)に築城し、美濃攻略の拠点を確保した功により部将に取り立てられる
・1568年(永禄11年9月) 信長が足利義昭を擁して上洛すると、京都の奉行の一人として活動する
・1570年(元亀元年) 姉川の戦い、小谷城の攻略などで戦功をたてる
・1573年(天正元年7月) 木下を改め羽柴 藤吉郎秀吉と名のる
・1573年(天正元年8月) 浅井氏の居城・旧領北近江3郡を与えられ、12万石の大名となる
・1575年(天正3年) 越前一向一揆攻めで活躍する
・1575年(天正3年12月) 筑前守に任じられる
・1577年(天正5年) 播磨に出陣して姫路城に本拠を置く
・1582年(天正10年) 備中に出兵し、清水宗治の拠る高松城に迫って水攻めにする
・1582年(天正10年6月2日) 信長が明智光秀のために本能寺の変で横死する
・1582年(天正10年6月13日) 光秀を山崎の戦いで破る
・1582年(天正10年6月27日) 清須会議が行われる
・1583年(天正11年) 秀吉打倒を策する信長の三男信孝、滝川一益に対し、美濃・伊勢に出兵して攻める
・1583年(天正11年) 柴田勝家を賤ヶ岳の戦いで破り、越前に攻め入って北庄城の柴田氏を滅ぼす
・1583年(天正11年) 滝川一益を降して尾張・伊勢を支配下に入れる
・1584年(天正12年) 信雄・徳川家康の連合軍と小牧・長久手の戦いをする
・1584年(天正12年11月) 従三位・権大納言となる
・1585年(天正13年) 信雄・家康に呼応して蜂起した紀伊根来・雑賀の一揆を討伐する
・1585年(天正13年) 四国征伐を行って長宗我部氏を降す
・1585年(天正13年3月) 正二位・内大臣となる
・1585年(天正13年) 徳川家康に対しては、実妹(旭姫)を嫁がせる
・1585年(天正13年7月) 近衛龍山の猶子として関白・従一位となる
・1586年(天正14年) 徳川家康を臣従させる
・1586年(天正14年12月) 太政大臣となり、豊臣の姓を賜る
・1587年(天正15年) 九州征伐を行って島津氏を降し、九州の国割りを行うとともに、博多・長崎を直轄化する
・1587年(天正15年) キリシタン禁令を発する
・1587年(天正15年9月13日) 聚楽第が完成する
・1587年(天正15年10月1日) 茶頭千利休の演出のもとで、庶民を集めて北野大茶湯を催す
・1588年(天正16年) 聚楽第に後陽成天皇の行幸を仰ぐ
・1590年(天正18年) 小田原征伐を行って北条氏を滅ぼし、さらに奥州を平定して、天下統一を成し遂げる
・1591年(天正19年) 側室淀殿との間にもうけた愛児鶴丸を喪う
・1591年(天正19年8月) 関白職を甥の秀次に譲り、自らは太閤と称する
・1591年(天正19年) 全国に御前帳を作成して提出することを命じて、国ごとの石高の把握する
・1592年(文禄元年) 関白秀次により人掃令が出され、全国の家数・人数の調査が行われる
・1592年(文禄元年) 諸大名に朝鮮出兵の軍令を下して征明軍16万人を編成し、自らも肥前名護屋の本陣に赴き、総指揮にあたる(文禄の役)
・1593年(文禄2年) 側室淀殿に実子秀頼が生まれる
・1594年(文禄3年8月) 伏見城が完成し、秀吉が入城する 
・1595年(文禄4年7月) 秀次を謀反人として切腹せしめ、妻妾子女悉くを処刑する
・1597年(慶長2年) ふたたび朝鮮出兵となる(慶長の役)
・1598年(慶長3年) 醍醐の花見を行なう
・1598年(慶長3年8月5日) 五大老に幼い秀頼の将来のことを訴えた遺言状を認める
・1598年(慶長3年8月18日) 伏見城において、数え年63歳で亡くなる
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

↑このページのトップヘ