ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:豊臣秀吉

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 今日は、安土桃山時代の1594年(文禄3)に、豊臣秀吉による吉野の花見が開宴された日ですが、新暦では4月17日となります。
 吉野の花見(よしののはなみ)は、豊臣秀吉により、大和国吉野郡吉野山村(現在の奈良県吉野郡吉野町)で、旧暦2月27日より5日間に、お能の会、歌会、お茶会、仮装行列などが開催された総勢5千人とされる花見の宴でした。太閤秀吉は、1590年(天正18)に全国統一を果たし、1592年(文禄元)には最初の朝鮮出兵、翌年には実子秀頼が誕生して絶頂期にあり、1594年(文禄3)に吉野で大花見会を行うため、4月25日に大坂を出発します。
 武将では、関白秀次、徳川家康、細川幽斎、織田常真(信雄)、宇喜多秀家、小早川秀秋、前田利家、伊達政宗ら、公家では、右大臣・菊亭晴季、大納言・日野輝資ら、そして連歌師の里村紹巴・昌叱ら、茶人たちを伴い、総勢5千人を引き連れてのこととなりました。27日に紀伊六田橋を渡り、市の坂に至り、千本桜や花園、桜田、ぬたの山、かくれがの松などを鑑賞して歌を詠み、正室ねねと共に、「義経千本桜」の舞台となった吉水城(吉水神社)を本陣として滞在します。
 29日には、歌会が催され、詠五首和歌として各人がそれぞれ、「花の願」、「不散花風」、「瀧の上の花」、「神の前の花」、「花の祝」という、五つの題で歌を詠みました。この時の逸話として、「折悪しく、吉野は雨続きで、秀吉が入山してからも三日間雨が降り続いていましたが、苛立った秀吉は、吉野山に火をつけて下山すると言い出し、吉野の全山の僧侶たちが晴天祈願をしたところ雨がやみ、晴れあがり、盛大な花見が行われた。」と伝えられています。
 花見を終えて、太閤秀吉は、3月3日にお供の人々と共に高野山に登り、青巌寺を参拝、一山衆僧を集めて大法要を催し、5日には連歌興行をし、能興行などもした後、7日に下山して、大阪への帰途に就きました。

〇吉野の花見での短歌

<2月27日>
・「吉野山 梢のはなの いろいろに おどろかれぬる 雪のあけぼの」(豊臣秀吉)
・「芳野山 誰とむるとは なけれども こよひもはなの かげにやどらん」(豊臣秀吉)

<2月29日の歌会>
・(花の歌)「いつしかと 思ひをくりし 芳野山の 花をけふしも 見そめぬ哉」(豊臣秀吉)
・(不散花風)「春風の 吹とも花は 且さきて しつ心にし なかめけるかな」(豊臣秀吉)
・(瀧の上の花)「瀧津波 下すいかたの よしのやま 梢の花の さかりなるかな」(豊臣秀吉)
・(神の前の花)「春はなを 神のめくみの 桜はな まふでゝみるや 御芳野の山」(豊臣秀吉)
・(花の祝)「乙女子が 袖ふる山に 千年へて なかめにあかし 花の色香を」(豊臣秀吉)
・「とし月を 心にかけし 吉野山 花の盛りを 今日見つるかな」(豊臣秀吉)
・「いつかはと 思ひ入りにし み吉野の 吉野の花を 今日こそは見れ」(豊臣秀次)
・「君が代は 千年の春も 吉野山 花にちぎりの 限りあらじな」(徳川家康)
・「千早振る 神の恵みに かなひてぞ 今日み吉野の 花を見るかな」(前田利家)
・「君がため 吉野の山の まきの葉の 常磐に花も 色やそはまし」(伊達政宗)

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1754年(宝暦4)江戸幕府の命で薩摩藩が木曾川の治水工事(宝暦治水)に着手(新暦3月20日)詳細
1875年(明治8)日本初の近代的植物園小石川植物園が開園する詳細
1946年(昭和21)GHQより「社会救済に関する覚書」(SCAPIN-775)が出される詳細


