ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:譜代大名

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 今日は、江戸時代前期の1642年(寛永19)に、江戸幕府が譜代大名にも参勤交代を命じた日ですが、新暦では6月5日となります。
 参勤交代(さんきんこうたい)は、江戸時代に、江戸幕府が大名支配の手段として課した大名軍役の一つで、諸大名に時期を定めて江戸に参勤させた制度です。全国250以上ある大名家が2年毎に江戸に参勤し、1年経ったら自分の領地へ引き上げる交代を行うものでした。
 江戸初期に諸大名が自発的に江戸に参勤したことに端を発し、大名は忠誠を示すため、正室と子(男子であれば跡継ぎ)、有力家臣の子弟を人質として江戸に住まわせるようになります。1615年(元和元)に、制定された「武家諸法度(元和令)」により、参勤作法として従者の員数を定めて、100万石以下20万石以上の大名は20騎以下、10万石以下の大名は分に応ずるよう規定されました。
 1634年(寛永11)に、譜代大名の妻子を江戸に移すこととし、翌年には、「武家諸法度(寛永令)」を改定し、その第2条に「大名・小名、在江戸交替相定むる所なり、毎歳夏四月中、参勤いたすべし」と規定し、参勤交代が制度化されます。1642年(寛永19)には、制度改正が行われ、譜代大名の交代期は6月、とくに関東の譜代大名は在府・在国半年、8月ないし2月交代となりました。
 享保の改革の一環として、1722年(享保7)に諸大名に1万石につき100石の上米を命じ、その代償として、参勤交代を緩和し、在府半年・在国1年半としましたが、8年後の1730年(享保15)には、参勤交代が旧制に復しました。1862年(文久2)に、再び参勤交代を緩和し、3年一勤百日在府制を実施しましたが、1865年(慶応元)に再び旧に戻そうとしたものの、命令に従う者がなく、事実上の廃絶となりました。
 この制度は、江戸幕府による大名妻子の人質政策であり、往復の旅費や江戸藩邸での巨額の出費は大名の財政を苦しめたものの、一方で江戸の繁栄、交通(街道や宿場等)・経済(貨幣流通や商工業)の発達、中央文化の地方普及を促したとされています。

〇参勤交代関係略年表

・1596年(慶長元) 藤堂高虎が弟の正高を証人として江戸に送り、参勤交代のはじめとされる
・1600年(慶長5) 関ケ原の戦後、外様大名の江戸参勤が増加する
・1602年(慶長7) 前田利長が母を人質として参勤する
・1615年(元和元) 「武家諸法度(元和令)」が制定されたが、参勤作法として従者の員数を定めただけで100万石以下20万石以上の大名は20騎以下、10万石以下の大名は分に応ずるよう規定する
・1634年(寛永11) 譜代大名の妻子を江戸に移す
・1635年(寛永12) 「武家諸法度(寛永令)」を改定し、その第2条に「大名・小名、在江戸交替相定むる所なり、毎歳夏四月中、参勤いたすべし」と規定し、参勤交代を制度化する
・1642年(寛永19) 制度の改正が行われ、譜代大名の交代期は6月、とくに関東の譜代大名は在府・在国半年、8月ないし2月交代となる
・1722年(享保7) 諸大名に1万石につき100石の上米を命じ、その代償として、参勤交代を緩和し、在府半年・在国1年半とする
・1730年(享保15) 参勤交代が旧制に復する
・1862年(文久2) 再び参勤交代を緩和し、三年一勤百日在府制を実施する
・1865年(慶応元)  再び旧に戻したが命令に従う者がなく、参勤交代制度が廃絶となる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1691年(元禄4)江戸幕府が豪商・住友家に別子銅山の採掘を許可する(新暦6月5日)詳細
1841年(天保12)江戸幕府の命により、高島秋帆が徳丸ヶ原洋式軍事演習を行なう(新暦6月27日)詳細
1862年(文久2)江戸幕府が派遣した文久遣欧使節により、ロンドン覚書が締結される(新暦6月6日)詳細
1876年(明治9)明治天皇行幸で東京の上野公園の開園式が行われる詳細
1904年(明治37)小説家武田麟太郎の誕生日詳細
1906年(明治39)書家金子鷗亭の誕生日詳細
1915年(大正4)中国・袁世凱政府が日本の「対華21ヶ条要求」を受諾詳細
1942年(昭和17)「金属類回収令」に基づく閣令「回収物件の譲渡申込期間指定に関する件」が公布される詳細
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 今日は、江戸時代中期の1714年(正徳4)に、江戸幕府5代将軍徳川綱吉側近の寵臣・譜代大名柳沢吉保の亡くなった日ですが、新暦では12月8日となります。
 柳沢吉保(やなぎさわ よしやす)は、1658年(万治元年12月18日)に、甲州武田の旧臣の子孫である上野国館林藩士・柳沢安忠の長男(母は側室の佐瀬氏)として江戸市ヶ谷に生まれましたが、初名は房安(ふさやす)で、通称は弥太郎と言いました。1673年(寛文13)に元服し、1675年(延宝3)には、父・安忠の致仕に際して家督を相続し、保明(やすあき)と改名、家禄530石の小姓組番衆となります。
 1680年(延宝8年)に、館林藩主の綱吉が兄である4代将軍徳川家綱の後継者として江戸城に入ると、家臣の吉保も幕臣となり、小納戸役となりました。その後、たびたび昇進・加増を受け、1685年(貞享2)に従五位下出羽守に叙任され、1688年(元禄元)には、側用人となり、1万2000石余で大名に列します。
 1690年(元禄3)に2万石加増され、従四位下に昇叙、1694年(元禄7)に石高7万2000石とされ、武蔵国川越藩主(現在の埼玉県川越市)となり、老中格と侍従を兼帯しました。1698年(元禄11)に根本中堂造営の功績により左近衛権少将に叙任され、1701年(元禄14)には松平の家号を許されると共に、綱吉の名の一字をを賜って、吉保と改名します。
 1704年(宝永1)には、従来徳川一門にしか与えられたことがない甲斐国(現在の山梨県)15万石余に封ぜられ、甲府城主となったものの、1709年(宝永6年2月19日)に綱吉が死去し、その甥家宣が6代将軍に就任すると、幕府内の状況が一変しました。その中で、同年6月3日に隠居して、長男吉里に柳沢家の家督を譲り、保山元養と号し、江戸本駒込(東京都文京区本駒込6丁目)で過ごし、六義園の造営などを行ないます。
 しかし、持病の再発により病臥し、1714年(正徳4年11月2日)に、江戸本駒込において、数え年57歳で亡くなりました。

