
そこで、1592年(天正20年1月5日)に、秀吉が、朝鮮を経て、明国への出兵指令を諸大名に下します。同年3月、肥前名護屋を本営として小西行長・加藤清正・小早川隆景ら15万余の大軍を渡海させ、漢城(現在のソウル)を陥落させ、さらに北上して、碧蹄館の戦で明軍を破りました。
しかし、明の援軍と朝鮮義兵の抵抗により戦局は膠着し、同年4月に、竜山停戦協定の成立に伴い撤退します。秀吉は、同年6月に明帝の娘を后妃に迎えること、勘合船を復活すること、朝鮮を割譲することなどの「和議七か条」を講和条件として決定させましたが、遵守されないで終わりました。
そこで、1597~98年(慶長2~3年)の慶長の役が起こることとなります。
1587年(天正15)に、秀吉は、対馬の宗氏を通じて、朝鮮に対し入貢と明出兵の先導を求めるものの、朝鮮側は拒否をします。そこで、1592年(天正20年1月5日)に、秀吉が、朝鮮を経て、明国への出兵指令を諸大名に下しました。
同年3月、肥前名護屋を本営として小西行長・加藤清正・小早川隆景ら15万余の大軍を渡海させ、漢城(現在のソウル)を陥落させ、さらに北上して、碧蹄館の戦で明軍を破ります。しかし、明の援軍と朝鮮義兵の抵抗により戦局は膠着し、同年4月に、竜山停戦協定の成立に伴い撤退しました。
秀吉は、同年6月に明帝の娘を后妃に迎えること、勘合船を復活すること、朝鮮を割譲することなどの「和議七か条」を講和条件として決定させましたが、遵守されないで終わります。1596年(慶長元)に、大坂城に来た明使の書中に秀吉を日本国王に封じるという言があり、秀吉は大いに怒って、翌年に、和議を破って、再度の出兵を命じ、慶長の役が始まりました。
14万の軍兵をもって再征しましたが、明軍の出動と朝鮮民衆の抵抗に苦しみ、水軍を率いた李舜臣の活躍などもあって苦戦が続きます。1598年(慶長3年8月)の秀吉の死により、停戦協定が結ばれ、同年11月の島津勢の撤退を最後に、7年間にわたる戦争は終結しました。
これによって、戦場となった朝鮮では耕地が3分の1に減少し、人口の減少や文化財の略奪がみられ、朝鮮を援助した明の国力も衰え、明朝衰退の一因ともなります。日本では、豊臣政権の崩壊が進んだものの、文化的には、強制連行された多数の朝鮮人により印刷・陶業の新技術が発達し、多くの典籍ももたらされました。
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