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 今日は、安土桃山時代の1587年(天正15)に、豊臣秀吉によって、「バテレン追放令」が出されたとされる日ですが、新暦では7月24日となります。
 「バテレン追放令(ばてれんついほえれい)」は、豊臣秀吉が九州平定後、筑前箱崎(現在の福岡県福岡市東区)で発令した、キリスト教宣教師(バテレン)の国外追放令でした。『松浦家文書』によると、全5ヶ条からなり、日本は神国・仏教国なのでキリスト教が説かれることは不適当であり、宣教師は改宗を強制して仏法を破壊するものであるとして、キリスト教宣教師(バテレン)の20日以内の国外への退去を命じています。
 しかし、貿易は認めたため、当初はあまり励行されなかったとされますが、1596年(慶長元)の宣教師・信者26人の処刑後は厳しくなりました。また、これに関連して、伊勢神宮の神宮文庫所蔵の『御朱印師職古格』の中に6月18日付の11ヶ条の覚書が残されています。
 この追放令によって各地の教会などは没収または破壊されましたが、宣教師は九州各地に潜伏し、布教が続いたとされてきました。1603年(慶長8)の江戸幕府成立後も、徳川政権の禁教令に受け継がれていくこととなります。
 以下に、『松浦家文書』と『御朱印師職古格』の「バテレン追放令」を全文掲載しておきますので、ご参照ください。

〇『伴天連追放令』(松浦家文書)

<原文>​

一、日本ハ神國たる處、きりしたん國より邪法を授候儀、太以不可然候事。
一、其國郡之者を近附、門徒になし、神社佛閣を打破らせ、前代未聞候。國郡在所知行等給人に被下候儀者、當座之事候。天下よりの御法度を相守諸事可得其意處、下々として猥義曲事事。
一、伴天連其智恵之法を以、心さし次第二檀那を持候と被思召候ヘバ、如右日域之佛法を相破事前事候條、伴天連儀日本之地ニハおかせられ間敷候間、今日より廿日之間二用意仕可歸國候。其中に下々伴天連儀に不謂族申懸もの在之ハ、曲事たるへき事。
一、黑船之儀ハ商買之事候間、各別に候之條、年月を經諸事賣買いたすへき事。
一、自今以後佛法のさまたけを不成輩ハ、商人之儀ハ不及申、いつれにてもきりしたん國より往還くるしからす候條、可成其意事。
  已上
   天正十五年六月十九日     朱印

      『松浦家文書』より

<読み下し文>

一、日本ハ神国たる処、きりしたん国[1]より邪法[2]を授け候儀、太だ以て然るべからず候事、
一、其の国郡の者を近付け門徒[3]になし、神社仏閣を打破るの由、前代未聞に候。国郡在所[4]知行等給人に下され候儀者、当座の事[6]に候。天下[7]よりの御法度[8]を相守り、諸事其の意を得べき処[9]、下下として猥の義[10]曲事[11]の事。
一、伴天連[12]、其知恵の法[13]を以て心ざし次第に檀那[14]を持ち候と思し召され候ヘば、右の如く日域の仏法を相破る事曲事[11]に候条、伴天連[12]の儀、日本の地にはおかせられ間敷く候間、今日より廿日の間に用意仕り帰国すべく候。その中に下々伴天連[12]にいわれざる族申し懸くるものこれあらば、曲事[11]たるべき事。
一、黒船[16]の儀は商売の事に候間、各別に候の条、年月を経、諸事売買いたすべき事。
一、自今[17]以後、仏法のさまたげを成さざる輩ハ、商人の儀ハ申すに及ばず、いづれにてもきりしたん国[1]より往還くるしからず候条、其意を成すべき事。
   已上
   天正十五年六月十九日        朱印