〇柳沢吉保関係略年表(日付は旧暦です)

・1658年(万治元年12月18日) 上野国館林藩士・柳沢安忠の長男(母は側室の佐瀬氏)として江戸市ヶ谷に生まれる
・1664年(寛文4年12月18日) 館林藩主・徳川綱吉に初めて謁見する
・1672年(寛文12年) 甲斐国恵林寺において行われた武田信玄百回忌の法要においては、父安忠とともに奉加帳に名を連ねる
・1672年(寛文12年11月15日) 家臣・曽祢貞尅の介錯で半元服を行う
・1673年(寛文13年11月15日) 元服する
・1675年(延宝3年7月12日) 父・安忠の致仕に際して家督を相続し、保明(やすあき)と改名、家禄530石の小姓組番衆となる
・1675年(延宝3年12月18日) 旗本・曽雌盛定の娘・定子と婚約する
・1676年(延宝4年2月18日) 定子と婚姻する
・1677年(延宝5年) 曽雌家の菩提寺である龍興寺の竺道祖梵に参禅し、公案を授かる
・1677年(延宝5年6月16日) 安忠正室の青木氏が死去する
・1680年(延宝8年) 館林藩主の綱吉が兄である4代将軍徳川家綱の将軍後継として江戸城に入ると、家臣である吉保も幕臣となる
・1680年(延宝8年11月3日) 吉保は小納戸役に任ぜられる
・1681年(天和元年4月25日) 300石を加増され、830石となる
・1681年(天和元年6月3日) 綱吉の学問上の弟子となる
・1681年(天和元年7月11日) 江戸・市ヶ谷から愛宕下に居を移す
・1681年(天和元年12月20日) 生母の了本院を江戸へ引き取る
・1682年(天和2年4月21日) 従六位下となり、布衣を許される
・1683年(天和3年1月11日) 200石を加増されて1030石となる
・1683年(天和3年6月25日) 義兄の信花が江戸城西の丸前において高橋源大夫と喧嘩し、殺害される事件が起きる
・1684年(貞享元年8月21日) 邸を江戸・愛宕下から西の丸邸へ移転する
・1685年(貞享2年12月10日) 従五位下・出羽守に叙任される
・1686年(貞享3年1月11日) 1000石を加増され、2030石となる
・1687年(貞享4年9月18日) 父の安忠が死去する
・1688年(元禄元年6月10日) 西の丸下から一橋内の屋敷に移る
・1688年(元禄元年11月12日) 小納戸上席より将軍親政のために新設された側用人に就任、禄高も1万2000石とされて大名に列し、上総国佐貫城に封じられる
・1689年(元禄2年) 一橋内から神田橋内に居を移し、霊岸島にも中屋敷を拝領する
・1690年(元禄3年3月26日) 2万石を加増される
・1690年(元禄3年12月25日) 従四位下に昇叙し、出羽守如元
・1691年(元禄4年2月3日) 常盤橋内に屋敷を拝領する
・1691年(元禄4年3月22日) 将軍綱吉が柳沢邸に御成を行う
・1692年(元禄5年11月14日) 3万石を加増される
・1694年(元禄7年1月7日) 石高7万2000石とされ、武蔵国川越藩主(埼玉県川越市)となる
・1694年(元禄7年12月9日) 老中格と侍従を兼帯する
・1698年(元禄11年7月21日) 大老が任ぜられる左近衛権少将に転任し、出羽守如元
・1694年(元禄7年1月7日) 1万石を加増され、川越城を拝領する
・1694年(元禄7年3月11日) 常盤橋内の隣地に屋敷を拝領する