  ※漢字を新字に直してあります。

【注釈】

[1]きりしたん国:きりしたんこく=キリスト教国。ここでは、ポルトガルとスペインを指す。
[2]邪法:じゃほう=邪悪な教え。ここでは、キリスト教の教えを指す。
[3]門徒:もんと=信者。
[4]在所:ざいしょ=村。
[5]給人:きゅうにん=主君から知行地を与えられた者。ここでは、大名を指す。
[6]当座の事:とうざのこと=しばらくの間。一時的なこと。
[7]天下:てんか=一国を支配する者。ここでは、豊臣秀吉を指す。
[8]御法度:ごはっと=「法度」を敬っていう語。法令により禁止されている事柄。御禁制。
[9]得べき処:うべきところ=承知しておくこと。
[10]猥の義:みだりのぎ=勝手気ままなさま。ほしいまま。ここでは、大名が勝手に教会へ寄進することなどを指す。
[11]曲事:くせごと=けしからぬこと。
[12]伴天連:ばてれん=キリスト教宣教師の内で、司祭職にあるもの。
[13]其知恵の法:そのちえのほう=教義や科学・医学等の知識。
[14]檀那:だんな=信者。
[15]日域:にちいき=日本国内のこと。
[16]黒船:くろふね=ポルトガルやスペインなどの南蛮船のこと。
[17]自今:じこん=今からのち。以後。今後。

<現代語訳>

一、日本は神国であるから、キリスト教国(ポルトガル・スペイン)より邪法を布教するということは、まったくもってけしからぬこと。
一、その国郡の者を近付けて信者とし、神社仏閣を破却しているとのこと、前代未聞のことである。国郡や村を知行地等として大名に与えているのは、一時的なことである。秀吉公からの法令を守り、諸事その趣旨を承知しておくこと、臣下として勝手に教会へ寄進することなどけしからぬこと。
一、キリスト教宣教師は、その教義や科学・医学等の知識をもって、その心ざし次第で信者を増やしていると思われていたが、右のように国内の仏教を破壊している事はけしからぬこと、キリスト教宣教師については、日本の地には滞在させておくことはできないことであるから、今日より20日の間に用意をして帰国せよ。その中に臣下でキリスト教宣教師ではないと言い張る者がいれば、けしからぬこと。
一、南蛮船については商売の事であるから、特別扱いであり、年月がかかっても、諸々の物を売買するべきこと。
一、今より以後も、仏法の妨害をしない者は、商人については言うに及ばず、誰でもキリスト教国(ポルトガル・スペイン)より往来しても構わない、その趣旨を理解すること。
   以上
   天正15年(1587年)6月19日        朱印

〇『天正十五年六月十八日付覚』(御朱印師職古格)

<原文>

一、伴天連門徒之儀ハ、其者之可為心次第事。
一、国郡在所を御扶持に被遣候を、其知行中之寺庵百姓已下を心ざしも無之所、押而給人伴天連門徒可成由申、理不尽成候段曲事候事。
一、其国郡知行之義、給人被下候事ハ当座之義ニ候、給人ハかはり候といへ共、百姓ハ不替ものニ候條、理不尽之義何かに付て於有之ハ、給人を曲事可被仰出候間、可成其意候事。
一、弐百町ニ三千貫より上之者、伴天連ニ成候に於いてハ、奉得公儀御意次第ニ成可申候事。
一、右の知行より下を取候者ハ、八宗九宗之義候條、其主一人宛ハ心次第可成事。
一、伴天連門徒之儀ハ一向宗よりも外ニ申合候由、被聞召候、一向宗其国郡ニ寺内をして給人へ年貢を不成並加賀一国門徒ニ成候而国主之富樫を追出、一向衆之坊主もとへ令知行、其上越前迄取候而、天下之さはりニ成候儀、無其隠候事。
一、本願寺門徒其坊主、天満ニ寺を立させ、雖免置候、寺内ニ如前々ニは不被仰付事。
一、国郡又ハ在所を持候大名、其家中之者共を伴天連門徒押付成候事ハ、本願寺門徒之寺内を立て候よりも不可然義候間、天下之さわり可成候條、其分別無之者ハ可被加御成敗候事。
一、伴天連門徒心ざし次第ニ下々成候義ハ、八宗九宗之儀候間不苦事。
一、大唐、南蛮、高麗江日本仁を売遣侯事曲事、付、日本ニおゐて人の売買停止の事。
一、牛馬ヲ売買、ころし食事、是又可為曲事事。

右條々堅被停止畢、若違犯之族有之は忽可被処厳科者也、

天正十五年六月十八日     朱印

      『御朱印師職古格』(神宮文庫所蔵文書)より

<読み下し文>

一、伴天連[1]門徒[2]の儀は、其者の心次第[3]たるべき事。
一、国郡在所[4]を御扶持に被遣候を、其知行中之寺庵百姓已下を心ざしも無之所、押而給人伴天連[1]門徒[2]可成由申、理不尽成候段曲事[5]候事。
一、其国郡知行之義、給人[6]ニ下され候事ハ当座之義[7]ニ候、給人[6]ハかはり候といへ共、百姓ハ不替ものニ候條、理不尽之義何かに付てこれ有るに於てハ、給人[6]を曲事[5]に仰出され候べく間、其の意を成さるべく候事。
一、弐百町二三千貫[8]より上の者、伴天連[1]ニ成候に於ゐてハ、公儀の御意[9]を得奉り次第ニ成申すべき事。
一、右の知行より下を取候ハバ、八宗九宗の儀[10]候間、其主一人宛ハ心次第[3]成るべき事。
一、伴天連[1]門徒[2]之儀ハ一向宗[11]よりも外ニ申合候由、聞召され候、一向宗[11]其国郡ニ寺内をして給人[5]へ年貢を成さず並加賀一国門徒[2]ニ成候而国主の富樫[12]を追出、一向衆之坊主もとへ知行を令す、其上越前迄取候而、天下之さはり[13]ニ成候儀、其隠し無され候事。
一、本願寺門徒其坊主、天満ニ寺を立させ[14]、雖免置候、寺内ニ如前々ニは仰付ざる事
一、国郡又は在所[4]を持候大名、其家中の者共、伴天連[1]門徒[2]ニ押付成候事ハ、本願寺門徒の寺内を立し[15]より太然るべからざる義に候間、天下のさわり[13]ニ成るべく候条、其分別[16]これ無き者ハ御成敗[17]を加へらるべく候事。
一、伴天連[1]門徒[2]心ざし次第ニ下々成候義ハ、八宗九宗の儀[10]ニ候間苦しからざる事。
一、大唐[18]、南蛮[19]、高麗[20]え日本仁を売遣候[21]事曲事[7]。付、日本ニおゐて人の売買停止の事。
一、牛馬を売買しころし食事、是又曲事[7]たるべき事。

右の条々、堅く停止せられ畢、若違犯の族これ有らば、忽厳科[22]に処せらるべき者也。

天正十五年六月十八日     朱印

【注釈】

[1]伴天連:ばてれん=キリスト教宣教師の内で、司祭職にあるもの。
[2]門徒:もんと=信者。
[3]心次第:こころしだい=心のまま。自由。
[4]在所:ざいしょ=村。
[5]曲事:くせごと=けしからぬこと。
[6]給人:きゅうにん=主君から知行地を与えられた者。ここでは、大名を指す。
[7]当座之義:とうざのぎ=しばらくの間。一時的なこと。
[8]弐百町二三千貫:にひゃくちょうにさんぜんがん=当時、行地二百町は貫高(銭納換算年貢額)二三千貫に相当した。
[9]公儀の御意:こうざのぎょい=豊臣秀吉の許可。
[10]八宗九宗の儀:はっしゅうきゅうしゅうのぎ=八宗とは南都六宗と天台宗・真言宗、九宗はこれに禅宗を加える。
[11]一向宗:いっこうしゅう=他宗よりつけられた浄土真宗の別称。
[12]国主の富樫:こくしゅのとがし=加賀国の守護大名だった富樫氏のこと。
[13]さわり=障害。
[14]天満ニ寺を立させ:てんまんにてらをたてさせ=現在の大阪府大阪市北区天満にあった浄土真宗の天満本願寺のこと。
[15]本願寺門徒の寺内を立し:ほんがんじもんとのじないをりっし=一向宗徒が寺内町を作ること。
[16]分別:ふんべつ=道理をよくわきまえていること。また、物事の善悪・損得などをよく考えること。
[17]成敗:せいばい=処罰すること。こらしめること。
[18]大唐:だいとう=中国のこと。この場合は、明国。
[19]南蛮:なんばん=ポルトガルとスペインのこと。
[20]高麗:こうらい=朝鮮のこと。
[21]日本仁を売遣候:にほんじんをうりつかわしそうろう=日本人を奴隷として海外に輸出する。
[22]厳科:げんか=きびしい処罰。厳罰。