・1695年(元禄8年4月21日) 駒込染井村の前田綱紀旧邸を拝領する(後に六義園となる)
・1697年(元禄10年7月1日) 綱吉から徳川将軍家の菩提寺である寛永寺(東京都台東区上野桜木)の根本中堂造営の惣奉行を命じられる
・1698年(元禄11年7月21日) 根本中堂造営の功績により左近衛権少将に叙任され、席次も老中の上となる
・1698年(元禄11年8月2日) 寛永寺根本中堂が落成する
・1698年(元禄11年8月9日) 日光輪王寺宮の公弁法親王を屋敷へ招く
・1698年(元禄11年8月11日) 勅使を迎えて根本中堂の上棟式を行なう
・1701年(元禄14年11月26日) 吉里とともに将軍綱吉から松平姓および「吉」の偏諱を与えられ、松平吉保と名乗り、美濃守に遷任する
・1702年(元禄15年7月12日) 吉保邸が火災に遭い家財を焼失し、吉保自身は家臣薮田重守邸に避難する
・1703年(元禄16年8月26日) 幕府奥絵師狩野常信に肖像を描かせ、自賛を記す
・1704年(宝永元年12月21日) 綱吉の後継に甲府徳川家の綱豊が決まると、綱豊の後任として甲斐国甲府城と駿河国内に所領を与えられ、15万1200石の大名となる
・1705年(宝永2年1月15日) 国替に際した家中禁令を改定する
・1705年(宝永2年2月19日) 甲府城受け取りは家臣の柳沢保格・平岡資因らが務める
・1705年(宝永2年3月12日) 駿河の所領を返上し、甲斐国国中3郡(巨摩郡・山梨郡・八代郡)を与えられる
・1705年(宝永2年4月10~12日) 甲斐恵林寺(甲州市塩山小屋敷)において武田信玄の百三十三回忌の法要を行なう
・1705年(宝永2年5月3日) 甲斐国内の所持者に祈祷領米を寄付する
・1705年(宝永2年5月11日) 側室の飯塚染子が死去し、龍興寺に葬られる
・1705年(宝永2年5月13日) 黄檗宗寺院の萬福寺(京都府宇治市)の悦峯道章に禅問答を行なう
・1705年(宝永2年7月9日) 甲斐国内への菩提寺建立を発意する
・1705年(宝永2年8月13日) 自身の参禅録を編纂し、これを霊元上皇に対して題を出願する
・1705年(宝永2年9月23日) 霊元上皇は吉保に「護法常王録」の題を授ける
・1706年(宝永3年1月11日) 大老格に上り詰める
・1709年(宝永6年2月19日) 将軍綱吉が薨去し、幕府内の状況が一変する
・1709年(宝永6年6月3日) 隠居して保山元養と号し、吉里が柳沢家の家督を継承する
・1712年(正徳2年) 正室・定子が死去し、甲府近郊の岩窪村に建立された永慶寺(甲府市岩窪町)において葬儀を実施する
・1712年(正徳2年11月30日) 祖父・信俊の百回忌を川越領今市の高蔵寺において実施する
・1714年(正徳4年9月27日) 持病の再発により病臥する
・1714年(正徳4年11月2日) 江戸において、数え年57歳で死去する
・1714年(正徳4年11月12~21日) 遺骸は甲斐国へ移送され、永慶寺で葬儀が実施される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
1288年(正応元)第96代天皇である後醍醐天皇の誕生日(新暦11月26日)詳細
1942年(昭和17)詩人・歌人北原白秋の命日詳細
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