<現代語訳>

一、キリスト教徒については、その者の心のままであるべきこと。
一、国郡や村を知行地として与えられているのを、その知行地の中の寺庵や百姓以下を心ざしもない中で、大名が無理やりキリスト教徒と成していると聞く、理不尽なことでけしからぬこと。
一、その国郡知行地について、大名に与えられたのは一時的なことであり、大名は交代になると言っても、百姓は代わらないものであるから、理不尽なことが何かに付て有るについては、大名がけしからぬことを仰せ出している間に、その趣旨をくみ取らせてしまうべきこと。
一、弐百町二三千貫より知行地が上の者は、キリスト教徒になるにあたっては、豊臣秀吉の許可を得次第とするべきこと。
一、右の知行地より下の者は、南都六宗と天台宗・真言宗・禅宗と同様に、その主一人ずつの心のままであるべきこと。
一、キリスト教徒については、一向宗以上に申し合わせている旨、聞いてはいるが、一向宗はその国郡に寺内町を形成し、大名へ年貢を出さず、並びに加賀国一向宗徒に至っては、国主の富樫氏を追い出し、一向宗の僧侶の下で知行し、その上越前国まで奪って、豊臣秀吉の支配の障害となっているにつき、それは隠しようがないこと。
一、本願寺門徒その僧侶には、天満本願寺を立てさせ、許しを設けていると言っても、寺内については以前のようには仰せ付けていないこと。
一、国郡や村を知行地とされている大名は、その家中の者達にキリスト教徒としてキリスト教への入信を強制することは、一向宗徒が寺内町を作ることより、はなはだふさわしくないことであり、豊臣秀吉の支配の障害になることであるから、その道理がわきまえられない者は、処罰を加へられるべきこと。
一、キリスト教徒はその者の心のままであるべきこと、臣下については、南都六宗と天台宗・真言宗・禅宗と同様で、かまわないこと。
一、明国、ポルトガル・スぺイン、朝鮮へ日本人を奴隷として海外に輸出することは、けしからぬこと。付属、日本において人の売買は差し止めること。
一、牛馬を売買し、殺して食すること、これまたけしからぬことであること。

右の条項、堅く差し止めさせること、もし違犯するものがあれば、たちまち厳罰に処せらるべきものである。

天正15年(1587年)6月18日   朱印

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 今日は、安土桃山時代の慶長元年に、豊臣秀吉の命で26人のカトリック信者が長崎で磔刑に処された日(日本二十六聖人の殉教の日)ですが、新暦では1597年2月5日となります。
 日本二十六聖人(にほんにじゅうろくせいじん)は、豊臣秀吉の命令によって長崎で磔の刑に処された宣教師6人と日本人信者20人のカトリック信者のことでした。日本でキリスト教の信仰を理由に最高権力者の指令による処刑が行われたのはこれが初めてです。
 豊臣秀吉は、1587年(天正15)に「バテレン追放令」を出し、多くの宣教師、信徒が捕えられました。そして、1596年(慶長元)に土佐国浦戸(現在の高知県高知市)に漂着したスペイン船サン・フェリペ号の事件が直接の契機となり、西ヨーロッパ諸国の侵略を疑った豊臣秀吉が京都や大坂でキリシタンを逮捕します。
 その中で、フランチェスコ会宣教師6人と日本人信徒17人、日本人イエズス会士3人の計26人を長崎に送り、同年12月19日に十字架上に処刑しました。この出来事を「二十六聖人の殉教」といい、26人は後にカトリック教会によって聖人の列に加えられたため、彼らは「日本二十六聖人」と呼ばれることになります。
 尚、1962年(昭和37)に日本二十六聖人の列聖100周年を記念して、この長崎の地に「日本二十六聖人記念館」がカトリック教会によって設立されました。記念館の前には日本二十六聖人記念碑が建っていて、舟越保武による二十六聖人のレリーフが制作されています。

〇日本二十六聖人の一覧

・フランシスコ吉(日本人)フランシスコ会員の世話をするため、一行に付き添い、道中で捕縛された。
・コスメ竹屋(日本人・38歳)大坂で捕縛される。
・ペトロ助四郎(日本人)イエズス会員の世話をするため一行に付き添い、道中で捕縛された。
・ミカエル小崎(日本人・46歳)京都で捕縛。トマス小崎の父。
・ディエゴ喜斎(日本人・64歳)大坂で捕縛。
・パウロ三木(日本人・33歳)大坂で捕縛。イエズス会員。
・パウロ茨木(日本人・54歳)京都で捕縛。レオ烏丸の兄。
・五島のヨハネ草庵(日本人・19歳)大坂で捕縛、イエズス会員。
・ルドビコ茨木(日本人・12歳)最年少。京都で捕縛。
・長崎のアントニオ(日本人・13歳)京都で捕縛。父は中国人、母は日本人。
・ペトロ・バウチスタ(スペイン人・48歳)京都で捕縛。フランシスコ会司祭。
・マルチノ・デ・ラ・アセンシオン(スペイン人・30歳)大坂で捕縛。フランシスコ会司祭。
・フェリペ・デ・ヘスス(メキシコ人・24歳)京都で捕縛。フランシスコ会修道士。メキシコの初聖人(列聖順)。
・ゴンザロ・ガルシア(ポルトガル人・40歳)京都で捕縛。フランシスコ会修道士。
・フランシスコ・ブランコ(スペイン人・28歳)京都で捕縛。フランシスコ会司祭。
・フランシスコ・デ・サン・ミゲル(スペイン人・53歳)京都で捕縛。フランシスコ会修道士。
・マチアス(日本人)京都で捕縛。
・レオ烏丸(日本人・48歳)京都で捕縛。パウロ茨木の弟。ルドビコ茨木のおじ。
・ボナベントゥラ(日本人)京都で捕縛。
・トマス小崎(日本人・14歳)大坂で捕縛。ミカエル小崎の子。
・ヨアキム榊原(日本人・40歳)大坂で捕縛。
・医者のフランシスコ(日本人・46歳)京都で捕縛。
・トマス談義者(日本人・36歳)京都で捕縛。
・絹屋のヨハネ(日本人・28歳)京都で捕縛。
・ガブリエル(日本人・19歳)京都で捕縛。
・パウロ鈴木(日本人・49歳)京都で捕縛。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1876年(明治9)三重県飯野郡の農民が一揆(伊勢暴動)を起こす詳細
1941年(昭和16)言論・出版・集会・結社等臨時取締法」が公布される詳細
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 今日は、安土桃山時代の1598年(慶長3)に、武将・大名・天下人豊臣秀吉が亡くなった日ですが、新暦では9月18日となります。
 豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)は、1537年(天文6)に、尾張国愛知郡中村(現在の名古屋市中村区)の百姓で織田信秀の足軽だった父・木下弥右衛門、母・なか(天瑞院)の子として生まれましたが、幼名は日吉丸と言いました。7歳のときに父を亡くし、母は秀吉と姉ひとりを抱え信秀の同朋衆竹阿弥と再婚します。
 1551年(天文20)元服に当たり父の遺産永楽銭1貫文をもって家出、行商ののち、今川氏の家臣松下之綱、次いで1554年(天文23)18歳のとき、尾張清洲城主であった織田信長に小者として仕えました。1561年(永禄4)に浅野長勝の養女おね(杉原定利の女)と結婚し、木下藤吉郎秀吉と名乗るようになります。
 清洲城普請、墨俣築城、京都警備などで活躍し、1570年(元亀元)の姉川の戦い、小谷城の攻略などで戦功を上げました。1573年(天正元)には、羽柴藤吉郎秀吉と名のり、浅井氏の居城・旧領北近江3郡を与えられ、12万石の大名となって、近江長浜に築城します。
 1577年(天正5)に中国征伐の将として毛利氏と対戦しますが、1582年(天正10)に信長が明智光秀のために本能寺の変で横死すると、山崎の戦いで明智光秀を破り、次いで柴田勝家を倒して、信長の後継者としての地位を獲得しました。1583年(天正11)に大坂城を築城、四国・九州を征し、徳川家康を臣従させ、1590年(天正18)には小田原北条氏を滅ぼして天下統一を完成します。
 この間、1585年(天正13)に関白、翌年に太政大臣となり、豊臣の姓を賜りました。1591年(天正19)には関白を養子秀次に譲り太閤と称し、1592年(文禄元)と1597年(慶長2)の2度朝鮮に出兵しますが失敗します。
 貨幣統一、兵農分離、太閤検地、石高制等の施行によって幕藩体制の基礎をつくったとされますが、1598年(慶長3年8月18日)に伏見城において、数え年63歳で亡くなりました。

〇豊臣秀吉関係略年表(日付は旧暦です)

・1537年(天文6年正月元日?) 尾張国愛知郡中村で織田信長の足軽木下弥右衛門の子として生まれる
・1543年(天文12年) 秀吉7歳のとき、父弥右衛門が病死する
・1551年(天文20年) 元服に当たり父の遺産永楽銭1貫文をもって家出する
・1554年(天文23年) 18歳のとき、尾張清洲の城主であった織田信長に小者として仕えた
・1561年(永禄4年) 弓の衆浅野長勝の養女おね(杉原定利の女)と結婚し、木下藤吉郎秀吉と名乗る
・1566年(永禄9年) 濃尾国境に位置する墨俣(岐阜県大垣市)に築城し、美濃攻略の拠点を確保した功により部将に取り立てられる
・1568年(永禄11年9月) 信長が足利義昭を擁して上洛すると、京都の奉行の一人として活動する
・1570年(元亀元年) 姉川の戦い、小谷城の攻略などで戦功をたてる
・1573年(天正元年7月) 木下を改め羽柴 藤吉郎秀吉と名のる
・1573年(天正元年8月) 浅井氏の居城・旧領北近江3郡を与えられ、12万石の大名となる
・1575年(天正3年) 越前一向一揆攻めで活躍する
・1575年(天正3年12月) 筑前守に任じられる
・1577年(天正5年) 播磨に出陣して姫路城に本拠を置く
・1582年(天正10年) 備中に出兵し、清水宗治の拠る高松城に迫って水攻めにする
・1582年(天正10年6月2日) 信長が明智光秀のために本能寺の変で横死する
・1582年(天正10年6月13日) 光秀を山崎の戦いで破る
・1582年(天正10年6月27日) 清須会議が行われる
・1583年(天正11年) 秀吉打倒を策する信長の三男信孝、滝川一益に対し、美濃・伊勢に出兵して攻める
・1583年(天正11年) 柴田勝家を賤ヶ岳の戦いで破り、越前に攻め入って北庄城の柴田氏を滅ぼす
・1583年(天正11年) 滝川一益を降して尾張・伊勢を支配下に入れる
・1584年(天正12年) 信雄・徳川家康の連合軍と小牧・長久手の戦いをする
・1584年(天正12年11月) 従三位・権大納言となる
・1585年(天正13年) 信雄・家康に呼応して蜂起した紀伊根来・雑賀の一揆を討伐する
・1585年(天正13年) 四国征伐を行って長宗我部氏を降す
・1585年(天正13年3月) 正二位・内大臣となる
・1585年(天正13年) 徳川家康に対しては、実妹(旭姫)を嫁がせる
・1585年(天正13年7月) 近衛龍山の猶子として関白・従一位となる
・1586年(天正14年) 徳川家康を臣従させる
・1586年(天正14年12月) 太政大臣となり、豊臣の姓を賜る
・1587年(天正15年) 九州征伐を行って島津氏を降し、九州の国割りを行うとともに、博多・長崎を直轄化する
・1587年(天正15年) キリシタン禁令を発する
・1587年(天正15年9月13日) 聚楽第が完成する
・1587年(天正15年10月1日) 茶頭千利休の演出のもとで、庶民を集めて北野大茶湯を催す
・1588年(天正16年) 聚楽第に後陽成天皇の行幸を仰ぐ
・1590年(天正18年) 小田原征伐を行って北条氏を滅ぼし、さらに奥州を平定して、天下統一を成し遂げる
・1591年(天正19年) 側室淀殿との間にもうけた愛児鶴丸を喪う
・1591年(天正19年8月) 関白職を甥の秀次に譲り、自らは太閤と称する
・1591年(天正19年) 全国に御前帳を作成して提出することを命じて、国ごとの石高の把握する
・1592年(文禄元年) 関白秀次により人掃令が出され、全国の家数・人数の調査が行われる
・1592年(文禄元年) 諸大名に朝鮮出兵の軍令を下して征明軍16万人を編成し、自らも肥前名護屋の本陣に赴き、総指揮にあたる(文禄の役)
・1593年(文禄2年) 側室淀殿に実子秀頼が生まれる
・1594年(文禄3年8月) 伏見城が完成し、秀吉が入城する 
・1595年(文禄4年7月) 秀次を謀反人として切腹せしめ、妻妾子女悉くを処刑する
・1597年(慶長2年) ふたたび朝鮮出兵となる(慶長の役)
・1598年(慶長3年) 醍醐の花見を行なう
・1598年(慶長3年8月5日) 五大老に幼い秀頼の将来のことを訴えた遺言状を認める
・1598年(慶長3年8月18日) 伏見城において、数え年63歳で亡くなる
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 今日は、安土桃山時代の1591年(天正19)に、豊臣秀吉により茶人千利休が自刃させらけた日ですが、新暦では4月21日となります。
 千利休(せん の りきゅう)は、戦国時代の1522年(大永2)に、和泉国堺(現在の大阪府堺市)の町衆である魚問屋田中与兵衛の子として生まれた(1521年生誕説あり)とされますが、幼名は田中与四郎と言いました。
 初め茶の湯を北向道陳に学び、10歳代で武野紹鴎に師事しましたが、19歳で父を失い、それと前後して祖父も失います。1544年(天文13)に、松屋久政らを招いて茶会を開いた記録が残され、茶人としての才能をあらわしました。
 1568年(永禄11)に織田信長が上洛し、翌年以降堺を直轄地としていく過程で、関わりをもつようになります。1574年(天正2)には、織田信長が京都相国寺で開いた茶会に、他の堺の有力商人9人と共に招かれ、翌年には、越前一向一揆掃討戦を行う信長のために、鉄砲玉を調達して送り、謝状を受けました。
 1582年(天正10)の本能寺の変で信長が横死すると、山崎の戦いで勝利した豊臣秀吉に仕えるようになります。翌年には、秀吉の依頼て茶室待庵を完成させ、近江坂本城で開いた茶会で初めて茶堂を勤めました。
 1585年(天正13)に、秀吉が禁中茶会を催した際に、正親町天皇に茶を献じて、利休居士という号を与えられ天下一の茶人の地位を確立、同年に黄金の茶室を設計、1587年(天正15)には、北野大茶湯を主管します。その中で、村田珠光以来の侘び茶を大成、茶会の形式、点前作法などに創意工夫を施し、織田有楽斎、細川忠興など数多くの弟子を育てました。
 1590年(天正18)には秀吉の小田原攻略に従軍しますが、翌年に利休が寄進した大徳寺山門が政治問題化し、秀吉の怒りを受けて堺に蟄居させられます。そして、1591年(天正19年2月28日)に京都の聚楽屋敷内において、数え年70歳で切腹させられました。
 その後、利休の茶道の流れは3世宗旦から分かれた表千家、裏千家、武者小路千家の3千家として今日に伝えられています。

〇千利休関係略年表(日付は旧暦です)

・1522年(大永2年) 堺の町衆である魚問屋田中与兵衛の子として生まれる
・1544年(天文13年) 奈良の塗師松屋久政らを招いて茶会を開く
・1574年(天正2年3月) 織田信長が京都相国寺で開いた茶会に、他の堺の有力商人9人と共に招かれる
・1575年(天正3年) 越前一向一揆掃討戦を行う信長のために、鉄砲玉を調達して送り、謝状を受ける
・1582年(天正10年6月) 本能寺の変及び山崎の戦いの後は豊臣秀吉に仕える
・1582年(天正10年8月) 秀吉を訪ねた利休は、茶室を作るように命じられる
・1583年(天正11年3月) 茶室待庵(現存する利休作の唯一の茶室)を完成させる
・1583年(天正11年5月) 秀吉が近江坂本城で開いた茶会で初めて茶堂を勤める
・1584年(天正12年) 秀吉が築城した大坂城内に二畳の茶室を作る
・1585年(天正13年) 秀吉が禁中茶会を催した際に利休居士という号を与えられ天下一の茶人の地位を確立
・1587年(天正15年) 北野大茶湯を主管する
・1590年(天正18年) 秀吉の小田原攻略に従軍する
・1591年(天正19) 利休が寄進した大徳寺山門が政治問題化し、秀吉の怒りを受け堺に蟄居させられる
・1591年(天正19年2月28日) 秀吉により自刃させられる
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